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九城の場合その二 水野真久




 良くも悪くも、エリンジューム荘の実態をくまなく熟知するこの私が、どこか胡散臭い物書きフリーターとの戦いに優勢をおさめられないはずがなかった。


 私が二〇二号室の敷居をまたいだのは四年前。大学へ通うために親元を離れ、単身この地へやって来た。赤子の頃から神の恩恵を授かってきた私にとって、介護福祉士となる自分の姿を思い描くのは必然的なことだった。人々を救い、愛を示すことは、神の使いとして立派に貢献することなのだと固く信じていたからだ。


 恵比寿賢治から煎餅とCDを受け取った数時間後、私は八重崎亜子と密会するために部屋を出た。それも、隣人に外出することを教えるように、わざと大きな物音を立てながら。

 老朽した木造アパートが歩調に合わせてその身を軋ませるのを、思いのまま制御するのは難しい。住民が少ない故に、音の出所が特定されやすい状況下、コソコソとした半端な試みはかえって怪しまれることになる。アパート内では堂々としている方が無難だと私は考えた。


 一〇二号室へ踏み入るなり唖然とした。昨日までカラッポだったその部屋には、人間が人間らしく生活できるだけの確かな品々が運びこまれていた。小型液晶テレビ、丸テーブル、カーテン、布団一式、小型電気ストーブ。お茶と煎餅もある。

 部屋の真ん中で、八重崎がお茶をすすりながらテレビを観ている。


「どうしたのこれ?」


「昨夜の内に運び入れたの。電気とガスも通したわよ」


 八重崎は素っ気なく説明すると、チャンネルを変えながら煎餅にかじりついた。


「恵比寿に気付かれなかったでしょうね」


 私は念を押しつつ、電気ストーブの恩恵にはしっかりあやかった。


「大丈夫。うまくやったわ。姫々だって気付かなかったんでしょ?」


 八重崎は小さく笑いかけた。昨夜は確かに静かな夜だった。


「テーブルとかテレビとか、どっから仕入れたの?」


「押し入れから引っ張り出したのよ。こういうの捨てられない性分だから」


「ふーん……ちょっと意外」


 私は素直に感心した。


「そっちはどうだったのよ。引っ越し作戦はうまくいったの?」


「大成功よ」


 自信があった。リスクは大きかったものの、この作戦の見返りはかなり有力なものとなった。


「何か分かったの?」


「恵比寿には家族がいる。もしくは過去にいた」


「えっ……!」


「静かに!」


 八重崎が甲高い声でしこたま驚こうとするのを、私は寸でのところで食い止めた。


「そんなのやだ……冗談でしょ?」


「亜子さんが彼にお熱なのは分かるけど、これは紛れもない事実だよ」


「どこで気付いたの?」


「前の住所から荷物を運び出す時。あいつ、物書きフリーターのくせに結構良いマンションに住んでてさ、目を離した隙に部屋を見て回ったの。そしたら、子供用の小さいベッドとか、おもちゃの閉まってある物置を見つけたってわけ」


 八重崎は呆けた表情で目を瞬かせた。


「まだあるよ。荷物の中に女性の服がいっぱい入ってた。布団も食器も二人分。要するに、『一人暮らし』は嘘。あの部屋にはもう一人誰かいる。……ひどい顔ね」


 八重崎の端正な顔立ちが、みるみると仏頂面に変わっていた。


「でも……でも、もしかしたら趣味かもよ? 女装の趣味。布団や食器だって、来客用に多く持って来たのかも……」


 事実を受け入れながらも、八重崎はわずかな希望を見捨てはしなかった。


「人様の趣味に干渉するつもりはないよ。でも、食器はきっちり二人分ずつあった。それも全部。梱包する時に確認したから間違いない。来客用に揃えるなら、もっと大雑把になってもいいはずでしょ? マンションを見て回った時、キッチンにはまだたくさんの食器が余ってた。食器だけじゃない。家具の多くがマンションに残されたまま」


「どういう意味?」


「恵比寿は家具を処分するって言ってたけど……たぶん、あいつは近い内にマンションへ戻るつもりなんだと思う」


「つまり……どういう意味?」


「恵比寿はあの贅沢なマンションを離れてでも、二〇一号室に入居しなければならなかった。あるいは、入居するよう迫られていた。しかも短期間だけ……隠された同棲者と一緒に……何のために……何かを調べるために……事件について調べるために」


