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鷲尾の場合その二 三人の女

 古屋敷探偵事務所で『カカアコ・クッキング・バンド』が流行ったのはもう二年も前の話なのに、控室の片隅ではついこの間まで、一部の熱狂的なファンがそのハワイアンソングの数々を執念深く垂れ流したがっていた。

 そのリーダー格だった宮田という男性調査員が結婚し、ハネムーンの行き先が案の定ハワイになったので、古屋敷所長は彼にたっぷりの休暇を与えてやった。


 依頼人が通される相談室はガラスパネルのパーティション仕立てになっており、背の高い観葉植物の群生がその味気ない空間に彩りを添えている。調査員は出社すると、植物の硬くて鋭い葉を掻き分け、相談室の奥にある控室で待機することになっている。

 そこは案件が一段落した者や調査に当たらない者が肩を寄せ合い、溜め込んだ報告書の仕上げに掛かるヤニ臭い質素な部屋だ。会議用の折りたたみ長机が中央に一台詰め込まれ、パイプ椅子が取り囲むようにして周囲を覆っている。

 今、その椅子の一つに僕が座っている。ポプラの案件から一ヶ月、連続十三件受け持った浮気調査にようやく終止符が打たれ、報告書の総仕上げに追われていた。現状は、舞い込んでくる依頼内容の七割が浮気調査だ。世は不景気でも、背徳な愛情表現が傾いた経済情勢に便乗して衰えを見せることはない。


「鷲尾、依頼人から指名が掛かったよ」


 僕は自分の名前が呼ばれた気がして、目だけ動かして声の出所を探った。二ノ瀬葵がドアの所に立っていた。タイトなカジュアルスーツを着込なし、気高く凛々しい表情でこちらを見つめている。


「依頼人から? 何? 誰?」


 僕は注意深く訝った。指名されるのは初めてのことだ。


八重崎則夫やえざきのりおっていうアパートの大家さん。話してみれば分かるよ……それ何?」


 二ノ瀬は『ワシオへ』と大きく書かれた白い紙袋をアゴで差した。紙袋ははち切れそうな大きさに膨れ上がって、テーブルの端に置かれている。


「宮田の置き土産。『カカアコ・クッキング・バンド』のCD三十二枚。いる?」


「絶対いらない」


 二ノ瀬の顔が無愛想に引っ込んでいったので、僕も渋々と後を追った。相談室を覗くと、見覚えのない男がスーツ姿で一人座っていた。緊張で縮こまっているのか、不自然に小さく見える。


「お待たせしました。鷲尾瑛助です」


 僕はテーブルを挟み、向かい合って座った。男は広がった額にハンカチを押し当て、猫背のまま会釈した。なよなよしい面持ちに黒縁の古臭いメガネがピッタリ映えている。直後、僕のコーヒーを持って二ノ瀬が現れた。


「どうぞ」


 僕は受け取った熱々のコーヒーを、見積書や得体の知れない資料で雑然としたテーブルの僅かな隙間にそっと置いた。


「八重崎則夫といいます。知人からあなたを紹介されました。とても優秀だと聞いています」


 僕の隣に二ノ瀬が座ると、男がいきなり喋り出した。


「私、北橋区にあるアパートの大家でして……エリンジューム荘をご存知でしょうか?」


 その瞬間、僕の念頭からこの男に対する疑念が吹き飛んだ。後に残ったのは興奮だけだ。


「知っています。先月の暮れにそのアパートで女学生が殺されている。名前は笹岡美織」


 塩田元店長の子を身ごもり、神居清太から見放された女の子だ。


「あの殺人事件と何か関係が?」


「それもあります。警察が手を引いたので、事件は迷宮入りを臭わせている。しかし、笹岡さんが殺害されるずっと前から、あのアパートには不審な点が多かった」


 僕は、八重崎氏が散らかったテーブルの上から引っ張り出した一枚の用紙を受け取った。彼のものと思われる筆跡で色々と書かれている。


「妻・亜子の素行調査、三階共有通路の虫、事件の究明」


 僕は早口で読み上げた。


「依頼したい内容のリストです。いずれか一つでも真相を突き止められれば、全てが解決に向かうのではないかと思います」


「奥さんを疑っているんですか?」


 リストを覗き込みながら僕は尋ねた。八重崎氏は頭が上がらないようだった。


「妻を信用していません。不倫でもしているのか、この頃は行き先も告げず出かけてばかり。しばらく留守にしたかと思えば、連絡も無しにふらふら帰って来る。三階の通路には季節外れのハエやハチが今も沸いています」


「虫……部屋でどなたか亡くなられてるんじゃ?」


 アパートの一室で老人の孤独死……珍しい話ではない。僕は恐る恐る聞いてみた。


「三階にある三部屋の内、入居は三〇三号室の一室だけです。妻がその部屋の入居者と顔見知りなので、誰かの遺体が転がっているということはないかと。それに、死体にハチはたからないでしょう?」


「ですよね。……ところで、あなたに僕を紹介したのはどなた?」


 僕は少し探りを入れてみた。八重崎氏は急にメガネのレンズを磨きたくなったらしい。


「すいません。秘密なんです」


 ハンカチでたっぷり磨いた後、八重崎氏はやっとそれだけを言った。そのハンカチでまた額の汗をぬぐっている。


「さしでがましいようですが、依頼人のあなたが内容に関して都合良く隠ぺいしたがるのを、我々は決して快く思わない。こちらもサービス業としてスキルを提供するわけですから、より確実に、より迅速に、より低コストで期待に応えたい。そのためには八重崎さんご自身の協力が必要なんです」


 僕はきっぱりと言い切った。ポプラでの失態が僕の精神に刻み込んだものは、『言葉を濁す怪しい依頼人には疑心暗鬼になって警戒しろ』という偉大な教訓だった。


「私はあなた方の考えるようないかがわしい人間ではありません」


 八重崎氏は僕の心を見透かすような遠い眼で呟いた。


「私はボロアパートのしがない大家に過ぎない。地位もなければ財産もない。明日死んだって誰も何も思わない。でも私にはプライドがある。エリンジューム荘の大家として威信をかけたい」


