鷲尾の場合その三 どっどど
寝返りを打つとまぶたが開いてしまった。寝ぼけ眼に二ノ瀬の寝顔が映っている。顎の先まで布団をかぶり、柔らかな寝息を立てて眠っている。釘付けにされたように、僕は彼女の寝顔から視線を逸らすことができなくなっていた。
愛おしい。彼女を抱きしめることを罪とするなら、その愚行に見合ういかなる代価も惜しみはしない……。
僕は布団を振り払い、着替えを持って脱衣所へ飛び込んだ。シャワーを浴びながら、寝起きの脳みそが生み出したあらぬ妄想が頭の内側にこびり付くのを、僕はどうにかして排除しようと試みた。
戻ると部屋が明るくなっていた。目を覚ました二ノ瀬がカーテンを開けたところだった。
「おはよう。眠れた?」
パジャマ姿の二ノ瀬が窓辺から笑いかけた。肩の上で寝ぐせが跳ねている。
「眠れたよ。三十六回くらい寝返り打ったし」
僕は努めて冷静に振る舞った。
「そっか。コーヒー淹れるね」
朝食は熱々のコーヒーと、バターの載った二枚のトーストだった。
「君はスッピンでもいつもと変わらないな」
僕は見たままの感想を正直に述べた。二ノ瀬はトーストにかじり付きながら無表情で振り向いた。
「じゃあ化粧しなくていい? 面倒くさいし」
「それはダメ。君を一日中ここに幽閉することはできない。君は一日に一度、必ず外出しなければならないし、調査とかこつけて非人道的な行為に及ぶことは許されない。それがここで暮らす上でのルールだよ」
「はーい」
二ノ瀬はどこか楽しそうだった。
「でも、誰かに見つかったりしないかしら?」
僕は小首を傾いだ。
「どうだろう。ここらはひと気が無いし……問題は九城姫々だな」
「彼女の留守を狙うっていうのはどう? 隣人だし、彼女が部屋を出れば物音で分かるわ」
「悪くないと思うよ。けど、事態はもっと複雑かもしれない」
僕は一気に声のトーンを落とした。
「これは僕の見解だけど、九城には裏で手ぐすね引く仲間がいるはずだ」
「どういうこと?」
二ノ瀬は顔をしかめた。
「挨拶回りで九城の部屋を訪ねた時、部屋の電話が鳴ったんだ。彼女はその時こう言った。『ごめんなさい。ちょっと待っててもらえます?』」
二ノ瀬は考えを巡らせていたものの、僕が何を言いたいのか結局分からないようだった。
「その電話が、僕に『ちょっと待たせる』だけで済む内容だと、彼女は知ってたのさ」
「話が飛躍し過ぎよ。折り返しかけてくるように、電話相手に伝えたかもしれないじゃない」
「たかがお隣の物書きフリーターなんかのために、仕事上の重要な内容かもしれない電話を待たせたり、折り返しかけさせたりしようとする?」
「確かに……彼女の目的は何だったの?」
「電話から戻ってくる時、僕に貸すための本を持って来た」
僕はテーブルの下から『九人の預言者』を取り出した。
「九城は、この本を自然な流れで貸すために電話を利用したんじゃないかな? 普通の人なら、素性の知れない初対面の相手に物を貸したがらない」
「……その本は、もう一度鷲尾に会うための口実」
二ノ瀬が呟いた。ようやく頭が冴えてきたらしい。
「これは余談だけど。挨拶が終わって間もなく、九城は一度部屋を留守にしてる。数時間後、十分くらい間を置いて二人が隣室に入った。足音で分かったんだ。会話はくぐもってよく聞こえなかったけど、声からして一人は九城、もう一人は男のはずだ」
「でも、陰で動いてる仲間をわざわざ部屋へ呼ぶかしら? あなたと鉢合わせしたかもしれないのよ」
「その通り。あのタイミングで仲間を呼びつける意味は全くない。だからもし、部屋に入った一人目が九城じゃなかった場合、その人物は合い鍵を持つ彼女と親しい男性……つまり彼氏である可能性が高い」
「もし一人目が九城だったら?」
「それでもやっぱり、二人目は仲間じゃない。裏で繋がっているなら、バラバラではなく一緒に部屋へ入れたはずだし、その方がリスクは少ないからね。重要なのは、その彼氏と思しき男の存在が、九城の怪しい計画に関与していないってことだ」