「本気で言ってるの?」


 私は肩をすくめた。


「まさか。でも同棲者を見つけたことで、私たちの視野が大きく広がったのは確かだけど」


 私は案じ顔の八重崎を尻目に、煎餅とお茶をのんびりたしなんだ。


「恵比寿が売れっ子の物書きならあのマンションにも納得できるし、ここへ来たのはやっぱりネタ集めかもしれない。同棲者は奥さんで、子供はどこかに預けてるとか。離婚の末に脱サラして、作家になろうとここへ越してきた……ってのもアリね」


「私に隠れて女を連れ込むなんて見損なったわ」


 恵比寿に対する八重崎の関心は、私ほど深刻なものではないようだ。


「本人の前で態度を急変させないでよ。色目を使うのもダメ。さっき私にメール送った時、勘付かれなかったでしょうね?」


「姫々の指示通り、ちゃんと彼の目の前で送ったわよ。電話のタイミングも合ってたでしょ。で、何であたしがこんなことしなきゃいけなかったわけ?」


「亜子さんに『恵比寿が部屋に来た』って内容のメールを送らせたのは、恵比寿と丸山さんを外で鉢合わせさせるためよ。あたしがメールを受信したら、丸山さんの部屋へ電話して外で雪かきするよう指示を出す。恵比寿が自室を出る正確な時刻が分からないのに、丸山さんに延々と雪かきさせるわけにはいかないでしょ。だから恵比寿には、最初にあなたの部屋へお邪魔してほしかったわけ。目の前で堂々とメールさせたのは、ケータイを操作する上でそれが最も自然に見えるやり方だからよ」


 淡々と説明するかたわら、八重崎は押し黙ってお茶をすするばかりだった。


「電話もうまくいったわ。恵比寿とまた接触できるよう仕向けたかったから、あいつに本を貸すことで口実をでっち上げたの。でも、ほとんど初対面の相手にいきなり物を貸すのは不自然でしょ? だから、ある程度会話を成り立たせた上で、電話から戻る〝ついで〟に本を貸すっていうシチュエーションにこだわりたかったのよ。そもそもこっちは恵比寿が物書きだと知ってたんだから、本を貸すまでの流れに筋を通しておくのは容易だったわ」


「落ち着きのない子ね。いつかボロが出るわよ」


「うん……分かってる」


 異論はなかった。ここ数日の出過ぎた行動に慎みがなかったことを、私自身がはっきりと自覚できていた。


「相手が二人と分かった以上、浅はかな画策は首をしめることになる。どちらかはあの部屋に常駐し、アパートを常に監視できる状態に保とうとするはず。二人目の存在を隠したがっているのが何よりの根拠よ」


「何だか物騒な話ね」


 八重崎の表情からは、いよいよ他人事では済まされないぞという焦りの色が窺えた。


「ねえ、これからどうするの?」


「恵比寿を教会へおびき寄せるわ。神父様が知恵を貸して下さるかもしれないし、何より、教会には神様の御加護がある。実を言うとね、恵比寿が教会に関心を持つよう手は打ってあるの。ドアにクリスマスリースを飾って、玄関にマリア像を置いといたわ。貸した本は聖書に関する『九人の預言者』。恵比寿はほぼ間違いなく、教会で行われる明日のミサに顔を覗かせるはずよ。そうなれば、彼がアパートの住民を調べようとしてることは明白になるわ。……そういえば、ネズミ捕りはちゃんと仕掛けられた?」


「ええ。入居の無い部屋まで念入りにね。あれって結局何だったの?」


「監視カメラを取り付けてほしいのよ」


「監視カメラを取り付けてほしいのよ?」


 八重崎がオウム返しした。驚きを通り越して呆れているようだった。


「恵比寿を監視するだけなら今のところ必要なかったんだけど、あの部屋に二人目がいるなら話は別。費用は私が出すから、明日までにしっかりカメラを取り付けて。アパートの構造上、階段を上るには必ず一〇一号室の前を通らなきゃいけないから、取り付け場所はドアの覗き窓ってところね。今ならコンパクトなモデルも簡単に手に入るはずよ。映像は録画して、二十四時間稼働でモニタリングすること。ネズミを駆除しなければならなかったのは、ケーブルをかじられるリスクを極力避けるためよ」




 十四時頃、部屋へ戻った私は玄関に見慣れた靴があるのに気付き、心が躍った。


「真久! 来てたんだ!」


 私は部屋でテレビを見ていた男に背後から抱きついた。


「おかえり。ついさっき来たんだよ」


 男は無垢な笑顔で甘く囁き、私の頭をいつものように優しく撫でた。男の名は水野真久みずのまく。私が愛して止まない、世界でたった一人の男性だ。一つ年上の彼は、今年、晴れて歯科医師の卵となった。


