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鷲尾の場合その四 おでんを食べに



「知ってたんだな!」


 僕は部屋へ入るなり声を荒げた。


「君は九城を知ってた! 喫茶店で会ってただって? どうして言わなかった!」


 後に続いて二ノ瀬が入ってきた。その淡白な無表情は、一仕事終えた折に見せる彼女特有の仕草だった。要するに、仕事の一つをただ日常的に済ませてきただけの二ノ瀬からしてみれば、僕の怒りなどどこ吹く風というわけだ。僕にはそれが許せなかった。


「今回の案は僕の突発的なものだったし、事前に調査員を準備できなかったのも確かだ。事務所には空きの調査員がいなかった……それは誰のせいでもない。でも君には、九城と接触したことを話せる機会がいくらでもあったはずだ。そうすれば、せめて山田と君のポジションを交換することくらいはできたんだ!」


 力任せで構わない。全てを吐き出してしまいたい感情を、僕は抑えることができなくなっていた。僕らは上着も脱がず、コタツを挟んで向かい合った。


「あの子を信じたかった」


 抑揚もなく答える二ノ瀬を、はたと睨みつけた。


「僕は君を信じてたんだ」


 言いながらも、その想いが独りよがりでしかないことに気付いていた。勝手に信じ、勝手に信頼し合っていると思い込み、勝手に彼女を好いていた。そんな自分が惨めだった。


「君はポプラでもそうだったな。独断で事を進めて、僕にさえ大事な情報を打ち明けなかった」


「それが私のやり方よ」


「知ってるさ! だからこんな所までついてきたんだろ!」


 沸点を迎えた怒りが体の芯を突き抜け、喉の奥から罵声となって溢れ出してきた。


「まだ何か隠してるだろ? 君がここに来たかった本当の理由は何だ?」


「隠してるわけじゃない。私はあなたの助けになりたかっただけ」


「じゃあ、どうして九城を信じなきゃならなかった? 山田は、九城がこっちの正体に気付いてたと言ってる。九城は僕らを尾けながらも、喫茶店でのやり取りから君が探偵であることを見抜いたんだ。気の合う者同士、さぞ色々喋ったんだろうな。友好を深めすぎて情でも移ったのか?」


「そうかもね」


 二ノ瀬は素っ気なく受け流した。


「喫茶店での出会いは、鷲尾が承認した〝私〟の時間内で起きた出来事だった。私がオフで何をしようと、あなたにそれを伝える義理はないはずよ」


「義理! そんなもん糞食らえだ!」


 この怒りの矛先がどこへ向かっているのか、見境がつかなくなりつつあった。ただ確かな点は、例えどんなにうまく『どっどど』の唄を披露したところで、二ノ瀬との仲は傷痕無しに修復されないだろう、ということだけだった。

 口論が小休止を迎えると、二ノ瀬はシャワー、僕は部屋の隅でうずくまって各々の時間をやり過ごした。

 二ノ瀬を心底信じていた分、その反動は大きかった。九城に素性が知られたことも事実だ。失望と焦り……それらが絡み合って体中をかき乱している。しかし、言いたいことを思う存分吐き出しても、この荒れ狂う気持ちが落ち着きを取り戻すわけではない。今はただ、あらゆる物事をうやむやにしたまま、握り締めた拳の中に怒りを押し留めておくことしかできなかった。


 シャワーを終えた二ノ瀬とはなるべく視線を合わせないようにしていたが、そうは問屋が卸さなかった。何の前触れもなくドアチャイムが鳴ったのだ。静まり返った部屋に、足音が響かないのは不自然だ。


「死角へ。僕が出る」


 パジャマ姿の二ノ瀬を部屋の奥へ押しやると、僕は覗き窓から外を窺った。二ノ瀬が尾行した際に撮影した『九城姫々の彼氏』が立っていた。長身に赤いジャケットを羽織り、清楚な黒髪が印象的だった。細面には凛とした雄々しさが刻まれているものの、今はドア越しに見せる憤怒の形相にかすんでいる。チェーンを掛けたままドアを開けると、陰からぬっと顔が現れた。