「それじゃあ九城は、その短い時間にどこで何をしてたのかしら」
「分からない。けど、僕らがこれからすべきことは把握できてるよ」
言って、僕は『九人の預言者』を二ノ瀬に手渡した。
「今日中に全部読んでほしい。今回の調査に関する手掛かりがあるかもしれない」
「これって聖書のありがたいお言葉を、九人の著者がやたらポジティブに解釈して綴ったものよね?」
二ノ瀬は厚みのある本をパラパラとめくった。
「九城姫々がその異様な考え方や行動力の根本を、この本に見出してる可能性も思慮すべきだと思うわ」
「君がそう考えるなら、その視点から読んでくれて構わない。僕も同じ方面から切り込んでいくつもりだよ」
「何しでかすつもり?」
深刻な声色とは裏腹に、二ノ瀬の口元には微かな笑みが含まれていた。どうやら二ノ瀬は、珍奇な方向へ進みつつあるこの調査に、彼女なりの楽しみ方を発見したらしかった。
「明日の朝、教会へ行こうかと考えてる」
僕はもったいぶって答えた。
「そういえば坂道の途中にあったわね。教会に何かあるの?」
「九城は神様の存在を信じてるのかもしれない」
この意見で二ノ瀬がどのような反応を示すのか、僕には大体の見当がついていた。そして、二ノ瀬の顔に困惑の色が浮かび上がるのは、まさに予想通りだった。
「彼女の身辺を探った時にヒントはあったんだ。クリスマスリース、玄関のマリア像、その本。明日は日曜日だし、ミサがあるなら出席して損はないと思う。それになんだか、九城に『教会へ来い』って呼ばれてる気がするんだよね」
「何かの罠かもよ」
「だったら尚更さ。仕組まれた罠を見破ることができれば、彼女の思惑を突き止めたも同然だ。僕は、九城が間違いなく今回の案件に関っていると踏んでる。部屋へ侵入したのは何かうしろめたいことがあるからさ」
その時、隣室からドアの閉まる音がはっきり聞こえた。僕は忍び足でドアまで駆け寄り、九城が目の前を歩き去る姿を覗き窓から確認した。
「仕事だろう。尾けたいけど、僕じゃ無理だ。彼女は警戒してるだろうし、何よりこっちは顔が割れてる」
僕はコタツに潜り込みながら言った。
「私がやろっか?」
「いや……尾けるなら山田だ。素性の知られてない君なら最前線でもっと柔軟に動けるだろうし、尾行のセンスなら山田はピカイチだ。そういう点では、僕は山田を買ってるんだ」
「あっ……そういえば、こっちへ出発する時に彼女から預かってたんだ」
二ノ瀬は持参したトートバッグからノートパソコンやら書類やらを次々と引っ張り出す途中で、ピンクのかわいらしいデジタルカメラを僕に押しつけた。
「僕のじゃないぞ」
僕はどこか見覚えのあるカメラを突っ返しながら抗議した。
「山田さんからあなたへ伝言。『先輩のカメラは預かった。返してほしければあたしのカメラを使うがいい』」
「意味が分からん」
「やきもちじゃないかしら。パートナーに私が選ばれたから、カメラだけでも自分の一部を託そうとしたのよ」
「二ノ瀬が強引についてきたんじゃないか」
「思ったんだけど、トイレやシャワーはどうするの? 短時間に何度も水の流れる音が聞こえたら不自然じゃない?」
二ノ瀬はごまかすように話題をすり替えた。
「二人暮らしなのはバレてるんだから、無闇に誤魔化す必要はないんじゃないか? 僕は飽くまで物書きフリーターなんだし、その同棲者を徹底的に隠そうとするのは逆に不自然だ。会話の内容にだけ気を配れば問題ないよ」
僕はもう一度立ち上がり、押入れから上着を引っ張り出した。
「三階の通路をもう一度探ってみる。それから、八重崎亜子がよく通っていたバーとやらで情報収集してくる。……実のところ、九城に翻弄されすぎて調査のターゲットが八重崎夫人だってことを忘れかけてたよ」
改めて見るエリンジューム荘の内廊下はやはり狭く、天井の低さも相まってかなり窮屈な造りだった。ドアを背に右手が九城の部屋、左手には一階と三階をつなぐ階段の踊り場があり、冷たい外気が容赦なく流れ込んでいる。
