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九城の場合その四 雪合戦




 私はたった今、二杯目のカプチーノを飲み終えた。職場近くの喫茶店で真久を待ち始めてから三十分ほど経っている。待ち合わせの時間より早く来たのは、体中にまとわりつく不安を可能な限り取り除くためだった。


 隣人の正体を突き止めたというのに、気分は晴れるどころかますます邪念を帯びてきた。部屋へ侵入したこと、そして仲間がいることを見抜かれていた。鷲尾が私と亜子さんとの繋がりに気付くのは時間の問題かもしれない。

 更に悪いことに、真久が鷲尾と接触した可能性が高い。真久に尾行を頼むことで不審がられるのは覚悟していたが、まさかこんなにも早く動かれるとは思わなかった。鷲尾が探偵であることを打ち明けていた場合、真久を引き入れることで、私にとって不利な情報を吸い出された恐れがある。

 しかし、この席を設けたのは真久の方だ。真久が自ら鷲尾との接触を口にすれば、この恐怖の推察は半ば取り越し苦労ということになる。鷲尾にとって、真久との接触をわざわざ私に教えるメリットがないからだ。


「お待たせ」


 カップを睨みつけていると、頭上から不意に声が掛かった。真久が傍らに立っていることに気付かなかった。約束の時間通りだ。


「随分早く来てたんだね」


 真久は席に着くと、空のカップに目をやりながら言った。


「仕事が早くに終わったから。……あっ、お冷下さい」


「キリマンジャロ一つ」


 通りすがりの店員に注文を言いつけると、私たちは改めて向かい合った。


「昨日、別れた後、恵比寿さんの部屋へ行ったんだ」


「えっ……」


 私は驚愕と戸惑いの入り混じった表情を繕った。


「正直なところ、俺は姫々が浮気してると思ってた。その……恵比寿さんと」


 この言葉には本気で驚愕を覚えた。


「私が真久を差し置いて他の男とイチャつくだろうって、本当にそう思ったの? しかも寄りによって恵比寿なんかと……」


「ごめん。これ以上、姫々を疑いたくなかった。だからこそ、恵比寿さんを訪ねて真相を知る必要があったんだ。でも部屋に入って分かった……部屋には恵比寿さんの彼女がいた。名前は二ノ瀬だったと思う」


 尾行の際、真久が二ノ瀬の存在に勘付き、名前まで特定したとは考えにくい。どうやら鷲尾の部屋に入ったことは確かなようだ。問題は、鷲尾が何を聞き出し、真久がどこまで喋ったのかという点だ。

 私は咄嗟に考えを巡らせた。鷲尾が真久に正体を明かしていようとなかろうと、カマをかけてみる価値はありそうだ。


「あいつらは探偵よ」


 その言葉に、真久の顔が引きつった。何か妙だ。


「探偵? まさか。物書きフリーターだって前に話してたじゃないか。本人もそう言った」


「最近知ったの。本名は鷲尾瑛助。二ノ瀬葵も同じ事務所の探偵よ。あいつらはきっと、真久の方から接近したことを逆手にとって、あなたから私のことを聞き出そうとしたはず。ねえ真久……鷲尾が何を聞いてきたのか、あなたがどう答えたのか、私に教えて。お願い」


 私は真久の手に指をからませ、潤ませた声で哀願した。ここまですれば、真久は正直に答えるしかない。私には確信がある。真久のことなら何でもお見通しだ。


「姫々のことは何も話さなかったよ」


 真久は笑っていた。その微笑みに、今まで何度励まされてきたか分からない。


「最初に姫々との関係について問い詰めたけど、和解した後はずっと世間話してたんだ」


「本当に?」


「本当だ。俺が嘘ついたことなんてないだろ?」


「……うん」


 どうやら収拾がつきそうだった。私は真久を信じてみることにした。真久がどう答えたところでそれを証明することはできない……彼を信じることでしか決着はつかないのだ。


「実は、大事な話ってこのことじゃないんだ」


 お冷とキリマンジャロが届くと、真久がイタズラっぽく笑いかけた。カバンから取り出したのは国内旅行誌だった。


「それじゃあ……行けるの?」


 私は声を弾ませた。真久は大きく頷いた。


「今年のクリスマスは温泉旅行だ! 昨日のことなんか忘れて、一緒にスケジュールを考えよう!」




 二十時頃に真久と別れた後、私はバスに乗って次の喫茶店へと赴いた。そこへ行けば彼女に会えるような気がした。そして、その憶測は間違っていなかった。行きつけの喫茶店、お気に入りの席に二ノ瀬葵が座っていた。足元に大きなボストンバッグを置き、悲哀な眼差しで窓の外を眺めている。