 僕は、八重崎氏が足元の黒い紙袋の中から更に白い封筒を取り出し、散らかったテーブルの上にそっと置くのを、コーヒーをすすりながら観察していた。


「五百万、用意しました」


 熱いコーヒーが喉を垂直落下していった。


「私は本気です。だからこそ、あなた方の本気も見せてもらいたい」


「私たち探偵の品格は、お金に左右されるような、上辺だけの善意を示す愚行とは遠く無縁です」


 むせ返る僕に代わり、探偵としての誇りと威厳を主張してくれたのは二ノ瀬だった。


「この五百万は建前です」


「どういう意味ですか?」


 二ノ瀬が詰め寄った。


「鷲尾さんには実際にエリンジューム荘へ……例の二〇一号室へ入居して頂きたいんです」


 僕は二ノ瀬の方を見た。二ノ瀬も僕を見ていた。


「このお金に意味があるとすれば、それは私の持つ自尊心やエゴでしかない。長年コツコツ蓄えてきました。はした金ですが、これが私の本気なんです。その全てを賭して、あなたを雇いたい」


「なぜそこまでして?」


 僕は知りたかった。彼の揺るぎない決心はどこから生まれ、どこへ向かって突き進んでいるのかを。


「分かるんです。妻は……亜子は何か隠しています。エリンジューム荘に、私さえ知らない秘密がある」


 僕は八重崎氏の熱い眼差しを見つめ返した。僕の中で、とっくに腹は決まっていた。


「……分かりました。依頼を検討してみましょう」


「ありがとうございます!」


 八重崎氏はようやく、人間らしい生き生きとした笑顔を見せてくれた。


「入居による調査に際し、メリットとデメリットの相互作用を明確にしておく必要があります」


 僕はすこぶる張り切っていた。ずっと浮気調査続きだった自分に、やっとつきが回って来たからだ。このチャンスをみすみす逃すつもりはない。


「アパートの住人として潜り込めば調査の幅を広げられる上、常に万全の臨戦態勢を心がけることができます。が、例え身分をうまく偽ったとしても、行動範囲は限られてしまう。部屋に引きこもったままだと調査は進まないし、かといって露骨にアパート内をウロウロすれば必ずボロが出ます。住民の誰かに素性が知れれば圧倒的に不利になる」


「ではどうやって?」


「……ツーマンセルでの連携」


 二ノ瀬の出した答えは僕の意見とピッタリだった。


「つまり、僕が一人暮らしと偽って堂々と生活するその裏で、もう一人がこっそり調査に加わる形となります。僕は最前線で出来る限り情報を集め、相方には特殊な配置についてもらう。友人としてアパートを出入りさせたり、セールスを装って他の住民に接触させることもできる。いざとなれば、大家としての権限を持つ八重崎さんを味方にすることも可能なわけです」


「努力します」


 八重崎氏は背筋を伸ばしたが、何だか不格好で頼りなかった。


「それではこうしましょう。明日の午前十時ごろ、入居に関する手続きのことで八重崎さん宅へ電話します。これは契約の折、そちらへ来訪する際のアポを取るためのものですので、あなたは出かけるなどして、奥さんが電話を受けるよう仕向けて下さい。そして、私との面会時にも必ず奥さんを同席させること」


「妻とはなるべく関らない方がいいのでは?」


 八重崎氏は遠慮がちに意見した。


「あなたが僕を隠そうとすれば返って怪しまれます。常識的なことはそのまま、ちょっとアホっぽい顔してやり過ごした方がうまくいくもんです」


 二ノ瀬が鼻で笑うのを、僕はあえて無視した。


「では、見積もりと本契約へ進みましょうか。二ノ瀬、所長を呼んできてくれる?」


「もちろん」


 二ノ瀬は揚々と立ち上がり、所長デスクのある事務所の奥へと姿を消した。直後、突き出た腹を揺らしながら、古屋敷秀馬が相談室の仕切りを跨いでやって来た。


「こんにちは。どうもどうも」


 所長は優雅な微笑みを投げかけながら挨拶した。


「そこに座らないで!」


 所長が空いていた八重崎氏の隣に座ろうとした矢先、背後から二ノ瀬が叫んだ。所長が驚いて飛び上がると、その笑顔も腹も同時に引っ込んだ。


「コーヒーを淹れてくるので、こっちの席に座ってくださいね。ね?」


 二ノ瀬は自分のマグを撤去すると、僕の隣に所長を誘導し、再び相談室から姿を消した。


「所長のために椅子を温めておくなんて、いい奴ですね」


 怯えて物も言えない所長に向かって、僕は咄嗟に機転を利かせた。所長は少し元気が出たようで、その後はずっと機嫌が良かった。




 八重崎亜子を相手取って入居の契約までこぎつけるのに、丸四日もかかってしまった。八重崎氏へ指示した通り、亜子は確かに僕からの電話を取ったし、一度目の面会では自宅に待機してくれていた。だが当人の八重崎氏が不在だった。亜子曰く「主人は当分帰らない」らしい。行き先も「ヒミツ」の一点張りだ。

 十二月十六日。僕は入居の本契約を済ませるためエリンジューム荘を訪ねた。ここへ来るのは昨日に続き二度目となる。今のところ誰からも体当たりされていないし、昼下がりの敷地内はひっそりと静かなものだった。

 呼び鈴を鳴らすとすぐにドアが開いて、中から八重崎亜子と一緒くたにきつい香水の香りが溢れ出してきた。野暮ったい派手なドレスはそのまま、巨大ロッドの代わりに小顔ローラーを手にしている。