アパートへ向かって風が吹くと、廊下に四つ並ぶすすけた窓が一斉に騒々しくなった。窓には雪に埋もれたアパートの前庭が映っている。ふもとまで続く電線が左右に揺れ、雲の動きが速い。どうやら今日は風が強いらしい。侵入を許された隙間風が壊れた内壁の板張りから音を立てて漏れ出すのを、容赦なく肌に感じた。
僕はそっと三階へ踏み込んだ。歪んだ羽目板、すすけた窓、黒ずんだ電球型蛍光灯、備え付けの懐中電灯と消火器……二階より少し天井が高い以外は、床板の軋み方まで瓜二つだ。三階の居住者は三〇三号室の岡野武人だけだが、まだこの男とは面識がない。挨拶するつもりで呼び鈴を鳴らしてみたが、やはり誰も出なかった。
部屋の中でお香を焚いているらしく、廊下にまで香りが届いていた。よく見ると、足元や窓枠にはハエやハチの死骸が大量に転がっている。八重崎則夫の言っていた虫とはこのことだろう。木目に沿ってできた板の割れ目から、蚕の群れががうねうねと顔を覗かせている。
山田のカメラで辺りを撮影し、僕は一旦アパートを後にした。
部屋へ戻ったのは昼過ぎのことだった。結局、八重崎亜子が行きつけにしているバーではろくな情報が得られず、寒い中を手ぶらで帰ってきた。二ノ瀬はコタツで読書していた。
「お土産は?」
「ねえよ」
僕はコタツに滑り込みながら唸った。
「バーには何もなかった。別の偽名でそれとなく触れ回ったけど手応えなし。マスターは夫人のことを知ってたけど、耳寄りな情報はなかったよ。こっちで何か変わったことは?」
「残念だけど、鷲尾が期待してたようなことはなかったわね」
「そりゃ残念」
僕は自分が何を期待していたのか分からなかった。
「すぐ外へ出る? 君の時間だ。エステに行ってもいいし、虫歯を治療してもいいんだぞ」
「事務所へ寄って報告書を提出した後で、喫茶店にでも行こうかな。でもその前に……」
二ノ瀬は本を閉じ、コタツの向こう側からぐいと身を乗り出した。
「九城姫々の写真はないの? どこかで出くわした時のために備えなきゃ」
「ないよ。まさか隣人の写真が必要になるなんて思わなかったから。でも君のことは知られてないはずだし、今はそこまで警戒する必要ないんじゃないか? 撮れるチャンスは明日のミサだろうな。九城が顔を出せばいいけど」
「了解」
二ノ瀬はコタツから抜け出すと、コートを着込んで荷物をまとめ始めた。
「本を読み終わったら帰れると思う。遅くなりそうだったら連絡するから。それと、鍋にシチュー、冷蔵庫にサラダが入ってるし、ご飯も炊いといたから、お腹空いたら食べてね」
「え……ありがとう」
呆然としている内に二ノ瀬は行ってしまった。説明の通り、鍋にはクリームシチューが、冷蔵庫にはボウルいっぱいのサラダが、炊飯器には焚き立ての白飯が、それぞれのポジションで出番を待ち構えていた。
二ノ瀬が持ってきたノートパソコンは事務所で管理されているものの一つで、仕事上の持ち出しは自由、インターネットも使えるようセッティング済みだ。この部屋では、時間が空けばネットサーフィンによる情報収集が常となる。
教会で行われるミサのことやアパート周辺の地理を調べ終わった後は、エリンジュームの花に関する知識をかき集めていた。春先から夏にかけて開花する多年草で、卵形の丸い花と、茎を軸として放射状に伸びるギザギザの葉が特徴的だ。アザミに似ているのでマツカサアザミとも呼ばれる。種類は数百にも及ぶ。花言葉は『秘密の恋』だ。
二十一時過ぎに二ノ瀬が帰ってきた。音もなく入室してきた彼女が背後に立つまで、僕はその存在に全く気付かなかった。
「九城が帰って来たのはいつ?」
二ノ瀬はコートを放りながら出し抜けに問うた。僕はテレビをつけ、音量を上げた。
「一時間くらい前かな。それからは一歩も外に出てないよ。何で?」
「なんとなく……何やってるの?」
「情報収集。明日、事務所近くの書店で『九人の預言者』の著者がサイン会やるらしいよ」
