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九城の場合その一 怪しい隣人

 北橋区の片隅に三十年も前から息を潜むアパート『エリンジューム荘』をよく知る人間は、決してその佇まいを〝昭和の名残〟とか〝昔ながらの風情〟などと褒めそやすことはしなかった。

 木造三階建てのアパートは小高い丘の頂上に鎮座し、都市開発の進むふもとの住宅地を眼下に、ありったけのおどろおどろしさを解き放っている。無論、近隣の住民の多くはその不気味な建造物を快く思っていなかった。現状を目の当たりにする限り、エリンジューム荘には輝かしい栄華など微塵も存在しなかったように窺える。

 ずさんな板張りの外壁は老廃で歪み、傾き、黒ずみ、主のいない蜘蛛の巣が絡み合って窓枠から垂れ下がっている。くすんだ灰色の窓はさながら刑務所の格子窓のようだ。たそがれを背に、カラスが群れを成して瓦屋根を縁取るのは茶飯事になっていた。

 周囲は背の高いサザンカの垣根で覆われていたものの、建物の三分の一ほども隠せていないばかりか、その荒れすさんだ様相はアパートの不気味さに拍車を掛ける手助けでしかなかった。

 アパートに面した緩やかな坂道はふもとの大きな幹線道路に続いているが、車通りは少なく、例え半日寝そべっていたとしても、犬の散歩コースの障害物くらいにしかならなかった。故に、そんな閑静な通りをエリンジューム荘に向かって車が走ると、近辺の住民たちはこぞってカーテンの隙間から好奇心を剥き出しにした。


 この丘には昔からの付き合いを重んじようとする住民が多いが、今や住みたがる者は減り、都市化で賑わうふもとの街に魅入られて越していく人々が増えている。しかし中には、あえて時間の流れに取り残されようとする、妙ちくりんな若者も存在するのだ。

 冬になり、エリンジューム荘の前庭にうず高く雪が積もると、その不気味な景観も少しはマシになっていた。

 アパートの居住者たちは、自分たちのねぐらが遥か昔から不気味がられているのをよく心得ていたし、そのことに関して「異論はない」というのが衆目の一致するところだった。十一月の暮れ、二〇一号室に住む笹岡美織という女学生が殺されたのだ。

 私は、その隣室、二〇二号室に住んでいる。名前は九城姫々(くじょうきき)。介護福祉士の二十三歳。

 私が笹岡美織を殺害してから既に二週間以上が過ぎていた。




 十二月十五日は冷え込みの厳しい朝だった。

 私は寒々とした部屋の片隅で目を覚ました。外はほの明るく、カーテンの隙間からライラック色の空が覗いている。こんな季節は寒さによる身震いで目を覚ますことがあるが、今日も例外ではなかった。暖房は寝る前に消してしまうので、冷たい外気が暖かな部屋の空気を吸い取ってしまうのだ。夏は素直に暑く、冬は素直に寒い……木造アパートのしきたりだ。


「おはよう」


 私は天井の隅に向かって挨拶した。そこでは、一匹の蜘蛛が小さな巣を張り、来るはずもない客を待って息を潜めている。いつ住み付いたのか知らないが、私はその蜘蛛をペットとして飼っている。名前はない。そこまで愛着が湧かないから。

 私は体に毛布を巻き付けたままベッドから起き上がり、片付けの行き届いた小奇麗な部屋を横切って、石油ファンヒーターのスイッチを入れた。寒さで目が冴えた以上、いつまでもこいつを寝かしつけておくつもりはない。

 そのまま向きを変え、毛布を引きずりながらキッチンまで移動する。氷河の狭間を走り抜けてきたような冷水を顔に浴びせ、眼球の奥に潜む眠気の残りを洗い落とした。


 濡れた顔で壁掛けの鏡を覗き込むと、いつもの私が微笑んでいた。母親譲りの丸みを帯びた輪郭の両端に、大きなえくぼが映えている。低い鼻がコンプレックスだった。出来そこないのそいつは、中学の頃には高見を目指す志を捨てていた。自慢の歯並びは煌めく真珠のネックレスのようで、お気に入りのショートボブはダークブラウンに染まっておしとやかに澄ましている。唯一、剛胆な目だけは父親譲りだ。