「綺麗?」


 八重崎は緩やかにカールした茶髪を手ぐしで撫でつけながら、僕に向かって濃厚な色目を投げかけた。


「ええ、とっても」


 僕は得意の愛想笑いで誤魔化した。どうやら部屋に入るための合言葉だったらしく、八重崎は満足したような面持ちで僕を中へと促した。


「旦那さんは戻られましたか?」


 他にひと気のない部屋を見回しながら、僕は分かり切ったことを聞いた。


「当分帰らないって昨日言ったじゃない。それとも、あたしと二人きりじゃ嫌?」


 八重崎は顔の上でローラーを上下させながら、鍛錬された上目遣いで囁いた。僕はその目を見ないように注意を払い、窓の外が気になるフリをした。


「いえ。入居前に一度は挨拶したいなと思って」


「恵比寿さんって礼儀正しいんだ」


 僕は何も答えなかった。彼女の口調が探りを入れるような様相に変化したからだ。八重崎氏の言う『妻の秘密』が真実なら、八重崎亜子が、あえて殺人部屋に越してくる僕に警戒の目を向ける可能性は高い。いずれにしろ、昨日会った時より僕への関心が高まっているのは確かなようだ。僕にとってはそれが一番厄介だった。


「座ってて。お茶入れるから」


「どうも」


 僕は萎びた座布団に足を崩して座った。テーブルの上には契約書の他に、エリンジューム荘の居住者名簿が置かれている。簡略化された図面のようで、それぞれの部屋に入居者名や電話番号、生年月日まで記されている。

 一〇一号室はここ。一〇二号室は『丸山太』。二〇二号室は『九城姫々』。三〇三号室は『岡野武人』。明日には、二〇一号室に『恵比寿賢治』が加わるだろう。

 図面を見る限り、エリンジューム荘は共有通路、階段が完全な屋内タイプになっている。アパートの出入口は一〇一号室の目の前にある。つまり建物を出入りする時は、必ずこの部屋の前を通らなければならない構造になっているようだ。上階へ続く階段はこの部屋を出て、左手に伸びる通路の先に一箇所だけ設置されている。右手には一〇二号室、一〇三号室がある。


「これ入居者のリストですよね? いいんですか、個人情報をこんな野ざらしにして?」


 僕は素っ気ない言い草で指摘しながらも、部屋番号と入居者名を全て暗記した。


「構わないわよ。減るもんじゃないし。それに、挨拶して回るのに必要でしょ?」


 そんな馬鹿な。誠意があれば挨拶に個人情報など必要ない。

 八重崎はお茶をテーブルに置くと、僕と向かい合って座った。


「ここと、ここと、ここと、ここにサインして。あっ、こっちもね。判はこれと、これ」


 僕はほとんど集中できていなかった。大きく開かれた八重崎の胸元が、視界の隅を出たり入ったりしている。危うく『鷲尾』とサインするところだった。


「一〇二号室の丸山さん。一人暮らしのお爺ちゃんなんだけど、何か困ってたら助けてあげてちょうだいね。難聴みたいだから」


 両腕にたわわな胸の膨らみを挟みながら八重崎は続けた。


「お隣の九城さんは介護福祉士だったかしら。とっても可愛い子」


「昨日会いました。野ウサギくらい足が速かった」


「あの子いつも元気だから……度が過ぎるくらい」


「仲がよろしいんですね」


「まあね。娘のように思ってるわ」


 入居者の情報を得るための糸口が見えてきた。三つ目のサインに思わず力が加わった。


「三〇三号室の岡野さんってどんな方?」


 僕は名簿をチラと窺いながら聞いてみた。


「ずる賢い、詐欺師みたいな人……最近はあまり見かけないわね。明かりがついてるから生きてはいるんだろうけど」


「みなさん一人暮らしですか?」


「ええ。一家団欒するには、ここじゃ不気味すぎるものね」


 夫のいる自分への皮肉なのだろうか? 僕は判を押しながら、更にどう切り込んでいこうか考えていた。難儀なのは、質問相手が調査の対象者であることだ。


「今度はあたしの番ね。恵比寿さんって彼女いるの?」


 僕が最後の書類に判を押すと、見計らったように八重崎が迫ってきた。さながら値踏みでもするような色目使いを前に、僕はきっぱり考えることをやめた。八重崎の好意を利用すれば、危険を冒してまでこちらから仕掛ける必要はないはずだ。


「いませんよ。大募集中です」


 僕が存分な隙をアピールすると、八重崎の表情はますます色欲を帯びて破顔した。


「寂しくなったらいつでもここに来て、お昼のワイドショーを観てってもいいのよ」


「おやつ持って行きます」


「ご飯は自炊? 今度作ってあげよっか」


「おでんが食べたいな。タコ足の入ったやつ」


「了解」


 傍からすれば、恋人同士のうぶな会話に聞こえたかもしれない。幸先は良さそうだ。


「あっ、そうそう」


 小顔ローラーを放り出すと、八重崎は和箪笥のある部屋の隅まで這って行き、中から用紙を一枚取り出して戻って来た。


「引っ越し業者はもう決めちゃった? お得意先で、かなり安く見積もってくれる所があるんだけど?」


 僕は引っ越し作業に関して、まだ何も決めていなかったことを思い出した。年内には決着が見込める案件だったので、大型トラックを呼びつけて派手に引っ越しするつもりはなかったものの、生活する上で不可欠な調度品をかき集めれば、必然的に荷物はかさばってくるはずだ。


「いい機会だし、そのお得意先に委託しようかな」


 僕は某引っ越し会社について詳しく記載された紙を受け取った。素人が手掛けた折り込みチラシのような作りで、大まかな見積もり例や、本社の電話番号、住所が記されている。


「挨拶して回るのはいつ頃にするの?」


「明後日にしようと思ってます。午前中までには一通り……どうしてそんなこと聞くんです?」


「そんなことあたしに言わせないでよ。ケーキ焼いて待っててあげる。だから一番に来て。絶対よ」


「……分かりました」


 八重崎の色欲にはおののくばかりだった。それからの僕は、来たるべきその時が大惨事に見舞われないよう祈りまくるのに必死だったし、部屋を出るまで口数を減らすよう心がけていた。わざわざ八重崎の心に踏み込んで探りを入れることが、自分を不安がらせて追い詰めるだけの自殺行為だと気付いたのだ。