「初めまして、水野真久です。恵比寿賢治さんにお話があって来ました」


 穏やかな語調とは裏腹に、その瞳には殺気に近い不穏な輝きが宿っていた。今にもドアの隙間から腕が伸び、僕の首を締め上げそうな雰囲気だ。


「僕が恵比寿賢治で間違いない」


 僕は男を逆撫でさせないよう、慎重に言葉を発した。まだ二ノ瀬に対する腹の虫が治まっていないというのに、出会って間もない他人のご機嫌取りなんて馬鹿げている。


「話って? 長くなりそう?」


「はい。大事なお話です」


「ちょっと待ってて」


 僕は部屋へ引き返し、洋箪笥から引っ張り出したガウンを二ノ瀬に渡した。


「水野真久。九城の彼氏だ。彼を部屋へ入れるけど、君はここにいて構わない」


 僕は告げると、真久を迎え入れるのにドアを開けた。彼は特に食って掛かる様子も見せず、慎ましくゆっくりと部屋の中へ入ってきた。


「こんばんは」


 肩からガウンをまとった二ノ瀬が部屋の隅から挨拶すると、真久は狼狽した面持ちでこちらを振り返った。


「てっきり一人暮らしかと……」


「彼女は仲間だ」


 真実はその言葉ほど正確ではないような気がした。

僕は真久をコタツへ促し、グラスに注いだウーロン茶を差し出した。


「姫々のことで確認しておきたいことがあります」


 僕は真久の熱心な眼差しを見つめ返した。


「君が僕の後を尾けてたことなら把握できてる。九城に頼まれたんだろ?」


「気付いてたんですか……姫々の言ってた通りだ」


「何が?」


「姫々が隣人の恵比寿賢治を尾けてくれと頼んできた時、俺に言ったんです。『向こうは最初からお見通しだろうから、気付かれても問題ない』と。一体あなたと姫々の間に何があったんですか?」


 やはり、九城はこちらの目論見通りに動いていた。真久を囮にすることで、二重尾行の更に裏をかこうとしていたのだ。


「僕らは探偵だ」


 白状すると、真久はポカンと口を開けた。


「本名は鷲尾瑛助。彼女は二ノ瀬葵。ある人物から依頼を受けてこの部屋へやって来た」


「姫々とどういう関係が……?」


「その前に、今度は僕の質問に幾つか答えてほしい。君が正直に答えてくれれば、この対談はとどこおりなく進められる」


「……分かりました」


「ここへ来たのは君の意思か? それとも九城の差し金か?」


 僕は手始めに問うた。


「俺の意思です。姫々とは町で別れたので、俺がアパートを訪ねるなんて思ってもいないはずです。明かりが点いてないから留守だろうけど、念のため忍び足で部屋まで来ました」


 真久は揺るぎなく答えた。


「もう一つ。二日前の昼頃、彼女の部屋へ電話を掛けたか?」


「いいえ。部屋へ掛けるならケータイに掛けます。いつもそうしてます」


「最後に。同じ日、君は彼女の部屋を訪ねたか?」


「十四時くらいに。姫々は留守でしたけど、間もなく帰ってきました」


 僕は一旦考えを巡らせた。『九城には電話を掛けてきた仲間がいる』『彼氏と思しき男はその仲間ではない』という二点がこちらの憶測だった。真久をここへけしかけるのに、九城が電話のことまで偽証させるとは思えない。九城の思惑に直接従事していない真久が細部に渡る情報を知っているのもおかしいし、九城には教えてやる利点がない。真久の話は筋が立っている。


「疑ってすまない。君の質問についてだけど、当初、この調査に九城は全く関与していなかった。だが彼女の行動には不審な点が多過ぎる。九城を調べることで、あるいは笹岡美織の事件に関する情報が手に入るかもしれないと我々は踏んだ」


 真久の顔から怒気が抜け落ちていった。視線はガクッと下がり、手にはグラスが握られたが、中身は飲まなかった。


「姫々は笹岡美織殺害の容疑者ってことですか?」


「そうだ」


 左右のこめかみに二人分の視線が突き刺さったが、僕は怯まなかった。これは真久を丸め込むための嘘だ。


「九城の行動力は正気の沙汰じゃない。裏で手ぐすね引く仲間と共に行動し、絶対に何か企んでいる。今日の尾行で僕らが探偵であることもバレてしまった。今後、僕らには情報が必要だ。君の持つ情報が」