 私は何も言わず席に着き、二ノ瀬と向かい合った。二ノ瀬はまだ外を眺望していた。


「どうしてここへ来たか分かる?」


 出し抜けに問うてみた。


「私がここにいるはずだと勘ぐったから」


 彼女はすかさず答えたが、目には窓辺に積もる雪しか見えていない。


「どうしてここにいたか分かる?」


 今度は二ノ瀬が問うた。


「私がここへ来るはずだと勘ぐったから」


 私は迷うことなく答えた。互いの視線が席を挟んでぶつかりあった。


「要するに私たち、もう一度会って話したかったんでしょ」


 私が結論付けた。二ノ瀬に異論はないようだ。


「もう知ってると思うけど、あなた方の正体を突き止めたわ。古屋敷探偵事務所の調査員、二ノ瀬葵と鷲尾瑛助。まさかあんたが、あの恵比寿賢治とグルだったなんてね」


 私は挑発混じりの澄まし声で言ってやった。無論、こんな嫌味を吐き捨てに来たわけではない。


「友達ごっこはもうおしまい。腹割って話しましょうよ。今日はそのために来たんだから」


 二ノ瀬は何も答えなかった。また窓を見ている。


「あんた、どうして尾行になんか加わったの? 私が言うのもなんだけど、あんたがあそこにいなきゃ正体がバレることはなかったのよ」


 私は少しずつ声のボリュームを上げていった。二ノ瀬の散漫な注意力を完全に自分の方へ向けてやるつもりだった。二ノ瀬が目尻でこちらを捉えた。


「私を見つけた時、あなたはすぐ引き返すべきだった」


「は?」


「あれは警告だったのよ。私がどういう人間なのか、ここでの会話で大体の予想はついてたはずよね? 私たちの鼻を明かして天狗になってるみたいだけど、結局あなたがやったことは自殺行為でしかない」


 私は鼻で笑い飛ばした。


「負け惜しみかよ。今さらつべこべ言ったって、あんたらの正体が露呈されたことに変わりはないのよ」


「だから?」


 声に邪険の響きがあった。怒りが血流に乗って全身へほとばしった。


「私たちの正体を知ったところで、あなたには何もできやしない。事務所にいる調査員全部を相手にできる? どのみち、あなたは首を突っ込み過ぎたわ……鷲尾は完全にあなたをマークしたし、笹岡美織の殺害事件に関ってる危険性も浮き彫りになってきた」


「よく当人の前でそんなことが言えるわね」


 怒りで声が震え始めた。いつの間にか、私たちは殺気立って睨み合っていた。


「あれは最終警告だった。あなたが正体を知ったからには、鷲尾だって黙っちゃいないわよ」


「やってみろ。全員返り討ちにしてやる……そんな目で私を見るな!」


 限界を超えた怒りがつむじから噴き出してきた。それにも関らず、二ノ瀬の瞳からは侮蔑の光が絶えない。


「昨夜、水野真久が二〇一号室を訪ねてきた。鷲尾と話をするためにね」


 束の間の沈黙後、二ノ瀬がおもむろに喋り出した。


「さっき真久に会って聞いたわよ。もっとも、私に関する情報は何も聞き出せなかったみたいだけどね。真久が正直に話してくれたわ」


「鷲尾がそう言えって、彼に指示を出したのよ」


 二ノ瀬の思考が読めなかった。今ここで、そんなことを暴露できるわけがない。鷲尾を好いているこの女が、彼を裏切れるはずがないんだ。


「でまかせだ。真久が私に嘘を言うはずない……」


「あなた、大家の八重崎亜子と繋がってるんでしょ?」


 怒気が萎えていった。


「真久が……」


 真久が八重崎との繋がりを知っているわけがない。全て二ノ瀬のハッタリだ……私は冷静になるよう自分を説きつかせた。


「教会に給料の半分を寄付してるとも言ってた。それに、『使命』がどうとか」


 もはや言葉も出なかった。間違いない……真久に裏切られた。大好きな真久に。


「鷲尾はたぶん、あなたのしでかした悪事のほとんどを見抜いてるわよ。事態は全て悪い方へ傾いてる。何か企んでるなら今すぐ辞めるべきよ。鷲尾は私のこういうやり方が気に入らないみたいだけど……でも、私はどうしてもあなたを……」