「それじゃ、明日の引っ越し頑張ってね」


 帰り際、僕は激励の言葉をもって肌寒い戸外へと送り出された。




 夕方頃、僕は古屋敷探偵事務所を構える雑居ビルまで戻って来た。事務所のある七階ロビーには、このビルで唯一の休憩所がある。自動販売機や公衆電話、大型テレビ、奥には小ぢんまりとした喫煙室が設けられている。その空間は、五・六階にあるスナックバーのママたちの上品な喋り場になったり、三・四階の歯科、皮膚科、整形外科の医師たちが白衣姿で疲弊面を見交わす、不穏な溜まり場になったりするのが常だった。

 故に、赤いジャケットを着た男が、奥の喫煙所で顔を俯かせて座っているのを見た時、僕はすこぶる違和感を覚えた。顔はよく見えないが、若者の風貌なのは確かだ。

 事務所へ入ると、依頼人と思しき若い女性が帰っていくところだった。その歩き方には、質素な身なりには似合わない毅然とした振る舞いがあったものの、日頃のストレスが瞳に落とす暗い影までは隠しきれていなかった。浮気調査の依頼人だろう。あの物憂い眼差しが何を訴えかけているのか、聞かずとも僕にはお見通しだ。もう何百人もああいう人間を見てきている。


「おかえりなさい」


 相談室のパーティション越しに額だけ覗かせながら二ノ瀬が言った。僕が中を見下ろすと、曇りガラスを挟んで二ノ瀬と目が合うのが分かった。


「ただいま。……変な顔」


「お互い様でしょ」


 僕が相談室へ踏み込むと、二ノ瀬が二人分のコーヒーマグを手にしてこちらを睨んでいた。


「ドライアイ?」


 僕はニヤッと笑いかけた。


「ドライアイに見せかけて嫌悪感を剥き出しにしてるの。今コーヒー淹れてくるね」


 僕は二ノ瀬が戻って来る前に、カバンを下ろし、コートを脱ぎ、椅子に深く腰掛け、ネクタイを緩め、大きなあくびを吐き出すまでの動作を手際良く済ませた。


「背広なんかで会いに行ったの?」


 二人分のコーヒーをテーブルに置きながら二ノ瀬が聞いた。


「着替えたよ。僕の私服はどっかの日本人メジャーリーガーくらいダサいからね」


「お気の毒に。……それで、どうだった? ご主人は部屋に戻ってた?」


 二ノ瀬がせわしなく尋ねた。彼女はこの案件に強い興味を抱いているようで、昨日から続く八重崎夫人とのやり取りを事細かに知りたがる人物の一人だった。


「いなかった。昨日と何も変わらなかったよ」


 僕はそう答えたが、実際、何も変わっていないわけではなかった。八重崎夫人が男女間における特別な感情を持って自分へ接近しようとしていることを、僕はあえて言わなかった。言いたくなかった。


「じゃあこの依頼は……」


「続けるよ。調査料は受け取ってるし、依頼人もそのうち帰って来るさ」


 それから僕は、八重崎亜子とのやり取りを話して聞かせた。アパートの居住者名簿を見せてもらった時のことを話すと、二ノ瀬は身を乗り出して聞き入った。


「岡野武人? ……ふーん」


 覚えておいた居住者名を言い連ねると、二ノ瀬は『岡野武人』にだけ敏感に反応した。


「知ってるの?」


「いいえ。でも、もしかしたら……思い過ごし? いやいや……んー……」


 険しい面持ちで考えを巡らす二ノ瀬を、僕は固唾を呑んで眺め続けた。二ノ瀬は生まれ持ったその豊かな知性を、時にあらぬ方向へ応用したがる習性がある。平たく言えば、天才肌の気質に富んだ変わり者だ。


「ねえ……いいこと思いついちゃった」


「不吉なトーンで言うな」


「私と二人暮らししようよ」


 僕は舌を巻いた。ことさら深刻そうな剣幕で何を「思いついちゃった」のかと思えば、まったく、二ノ瀬らしい答えだった。


「ダメだ。ありえない」


 僕はすげなく突っ返した。


「一つの狭い部屋で暮らすんだぞ。寝床も、風呂も、トイレも、プライバシーさえ共有されるんだ」


 二ノ瀬は何も聞こえなかったかのようにコーヒーをすすった。僕は焦っていた。彼女に勝てる気がしない。


「スッピンの寝顔をガン見してやる。平気でオナラをするし、ゲップだって我慢しないぞ」


「たかが短期間の同棲に何をそこまでムキになるのか、理解し兼ねるわね」


「僕が男で、君が女だからだ」


「私は女じゃない。探偵よ」


 これには反論の余地がなかった。どうやら二ノ瀬は本気らしい。


「調査への心意気は尊重するけど、何も同棲することはないんじゃないか?」


「私は、私にしか出来ないことを徹底的にやり遂げたいの。今までもずっとそうしてきたでしょ」


「まあ確かに、ポプラでの君のポジションを、僕や山田が君ほどうまくこなせたとは思えないね」


 僕は不承不承認めた。


「所長から許可が降りたら、僕はもう何も言わない。二ノ瀬の望むとおりにしてもらって構わないよ」


「よっし!」


 大声を張り上げて立ち上がる二ノ瀬を、僕は呆然と見つめた。


「ありがと、鷲尾。早く帰って準備しなきゃ。実はね、もう許可は取ってあるの」


 その狡猾な笑みを見上げながら、僕はようやく悟った。


「最初からそのつもりだったんだな。どうりで契約の時、意気揚々とツーマンセルのことを口にしたわけだ」


「男の子でしょ。二言はなしなし」


 二ノ瀬は嬉しそうに声を弾ませた。


「浮気調査から解放されて嬉しいのは分かるけど、一旦座って、静かに僕の話を聞いてくれ」


「はい、聞きます」


 二ノ瀬はすぐさま冷静さを取り戻し、神妙な顔つきで椅子に座りなおした。


「八重崎夫人に『一人暮らしの物書きフリーター』と言った以上、君の存在はおおやけに出来ないし、むしろしない方が、全く新しい視点から調査の幅を広げられるかもしれない。でも気配を消して生活するのはたやすくない。木造アパートは音が抜けるし、状況によっては部屋に缶詰だ。そこんとこ、ちゃんと承知してる?」