「私のを貰ってきて……シャワー浴びるね」
僕は二ノ瀬の後ろ姿に漠然とした哀愁を見て取った。淡白な二ノ瀬は、調査での非力さや失敗をくよくよと引きずるような性分ではない。彼女から感じ取ったこの違和感の正体が何なのか、僕には分からなかったし、かといって問い詰めるつもりもなかった。互いに干渉しない……それが、この部屋で同棲を始める前から僕らを繋ぐ暗黙のルールだったからだ。
「あれ、ご飯食べなかったんだ」
二ノ瀬は浴室から出るなり炊飯器を覗き込んで言った。濡れた髪にタオルをあてがい、紺色のシックなパジャマを着ている。
「待ってたんだ。一緒に食べようと思って」
この言葉で二ノ瀬がどのような反応を示すのか、いささか興味があった。キッチンの暗がりに浮かぶ二ノ瀬の横顔は、どこか笑っているように見えた。
「笹岡美織が殺害された件に、神居清太が関ってる可能性はないのかしら」
食事が始まるや、二ノ瀬は早々と口火を切った。
「どうだろう……神居はポプラの一件で引っ越したんだ。大学も辞めたらしい。ちょっと前にあいつから事務所に手紙が届いて、そこに色々書いてあったよ。とにかくはっきりしてるのは、切手の消印が笹岡美織の死亡推定日だったってこと」
言いながら、僕は箸を止めた。
「でも、間接的に関ってる可能性はゼロじゃない。このアパートにも何度か出入りしてたみたいだし……そもそも、彼女が殺されなければならない理由が分からない」
「目的はどうあれ、犯人には計画性があったんじゃないかしら。遺体をバラバラに刻んで、腹部から胸部にかけて持ち去る余裕があったんだもの。確か、神居も異常犯罪の気があったわね」
「笹岡は妊娠していたんだし、犯人の目的はお腹の赤ちゃんにあったのかもな。腹部だけを持ち去りたい場合、必然的に遺体はバラバラになるだろ? そういえば新聞で読んだけど、笹岡の首には縄の痕があって、死因は絞首による窒息死となってる。腹部は持ち去れるのに、何で犯行の手掛かりは残していくんだ?」
「ストップ」
二ノ瀬は不意に突き出した手をこちらに向けたまま、ゆっくりと僕の背後に回り込んだ。僕は既に覚悟を決めていた。
「口の中に物があるなら飲み込んで」
「ないよ。どうして僕がこんな目に……くらいの悲愴感はあるけど」
二ノ瀬の平手打ちが背中を猛打した。さながら小型爆弾でも炸裂させたようで、痛みは背骨を伝って足の裏にまで達した。
「どうして僕がこんな目に……」
僕はテーブルに突っ伏したまま嘆いた。
「鷲尾ってつかれやすいのね。笹岡美織の話題はもうやめましょ」
二ノ瀬は何事もなかったように食事を再開させた。
「大人はいつだって疲れてる。どうせなら肩を叩いてほしかったな」
「この案件が終わったらね」
僕は少し元気になった。
「箸の持ち方おかしくないか?」
僕は二ノ瀬の手元を見咎めると、これ見よがしに正しい持ち方を披露した。
「直したんだけど、たまに癖でやっちゃうのよね。興奮した後は特に」
「ドSかよ」
「癖って嫌ね……自分の弱みをさらけ出してるみたいで」
二ノ瀬の言葉には切実さが滲み出ていた。彼女に箸の持ち方を指摘するのはタブーだったらしい。
「箸の持ち方が正しくたって、僕は二ノ瀬にはかなわない」
僕は努めて明るく弁解した。
「僕は君ほど器用じゃないし、度胸がないから勝負強さも持ってない。料理だって作れないし……誰かの手料理なんて久しぶりに食べたよ」
二ノ瀬の表情に期待していたような反応はなく、やがて気まずい沈黙が訪れた。その原因が何なのか、二ノ瀬が口を開くまで分からなかった。
「結婚してたんだね。知らなかった」
返す言葉がどこからも出てこなかった。二ノ瀬との間でこの話題が挙がることは、絶対にありえないはずだった。
「鷲尾のマンションに荷物を運ぶ時、見ちゃったんだ……子供用のおもちゃとか、色々」
「ああ……うん、そっか」
僕は動揺していた。言葉が口から勝手に漏れてくるようだった。