「どこ出かけてたの?」


「教会。どうしてもお祈りしたくなっちゃって」


 私は咄嗟に誤魔化した。


「そっか。お腹空いてる? プリン買ってきたから一緒に食べようよ」


 真久は言いながら、髪に通した指先でそっと私の耳に触れた。密着した体を引き剥がす一番手っ取り早い手段が、私の弱点を容赦なくくすぐることだと心得ているのだ。


「どこのプリン?」


 私は渋々離れると、脱いだ上着をベッドへ放った。


「駅前のだよ。姫々が大好きなバナナショコラ・ビター風味」


「やった! 待ってて、今コーヒー淹れるから」


 私は大急ぎでヤカンを火にかけた。


「これどうしたの?」


 振り向くと、テーブルの下に置いておいた恵比寿からの粗品を、真久が引っ張り出すところだった。その瞬間、私は隣に越してきた住人のことをすっかり思い出した。


「二〇一号室に越してきた恵比寿って人から貰ったの」


「ふーん。あの部屋を選ぶなんて変わってるね。どんな人?」


「男の人。私たちより少し年上で、物書きフリーターだって。一人暮らしって言ってたよ」


 当人に会話が聞かれていることを考慮し、慎重に言葉を選んだ。九城姫々が知らないはずの情報を口走れば命取りになる。


「男か。……俺も挨拶に行こうかな」


 真久の寝耳に水な発想のせいで、インスタントコーヒーを危うく足元にぶちまけるところだった。


「いいって、そんなことしなくても。だって、ほら……あの部屋に越してくるくらいだから、すごく怪しい奴かもしれないし」


 私は徐々に声量を落とし、最後はかすれるような小声で言い終えた。


「だったら尚更だよ」


 真久は勇敢にも、私の警告に全くひるまなかった。


「姫々には俺がついてるんだってことを、しっかり思い知らせてやらなきゃ」


 真久に対する私の理想を完璧に満たすのは、彼のたくましい雄姿に他なかった。遠く離れている時も、その勇猛で力強い真久の信念をしっかり感じ取っていたし、それは時として、私に思いも寄らぬ行動を起こさせる原動力そのものとなった。

 私が笹岡美織を手に掛けたことも、神の使いとして動いていることも、真久はまだ知らない。


「ありがと、真久。でも本当に大丈夫だから。……あなたまさか、私が誰なのか忘れたわけじゃないでしょうね?」


「悪かったよ、お姫様。どうぞ、プリンです」


 二人分のコーヒーを持って戻ると、真久はうやうやしくプリンを差し出した。


「わあ、いい香り。いただきまーす」


 口に含んだ途端、プリンは舌の上でとろけて消えてしまった。私たちはしばしの間、口の中で贅沢な時間を楽しんだ。こんなふうに顔を合わせてゆっくり過ごすのは久し振りだった。


「彼、まだいたんだ」


 真久は言いながら、蜘蛛が天井に巣をこしらえる姿を恨めしそうに見上げた。私はプリンの最後の一口を丸飲みしてしまった。


「まさか、蜘蛛に嫉妬してる?」


「してるよ」


 冗談で聞いたつもりなのに、真久の眼差しは真剣そのものだった。


「ここへ来るたびに、あの蜘蛛を疎ましく感じる。いつも姫々のそばにいてあげられるのが、どうして俺じゃないんだろうって。……なあ、姫々。ここを出よう」


「いきなりそんな……」


「俺たちの関係は学生の頃の延長線上にあるんじゃない。青臭い恋愛はもう終わりにしたいんだ。俺たちにはそのチャンスがある」


「私だって真久と一緒にいたい。ずっとずっと、そうありたいって願ってた。でも、私にはここでやらなきゃいけないことが……」


「分かってるよ」


 真久は寛大に微笑んでみせた。


「姫々がお給料のほとんどを教会に寄付してることも、そのせいで家賃の安いこのアパートに住み続けてることも。前にも言ったけど、そのことに関して俺はとやかく言わないし、むしろ応援してる。でも、ずっとこの生活を続けるわけにはいかないだろ?」


「うん……」


 私には分かっていた。神の言葉を従順に受け入れることで、一番大切な人との繋がりをないがしろにしてしまっている。うやむやな結論で真久一人を待たせたまま、あまりに長い時間が過ぎていったことを、私は激しく後悔していた。


