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九城の場合その三 商店街戦線

 ミサ後、部屋へ戻ると、私はすぐに行動へ移った。

 まず、八重崎に「一〇二号室へ来い」とメールを送り、次いで真久にもメールを送った。その後、携帯電話からサイン会の開かれる書店一帯の地図をダウンロードした。そうしている内に八重崎から返事が来た。シャワー浴びるから一時間待て、とのことだった。


「そんなのいいから! 時間がないの! すぐに来て!」


 憤怒のメールを送り、外へ出ようとドアに近づいた矢先、隣室から誰かが出て行った。私は急いで八重崎に電話した。


「今部屋を出ないで。たぶん恵比寿が階下へ向かったわ」


 私は声を殺して電話越しにたしなめた。


「朝から慌ただしい子……一体何なのよ」


「恵比寿が完全に出掛けたかどうか、覗き窓から様子を窺える?」


「前庭より外は死角になってて無理。通路の窓から見えないの?」


「雪が積もってて、垣根のすぐ手前までしか見えなかったはず。それに、後を追うように部屋を出たら隣室の同棲者に勘ぐられちゃうでしょ。ドアの開閉は音が響くんだから」


「はいはい……あら、帰って来たわよ」


 八重崎の言う通り、階段を上る足音が部屋まで届いていた。


「忘れ物か、電話でもしてたのかしら……少し時間を置いた方がいいわね。十五分後に一〇二号室で」




 一〇二号室を訪ねると、八重崎がお茶を準備して待ってくれていた。寝巻の上に白いガウンを羽織り、寝起きの腫れぼったい顔に不服そうな表情を湛えている。


「昨夜は来なかったくせに、こんな朝っぱらから気張らないでほしいわね」


 八重崎は不平をこぼしながらも、湯気立つお茶を丁重に差し出した。


「恵比寿が仕掛けてきたわ。もしかしたら、あいつの同棲者が分かるかもしれない」


 私が朗報を口にしても、八重崎は寝ぼけ眼をパチパチさせるだけだった。


「こっちの狙い通り、恵比寿はミサに来たの。帰り際、恵比寿は今日の自分の予定を事細かに説明し始めた……あいつは、私がその情報を頼りに行動を起こすと確信してるのよ」


「姫々に焦点を当てるってことは……あなた疑われてるんじゃない!」


「そういうことになるわね」


 私は素直に認めた。


「恵比寿を侮ってた。私の出過ぎた行動が仇になったのかもしれないし、最初から私を疑って越して来たのかもしれない。でも、真相を知りたいのはこっちだって同じ。きっと、恵比寿も分かってるのよ……リスクを負わなきゃ何も得られないってこと。虎穴に入らずんば虎子を得ず、よ」


「それで、何を始めるつもりなの?」


「恵比寿は隣町の書店で開かれるサイン会へ行くらしいわ。あいつはきっと、私が後を追って来ると考えるはず。というより、私を疑ってる以上、追って来ると確信を持つのは必然。そうでなきゃ、わざわざ今日の予定を口外する必要はなかったんだもの」


「罠だと分かってるなら、行かなきゃいいじゃない」


 八重崎が正論を述べた。


「いつもだったら、私自身が恵比寿を追ってたでしょうね。でも今回は違う。恵比寿を監視するのは真久よ」


「誰?」


「彼氏。真久ならまだ顔も割れてないし、私の頼みなら絶対に了承してくれる」


「不憫な男。姫々の大切な彼氏でしょ。了承してくれればそれでいいわけ?」


「私利私欲のためじゃない。本当は亜子さんにしたかったけど、今あなたとの関係を知られるわけにはいかない」


「何でバレること前提なのよ」


「そこが今回のミソよ」


 私は熱を込めて豪語した。


「私が行動に出ても、それを確認できなかったら意味がないでしょう? 恵比寿が自分を追っているはずの人物を怪しまれないよう特定するには、最後尾にもう一人配置するしかない。そして、そのもう一人が同棲者である可能性はすこぶる高い」