「もしかして、三年前に警察を辞めたことと関係あ……ごめん」
僕は咄嗟に顔を背けた。二ノ瀬のお節介振りに腹が立ち、気付くと彼女を睨みつけていた。既に、動揺は怒りに代わっている。両者の間で培われてきた〝暗黙のルール〟が、遂に破られたのだ。
「いたよ、家族。妻と三歳の娘が……」
僕は茶碗の中身を全部かっこみ、シチューで一気に流し込んだ。それでも怒りは納まらなかった。
「二人とも死んだ。僕が殺した」
腹いせの言葉でない、封印してきた事実だった。
結局、僕らはそれ以上口を利かないまま就寝した。なかなか寝付けなかった。まだ腹が立っている。矛先は自分への愚かさだった。
良く晴れた日曜の朝だった。
僕は目が覚めるとすぐに布団から這い出て、カーテンの隙間から青空の断片を窺った。布団の中で意味もなくダラダラ過ごすのは、昨日の失態を思い出すための引き金にしかならない。
二ノ瀬はまだ眠っている。僕はなるべく今日のことだけを考えるようにしながら、箪笥から着替えをかき集め、そっと浴室へ向かった。
シャワーを浴びて脱衣所へ出ると、ドアの向こうから物音が聞こえてきた。どうやら二ノ瀬が起きたらしい。着替えながら僕は一考した。昨夜の険悪なムードを引きずったまま調査を続けるわけにはいかない。
着替えが済むと、僕はタオルを羽織って飛び出した。
「どっどど、どどうど、どどうど、どどう! どっどど、どどうど、どどうど、どどう!」
タオルをマントに見立て、声を上げながら部屋中を駆け回るのは爽快だった。僕は今、風をとらえている。耳の中で風を切る音が聞こえる。布団を蹴散らし、コタツを踏み越え、キッチンで棒立ちする二ノ瀬の周りを三周した。コタツの中へスライディングし、リモコンを手にとってテレビを点けると、ようやく風は納まった。
二ノ瀬は無表情のまま僕を見ていた。
「何故こうしたかは分かってる。でも何故これにしたかは分からない」
息を切らしながら、僕は聞かれる前に答えた。
「私が知りたいのはそんなことじゃない」
二ノ瀬は微かな声で、しかしはっきりとそう言った。
「お味噌汁の具、何がいい?」
「なめことワカメ」
こんな調子でいいじゃないか……汗を拭いながら、僕は確かに満足した。
朝食後、僕はすぐに教会へ向かった。とても静かで、雪を踏みしめる音の他は何も聞こえてこない。暖かく穏やかな道のりは、まるで平和を絵に描いたような光景だ。皮肉な話じゃないか……凶悪な殺人事件がもたらした悲劇と戦慄が今尚、この町並みの陰に巣食っているというのに。
道沿いに建つ教会は低いレンガ塀に囲まれ、石造りの古めかしい外装が厳かな雰囲気を醸し出している。丘に数多くある建築物の中でも群を抜いて異彩を放つ様は、エリンジューム荘とほとんど互角の勝負だった。
敷地内は雪で覆われているものの、足元にはまだ黒曜石の石畳が顔を覗かせており、それが表階段までまばらに続いていた。扉は既に開いている。階段を上り切ると中を窺うことができた。どうやら玄関のようで、古色蒼然とした机や椅子、漆喰壁に飾られた聖母の絵画、花瓶に生けられた白ユリなどが置かれている。
玄関の扉から更に中へ入ると、目の前はもう聖堂だった。ビロード張りの長椅子が縦に並んだオーソドックスな造りで、中央には祭壇まで続く赤いカーペットが敷かれている。
祭壇の前に老人がいる。黒い法衣に身を包み、車椅子に座っている。恐らく彼が教会の神父だろう。
「さあ」
後ろ手でドアを閉めると、老人は笑顔で僕に手招きした。僕はステンドグラスから射る暖かい日差しの中を、祭壇に向かって歩いていった。
「おはようございます。初めてなんですが……」
「構いませんよ」
神父は笑顔でうなずきかけた。僕は右列の前から二番目の席に腰掛け、周囲を観察した。左列の一番前の席に九城が座っている以外、他に参列者はいないようだった。座席の背もたれに木枠のポケットがあり、聖書や聖歌集が立て掛けてある。
「素晴らしい日和です。神は一人の若者をここへ導いて下さった。今日は、最後にもう一つお話ししましょう」