「できません。姫々を裏切りたくない」


「彼女を救うためだ。罪を犯す前に食い止める……僕らならできる」


 真久が今何を考え、どういった結論を出すのか、手に取るように分かる気がした。真久と九城は心から愛し合っている。だからこそ九城は真久を頼ったし、真久はその期待に応えようとした。ここへ来たのは九城への疑念を晴らすため。そのことを内密にしたかったのは〝万が一〟の場合に備えるためだ。そして今、真久はその〝万が一〟に直面している。

 真久はグラスを傾け、中身を一気に飲み干し……


「耳が温かかった!」


 言葉が弾丸のように飛び出した。僕は面食らった。


「一昨日、帰宅直後の姫々の耳を触ったんです。温かかった……教会へ行ってたらしいけど、それにしても温か過ぎる。きっと、姫々は誰かの部屋にいたんですよ」


「丸山さんの介護をしてたんじゃないか? よく部屋にお邪魔すると言ってたし」


「だったらそう言えばいいじゃないですか。俺はこの際、誰の部屋にいたかなんてどうだっていいんです……姫々に嘘をつかれたことが未だに信じられない!」


 真久は拳で畳を殴りつけた上、ぐりぐりと擦りつけた。


「『嘘も方便』って言葉を知らないのか? 君との関係を保つために、九城は仕方なく嘘を言ったのかもしれないだろ」


 僕は何の意味も持たない慰めの言葉を口にしながらも、頭の中では新たな情報に関する慎重な推察を繰り返していた。


「その日、僕も部屋にいたんだ。九城が一階へ下りていく足音が聞こえてた。つまり三階の岡野の部屋はありえない。丸山さんじゃないとすれば、残りは大家である八重崎夫婦の部屋だけ。ここずっと旦那の姿は見ないから、接触するなら夫人ということになる。君に嘘をつくくらいだ……よっぽど知られたくない関係なんだろう。もし九城の仲間が八重崎亜子なら、タイミングを見計らって部屋へ電話を掛けさせることができる」


「それだけじゃない」


 二ノ瀬が控えめな声量で口を挟んだ。


「引っ越し業者に彼女を派遣として送り込むこともできるはずよ」


 二ノ瀬の言う通りだ。あの業者は八重崎が得意先にしているところだったはず。ある程度の融通が効くはずだ。


「真久、どんな些細な情報でも構わない。君の知ってることを教えてくれ」


 僕は詰め寄った。真久は目を上げ、空のグラスを突き出した。


「お茶……ください」


 二ノ瀬が機敏に立ち上がり、コップに並々とお茶を注いで戻ってきた。


「姫々は教会にお金を寄付してます。給料の半分くらい。こんなボロアパートに住んでるのはそのせいです」


 真久は一言喋るたびにお茶を飲み込んでいった。意を決して声を出すのに、お茶の充填なしでは呼吸することもままならないようだった。


「二日前、こうも言いました。『ここでやらなきゃいけないことがある。あの教会で使命を全うすることは私にとってのチャンスだった』」


 最後の一口を飲み干すと、真久はトドメとばかりに言い放った。それを聞いて、瞬く間に今朝のことを思い出した。


「ミサへ行った時、九城は確かにそんな話をしていた。『私には、私だけに与えられた使命がある』と。追求すると、神父の鈴木という男が彼女をかばった。その時、彼は九城との間に秘密があることをほのめかしたんだ」


「大家と神父を問い詰めれば、姫々の言う『使命』が明らかになるんじゃ……?」


「いや。そんな単純な話しではないだろう。こっちの正体がバレた今、とにかく慎重に動かなければならないからね。九城がそのどちらにも繋がってるなら尚更だ」


「俺は今後どうすれば?」


「この件に関しては九城に話すべきだ。彼女がどうにかして僕らの接触に気付いた場合、君から話を切り出すことで警戒と疑心を和らげることができる。下手に隠し続けるよりよっぽどいい。但し、彼女の情報を密告したことは内緒だし、僕の本名は恵比寿賢治のままだ」