「要するに、姫々が最後尾に着くことで裏の裏をかくってこと?」


「そういうこと。私はあいつの思惑を逆手にとって、隠された同棲者がどんな人物なのかを見定める。何なら声を掛けたっていいわ」


「せっかく監視カメラ買ってきたのに。まだセットしてないけど、夕方には整うわよ」


「逃げたくないのよ。恵比寿は私が望むとおりに教会へ来た。だったら私だってあいつの望みどおり動いてやる。あいつより一手も二手も先を読んで、返り討ちにするのよ」


 この時既に、私を突き動かす原動力は、天の上から注がれる神の言葉に依存するものではなくなっていたのかもしれない。私にはそれが何となく自覚できていたし、恵比寿への闘争心と執念が理性を支配していくのを感じ取っていた。


「分かった」


 八重崎はこちらの気持ちを汲み取ったように穏やかだった。


「それで、あたしは何をするの?」


「私のアリバイ証人。もし誰かに今日のことを聞かれたら、サイン会のあった時間帯、私をアパートの敷地内で見かけたことにしといて」


 折しも、携帯電話が真久からのメールを受け取った。


「真久から『OK』が出たわ。今日が日曜日でよかった。あとは恵比寿の写真があれば完璧なんだけど……」


「あるわよ。ほら」


 八重崎が耳元で掲げる携帯電話の画面には、確かに恵比寿の横顔が写っていた。ケーキのような物を頬張っている。


「亜子さん、でかした! いつ撮ったの?」


「恵比寿さんが挨拶に来た時。姫々にメールを送るついでにこっそりね」


 根拠のない期待感で胸の中が充実していくようだった。あらゆる運気が自分に向かって傾いていると思えたし、今回は首尾よく事が運ぶような気がしてならなかった。

 無論、この体には、いつだって自分を奮い起こせるだけの自信と勇気が蓄えられている。しかし、今日はいつもの緊張を帯びた感覚とは違う……心はワクワクするような楽しさで満たされていた。




 真久に恵比寿の写真を送った後、私はふもとの街まで下り、バスに乗ってかなり早々と目的地へ出発した。タイミングを誤れば恵比寿と鉢合わせしてしまうし、書店から商店街にかけて下調べする必要があったからだ。

 目的地が近づくにつれ、ほとんど白一色だった殺風景な街並みにクリスマスデコレーションの彩りが加わり、車窓のすぐ外を賑やかに通り過ぎていった。

 私はバスを降りてすぐ、町を東西に横切る大きな商店街へ向かって歩きだした。休日も相まって人通りが多い。私が激しい剣幕で地図を眺めるその脇を、家族連れやカップルが笑顔ですれ違っていく。刹那、真久の姿が脳裏をよぎっていった。

 恵比寿との確執に真久を巻き込んでしまった。苦渋の選択だったが、八重崎が使えない以上、頼れるのは真久しかいない。追尾相手が隣室の男だと知っての了承だった。訝る真久を納得させるには、事実を包み隠さず明示するしかなかったのだ。嘘が発覚した時の代償は計り知れたものではない。


 そのうち地図は必要なくなった。商店街のシンボルであるアーケードの入口が遠くに見えると、後は人の流れに身を任せるだけでよかったからだ。束になった金と銀のモールがアーチ状の屋根を縁取るその下で、恰幅の良いサンタクロースのマネキンが笑顔で客を出迎えている。

 人々は端から端までクリスマスムード一色の商店街に胸を躍らせ、派手な装飾でそそり立つもみの大木をバックに記念撮影した。陽気な『ジングルベル・ロック』の歌と一緒に、嬉々とした笑い声や威勢の良い客寄せのかけ声が聞こえてくる。


 その真っ只中を黙々と通り過ぎるこの私に、嫉妬や引け目などあるわけがない。幼い頃からイエス・キリストの生誕を祝い続けてきた身分からすれば、こんな上辺だけのお祭り事など、無宗教者たちが縁の無いお祝い事に現を抜かす滑稽な文化にしか見えない。