「やめて……もう聞きたくない」


 私は席を立ち、おぼつかない足取りで店を後にした。顔を上げると、ひと気のない裏通りに夜の闇が広がっていた。吐き出された白い息が、降り積もる雪に混じって消えていく。辺りは不気味なほど静かだった。


「待って!」


 二ノ瀬が静寂を破って追いかけてきた。


「言っとくけど、真久くんはあなたを助けるために情報を流したのよ。聞いてる?」


 私は無視して歩き続けた。このまま闇へ溶け込んで消えてしまいたかった。

 後頭部に鈍い痛みが走った。振り向くと、二ノ瀬の投げた雪玉が頬をかすめ飛んでいくところだった。ボストンバッグを道端に放り、下校途中の小学生よろしくせっせと雪玉をこねている。萎縮していた怒りが腹の底から甦ってきた。

 突っ立っていると、二ノ瀬の放った一発が顔面にクリーンヒットした。私はよろけて倒れた。


「姫々を助けたい!」


 二ノ瀬が叫んだ。


「だから逃げて! 鷲尾からも使命ってやつからも、全部投げ出して……」


「私は逃げない!」


 声の限りに叫び、手当たり次第に雪をひっつかむと、憎悪を練り込んで投げつけた。


「逃げたのはあんたの方だろ! その荷物は何! どうせあんたはあの部屋から逃げ出してきたクチだろうが! 誰かのため誰かのためって……身勝手な言動で仲間を裏切って……自分を犠牲に晒したクチだろうが!」


「違う!」


 雪玉が怒声と一緒に飛来して、私の脳天を直撃した。二ノ瀬は目をぬぐっていた。


「私は! 誰の犠牲にだってなるもんか! 仲間のためだろうと泣くもんか! 私は誰かのために生きようとしたわけじゃない! 臆病のくせに強がって、カッコつけて、ずる賢く生きてきたんだ! 裏切り続けてきた私は、誰からも裏切られたくなかった! だから捨ててきた……大切な物も全部! 大好きな人も全部!」


「なんで……」


 私には理解できなかった。


「矛盾してるよ……自分勝手してきたあんたに私は救えない。私を赦してくれるのは神様だけ……神様だけが私を救えるんだ!」


「私は、誰の神様にもなれない」


 二ノ瀬がしゃくり上げた。


「でも、姫々はそうじゃない……あなたの信仰心は、社会の生んだ差別や、理不尽な逆境や、そういったしがらみの中で、目に見えないものを信じ続ける難しさに確かな幸せを見出してる! 私と違って、あなたは幸せに近づける……助けたかった……私にとっての神様は、ずっとあなただったから」


 気付くと頬に涙が伝っていた。怒気が胃の腑でくすぶっている。雪玉はもう飛んでこなかった。


「お情けなんて必要ない……」


 私は嗄れた声を絞り出した。


「あんたは友達だ。でもあんたの神様ではいられない。私なんかのことより、まず自分が何をしなきゃいけないのか分かってるはずよね? そうでしょ、葵」


 二ノ瀬らしい毅然とした面構えが戻ってきた。私はその顔に向かってうなずきかけた。


「私は真久が好きだ……葵も鷲尾が好きだ。だからこそ、私たちは他にすべきことがある。こんなところで雪合戦してる暇なんかないでしょうが……」


 もう言葉は必要なかった。私たちはひとしきり睨み合った後、互いに背を向け、それぞれの道を歩き始めた。




 帰り道、エリンジューム荘へ続く坂道のふもとで鷲尾と鉢合わせた。足元ばかり見ていた私は、鷲尾に声を掛けられるまでその存在に気付かなかった。


「こんばんは、九城さん」


 雪の漂う暗がりに、いけ好かない冷笑が浮かび上がった。私は立ち止まり、鷲尾と静かに向き合った。真久の裏切りを知り、精神がズタズタの今、最も相手にしたくない手合いの人物だ。