神父が朗らかに言うと、九城の背筋がわずかに伸びた。
「『人生は光に満ちている』『信じる者は愛される』『慈悲深い神の恩恵に、私たちは常日頃から感謝しなければなりません』。……これらはみな、勘違いした信仰者の無意味な決まり文句になりつつある」
神父の顔から笑顔が消えた。
「信仰者は聖書を読み耽り、神の御意思を知ったつもりでいる。己と向き合うこともせず、現実逃避に精を出し、人として生きることを忘れかけている。何にも感謝せず、上辺だけの祈りを捧げている。神にすがってさえいれば、罪は赦され、天国へ招かれると誤解している」
「私は違います」
九城がきっぱりと物申した。
「私は神様の言葉を知っています。私には、私だけに与えられた使命がある。善悪にこだわらないし、見返りも求めません。私は、誰かのために尽くすこの身を、犠牲に晒しているとは思わない」
「そうでしょうとも」
神父は寛大な微笑みでそれを受け入れた。
「あなたは限りなく神の御許に近い。私が何を言おうと、あなたの信仰心は決して揺るがない。しかし、神はおごりたかぶる者を求めたりはしません。九城さん。はっきり言って、あなたには謙遜が足りない。有り余る自信で警戒を怠り、過ちを犯していることにも気付いていない」
奥歯を噛み締めるような表情を浮かべたまま、九城は二の句が継げないようだった。
「無論、自信はあるに越したことはない。しかし、己を買いかぶって慎みをなくしたり、利己的な言動で浅はかに触れ回ったりするのは感心できません。あなたは本質を見失い、盲目になっている。そういう意味では、あなたも勘違いした信仰者の一人に過ぎないのです」
「はい……神父様」
九城が消え入るような声を出すと、神父は大きくうなずき、不自由な体を祭壇へと向けた。神父が祭壇の奥にあるイエス・キリスト像を仰ぎ、九城が顔を俯かせるのはほぼ同時だった。
「主よ。私たちが節制と謙遜を失わないよう、慈悲深くお見守り下さい。そして、豊かな慎みの中で鍛錬し、警戒する術をお与え下さいますように。アーメン」
「初めまして。恵比寿賢治といいます」
ミサが終わると、僕は頃合いを見計らって神父に話しかけた。
「鈴木です。この教会の神父を務めさせてもらっています。ミサは初めてだそうですね。今日はよくいらっしゃいました」
僕らは握手した。節くれ立った鈴木の手は大きく、年不相応に力強かった。
「実は宗教とかよく分かんなくて……今日は資料集めで来たんです」
「資料……ですか?」
「恵比寿さんは物書きでいらっしゃるんです」
九城が即座に口を挟んだ。顔にはまだ不服の名残がちらついている。
「そうですか。何もない所ですが、教会は毎日開いています。時間がある時はぜひ立ち寄って、お祈りするのもよろしいかと」
「生きるのが辛くなったら顔を出すようにします。……ところで、この教会はいつ頃建てられたんですか?」
僕は手頃な質問から徐々に切り込んでいこうと思い立った。九城がそばにいるためだ。
「この教会が造られたのは七十五年も前で、私より十五歳も年寄りです。しかし、教会が建つ前には古い墓地があったと言われています。その地下には禁教時代に造られた礼拝所があり、この教会はその地下へと通じる入口の真上に建てられました」
「この教会に地下室があるんですか?」
「ええ。祭壇の手前に入口があります。俗に〝隠れキリシタン〟と呼ばれる人々によって造られた、秘密の礼拝所です。この教会を建てたのは彼らの末裔だと伝えられています」
「余談ですが、私がここへ赴任したのは三十年も前になります……当時、この丘は今より住民も多かった。ミサは毎日行われ、ここで式を挙げる新郎新婦が大勢いました」
鈴木は遠い眼を据わらせ、色あせてくたびれた赤いカーペットにかつての栄華を投影していた。その瞳には、ウエディングドレスをまとった花嫁が今にも扉の向こうから姿を現し、このバージンロードを自分の元へ向かって歩いてくると確信しているような、輝かしい希望がなみなみと湛えられている。