 一番街を抜けるとアーケードが途絶え、二番街に繋がる横断歩道の頭上に抜けるような青空が広がった。周囲にはテナントの収まった雑居ビルが建ち並び、合間に詰め込まれたコンビニに陰気な影を落としている。その先にある騒々しい交差点を越えた向こう側のブロックに、三階建ての大きな書店が立派に構えている……サイン会の会場となる書店だ。

 書店へ向かって歩き出すと、ポケットの中で電話が鳴った。相手は真久だった。


「君を愛してる」


 私は驚きのあまり、横断歩道の真ん中で歩き方を忘れかけた。


「私だって。世界の誰より真久を愛してる」


 何とか次の一歩を踏み出しながら、私は電話越しに愛の言葉を送った。真久がなぜ急にそんなことを言い出すのか、大体の見当はついている。


「それじゃあ、どうして俺が恵比寿賢治を追うのか、正直に話してくれ。姫々の言葉で直接聞きたい。後悔したくないし、誰のせいにもしたくない」


「メールで伝えた通り、恵比寿の正体を明かすためよ。あいつは絶対に何か隠してる」


「面倒な事に巻き込まれてるのか? だったら二人でもっと別のやり方を見つけよう。後を尾けるなんて……バレたらそれこそ厄介だぞ」


「私の独断で動いてるだけ。だから安心して。それに、向こうは最初からお見通しだろうから、気付かれても問題ないはずよ」


「どういうこと?」


「ずる賢い奴なのよ。とにかく、真久が恵比寿を追ってくれれば全てうまくいくようにできてるから。あっ……メールで指示したと思うけど、派手な服装で来てね」


「……赤いダウンジャケットを着て行くよ」




「時間通りに始まった」


 十四時。私は真久から受け取ったメールでサイン会の開始を悟った。会場は書店二階の奥にあるフリースペースとなっており、私は一階の特にひと気のない歴史書コーナーの一角に身を潜めていた。この位置なら、エスカレーターと一つしかない出入口とを一度に視認できる。


「恵比寿を見つけた?」


 私はメールしながら、お目当ての本を探し回る善良な客を演じ続けた。電話は必要な時に、私からだけ掛けられることになっている。


「まだだよ。凄い人でさ。五十人くらいいるのかな。まだ増えてる」


 その言葉通り、エスカレーターは上る人で混雑する反面、下りてくる人はほとんどいなかった。私は出入口から片時も視線を逸らさずに移動を繰り返し、可能な限り客の出入りを注視した。海外文学コーナーの書棚から首を突き出して窺った時、心臓が胸の中でぎゅっと縮まった。

 間違いない、恵比寿賢治だ。黒のコートをまとい、一人で店内へ入ってきた。私は急いで真久へ電話した。


「恵比寿が来たわ。黒のロングコートとメガネを身につけてる。まっすぐそっちへ向かった」


「任せろ。動きがあったらメールする」


 真久の頼もしい語勢が私を安堵させた。今まではどこか心許ない八重崎と否応無く組まされてきたが、今日からは違う。八重崎亜子のポジションに取って代わるのは、雄々しくも勇敢な水野真久だ。

真久となら恵比寿賢治にも勝てる……私は揺るぎない確信を抱いていた。私たちが培ってきた愛の絆に、あの男は指一本触れられやしないのだから。

 真久からの応答を待つ間、一階の中央に位置する国内文学コーナーから店内を窺っていた。恵比寿が来る前に、隠された同棲者が店内にいた可能性もあるためだ。その正体に関しては、まだ女性だということしか明らかになっていない。一階にいる女性全員を把握することは難儀だが、今のところ周囲には背広姿の男一人しかいない。

 再びエスカレーター付近へ視線を送る途中で、一冊のある本に目が止まった。『宮沢賢治・作品集』だった。


「……賢治?」


 私は本を手に取った。宮沢賢治の作品を幾つか集約したもので、第一編は『風の又三郎』だった。ページをめくると、聞き覚えのある一節が冒頭に綴られていた。


どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう


 疑念を抱かずにはいられなかった。日本を代表する童話作家と同名の男が同じく作家として活動し、腹が減ればこの偉大な一節を儀式と称して流用する。こんな偶然があっていいのだろうか?