「こんばんは、鷲尾さん。仕事の帰り?」


 私は朗らかに皮肉を吐いてやった。精神面に衰弱を見抜かれたくなかった。


「鼻持ちならない知人へ会いに……何で本名まで知ってる?」


「あなたとお知り合いの山田さんから社員証を盗み見て、事務所を特定したの。ホームページの『調査員の紹介』であなたと二ノ瀬を見つけた」


 私は清々しく喋り終えた。互いの本性がさらけ出されたことで、かえって話しやすくなっている。私たちは横に並んで坂道を登り始めた。


「胸糞悪いよ、お前」


 鷲尾が笑顔で言った。


「調査の邪魔ばかりして、甚だ目障りだ。何か後ろめたいことでもあるんだろ?」


 挑発だ。鷲尾は真久を味方につけたことで強気に出ている。こちらの神経を逆撫でして動揺を誘っているに違いない。


「あなたが嘘ばかりつくからよ」


 私は手っ取り早く答えた。鷲尾の笑顔に醜悪さが滲み出てきた。


「嘘って? どの嘘?」


 白々しい……だが、ここで食って掛かればこいつの思う壺だ。

 顔を覗き込んでくる鷲尾の狡猾な目を、私は絶対に見ないよう心掛けた。


「あなたの思い当たる嘘すべてよ」


 声に熱がこもった。鷲尾はまだ笑っている。


「人を騙すのは悪いことかな?」


「当然よ」


「じゃあ殺すことは?」


 決定的だった。鷲尾は間違いなく、笹岡美織殺害の犯人候補に私を挙げている。そのことを間接的に伝えることでプレッシャーを与えようとしている。

 私は深呼吸を繰り返した。冷たい空気が肺に滑り落ちてきた。


「絶対に許されない……誰にも人を殺す権限なんてないもの」


「でも神様が殺せと言えば殺すだろ?」


 噛みしめた奥歯が音を立てて折れそうだった。鷲尾の考察は、こちらの予想していた以上に正解へ近付きすぎている。


「神様が人殺しを命じるわけがない」


 声が歯の隙間からところてん式に押し出されてきた。


「それじゃあ答えになってないよ。どうでもいいけどね。……あっ、そうそう、知ってる?」


 闇に紛れる教会のシルエットへ向かって鷲尾が指差した。


「人に聞いたんだけど、教会の近くに井戸があるらしい」


「それがどうした……」


「どうでもいいけどね」


 犯人を『九城姫々』だと裏付けるものは何もない。鷲尾は当てずっぽうでキーワードを並べ立てているだけだ。証拠があればとっくに警察が動いている。

 そんなことは十分承知できていた。しかし、どうにも気分が落ち着かない。一刻も早く一人になりたい。


「お?」


 エリンジューム荘の敷地内へ足を踏み込むと、鷲尾が落ち着かなげに首を振り始めた。


「今度は何?」


 ため息ついでに私は聞いた。


「歌が聞こえる。トラウマのハワイアンソングが……」


 一階の共有通路まで来た時、それは私の耳にも届いた。『カカアコ・クッキング・バンド』が奏でる陽気なハワイアンミュージックが、通路の冷え切った細長い空間に微かな音色を響かせている。


「変だな……一〇三号室から聞こえる」


 その言葉が何を意味するのか、理解するのにしばしの時間が必要だった。

 八重崎が偽の居住者名簿を見せたことで、鷲尾は一〇三号室を空き部屋だと思い込んでいる。その部屋から音楽が聞こえてくれば疑念を持つのも当然だ。今、鷲尾に呼び鈴を鳴らされでもしたら……。


「私には一〇二号室から聞こえるけど」


 注意を逸らしたが、鷲尾はもう一〇三号室のドアに耳を押し当てていた。


「いや、間違いなくこの部屋からだ」


「やばい……」


 難聴の彼が大音量で音楽を聴くことを思慮できなかった。鷲尾が丸山を問い詰めれば、私が裏で指示を送っていたことがバレてしまう。これ以上、墓穴を掘り続けるわけにはいかない。