「覚悟の上よ」


 悦に入って思わず顔がほころんでしまった。僕が探偵として一番に二ノ瀬を買っているのは、度胸の据わった彼女が他の調査員の誰よりも誇り高く、かっこいいからだ。そんな二ノ瀬の揺るぎない決意の言葉を、僕は確かに聞き取った。


「何ほくそ笑んでるの? 気味悪いなあ」


「二ノ瀬との二人暮らしを妄想してみただけだよ」


「気味悪いなあ」


「二回言うな」


「荷物はどうしたらいいの? あんまり大きな物はダメ?」


「八重崎夫人が紹介してくれた引っ越し業者に委託するよ。僕の現住所にあらかじめ荷物をまとめておいて、明日の夕方には二〇一号室へ運び入れる手はずだ。と言っても全てを運び出すわけにはいかないから、残った家具類は『自分で処分する』と説明すれば怪しまれないだろう。だから君は、明日までに自分の荷物を僕の家へ置いておかなきゃならない。そうだな……かさばる布団くらいはこっちで準備するよ」


「私、スクーター乗りなんだけど」


「いったい何持ってくる気?」


「コタツ」


 僕は二ノ瀬のこういうところが好きだった。


「所長に頼んで、車を出してもらうしかないな」


「鷲尾ってさ、何で車に乗らないの? 調査するのに不便でしょ?」


「車は好かない。たぶん、向こうも僕を好いてない」


「あら。それならせめて、自転車に……」


 二ノ瀬が言葉を切った。手に何か持っている。僕はそれを覗き込んだ。硬貨のような黒い円形の物体だ。僕らは顔を見合わせた。


「それをどこで?」


「この机の下」


 喫煙所にいた若者の姿が脳裏に浮かんだ。僕は事務所を飛び出し、ロビーへ駆け込んだ。喫煙所はもぬけの殻。見ると、エレベーターが降下していくところだった


「逃げられた。さっきロビーで怪しい奴を見たんだ」


 二ノ瀬のもとへ戻るや、僕は悔し紛れに声を荒げた。二ノ瀬は案じ顔で僕を見上げている。


「これって盗聴器よね? 誰がこんなもの……」


「さっき出ていった女性は? 不審な挙動はなかった?」


「なかったわよ。旦那が浮気してるんじゃないかって、相談に来ただけ」


「かなり前から仕込まれてた可能性もあるな……他にもないか探してみよう」




 翌日の引っ越し作業はしんしんと舞い降りる雪の中で行われた。

 エリンジューム荘から車で一時間ほどの距離にある僕の自宅は、二十五階建て超高層マンションの二階だ。

 作業は首尾良くはかどり、段ボールに入れられた荷物は二ノ瀬のコタツと一緒に軽トラックの荷台へ詰め込まれ、一足早くエリンジューム荘へ向かって走り出した。僕は作業員の乗るワゴン車に同乗させてもらい、トラックの後を追って共に目的地へと出発した。


 作業員は日雇い派遣を中心に全部で六人。女性はただ一人、僕の斜め前の座席に座っている。痛んだ長い金髪が車体の震動に合わせて心地悪そうに揺れていた。顔の下半分はマスクに埋もれていたが、前髪で見え隠れするメタリックブルーの派手なアイシャドーは、その包み隠されたゾーンがいかに芸術的に仕上がっているのかをたやすく想像させてくれた。

 作業が始まってからというもの、僕はこの女が気掛かりでならなかった。お小遣い稼ぎなのだろうが、友人や彼氏と不自由なく遊ぶためのお金を手に入れるのに、今時のギャルが肉体労働を買って出るだろうか?

 そんなことを考えていると、僕はたちまち眠くなってしまった。どうやら、夜遅くまで続いた作戦会議のツケが回って来たらしい。あの後、新たに盗聴器が見つかることはなかったものの、誰が、何を目的としてあんな代物を仕込んだのか、まったく見当がつかなかった。

ふと目が覚めると、ワゴン車がカーブを描きながら坂道を登って行く途中だった。窓にはサザンカの垣根が横切り、エリンジューム荘の陰気な様相がひしひしとこちらを見下ろしている。


 夕闇が迫っていた。僕は先に立って部屋の鍵を開け、作業員に荷物を置く際の指示を出して回った。着替えが一式詰まった洋箪笥の位置にこだわったり、梱包を解くために開けてもいい段ボールと、そうでない段ボールを分けさせたりした。開けてはいけない段ボールはもっぱら二ノ瀬の品だ。上面に大きく×印が描かれている。

 こちらも作業は順調のように思われた。男たちは手慣れた要領で次々と荷物を運んでくれるし、金髪ギャルはその容姿からは結びつかないような繊細さで作業をこなし続けた。食器や家具から梱包材のエアークッションを几帳面に取り除き、それを乾き立ての洗濯物のように畳んで部屋の隅に置く。機械的に繰り返される動きにはそつがない。

 僕は安心し、一旦外へ出て作業員を手伝ったが、それが失敗だった。荷物を持って戻って来ると、女が×印の段ボールを開けたまま硬直していた。


「それは開けちゃダメなやつだよ」


 僕が後ろから冷静に声を掛けると、女は急いで蓋を閉めた。


「ごめんなさい。つい流れで……」


 女のくぐもった声を聞いた時、僕は違和感を覚えた。だが、その正体が分からない。


「何かありました?」


 異変に気付いた現場指揮者が声を掛けてきた。作業員のリーダー格だが、年齢は僕よりよっぽど若い。


「大したことじゃないんです。ただ、この子が手違いで段ボールを開けちゃって……」


 男は状況を見て取るや、帽子を取って深々と頭を下げた。


「すいませんでした。こいつ今日が初めてのド素人で。俺の目が届いてなかったばっかりに……」


「いいんですよ。ガラクタみたいなもんですから」


 言いながら、僕は段ボールをつま先で小突いて女から遠ざけた。

 詳しく弁解する必要はないだろう。たかが馬の骨に箱の中身が知られたからといって、今後の生活に大きな支障が出るとは思えないし、ましてやこちら側の素性が割れることなどありえない。調査に必要な物は明日の夜、二ノ瀬が持ち込む手はずになっている。中身は退屈な彼女の私物ばかりなのだ。