 悠長に考えている時間はなかった。携帯電話が真久からのメールをキャッチした。


「恵比寿の番だ。終わっても一階へ下りない様子ならまたメールする」


 気分を落ち着かせる猶予はなさそうだった。顔を上げると、エスカレーターから下りてくる恵比寿の横顔が視界へ飛び込んできた。私は急いで海外文学コーナーへ引き返した。

 振り向くと、恵比寿が脇目も振らずに店を出ていくところだった。そこから五メートル分の距離と時間を置いて現れたのは、赤いダウンジャケット姿の真久だ。足取りは慎重で、鋭い眼光が標的にまっすぐ食らいついている。

 しかし、下りてきたのは男二人だけで、真久を追うはずの同棲者の姿は見当たらなかった。外で待機しているのだろうか?


「大丈夫? 今どのへん?」


 出入口付近の雑誌コーナーへ移動しながら、私は電話の向こう側へ呼び掛けた。


「二番街を抜けて、今は三番街をゆっくり歩いてる。ちょっと待って……恵比寿がアンケートに答えてる。しばらく動かないんじゃないかな」


 通話を切ると、私もすぐに後を追った。交差点を渡り、二番街から三番街を目指す。周囲は人で溢れ、衣料品のバーゲンセールに群がったり、アクセサリーのグループ露店で品定めしたり、ギタリストの路上ライブに足を止めたりしている。

 私はそのどれにも目を触れず、一心不乱な歩調で二番街を突っ切っていった。私の推察が正しければ、この横断歩道を越えた先に同棲者が……恵比寿賢治の仲間がいるはずだ。


 やがて真久の赤い上着が視界に入った。シャッターの下りた空き店舗の前にしゃがみ込み、携帯電話をいじりながら恵比寿のいる辺りをつぶさに観察している。その視線の先では、恵比寿がアンケート用紙を手に持って立っている。私は路上に置かれたドラッグストアの商品カートの陰に身を潜め、三番街に視線を走らせた。五メートルほど先にある巨大クリスマスツリーの傍らに、見覚えのある女性が立っている。

 行きつけの喫茶店、お気に入りの席、他愛のない世間話……脳みそが決壊し、記憶が濁流のように溢れ出した。同時に、冬の寒さよりよっぽど冷酷な〝真実〟が、この意識をあっという間に凍りつかせていった。

 そこにいたのは紛れもなく二ノ瀬葵だった。


「違う……違う違う。そんなはずない。ありえない」


 自分に言い聞かせた。電話を手に取ると、指先まで震えているのが分かった。


「ありがとう、恵比寿はもういいわ。来た道を戻って、本屋で待機しててもらえる?」


 メールを送ると、真久は指示通りに踵を返し、本屋へ戻っていった。二ノ瀬がその後を追うのを見て、私は最悪の事態を認めると共に一つの確信へ至った。

 恵比寿が隠してきた同棲者は間違いなく二ノ瀬だ。喫茶店でのやり取りが全てを物語っている。真久を追う姿勢にも迷いがない。人を尾けることに長けている。


「アウトドアレディ……」


 あの日、二ノ瀬は自分の仕事に関してそう皮肉っている。屋外で活動し、人の背後をこそこそと尾け回すことに何の抵抗も示さない人種……。


「……探偵」


 単純な数式を解くように、それはナチュラルに頭の中へ浮かんできた。そして、その答えで恵比寿と二ノ瀬を繋げば全ての辻褄が合う。

 二人は何者かの依頼を受けてエリンジューム荘へやって来た。二ノ瀬の言っていた〝好きな人〟とは恵比寿のことだろう。そうでなければ、男と二人きりで寝食を交わす環境がそう易々と成立するはずがない。