 テーブルの下は読み終わったファッション誌の収納スペースになっている。几帳面に整頓された押し入れには不釣り合いなので、いつもそこに置くことにしている。だから私は、押し入れの戸を絶対に閉めない。綺麗に片付けられた押し入れの中を披露していないと、気分が落ち着かないからだ。


 体に再度きつく毛布を巻き付けると、かじかむつま先を畳の上でスライドさせ、ヒーターの前まで進んでいった。柔らかな温風がくるぶしの辺りをくすぐっている。私は腰を下ろし、テレビ台の脇から化粧箱を持ち出すと、脚の短いずんぐりな丸テーブルに載せて化粧を始めた。

 仕事前に教会へ行くことになっていた。ここから徒歩で五分ほど、ふもとへ続く坂道の途中に小さな教会がある。この街で最も古い建造物で、エリンジューム荘より更に四十五年も年寄りだ。

 私は神様の存在を信じている。そんな私にとっての幸運は、物心ついた時からよしみのあった教会という施設を、自宅の近隣に据えられたことだった。不気味さと劣悪さで悪名高いエリンジューム荘をねぐらにするからには、それくらいの見返りは妥当なはずだ。


 外へ出てみると、天候が穏やかなのが分かった。冷気を含んだ風が肌を刺すこともないし、雪が容赦なく降り注いで視界を奪うわけでもない。西の空に分厚い雲が漂う以外は、見渡す限りの青空が広がっている。最近はずっと大荒れだったのだ。

 私は坂を下っていった。ここからでも尖塔の十字架がはっきりと見える。通りはひと気がなく、とても静かだ。教会に着くまで誰ともすれ違わなかった。

 門は開いていたが、膝下まで積もった雪が表階段までずっと続いている。私はロングブーツで雪を蹴散らしながら突き進んでいった。階段を上り切ると、正面には古めかしい樫の厳かな扉、左手にはスロープが伸びている。聖母マリア像のある小さな池のほとりにつながっており、教会を訪ねた時はこのスロープを下りて、マリア様を瞥見するのが日課となっていた。

 雪をまとった聖母マリア像は、いつもの大らかな表情で私に微笑みかけている。私は指を組んでお祈りすると、マリア像の優美な姿に向かって小さく笑いかけた。

凍りついた池の対岸には、丘のなだらかな斜面に沿って小さな雑木林が広がっている。私が木立の向こう側に見たのは、石造りの古めかしい井戸だった。大きく口を開けた闇へのいざないが、全てを吸い込む死の入口のように見える。私はとっさに目を逸らし、踵を返して正面扉まで戻っていった。


 扉を押し開けると、薄暗い小ぢんまりとした玄関が朝の淡い陽光で満たされていった。色あせてひび割れた漆喰壁が照らし出され、中央には聖堂へと通じる物々しい扉が佇立している。片隅には年季入りのアンティークな肘掛椅子と、花瓶の載った片軸机が置かれており、花瓶には立派な白ユリが生けられている。

 私は扉を開けて更に奥へと進んでいった。扉の向こうは小さな聖堂になっている。ここは、木の良い香りがする。私の好きな匂いだ。

 この聖堂も、私が幼い頃からよく知るポピュラーな造りになっている。ビロード張りの長椅子が左右一対に整然と並べられ、イエス・キリスト像が抱擁する祭壇に向かって、色のくすんだ赤いカーペットがまっすぐに敷かれている。大人の背丈ほどもある数々のステンドグラスからは、暖かな冬日が斜光線を描いて彩り鮮やかに差し込んでいる。

 私は光の中を祭壇へ向かって歩いていった。車椅子に身をゆだねる男が一人、顔をうつむかせ、イエスに祈りを捧げていた。男は聖堂に刻まれるこちらの足音に気付いたようで、白髪頭を上げてイエスを仰いだ。