「はい……」


 真久は浮かない顔で返事をした。


「連絡先を教えてもらっていいか? また何かあれば互いに連絡を取り合おう」




 明朝、部屋に二ノ瀬の姿はなかった。荷物をまとめ、夜更けにこっそり部屋を出たことを僕は知っていた。去っていく二ノ瀬を、僕は引き止めようとしなかった。彼女との間に決定的なわだかまりが生じた以上、一緒に調査を続けるのは好ましくない。僕は起き上がると、やるせない思いで部屋を見回した。窓辺で二ノ瀬が笑った気がした。


 朝食のフレンチトーストは焦げていておいしくなかった。味も素っ気なく、炒めた雑巾でも食べているようだ。コーヒーは何度淹れてもいつもの味に近づかない。どれもこれも、何かが足りなかった。

 朝食が済んでも行動へ移れる気がしなかった。コタツに両足を突っ込みながら、空虚な部屋に呆けた意識を解き放つのが精一杯だ。コタツにはまだ二ノ瀬の温もりが残っている。彼女がここにいたことを証明する確かな痕跡だ。


 僕は掛け時計に注目していた。しばらくは針の追いかけっこを観察するだけだったが、時計が傾いていることにふと気が付いた。盗聴器探査の時にはまっすぐだった……二ノ瀬が動かしたのだろうか? 立ち上がり、時計に手をかけた。

 束の間、全身が凍りついた。時計の下から御札が出てきた。壁に一枚、黒と赤の墨でおどろおどろしく文字が綴られている。新品の時計がここに掛けられていたのは、この御札を隠すためだったのだろう。

 不意に、痛みのない衝撃が背中を駆け抜けた。


『じっとして。何か憑いてます』


 記憶の奥底からポプラでの一部始終が甦ってきた。先日、彼女はこうも言った。


『鷲尾って憑かれやすいのね』


 思い起こすと、二ノ瀬の言動は不審な点ばかりだ。椅子に座ろうとした所長を一喝したり、時計に向かって話しかけたり……。二ノ瀬がここへ来たかった本当の理由は、笹岡美織がこの世に残した何かしらのサインを、その身に感じ取ったからではないだろうか?

 静まり返った部屋に携帯電話の着信音が鳴り響いた。僕はすくみ上がったが、すぐに持ち直して電話へ飛びついた。


「もしもし!」


「うるさっ!」


 相手は八重崎亜子だった。僕は肩を落とした。


「……何で番号知ってるんですか?」


「契約書に書いてあったから。ていうか何でそんなに張り切って電話出るの? びっくりしちゃった」


「要件はなんです?」


 僕は冷淡に受け流した。イライラしていた。


「この後、あたしの部屋でランチでもどう? おでんがあるわよ。タコ足入り」


「行きます。十二時きっかりに」


 二つ返事で了承した。八重崎と接触する手段を模索していたが、どうやら手間が省けたようだ。だが油断はできない。九城と八重崎が本当に裏で繋がっている場合、『恵比寿賢治』の正体が筒抜けにされている恐れがある。

 僕は約束の時間に一〇一号室を訪ねた。呼び鈴を鳴らすとすぐに八重崎が現れた。スリット状のタイトスカートで装い、太ももからふくらはぎにかけての脚線美がこれ見よがしに露出されている。


「綺麗? 食べてもいいのよ」


「タコ足が食べたいです」


 今回の合言葉は少しひねりが必要だった。僕は正直に答えたが、八重崎は笑顔で部屋に入れてくれた。

 テーブルにはカセットコンロが置かれ、その上で土鍋に浸かったおでんが食べ頃に煮えていた。大根や卵、はんぺんといったスタンダードな具材の中に真っ赤なタコ足が紛れている。口の中に唾が湧いてきた。