 そうなると、喫茶店で読んでいた『九人の預言者』は恵比寿に貸したものに違いない。二ノ瀬があの場でベストセラーブックを持っていても不思議ではなかったし、私にはそれが自分の物ではないかと疑えるはずがなかった。

 短期の調査を見込んでいるのなら、恵比寿の住んでいたマンション、残された家具、きっちり二人分ずつしかない食器にも合点がいく。恐らく恵比寿賢治という名前も肩書も、すべて調査する上で偽装されたものだろう。書店での見解は間違っていなかったはずだ。


 アンケートを終えた恵比寿が四番街へ向かって歩き出したが、私はまだ動かなかった。恵比寿と二ノ瀬を探偵と決め付けるなら、二人の他にも大勢の調査員がいると断定し、その内の誰かに尾けられている危険性も懸念すべきだ。

 事実、二ノ瀬には喫茶店で真久の写真を見せているし、恵比寿には教会の前で写真を撮られている。恵比寿を尾けていたのが真久だと明るみにされた今、彼と繋がりのある私が調査の対象とされている可能性は高い。書店での行動は余りにも軽率過ぎた……あの時既に、私と真久は別の探偵に見張られていたかもしれない。

 私はアンケート調査に励む青年に目を止めた。黄色い蛍光色のジャケットを着込み、アンケート用紙の差し込まれたバインダーを手に笑顔で触れ回っている。尾けられている場合、彼を利用すればその人物を特定できるかもしれない。

 思い立つや、私は即座に行動へ移った。


「アンケートにご協力お願いします!」


 目が合うと、男は満面の笑みですかさず近寄ってきた。


「そのまま笑い続けて」


 私はアンケート用紙を受け取りながら囁いた。


「今、私の後方に、立ち止まってこっちを観察してる人はいますか? 仕事してるフリをして、男女問わず確認してください」


「はい?」


 男は狐につままれたようだったが、爽やかな笑顔は保っていた。


「とにかく確認して下さい。店の中にも注意して」


 男は言われるまま、アンケート調査を続けながら後方を確認した。


「ツリーの陰から女性が見てますよ。知ってる方ですか?」


「どんな格好?」


「小柄で、茶髪、白いコート。二十歳ぐらい」


 どうやら二ノ瀬ではないようだ。私はアンケート用紙を突っ返した。


「今から四番街へ行って、また戻ってきます。その女性には決して話しかけず、後を尾いて来てるようなら目で合図して下さい」


 私は横断歩道を渡り、四番街へと足を踏み入れた。ここまで来ると、一番街より遥かに客足の密度が薄い。五番街の手前で折り返した時、白いコートを着た小柄な女をすぐに見分けることができた。

 しかし、たまたま行き先が同じだっただけかもしれない。私はそのまま三番街へ向かって歩き続け、女のすぐ脇をすれ違った。まだほんの小娘だ。探偵としての貫禄は見当たらないが、むしろ尾行する上では功を奏しているようだった。

 再び三番街へ戻ってきた。調査を続けていた青年はすぐこちらに気が付き、満面に笑顔をキープしたまま私の後方へ視線を走らせた。次に目が合った時、青年は大きくうなずきかけていた。


「アンケートにご協力お願いします!」


 青年は折り畳まれたアンケート用紙を押し付けてきた。見ると、走り書きされた文字で何か書いてある。


〝お困りでしたら力になります〟


 ある閃きが脳裏をかすめた。

 振り向くと、歩行者信号機が赤へ変わるところだった。私を尾けていた女は横断歩道を渡り切るしかない。互いの距離はあっという間に縮まった。私は更に間合いを詰め、女の腕を掴み取った。