 作業が終わると、肌寒い閑散とした部屋に僕独りだけとなった。八畳一間のワンルームは生活感のない殺風景な仕上がりで、安っぽいビジネス旅館の一部屋がそっくり越してきた具合だった。

引き戸式の汚れた窓から、ふもとの街並みが光の筋となって輝いているのが見える。雪は止んだが、時おり強く吹く風が窓を木枠ごと叩いていった。暖房の入った部屋はそれでも寒く、外で風がうねるたびに部屋の温度が下がる気がした。

 風呂とトイレは別になっている。改装されたと思われる洋式の水洗式便所は、玄関から部屋に入ってすぐ左手だ。窓は無いがしっかり換気されているようで、悪臭は一切しない。

トイレの真向かいにはカビ臭い脱衣所と狭い風呂場がある。僕は好奇心で風呂場の明かりを点けたが、途端にあることを思い出し、その場に動けなくなってしまった。この小さな浴槽の中から、笹岡美織のバラバラ死体が見つかったのは数週間前の話だ。

 今日から二〇一号室での生活が始まる。かつて、この部屋には確かに一人の女子大生が住んでいた。神居からの暴行、塩田店長との不倫関係、そして何者かによる殺害。彼女にとって、この部屋とは何だったのだろうか? どんな因果をもって殺されなければならなかったのだろうか?

僕は合掌しながらも、胸が高鳴り、気分が高揚していくのを嬉しく思っていた。マンネリな浮気調査とは違う。この大掛かりな案件の結末に何が待ち受けるのか、まったく見当もつかない。気力を昂らせるのに、これ以上の好条件などなかったはずだ。僕はそう確信している。




 翌朝、僕は挨拶して各部屋を回るために、身だしなみを整えていた。だが僕にとって、貧乏人を演出する『物書きフリーター』という肩書きは難儀でしかなかった。尾行の際によく用いる黒の地味なパーカーとジーンズという出で立ちだが、締まりの緩い首回りがどうにも気に食わない。新調のジーンズはごわごわして固いし、窮屈だ。黒縁の伊達メガネが恐ろしく似合わない。

 両手に紙袋をぶら下げ、僕はまず一〇一号室を目指した。今さら挨拶など必要ないのだが、約束したので仕方がない。それに、八重崎氏が帰ってきたかどうかを確認するだけでも訪ねる価値はありそうだ。だが彼はいなかった。いたのはパジャマ姿の八重崎亜子だけだった。


「かわいい?」


 八重崎が出し抜けに聞いた。僕は笑顔をひねり出した。


「ええ、とっても」


 言うと、八重崎は笑顔で迎え入れてくれた。合言葉はいつも単純だ。


「いい匂いがする」


「ケーキ焼いたの。食べていくでしょ?」


「甘い物は苦手で……」


「苦いやつばっかりよ」


「じゃあ、いただきます」


 丸テーブルの上にカットされた三色のパウンドケーキが載っていた。プロの腕前を彷彿とさせる出来栄えだ。


「ほんとに全部手作りですか?」


「ええ。早起きして作ったんだから。渋茶味でしょ、こっちはブラックコーヒー味で、これがビール味。お茶かコーヒー飲む?」


「いえ。実はこの後用事があって、早く出なきゃいけないんです」


 僕は平然と嘘をついた。八重崎は携帯電話をいじりながら、不服そうな表情で向かいに座った。


「なーんだ。たくさん楽しいことしようと思ってたのに」


 僕はケーキを頬張るのに夢中で聞こえなかったフリをした。


「何いっぱい持って来たの?」


 彼女の関心は手元の携帯電話から、僕の両サイドに置かれた紙袋へ転じた。


「つまらない和菓子と、違う意味でつまらないカカアコ・クッキング・バンドのCDです」


 袋の中身をちらつかせながら僕は説明した。和菓子は底の浅い大きな箱に入っているが、CDは宮田が焼き増しした粗末な代物で、ケースの大きさも色も向きもバラバラだ。良い機会なので厄介払いしようという魂胆だ。


「カカアバンド? それって洋楽?」


「はい。ハワイアンソング。欲しいですか?」


「和菓子ならお茶に合いそうだけど、洋楽なら無理ね。あたし外国語嫌いだもの。あっ……でも、一枚だけ貸して」


「貸す? いえあげますよ」


「いらない。貸して。返さないと思うけど」


「何言ってんですか……」


 僕は訝ったが、言われるまま一枚だけ貸してあげた。八重崎はそれを大事そうに箪笥へしまった。

 僕は余ったケーキを全部箱に詰めてもらい、紙袋と一緒くたに抱えて一〇一号室を後にした。外に出ると、老人が前庭で雪かきを始めていた。カーキ色のダウンジャケットを羽織り、プラスチック製の除雪用シャベルを大振りして勢い良く雪をかいている。足腰の丈夫なお爺さんだ。


「おはようございます」


 僕が声を掛けた。返事はなかったが、お爺さんは気配で悟って振り向いた。


「声が聞こえたから耳澄ますだろ? そしたらあんたがいるんだな!」


 ゲラゲラ笑いながら、お爺さんは大声で喋り続けた。


「知らない顔だろ、なあ? 若いもんが、布団売りつけたり、建てつけが悪いとか抜かしやがって。なあ? 部屋に来るか? 来させねえよ!」


 くせのある独特な言葉遣いを解読するのに、頭の中で言葉のピースを組み直さなければならなかった。要するにお爺さんは、僕をセールスか何かだと勘違いしているらしい、ということまでは分かった。


「僕、引っ越してきたんです。ここに」


 僕は大声で言った。彼が一〇二号室の丸山太なら、耳が遠いはずだ。


「引っ越し? ああ、引っ越しの人か。俺は丸山ってんだ。太だ。丸山だ」


 お爺さんはまた笑い出した。


「恵比寿です。よろしくお願いします。これ、どうぞ」


 僕は片方の紙袋に和菓子とCDを詰め込んで、強引に手渡した。


「音楽聞きますか? カカアコ・クッキング・バンド。外国の歌です」


「おお、聞くさ。カカア? うまそうだな、え? しーでぃー、に関してはな、ちょっと知識があるぞ。姫々が知ってるから、何でも聴ける。上の階に住んでてな、いい子なんだなあ」