「しかし今、ミサは土日だけになっています。参列者が少なく、私もこの体ですから、あまり無理はできないのです」
僕を見る鈴木の目は、もう過去に囚われた男のそれではなかった。
「買い物などはどうされてるんです? 車椅子では大変でしょう」
僕が尋ねた。
「出かける時はタクシーを呼んでいます。決まった曜日にだけ外出し、必要なものを買ったり、用事を済ませるようにしているのです」
「なるほど。鈴木さんはお一人でここに?」
「過去には手伝ってくれる方がいましたが……今は一人です」
「神父様は一人じゃありません。私がついてます」
九城が熱っぽく踊り出ると、神父はただ笑顔でうなずいた。
「お二人はずいぶんと親密なんですね」
更に踏み込んだ。この二人の関係から新たな糸口を見つけ出せるかもしれない。
「九城さんはとても熱心な信仰者の一人です。ならば、私は神父として彼女を導き、その期待に応えたい。ここを維持できるのも、彼女からの資金援助があるお陰です」
「その『導き』や『神の御意思』というのが、九城さんの『私だけに与えられた使命』と何か関係があったりするんですか?」
この質問はかなりきわどかった。九城は露骨に視線を逸らし、神父は柔和な面持ちに戸惑いの影をちらつかせた。
「それをお教えすることはできません」
鈴木が答えた。
「この秘密を守ることこそ、『神の御意思』に沿った私たちの掟だからです。恵比寿さんにも、心の内に秘める思いや過去があるはずです。違いますか?」
「え……まあ」
曖昧な返事しかできなかった。鈴木に全てを見透かされているような気がして、いかなる答えを選択しても分が悪くなるように思えた。
「もし、過去に罪を背負い、今も呵責に苦しんでいるのなら、いつでもいい、私に話してごらんなさい」
「どうでしょう……僕には、僕自身の意思に沿った掟がありますから」
『神』という不明瞭なものを崇拝するやり方が僕には気に入らなかった。九城と鈴木の関係もかなり胡散臭い。神という存在を後ろ盾とし、九城を良いように丸め込んでけしかけたのは鈴木ではないだろうか?
「僕はこれで失礼します。九城さんはどうします?」
「私はもう少しだけ……神父様とお話があるので」
「じゃあ外で待ってます。僕もあなたにお話があります」
僕は外へ出ると、扉の方にカメラを向けて待機した。教会を撮影している風に装って、姿を見せた九城をカメラに収めようという作戦だ。詰まるところ、この思惑はうまくいった。
「お話って何ですか?」
あらゆるアングルからシャッターを切りまくる僕に向かって、九城はどこか冷ややかに声を掛けた。僕はカメラを下ろし、その目で直に九城のしかめっ面を窺った。
「ミサってすごく短いんですね。話を聞くだけでしたし」
「恵比寿さんが遅刻したからですよ。しかも『どっどど、どどう』って……さっき部屋で暴れてましたよね?」
「あれは……儀式です。お腹空いたら誤魔化すために走り回るんです」
「逆効果なんじゃ……」
「そんなことより、今日の十四時、隣町にある書店で『九人の預言者』の著者がサイン会をやるんです。知ってました?」
「サイン会の話なら知ってますよ。今日でしたっけ?」
「ええ。集まるのは九人中、三人みたいですけど。近くに大きな商店街があるみたいなんで、終わったら寄ってみるつもりです」
「……え? それが話したかったこと?」
九城が怪訝そうに尋ねた。僕らは一緒に帰路を辿った。
「本当は九城さんを誘おうかと思ったけど、話しながら気が変わりました。どこか付き合ってる男性の匂いがしたので」
「よく分かりましたね。ちなみにどんな匂いですか?」
「森っぽい匂いです」
部屋へ戻ると、二ノ瀬が静まり返った部屋で独り言を喋っていた。壁の掛け時計を見上げ、真剣な顔つきでブツブツ呟いている。僕はテレビを点け、二ノ瀬の傍らに座った。
「どれだけ暇を持て余せば時計と会話できるスキルが身に付くんだ?」