「どういうつもり?」


 女の怯え切った顔に向かって私は凄んだ。


「離してよ! 意味分かんない!」


 私は暴れる女の腕をねじり上げ、そのまま青年の元へ引っ張っていった。


「近くに交番があったはずです。警官を呼んで来て下さい」


 青年はしばし呆気にとられていたが、事態を呑み込むとすぐ交番の方へ駆け出していった。抵抗を続けていた女も、人目を引くようになると大人しくなった。


「あんた探偵でしょう?」


 私は女の耳元に囁きかけた。


「どこの誰なのか、恵比寿や二ノ瀬のことも全部突き止めてやる」


 女は歯を剥き出し、鼻に噛みつこうとした。


「先輩はあんたなんかに負けない。せいぜい笑ってろ」


「どうされました?」


 頭上から野太い声が掛かった。顔を上げると、ガタイの良い中年の警官がこちらを見下ろしていた。その傍らに青年が突っ立っている。


「この人が後を尾けてくるんです。私、身に覚えがなくって……」


「嘘つき!」


「はいはいはい。とりあえず手を離して」


 警官は私の手から女の腕をたやすく引き剥がした。


「君、本当に後を尾けてたの? え?」


 警官は毛虫が貼り付いたような太い眉毛をぐいと吊り上げた。女はそっぽを向いたまま何も答えない。


「本当ですよ。僕ずっと見てました」


 青年が颯爽と躍り出た。狙い通り、こいつは私の味方だ。この女に逃げ道はない。


「何か身分を証明するもの見せて。免許証とか持ってる?」


「社員証なら……」


 女は渋々と社員証を手渡した。私は咄嗟にそれを盗み見た。『古屋敷探偵事務所』と書いてある。


「山田千沙さん……探偵ですか」


 警官は呟くと、気遣うような眼差しでこちらを一瞥した。


「職質かけたら探偵でしたって、たまにあるんですよ。もっとうまくやってほしいね」


 山田の目からは涙が溢れ出さんばかりだった。


「勤め先に照会したいから、一緒に交番まで来て下さい。君はどうする?」


「帰ります。一体誰かと思ったけど、探偵なら心当たりあるんで」


 私は朗らかに言うと、雪を蹴散らしながら大股で歩き出した。この興奮しきった両足をどこへ向かって振り上げればいいのか、しっかり把握できている。商店街からずっと見えていた……雑居ビル最上階の窓に大きく綴られた『古屋敷探偵事務所』の文字。目的のものを見つけ出すのに、私は視線をほんの少し上に向けていればよかったのだ。

 お目当ての雑居ビルが眼前にそびえ立つ頃、賑やかな商店街の喧騒はもう遥か彼方だった。そこは幹線道路から団地の密生区域へ通じる並木通りに面しているが、周囲は閑散としており、ビルを出入りする人影もない。

 建物の入口に近づくと、『古屋敷探偵事務所』の情報が掲載された、ウッド調のシャレたアートスタンドが目に止まった。「長年の実績による確かな信頼。追加料金一切ナシ。プライバシーの保護と万全のアフターケアを約束します。七階。古屋敷探偵事務所へ」と綴られたその下に、ホームページのアドレスが添えられている。

 事務所へ踏み込んで恵比寿のことを問いただしてやろうかと目論んでいたが、その必要はなくなった。携帯電話からアクセスしてみると、知りたかった情報が全て明記されていた。『調査員の紹介』ページに山田千沙と二ノ瀬葵、そして恵比寿賢治の顔写真を見つけた。デザートのメロンを皮まで食べてしまうような執念深い人種……その名は……


「鷲尾瑛助」


 名前が眼球に焼き付いた。

 それは、二〇一号室の住民が探偵事務所の調査員であることの確たる証明を、私がその手に掴み取った瞬間でもあったのだ。




 エリンジューム荘へ帰ったのは十七時頃だった。闇夜に染まりかけた残照が空に淡い光を投げかけ、丘の頂上からふもとに向かって鋭く冷たい風が吹き抜けている。私は自室へ戻らず、八重崎のいる一〇一号室を訪ねた。事前に連絡してあったので鍵は開いていた。ここを訪ねるのは、『神様の言葉』を開封したあの日以来だ。