「仲良しなんですね」


「俺の孫にするんだあ」


 その後、大声の張り合いが五分も続いた。僕はそろそろ喉をいたわるべきだと思い立ち、会話の節目を見計らって別れの挨拶を切り出した。丸山は快く僕を送り出した。

 部屋にケーキを置いた後、僕はすぐに隣人を訪ねた。ドアには、ハーブの葉とユリの花で彩られたクリスマスリースが飾られている。呼び鈴を鳴らして間もなく、チェーンロックの掛かったドアが僅かに開き、隙間からスウェット姿の女の子が顔を覗かせた。九城姫々だ。


「おはようございます。先日はどうも」


「あっ、恵比寿さん!」


 来客がいつぞやの男と分かるや、九城は嬉しさを顔いっぱいにたたえて微笑んだ。明朗な笑顔に親しみやすい人懐っこさが溢れている。襟高のシャレたスウェットはつんつるてんで、ほっそりとした手足が控えめに顔を覗かせている。女性の生々しい休日をかいま見たようで、僕はいささか滅入ってしまった。


「これ、お近づきのしるしです」


 和菓子の箱を見せると、九城はようやくチェーンを外してくれた。僕が大きな箱を選んだのは、確実にドアを開けさせ、部屋の中を盗み見るためだった。九城は期待の眼差しで和菓子を受け取った。


「ありがとうございます。おっ、何かおいしそうな音がする」


「煎餅が千枚入ってます」


 九城は大笑いした。元気な女の子だ。


「あと、これ。カカアコ・クッキング・バンド。陽気なハワイアンソングです」


 僕は紙袋から無差別にCDを取り出し、色も大きさもバラバラのケースに入れられたそれを九城に手渡そうとした。九城は持っていた和菓子を靴箱の上に置き、CDを束で受け取った。靴箱には、聖母マリアと思われる女性の木彫り像が置かれている。


「こんなにいっぱい、ありがとうございます。洋楽ばかり聞くんで助かります」


「邦楽は聞かないんだ?」


「洋楽は集中したい時に小さく流すんです。資格の勉強してる時は凄くはかどりますよ。私、介護福祉士なんで、点字とか手話とかたくさん資格欲しいんです。あと自動車の免許も」


「すげえ。きっと要領がいいんだろうな」


「恵比寿さんは何してる方なんですか?」


「僕はフリーターです。普段は恋愛小説書いてます」


「えっ、ちょー意外!」


「よく言われます」


 僕は会話にいそしみながら、彼女のショートボブ越しに部屋の片隅を注視した。綺麗に片付いていて、女の子らしい落ち着いた雰囲気だが、天井の一角では蜘蛛が巣をこしらえている。


「恵比寿さんって一人暮らし?」


 九城が尋ねた。


「はい。九城さんも?」


「そうですよ」


「怖かったでしょう? 二〇一号室の事件」


「ええ……だって私が殺されてたかもしれないんですよ。しばらくは眠れませんでした」


「笹岡さん、でしたっけ? 仲が良かったんですか?」


「会ったら挨拶するとか、それくらい。丸山さんとは仲良いですけど」


「声のでかいお爺さん?」


「はい。よく部屋にお邪魔するんです。耳が不自由だし、職業柄ほうっておけなくて」


 僕はうまく合いの手を入れながら、視覚による情報すべてを手当たり次第に脳みそへ詰め込んだ。すると、粘着式のネズミ捕りが靴箱の下からはみ出しているのを見つけた。蜘蛛を生かし、ネズミを始末することに彼女なりの思惑でもあるのだろうか?

 推察しながらも、僕は九城の手元に注目していた。色も向きもバラバラだったCDケースの束が、彼女の手の中で綺麗にまとめられている。向きが整然と揃い、色は鮮やかなグラデーションを帯びている。話している内に、手が無意識に動いてしまったのだろう。

 その時、部屋の奥から電話の鳴る音が聞こえてきた。


「ごめんなさい。ちょっと待っててもらえます?」


 刹那、僕は背筋が凍った。その場に立ちすくんだまま、九城の背中を黙って見送るのがやっとだった。会話を切り上げ、一刻も早くこの場を離れなければいけない……言い知れぬ恐怖が胃の底から一気にせり出してきた。


「お待たせしました」


 九城は一分足らずで戻って来た。厚みのある白い本を抱えている。


「はい、これ。読んでみてください。勉強の合間に私が読んでた書物です。小説の参考になればいいけど」


 僕は恐々と本を受け取り、タイトルに目を通した。『九人の預言者』。聖書の教えを分かりやすく解釈した、九人の著者による夏のベストセラーブックだ。


「ありがとう。うまく使いこなしてみせるよ」




 住民たちが寝静まった深夜、二ノ瀬がエリンジューム荘へやって来るのを合図に、探偵たちのひのき舞台がいよいよ幕を開けた。

 施錠の外れていたドアからこっそり入り込んだ二ノ瀬は、僕が見ている前で、一言も言葉を発することなく迅速に事を進めていった。まず、持参した大きな黒いトートバッグから手の平サイズのレシーバーを二つ取り出すと、片方を僕に手渡した。

 隠された盗聴器をあぶり出すための発見器だ。盗聴器探査の依頼はごくまれだが、僕はこのレシーバーの使い方を所長からよく仕込まれていたし、それは二ノ瀬も同じだった。こいつは盗聴器から発せられる数百種類もの周波数を記憶しており、ターゲットが近づくとその周波数を感知して『ハウリング』という不快音を発する名うての優れ物だ。


 僕らは手分けして黙々と作業にいそしんだ。風呂場、トイレ、キッチン、押入れ、壁、コンセント、ヒーター、窓枠、郵便受け、蛍光灯、畳みの隙間から天井までしらみつぶしだ。レシーバーのアンテナを剣の切っ先に見立て、僕らは演舞するように部屋中を駆け回った。