「急にどうしたんですか? おでん食いに来いだなんて」


 腰を下ろしながら、おでんの香りを腹いっぱい吸い込んだ。


「急じゃないわよ。前に約束したでしょ」


 八重崎が湯気の向こう側からたしなめた。僕はここへ挨拶に来た日のことをすっかり思い出した。


「調子どう?」


 おでんを手際良く取り分けながら八重崎が聞いた。僕は今自分が『物書きフリーター』であることも思い出した。


「スランプ気味です。思うようにいかなくて」


「ふーん……そっか。どうぞ、召し上がれ」


「いただきます」


 箸を伸ばしながら、僕は鍋の中に妙な違和感を覚えた。汁の割に具が少ないのだ。手元を見ると、テーブルクロスに濡れたコップの跡が残っていた。どうやら先客がいたようだ。九城だろうか? 例えそうだとしても、八重崎が素直に口を割るとは思えない。


「いただきます」


 僕はそれを繰り返した。分からないことを気にしていてもしょうがない。あえて忘れることにした。

僕はタコ足にかじりついた。歯ごたえのある弾力からダシの旨味を含んだ汁が溢れ出し、災難続きのストレスと中和して体内へ流し込まれていった。


「何か辛いことでもあった?」


 八重崎が案じ声で尋ねた。内に秘める悩みを、早々と見抜かれてしまった。いや、もしかすると、誰かに見抜いてほしかったのかもしれない。


「僕は嘘つきだ」


 口の端から声がこぼれ落ちてきた。


「他人にも、自分にさえも。心のずるさを正当化するためだけに、嘘まみれの理屈や綺麗事を並べ立ててきた。どこまでが嘘で、どこからが本当なのか、誰かが傷つくまで気付くこともできなかった。たまに考えるんです……生きるのにあとどれだけの嘘が必要になるんだろうって……」


「何言ってんのか全然分かんない」


 八重崎が率直に言い放った。


「今のあなたはどっち? それは小説のセリフか何かなの?」


「違う。これは僕だ。僕の意思だ」


 僕は自身に言い聞かせた。八重崎が微笑んだ。


「だったらいいじゃない」


 その言葉を聞いた時、半ば失いかけていた理性が自分の元へゆっくりと戻ってくるのを感じ取った。まどろみから抜け出した瞬間のように、頭の中では物事をはっきりと分析できるようになっている。しかしそれは、話さなければよかったという後悔を認識するきっかけにしかならなかった。


「恵比寿さんは神様って信じてる?」


 八重崎は期待をはらむような目で僕を見た。九城に何か吹き込まれたのだろうか? 


「信じてません……というより、信じたくない。理由はそいつが嫌いだからです」


 僕は食いちぎったさつま揚げを味わいもせず丸飲みした。


「普段は怠けてるくせに、何でも知ったような顔をして大した御身分だ。そんな存在を崇めるなんて身の毛がよだちます」


「私だって信じてないわよ。でもね、私と知り合いの神様は別」


「別って?」


「『エリンジュームの神様』。やっと帰ってきたのよ」


 訳が分からなかった。


「このアパートに神様が住んでるんですか?」


「ええ。それも若くて、勇敢で、紳士で、二枚目で……」


「ホストの神様ですか」


 早くこの話題から遠ざかりたかった。こんなものは八重崎の与太話にしか聞こえない。


「誰の心にだって神様はいるわ。神様は、あたしたちが欲しいものをみんな持ってるべきなんだもの。だからあたしは、たくさんの過去や秘密をある部屋に隠して、それを守ってもらうことにしたの……」


「『エリンジュームの神様』に?」


 八重崎が誇らしく頷いた。どうやら九城の崇拝する神様とは別物らしい。僕は、八重崎が何らかのヒントを伝えようとしているのではと察した。


「ある部屋って、どの部屋ですか?」


 三本目のタコ足を食らいながらそれとなく聞いてみた。八重崎はちくわで汁を吸っていた。


「やけどしますよ」


「平気」


「……行儀悪いなあ」


「地元じゃ常識よ」


「エジプト出身ですか?」


「さあ。で、何の話だっけ?」


「もういいです」




 帰り仕度をしていると、ドアの覗き窓がえぐり取られていることに気が付いた。強引にほじくられたようで、辺りには大きな裂傷が残っている。


「八重崎さん、あの覗き窓……」


 それ以上、言葉が声にならなかった。背後から腕が伸び、胸にそっと巻き付いて僕を包み込んだ。柔らかな温もりが肌に伝わってくる。苦痛も憎悪もない。失いかけていた安息で体が充実していく。