 中へ入ると八重崎がテレビのモニターに夢中になっていた。夕方のローカル番組でも見ているのかと思いや、そこに映っていたのは一階の共有通路だった。どうやら監視カメラの取り付けが終わったらしい。


「綺麗に映ってるわね」


 私はモニターを覗き込んだが、何ら変化のない風景が映り続けるばかりですぐ飽きてしまった。


「夜も撮影できる無線タイプよ」


 八重崎はモニターに向かって誇った。


「覗き窓をほじくり出した後、周りを少し削ってカメラを押し込んだの。スティック型の細長い形状よ」


 改めてドアを見てみると、本来覗き窓のあるべきところに印鑑のような物体が突き刺さっていた。どうやら八重崎なりの努力の痕跡らしく、私は思わず笑ってしまった。


「無線タイプならネズミ捕りまで仕掛ける必要なかったね」


「そうでもないわよ。レコーダーの配線が複雑だもの」


 映像を録画処理する銀色のレコーダーからは幾本ものケーブルがただれ、床を這ってテレビの裏まで伸びていた。


「鷲尾が来たらすぐ片付けられるように準備しときなさいよ」


「鷲尾って誰だっけ……?」


「恵比寿の本名。鷲尾瑛助。探偵よ」


「突き止めたの?」


 八重崎は弾けたように立ち上がり、キッチンへお湯を沸かしにいった。密会における八重崎家のお茶は、作戦会議を円滑に進めるための必需品となっていた。


 私はお茶を待つ間、今日起こったことをかいつまんで説明した。


「……要するに、その山田っていう調査員のお陰で知りたいことは大体分かったの。鷲尾は『古屋敷探偵事務所』という探偵社の調査員で、同棲者の女も一緒。名前は二ノ瀬葵」


「黒髪の綺麗な人?」


「何で知ってるの?」


「カメラに映ったのよ。三十分くらい前にね。瑛助も一緒だったわよ」


「鷲尾も一緒……」


 それが何を意味するのか、私はしばらく考えに耽った。今までひた隠しにしてきた同棲者と帰宅するということは、私が二ノ瀬を見抜いたことに気付いた末の開き直りだろうか? 山田からは確実に報告が入るだろうし、鷲尾が自分たちの正体を知られたことに気付けないはずはない。


「正体が明るみにされたんで、鷲尾は吹っ切れたに違いないわ。今頃部屋でいきり立ってるわね……いい気味よ」


 お茶を手に八重崎が戻ってきた。顔の表面には不服の様相が刻み込まれている。八重崎お得意のこの表情は、彼女を見た目より十歳は老け込ませて見せた。


「なんでそこまで瑛助を嫌うの? 彼って個性豊かで魅力的じゃない」


「嫌いじゃないわよ。ただ好きじゃないだけ」


 八重崎とプライベートな主観論を交わすのはおっくうだった。そんなものは職場仲間との間で済ませていることだし、鷲尾の魅力について議論するつもりは毛頭ない。


「『瑛助』って馴れ馴れしい呼び方はやめて。本人に聞かれたらどうすんのよ。私と亜子さんは全く無関係で、繋がってないことになってるのに、亜子さんが恵比寿の本名を知ってるのはおかしいでしょ」


「はいはい。……彼氏はどうしたのよ。あっちはうまくいったの?」


 八重崎は尋ねたものの、視線の先は代わり映えのないモニターの向こう側だった。


「真久が私の彼氏だってことは露呈されたわ」


「はあ?」


 モニターから八重崎の視線が引き剥がされた。


「真久を尾けたのは二ノ瀬葵だった。実を言うとね、彼女とは昨日会って話してるの。同じ喫茶店の常連で、たまたま向こうから話しかけてきたんだけど、その時に真久の写真見せちゃったのよね」