「でも、妥協したくない」


 私は迷いの中に答えを見出した。雨雲の切れ間から陽の光が差し込むように、その答えは一筋の希望となって私を導いた。


「ごめんね、真久。あの教会で使命をまっとうすることは、私にとってのチャンスだった。これまでも、この先も。だからあともう少しだけ、私のわがままを聞いてほしい」


「……もう少し?」


「うん。もう少し」


「……分かった」




 翌日の夕刻、私はきつく巻いたマフラーに顔を埋めながら、街中の雑踏に紛れて歩を進めていた。この時には、朝から吹き荒れていた冷たい風に雪が混じるようになっていた。中層ビル群の合間から凍てつくような冷気が吹き抜けるたび、血の流れが淀み、体温が下がるのを感じた。


 向かっているのは行きつけの喫茶店。そこはバスの沿線上にあるものの、周囲は寂れて人通りもまばらだ。シャッターの下りた店が栄華の名残を秘めたまま軒を連ねる以外は、ラーメン屋と喫茶店が互いを励ますように向かい合うだけだった。

 帰路を逸れてまで一杯のカプチーノを楽しむことは、学生の頃から続く習慣の一つだった。仕事終わりの、特にこんな寒い日には、アットホームな店内の温もりがつい恋しくなってしまう。

馴染みの客には決まってお気に入りの席があるが、私もその例に漏れはしなかった。通りとは反対に面した窓際の、薄暗い一番奥の席がそれだった。ロッジを模した店内はコーヒー豆の香りが染みついているが、その席にはまだ木の匂いが残っていた。教会の匂いによく似ている。


 しかし、今日は先客がいた。艶やかな顔立ちと、その輪郭を縁取る長い黒髪。口元のほくろが印象的な女性。ここでたまに見かける常連客の一人だった。今は視線を落とし、本を読んでいる。『九人の預言者』だ。

 私はいさぎよく諦め、一つ手前の席に腰を下ろした。注文を聞きに来た店員が立ち去ってすぐ、女と目が合った。


「ここ、ですよね?」


「え?」


 女はわずかに腰を浮かせながら、たどたどしく話しかけてきた。私は驚いて聞き返した。


「この席、あなたがいつも座ってる」


 彼女もこちらの顔を覚えていたらしい。私に気を遣ってくれているようだ。


「いえ、そんな……気になさらないで下さい」


「でも……」


「それじゃあ、相席にしませんか?」


 彼女のことを知りたかった。せっかく話しかけてくれたのだから、これを物にしない手はない。女は当惑していたが、私は空いている方の席へ強引に移動した。私たちは向かい合って座った。


「おいくつですか?」


 私が小気味よく切り出した。


「今年で五十路を迎える母が、二十七で私を生みました」


 その言い回しに隠されたサインが何なのか、私は咄嗟に考えを巡らせた。そしてすぐに答えが出た。

 この女、ただ者ではない。


「あっ、同い年だ。超ラッキー」


 私は探りを入れるために次の手を打った。


「ラッキー? 何で?」


「相手が年上だと気を遣うし、年下だとナメられないように強がるのが面倒だから」


「私実は十六歳なんでカフェラテおごって下さい、先輩」


 つい声を出して笑ってしまった。

 やはり読み通りだ。彼女の魅力はその美貌だけではない。会話を弾ませるポテンシャルの高さと、頭の回転の速さを併せ持つ、稀に見る逸材だ。私がどういった人間かを即座に判断し、適確なジョークで華麗に畳みかけてくる。


「いいよ、おごってあげる」


 私は店員を呼びつけると、女の望み通りにしてあげた。


「冗談で言ったのに」


「分かってるって。その代わり、あんたのこと色々聞かせてよ」


「いいよ。この席気に入ってるの?」


「まあね……何であんたが先に聞くのよ」


「つい」


「実はね、前から話してみたいなって思ってたの。だから私のこと覚えててくれて嬉しかった。あんた凄く綺麗だしさ。大人っぽい雰囲気とか、エロチックなオーラとか、私にないものいっぱい持ってる」