 鷲尾が呼び鈴を鳴らし、ドアを叩き始めた。私はその傍らにそっと近づいた。音楽が止んだ。


「なんだら?」


 いささか驚いたような面持ちで丸山さんが出てきた。茶色のセーターを着込んだ老体はわずかに腰が曲がっているが、まだまだ元気な爺さんだ。丸山は鷲尾と私を交互に眺めた。

 丸山さんと目が合った時、私は咄嗟に閃いた。


「こんばんは。夜分遅く失礼します。確認したいことがあったんです」


 鷲尾が大声で言った。


「丸山さんは、ずっと前からこの部屋に住んでるんですか?」


「こんばんは、丸山さん」


 私は難聴の丸山さんには聞き取れないような小声で言いながら、胸の前で盛んに両手を動かした。得意の手話だ。


「丸山さんは、私が越してくる前からここに住んでたわよね?」


 私はそう声に出しながら、しきりに手を動かし続けた。鷲尾はその言葉通りに手話をしたと思うだろう。だが実際は違う。


「〝余計なことを言うな。私の指示通りに動け〟」


 私は手話で伝えた。


「この部屋だ。ずっとなあ」


 丸山さんの固い表情が答えた。鷲尾がぐいっと顔を近づけた。


「本当に?」


「〝本当だ、もう寝るから失せろ〟と言え」


 私は鷲尾の肩越しに手話で伝えた。


「本当だ。もう帰ってくれ。寝たいんだ」


「最後に一つ。僕の目だけを見て答えて下さい。よろしいですか?」


「そうだな。分かった」


「丸山さんが最後に九城姫々と話したのはいつですか?」


 私は固唾を呑んだ。鷲尾は既に私と丸山さんの接点に勘付いている。私と彼が接触した日を知ることで、新たな糸口を探り出すつもりだ。もう手話は使えない。丸山さんが視線を逸らせば疑いが深まる一方だ。


「先週の木曜、姫々がここに来た。いつも日曜だったが、その週は木曜にしか来なかった」


「ありがとうございました。おやすみなさい」


 丸山さんの姿が木の板に変わると、鷲尾は口元にうすら笑いを浮かべて振り向いた。


「九割把握できた」


 こけおどしだろうか? 私には分からなかった。確かな心情は、とにかくこの男が憎いということだけだ。


「『九人の預言者』を返すよ」


 二〇一号室の前まで来た時、鷲尾はそう言って、部屋から本を抱えて戻ってきた。


「先週の木曜……僕がここに越してくる前日だ」


 鷲尾は本を差し出しながらほくそ笑んだ。


「彼と口裏でも合わせてたんだろ?」


 私は鷲尾の手から本をもぎ取った。ほんの一瞬、その分厚い本の角を脳天へ叩き落としてやりたい、という衝動が全身を支配した。


「おやすみ」


 鷲尾は言い残し、ドアの向こうへ引っ込んでいった。


「……殺す」


 声が怨恨をまとって口から転がり落ちた。私は自室へ戻り、キャビネット目掛けて部屋を突っ切った。取り出したのは三つ目の『神の言葉』だった。

 鈴木から開封の指示はない。しかし確信があった。神様が何を望むのか、鷲尾の末路がどうあるべきなのかを。

 もう迷いはない。「殺せ」と記されているなら、今すぐ部屋へ押し入って殺してやる。

 私は赤い封蝋の施された最後の『神の言葉』を開封し、中から紙切れを引っ張り出した。


「『戦士よ。役目は終わった。神のために命を捧げよ。魂の器が、お前の首を待っている』」


 私はその場にくず折れた。神様が望んでいたのは断じて鷲尾の死ではない。最初から……笹岡美織を殺めたあの時から、『九城姫々』の死を待ち望んでいた。


「死なんて怖くない……怖いはずがない」


 絶望は束の間だった。神様のために死ねる名誉がどれほど価値あるものか、私ほど熟知している者は他にいないだろう。目を閉じても、目の前は光で溢れていた。


「命を捧げることで神様の御許へ近づけるんだ。全てを置き去りにして……真久を置き去りにして……」




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