「話しかけられたって……姫々が知らなかっただけで、二ノ瀬は姫々のこと知ってたんじゃないの? それで色々探り出そうとして……」


「それはないと思うよ。彼女が名乗ったのは実名だった。鷲尾は徹底して偽名を使ってきたのに、同棲者の二ノ瀬が本名を使うのはおかしいでしょ? 彼女はきっと、私との関係を仕事のそれじゃなく、プライベートとして分別したかったんだと思う。けど、もし私から名乗っていたら、向こうは先に勘付いて偽名を使ったかもしれないわね。それに、亜子さんの憶測が正しかったとしても、二ノ瀬と接触できたことで彼らの正体を見破ることができたんだから、結果オーライよ」


「でもおかしいわよ。姫々に顔も名前も知られた二ノ瀬葵が、何でわざわざ尾行に加わらなくちゃならなかったの? そうじゃなくたって、彼女の存在はずっと隠されてきたはずなのに。探偵ならいくらでも代役がいるじゃない」


「私もずっとそれが気掛かりだったのよ。少なくとも二ノ瀬の方は、私が名乗った時点で自分の過ちに気付いてたはず。鷲尾は私のことを疑ってたし、二ノ瀬に私について話さないはずがない。彼女が今回の策に参加するメリットは一つもないわ」


 部屋は静寂に包まれた。長い沈黙だった。お茶をすする音以外、何も聞こえてこない。私は立ち昇る湯気越しにモニターを覗きながら、鷲尾が今後どのような動きを見せてくるのか漠然と考えていた。しかし、八重崎の意表を突く一言でふと我に返った。


「隠していた同棲者の存在が姫々にバレてるってこと、もしかしたら瑛助は知ってたのかもしれないわね」


「根拠は何よ」


 私は荒っぽく噛みついた。鷲尾がそこに気付ける決定的なポイントは、私が引っ越し作業員として接近したまさにあの時だ。


「だって、姫々が真久くんのポジションで瑛助を尾けていたら、瑛助があなたを街まで誘い出した意味がないじゃない。あなたは隣に住んでるんだから、そんな面倒なことしてなくたって、接触する口実なんかいくらでもあるでしょ。あなたは本だって貸してるんだし。瑛助はたぶん、姫々が囮を用意することで自分たちをあざむいて、同棲者を突き止めようとするはずだと覚悟してたのよ。そして、姫々の動きをチェックするための調査員を最後尾に配置した」


「悔しいけど……否定できない。亜子さんの言う通りだわ」


 私は力なく言った。


「鷲尾の目的は私の動向を観察することじゃなく、囮として利用する〝仲間〟を特定することだったんだわ。だとするとマズイわね……私が部屋へ侵入したことも、繋がりはどうあれ、仲間がいるってことも筒抜けにされてる」


 沈黙が戦慄をまとって戻ってきた。言い知れぬ緊張感で部屋全体が張り詰め、空気が淀み始めた。


『有り余る自信で警戒を怠り、過ちを犯していることにも気付いていない』


 鈴木の言葉が頭蓋の内側を旋回するのを、私はどうにかして振り払おうとした。自責なんてまっぴら御免だった。今までの画策が裏目に出ているのは確かだが、有力な結果を得ているのも事実なのだ。怯むことはない。鷲尾の正体は既に暴かれている。


「抹殺してやる」


 私は沈黙を切り裂いた。


「三つ目の神様の言葉は見当がついてる。この一件は鷲尾を葬ることでしか解決を見ない。神様は鷲尾の死をお望みのはず……だから鷲尾を殺す。私が殺す」


「あなたね、いい加減にし……誰か来た」


 私たちはモニター目掛けて額を寄せ合った。私は目を疑った。


「真久だわ。何でここに……」


「姫々に会いに来たんでしょ?」


「だったら私と一緒に帰れたはずよ。真久とは方向が違うから隣町で別れたのに……」


「あなたに内緒でここへ来たかったってこと?」


 私たちは顔を見合わせた。どうやら考えていることは同じようだ。


「鷲尾の部屋へ行ったんだ」




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