 僕は心地良いひと時の中、胸の奥で弾けそうになる欲望を必死に抑えつけていた。八重崎が示す愛の形に、二ノ瀬の面影を見たくなかった。二ノ瀬と離別した悲しみを、八重崎で補うことはできない。二ノ瀬によって開けられた心の穴は、もう一度二ノ瀬で埋めるしかないのだ。それが何を意味するのか、僕にはちゃんと分かっていた。


「ありがとうございます、八重崎さん」


 僕は静かにそう言った。八重崎はより強く体を密着させた。


「あたしはあなたの味方にはなれない。本当に隠したかったものは、大き過ぎて隠せなかったから……」


 八重崎のかすれ声がすぐ耳元から聞こえてきた。


「でも最後に……最後だけ……」


 手に八重崎の指先が触れた。次には、手中に小さな人形のような物を握らされていた。


「三〇三号室でそれを使って。あたしの神様を見せてあげる」


「え……でもあの部屋は岡野の……」


「いいから。さっ、早く帰って」


「どういう……」


「帰って! 帰りなさい!」


 つい今まで抱きしめられていたはずの僕は、あっという間に寒い戸外へ放り出されてしまった。僕は腑に落ちないまま部屋へ戻りつつも、手の中の物に注目した。それは鍵だった。どこか見覚えのある、毛糸で編まれたテディベアのキーホルダーが付いている。


 部屋へ戻っても気分は落ち着かなかった。八重崎の様子はことさらおかしかったし、彼女の言う『エリンジュームの神様』が何を示すのか、何故それが岡野の部屋にあるのか、本当に隠したかったものが何なのか、この鍵が何を物語るのか、前にどこで見たのか、分からないことが分からないまま山積みされていった。

 こんな時、二ノ瀬さえいてくれれば……ただそばにいて、笑ってくれるだけでいいのに。


 届かぬ思いを置き去りにして、僕は再び部屋を後にした。雪が舞う中を、教会へ向かって歩を進めていった。切実な恋愛相談とかこつけて鈴木に近づき、あわよくば九城との繋がりを暴いてやろうという試みだった。

 前方に二ノ瀬が立っていた。どうやら教会から出てきたところのようだ。二ノ瀬も僕に気付いている。距離を縮めるにつれ、鼓動が際限なく加速していった。


「まだここにいたんだ」


 焦った。緊張のせいで抑揚のない陰険な声が出てしまった。もしかすると二ノ瀬には、『調査を抜けた奴が何でまだここにいるの?』と聞こえてしまったかもしれない。


「教会に……調べたいことがあったから」


 二ノ瀬は目も向けずに答えた。無論、何を調べていたのかは言わない……それが二ノ瀬のやり方だ。


「それと、荷物を取りに」


 二ノ瀬は大きなボストンバッグを提げていた。今ならまだ引き止められる。


『戻ってこい』


 たった一言が言えなかった。


「これ、部屋の鍵……出る時は施錠しないで、郵便受けに入れといて」


「うん」


 二ノ瀬は鍵を受け取ると、僕に背を向けて去っていった。途方もない虚しさが雪崩のように押し寄せてきた。そのまま雪に溺れてしまえばどれほど気が楽になったか分からない。得意の嘘も、肝心な時は役立たずだ。

 僕は足元を見た。八重崎からもらった鍵が落ちていた。二ノ瀬に自室の鍵を渡す時、ポケットから落ちたのだろう。僕は腕を伸ばして拾おうとした。


「神居……」


 発作的にその名が飛び出した。眼前の光景が記憶の一部とピッタリ重なっていた。前にも一度、僕はこのテディベア付きの鍵を拾ったことがある。山田が神居のバッグを床に落とし、中身をぶちまけたあの時だ。

 僕は猛スピードで『古屋敷探偵事務所』へ電話をかけた。受話器を取ったのは所長だった。


「所長。神居から届いた手紙、まだありますよね? そこに書かれてる彼の現住所を教えて下さい。今から会いに行きます」




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