「そんな物騒なオーラ出てた? 男たぶらかしてるみたいで下品じゃない」


「そうじゃないよ。清楚で高尚でかっこよくて、女が惚れる女って感じ。……彼氏ならいるわよ。写真見せてあげる」


 私は誤解される前に慌てて言い添え、財布から引っ張り出した真久とのツーショット写真を女に手渡した。女は手に取った写真を穴の開くほど見つめ始めた。


「あんたは彼氏いないの?」


「いない。どっか捨ててきた」


「えっ! もうすぐクリスマスなのに。戻って拾ってきなさいよ。他に好きな人は?」


「……いるよ」


 女は写真から目を逸らし、窓の外を舞う雪片を眺めたまま、おもむろに呟いた。彼女がより麗しく見えたのは、そこに恋の力があったからなのかもしれない。


「片想い?」


「さあ。その人、自分のこと何にも話してくれないから。仕事もよくできるし、一緒にいて楽しいんだけど……」


「仕事って何? OL?」


「まあね。『Office Lady』じゃなくて、『Outdoor Lady』の略だけど」


「アウトドアレディ? 何それ?」


「ここ笑うとこなんだけど……」


 女の個性豊かなジョークの真髄は、どうやら私の理解を越えたところに秘められているようだ。


「まあでも、男ってそんなもんだよ」


 私は仕切り直した。


「その人、他人の相談には親身だけど、自分の悩みは一切打ち明けないタイプね。そういう男って、自分の弱い部分を晒さないように強がってるんだよ。誰にも言えないような過去を隠してるとか。あるいは……あんたに原因があるのかも」


「何それ?」


「あんたのことが好きなのよ」


 女は嘲笑を浮かべて写真を突っ返してきた。

 熱いコーヒーが冗舌な女二人を更にヒートアップさせたのは確かだった。私たちは他愛のないお喋りに夢中になり、時間を忘れて会話に勤しんだ。そして、いつの間にか雪もやみ、話題が二杯目のカプチーノと一緒に底を尽いた頃、私はようやく帰路に戻ることを思い立った。


「あんたはまだ帰らないの?」


 私はコートを着込みながら聞いた。


「もう少しだけ。この本読んじゃいたいから」


 女は耳元で『九人の預言者』をユラユラさせた。


「人生観を見つめ直せる、とっても良い本。読んだことある?」


「うん。今貸してるけどね。…………それじゃあ、また会えたらここで」


 私は出入り口へ向かったが、すぐに踵を返した。


「こういう出会いって、踏み込み過ぎると冷めちゃうのよね。だから聞かないつもりだったんだけど……あんたはどう思う?」


 彼女がこの質問に答えられなければ、私はいさぎよく諦めようと決心していた。しかしそうはならなかった。女は驚いた様子だったが、やがて悟ったように微笑んだ。


「二ノ瀬葵」


 彼女は言った。私たちは破顔して見つめ合った。


「九城姫々」




 帰宅してすぐ、八重崎から一通のメールが届いた。


「鈴木神父から、二つ目の『神の言葉』を開封しろとの指示があったわ。紫色で封蝋された封筒を持って一〇二号室へ来てちょうだい」

 文面を読みながら、私は無性に腹が立った。

 一度は神を冒涜したあの女に、神の言葉を知る権利があるだろうか?


 封筒の保管されたキャビネット棚を開け、指先が神聖な神の片鱗に触れても尚、腑に落ちない苛立ちがすっかり解消されるわけではなかった。


「今帰って来たの。こんな時間に何度も出入りしたら怪しまれるでしょ? 明日の夕方そっちへ伺うわ」


 メールに憎悪を練り込んで送りつけると、わずかに気が晴れたようだった。それに、例え明日会ったとしても、そう易々と神の言葉を教えるつもりはない。所詮、八重崎は恵比寿の正体をあぶり出すための道具に過ぎないのだ。

 私は紫の封蝋を解き、中から手紙を取り出した。一度目と同じ、短い文面が綴られているが、内容は前ほど単調ではなかった。


「『戦士よ。惑わす蛇の言動に、物事の本質を見出さなければならない。過信は愚かである。故に、警戒を怠ってはならない』」


 聖書において、蛇は悪魔の化身となって登場する一方、狡猾な動物としてもよく周知されている。神様の示す蛇とは恵比寿のことに違いない。


「過信に警戒せよ……」


 『言葉』を眺めながら、私は自分が何を過信しているのかを考えた。自分のこと、恵比寿のこと、今までの行動、これからの行動……挙げればキリがない。

当然よ。この私に半端なものなど一つもありはしないのだから。

 そもそもこの『言葉』は、恵比寿がここへ来る前に鈴木が神様から授かっていたものだ。神様は、初めからこうなることを懸念していたのだろうか?

 私は窓から外を眺め、祈った。


「主よ。愛ある御加護を感謝します。どうか、私の歩むべき道を照らし、導き、共に正しい道を歩んで下さいますように。アーメン」




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