 鈴木誠すずきまこと。襟高の真っ黒な法衣に身を包んだ、この教会の神父だ。


「そろそろだと思いました」


 イエスを見つめたまま神父様が言った。


「あなたはいつも時間通りだ」


 床板の軋むような声には、神父としての明瞭な毅然さと、年の功による優雅な響きがあった。私は声もなく笑った。


「マリア様は笑っておられました。今日はとても天気が良いから」


 最前列の長椅子に腰掛けながら私は言う。自分でも分かるほど声に弾みがない。


「ここまで来るのは大変だったでしょう。委託した除雪業者が早朝には作業を始めるはずだったのですが、どうやら到着が遅れているようです」


 神父様がイエスに向かって喋り続けるかたわら、私は目をつむって黙祷していた。


「池のほとりから井戸が見えました。あの井戸は雪に埋もれないのでしょうか?」


 黙祷が終わると、私はぼんやりと呟いた。今、私たちは初めて互いの目を見た。


「恐れることはありません。あなたは神の仰せのとおりに行動し、従順な敬意を示した。神はとても喜んでおられる」


「恐れてはいません。ただ、私が井戸に捨てた笹岡美織の遺体が、次の日には彼女の部屋の浴室に……しかもバラバラの状態で見つかっています。神父様、私の心に巣食うのは疑念と不安なんです」


 私はありのまま白状した。神父様は身を乗り出すと、大きなクロスのネックレスを前後に揺らした。


「神を疑うことはできない」


 神父様は語気を強めた。


「だが信じることはできる。あなたは神に仕え、その名誉と信頼を得た。誰にでもできることではない」


 私は神父様の表情がみるみる和らいでいくのを見ていた。心の迷いを晴らすような、神秘的な笑みだった。


「あなたには心より感謝しているのです。足の利かない私に代わり『神の言葉』を実行し、抜かりなく完遂してくれた。ここに集まる寄付金の多くはあなたからのものです。今の若者にしては珍しい。礼儀正しく、誠実で聡明、明朗快活。その心は揺るぎない信仰心に満ち満ちている。あなたを選んだのは私ではありません。父である神こそがお選びになったのです」


「神父様、私も神様の声が聞きたいです」


「聞くのではなく、感じるのです」


 神父様は再びイエス・キリストの彫像を仰いだ。


「あなたが思えば、神は必ず応えて下さる。神は信じる者を見放しはしないのですから。それに、私ならあなたを導くことができます。今日呼んだのはそのためです」


「新たな『言葉』を受け取ったんですね?」


 期待で胸が高鳴り、声が躍動して上ずった。


「笹岡美織の時と同じです」


 懐から三つの白い封筒を取り出すと、神父様は柔和に囁いた。それぞれ赤、紫、緑の色分けされた蝋で封が施されている。とても見覚えのある封筒だった。


「この中に天から授かった『神の言葉』が記されています。緑色で封蝋されたものを最初に開封して下さい。残りの二つは、時期が来た時に私から再度指示を出します。それまで大切に保管しておいて下さい」


 私は慎重な手つきで封筒を受け取った。生まれたての赤子を手に取るように。


「最初の封筒ですが、開封には条件があります」


「はい……条件ですか?」


 神父様の言葉を呑み込むのに、私はしばらく時間を要した。


「一つは、必ず今日中に開封すること。もう一つは、エリンジューム荘の大家の部屋で開封すること。この二つです」


「大家さんも『神様の言葉』を知るということですか?」


 私はつい不満の声色を漏らしてしまった。語調に含まれる不平の響きを、神父様はしっかり見抜いていた。


「あなたを見下げたわけではありません。しかし今回は、笹岡美織の時とは状況が違うのです」


「笹岡美織と関係があるんですか?」


「恐らくそのはずです。今思えば、笹岡美織の死が全ての発端だったのでしょう。神は多くを語りません。しかしその言葉を辿っていけば、いずれ真意が見えてくるはずです。その時、神は慈悲深くお応えになる……必ず誰かが報われる。さあ、お行きなさい。神の御加護があらんことを」




 その日、仕事を終えた私は急ぎ足で坂道を登っていた。暮れなずむ藍色のたそがれが、西の空にまだ微かなオレンジの残照を投げかけている。一刻も早く大家の元で『神の言葉』を開封したかった。サザンカの垣根が視界に入る頃には、もうほとんど全速力だ。