「疲れた」


 僕は布団の上にゆっくりと倒れ込んだ。詰まるところ、発見器が耳障りなハウリングで夜のしじまを破ることはなかった。


「途中から踊ってたでしょ」


 箪笥の裏に手を突っ込みながら二ノ瀬が指摘した。僕は寝そべったままテレビの電源を入れ、切れ味抜群の包丁が深夜の通販番組に彩を添える様を眺めていた。


「挨拶はうまくいった? おい、起きてる?」


 二ノ瀬がアンテナの先で何度も背中を突き刺した。


「やめて。起きてるよ。三〇三号室の岡野は不在だったけど、それ以外は全員に会えた。でも一〇二号室の丸山とは外で鉢合わせたから、部屋の中までは見れなかった。……なあ、掛け時計は調べた?」


「いえ。鷲尾が持ってきた時計じゃないの?」


 僕らは顔を見合せたまま硬直した。最近の盗聴器はその役割を果たすためなら、電卓だろうが万年筆だろうが、擬態する物に何ら躊躇しないのが現状だ。二ノ瀬は丸い掛け時計に向けてゆっくりとレシーバーを近づけたが、応答はなかった。


「僕が来た時にはもうあったよ。前の住民か、もっと前の住民の物かも」


「でもかなり新しいみたいだけど……」


「時計なんかほっとけよ。それより大事な話がある」


 声色に緊張感を持たせたので、二ノ瀬は何事かと驚いた様子で振り向いた。僕らは深刻な表情で睨み合いながらコタツに潜り込み、互いに顔色を窺った。


「凶報だ。かなりタチが悪い」


「どうしたの?」


「引っ越し作業員の中に一人、このアパートの住民が紛れていた可能性が高い」


 二ノ瀬は訝るように僕を眺めたまま、しかし何も言わなかった。


「そいつの名前は九城姫々。二十三歳。女性。介護福祉士。部屋はこの隣。恐らく……いや、ここはもう彼女だと断定して行動したほうがいい」


「この部屋に二人目の住民がいるって、明るみになっちゃったの?」


「間違いなく。布団も食器もきっちり二人分あるし、九城は目を離した隙に君の荷物を開けて中身を見ている。たぶん、女性物と分かる代物ばかりだろ?」


 二ノ瀬は口の開いた×印の段ボールを引き寄せ、中からケーブル編みの白いワンピースを取り出して掲げてみせた。


「似合う?」


「うん。僕は死んでも着ないけど」


 言いながら、僕は肩を落とした。


「それに彼女は変装してた。金髪のウィッグをかぶって、ギャルみたいな化粧の上にマスクをつけてた。挨拶した時の清楚な雰囲気は皆無だったね」


「こっそり副業してるのかも。こんな所に住んでるんだから、羽振りはかんばしくないんじゃない?」


「そうかも知れない……でも九城が侵入したのは事実なんだから、最悪のパターンを視野に入れて調査すべきだろ」


「根拠は? 変装してたのに、どうしてその子だと分かるの?」


 僕は九城が見せた行動の一つ一つを思い出し、丁寧につなぎ合わせていった。


「彼女の仕事ぶりはかなり神経質だった。挨拶の際、玄関や部屋が几帳面に片付いているのを確認したし、宮田からもらったCDを束で贈った時、色も向きも滅茶苦茶だったそれを彩り鮮やかに揃えている。決定的だったのは、『ごめんなさい』のニュアンスだ」


「へ?」


「僕に謝ったんだよ、三回。アパート前でぶつかった時、作業員として君の荷物を開けた時、挨拶の最中に電話が鳴った時。作業中はマスクの中でくぐもってたけど、何か感じるものはあったんだ。三回目で確信を持った時はもう遅かった」


「あなたがそこまで言うんだから、間違いなさそうね」


 二ノ瀬がそう言ってくれるのを、僕はとても嬉しく思った。


「はっきりさせなきゃいけないのは、『どうしてこの部屋に侵入したのか?』ってことよね」


 二ノ瀬が意見した。


「君の言うとおり、派遣での仕事が副業だったとしよう。職場で副業が禁止されているなら、わざわざ変装したことにも納得がいく。でも、そこまで慎重だった彼女が自分の住むアパートに派遣としてやって来るだろうか? 他に仕事はあるだろうし、いざとなれば断ることだって出来るはずだ。しかも、引っ越し作業は過酷な肉体労働だ。無茶して体を壊せば本業に差し支える。このことからも、九城が故意で部屋に入ったのは確かだ。たぶん彼女は、この部屋に越してくる人物が何者なのか、知っておかなければならなかったんだと思う」


「家具の種類や位置を把握したかったのかも。あるいは、部屋に何か仕掛けたり、見られちゃマズイ物を回収したり」


「僕の現住所もバレたよ。個人を特定させる物は隠したけど、あれは『物書きフリーター』が住みたがるようなマンションじゃないぞ」


「……何だか面倒なことになってきたわね」


 二ノ瀬のため息を、僕は空元気な笑顔で跳ね返した。


「そうじゃない。九城に入られたことはむしろラッキーだった」


 僕は悠然と言い切った。


「二人暮らしがバレたのは確かだけど、それは飽くまで『物書きフリーター』の同棲者に過ぎないんだ。九城は僕らの正体を知らない。だからこそ、情報を得るために部屋へ侵入したかった。向こうはきっと、自分の変装は気付かれていないと高を括っているだろう……でも、それを見破った僕らは彼女に引けを取っていない。彼女が危険人物であることを前提としたコミュニケーションを、常に心掛けることができるからだ」


「この会話が聞かれてなきゃいいけどね」


 二ノ瀬が身の毛もよだつ憶測を平気で口にするのを、僕は力なく笑い飛ばした。


「だからテレビをつけたんじゃないか……でも、僕が恐れているのはそこじゃない」


 僕は肩越しに振り返り、壁一枚向こう側に冷たい眼差しを投げかけた。


「本当の脅威は、彼女自身に並み外れた行動力を持たせる〝何か〟が、どこかで息を潜めてるってことだ」




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