聞いたものの、さほど関心はなかった。二ノ瀬の引き起こす珍妙な仕草の数々には慣れっこになっていたし、今さら深く首を突っ込むつもりもなかった。
「私のことより、あなたはどうだったの? うまくいった?」
二ノ瀬はキッチンへ向かい、あらかじめ温めておいたらしいお湯でコーヒーを淹れてくれた。
「終始うまくいったよ。それに、陰で糸を引く九城の仲間を突き止められるかもしれない」
二ノ瀬は両手にコーヒーを持って急いで戻って来た。
「今度は何をしでかすつもり?」
二ノ瀬の目に、あの好奇な輝きが宿るのを僕は見た。
「サイン会を利用して、九城に僕を尾行させるんだ。正確には、九城の仲間に僕を尾けさせるよう仕向ける」
「意味が分からないんだけど……」
「昨夜、事務所近くの書店でサイン会が開かれるって話したろ? さっき、僕がそこへ行くことを九城に話したんだ。その後で商店街へ寄ることも話した」
「まんまとあなたの思う壷ってわけ?」
二ノ瀬は幻滅そうな視線を投げかけたが、その瞳にはまだ輝きが残っていた。
「九城は絶対に僕を怪しんでる。部屋へ踏み込んでくるくらいだ。僕が休日に何をするのか、知って損はないだろう。だから、僕が今日の予定を白々しく喋りまくったことも不審に思うはずだ。九城には並はずれた行動力もある。目には目を……九城が僕を教会へおびき寄せたと同じ、僕も彼女を街まで引っ張り出してやる」
「ちょい待って。どうしてそれが九城の仲間を突き止めることに繋がるの?」
「僕の誘いを罠だと知って、九城が口車に乗ってくるのはおかしいだろ? でも、もし九城がこっちの思惑通りに行動するとしたら、彼女には絶対にバレない策があるはずなんだ。それがつまり……」
「仲間を使ってあなたを尾けさせること?」
二ノ瀬の呑み込みの早さは折り紙付きだ。
「僕らの知らない人物を使えばリスクは少なくて済む。そして、こっちは事務所で手の空いてる調査員を使い、その人物を突き止める」
「二重尾行ね」
「こっちはプロだ。僕の移動ルートをその調査員に伝えておけば、僕を尾けている九城の仲間を割り出すのは簡単だ。そして恐らく、九城本人は仲間と連絡を取り合いながら、更にその調査員を追うだろう」
「何で?」
「それが僕の仲間……つまり、この部屋に隠れ住む同棲者である可能性が高いと推測できるからだ。九城は僕の作戦に掛かったフリをし、仲間を囮にすることでこの部屋の同棲者を特定しようとするはず。もちろん、君に代わる調査員は何人もいるんだから、九城自身が尾行に加わる意味は全くない。彼女は僕らの正体が探偵だと知らないはずだからね」
「でもそれだと、三重尾行になるんじゃ?」
「その通り。調査員を尾けるのが九城とは限らない。大トリは山田だ。標的が九城ならトイレにだって張り込めるし、山田の尾行センスは所長のお墨付きだ。裏の裏をかいたつもりの九城は、まさかここで三人目が出てくるとは思わないだろう。山田ならきっとうまくやれる。……あいつ日曜日は英語のレッスンでいつもオフのはずだから、たぶんいけるだろ。あと一人は誰が空いてるかな……」
「もしあなたを尾けるのが九城の仲間じゃなかったら? 誰も尾けてこなかったらどうするの?」
二ノ瀬が案じ顔で問うた。
「僕の思い過ごし……その時は謝るよ。けど、もし九城がアクションを起こしたら、それはそれで楽しくなると思わないか?」
「私はもう十分楽しいよ」
二ノ瀬の笑顔を見ていると、首筋が熱くなってくるのを感じた。きっとコーヒーのせいに違いない。
「あっ、そうそう」
僕は二ノ瀬の笑顔から視線を逸らし、不自然に上ずった高声を出した。
「教会の神父がどうも胡散臭いから、近い内に周辺の住民に聞き込みしといてくれる?」
「うん。聞いとく」
二ノ瀬はまだニコニコしていた。
「それと、九城の写真撮ったから、目に焼き付けといて。僕は外に出て事務所へ電話してくる」
二ノ瀬の手にカメラを押し付け、僕は肌寒い戸外へと逃げ出した。