 アパートの前庭に足を踏み入れた途端、前から歩いてきた何者かを体当たりで吹っ飛ばしていた。事態をすっかり把握した時には、目の前に一人の男が大の字で転がっていた。


「ごめんなさい、急いでたから。痛くなかったですか? 私急いでたんです。ごめんなさい」


 私は雪に埋もれた男を助け起こしながら、矢継ぎ早に弁解した。肩で息をしている自分が情けなかった。


「平気ですよ。空見ながら雪にダイブするの好きなんです」


 男は雪を払いながら朗らかに言った。声は笑っていたが、痩せたハンサムな顔立ちは若干引きつっていた。


「もしかして、ここに住んでいらっしゃる方?」


 男が強張った笑顔のまま尋ねた。自分なりの好印象な笑顔を見せつける努力をしているようだ。


「はい。……どちら様ですか?」


 私は模範的な笑顔で問うた。


「恵比寿賢治といいます。ここに越してくることになったんで、大家さんと色々話をしてたんです。部屋は確か……二〇一号室だったかな」


「あっ、私の隣だ」


 私がそう口にすると、恵比寿という男は正しい笑い方を思い出したように顔を輝かせた。


「こんなことってあるんですね。落ち着いたら、また改めて挨拶に伺わせて頂きます。えっと……」


「九城姫々です。お待ちしています」


「はい。ではまた」


 私は彼の姿が垣根の向こう側に消えるまで見送った後、気を取り直して部屋まで駆けて行った。


「ただいま!」


 空元気な声が、冷え切った部屋の隅々に虚しく響き渡った。蜘蛛は天井の隅で巣の増築に励んでいる。時刻は十七時を少し過ぎていた。私は箪笥の引出しから封筒の一つを取り出すと、またすぐに部屋を飛び出し、一〇一号室のある一階まで引き返していった。大家の部屋を訪ねるのはここに越してきた時以来になるので、まる二年振りだ。

 呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは八重崎亜子やえざきあこだった。大家である八重崎則夫やえざきのりおの妻だ。

 魅入らせる綺麗な脚の持ち主だった。たおやかな脚線美を描き、ほっそりと麗しい。極彩色のドレスは野暮ったい花柄だが、長身の彼女には上品な風合いに落ち着いている。年増の女らしい中肉な体型が親近感を醸しているせいだろう。香水は目に沁みるほどきついが、化粧は薄く、その割に顔立ちがはっきりして端正な作りだ。赤みの強い褐色の髪の毛にはパーマ用の巨大なロッドがいくつも絡みついていて、大砲の砲口よろしくこちらに照準を定めている。


「あら可愛い子。どなた?」


 眼前の珍奇な姿に呆けていると、八重崎夫人が愉悦そうに声をかけてきた。


「こんばんわ、奥様。二〇二号室の九城姫々です。教会の神父様に頼まれて、『神様の言葉』を開封しに来ました」


 私は訪ねた趣旨を包み隠さず述べた。夫人の顔からさっと笑みが引いていった。この時が来ることを覚悟していたような、決然たる表情があらわになった。


「お入り、姫々」


「お邪魔します」


 私は促されるまま部屋の中へと足を踏み入れた。

 夫人の気品溢れる風体とは裏腹に、部屋の中は味気ない退屈な雰囲気だった。カーテンは無地のベージュで、色あせた座布団は萎んでカビ臭そうだ。テーブルカバーにはコーヒーのシミ、照明は埃のかぶった丸型蛍光灯。台所は溜め込まれた洗い物で雑然としている。ガラス戸棚には旦那の趣味らしい、鉄道模型やカメラのレンズが飾られている。テーブルの下に海外旅行誌が積まれている以外、八重崎夫人のお目に掛かりそうな代物はこの空間に存在しないように思えた。


「座ってて。今お茶入れるから」


「お気遣いなく」


 どこに座ろうか迷いながら私は言った。こんなにも座ってみたくない座布団を目の当たりにするのは初めてだったし、彼女からの気遣いなど本心からお断りだった。あんな台所で入れたお茶がおいしく仕上がるとは思えない。


「ほら、座りなさいよ」


 夫人は盆にお茶を載せて持ってくると、テーブルを挟んで一対になっている座布団の一つに荒っぽく促した。私はいよいよ観念した。


「つかぬことをお伺いしますが……」


「やっだ! それ何語?」


 八重崎は目を見開いてのけ反った。


「そんなに固くならないでよ。あたしのことは亜子さんって呼んで」


「えっ……ええ、じゃあ、亜子さん?」


「なあに?」


「神父様とはどういう関係?」


「ただの知人よ。あたしだって教会へ行くんだから」


 八重崎は淡々と答えた。それが真実か否か、私には分からなかった。


「神父様は、『神様の言葉』を開封するのはこの部屋だと仰いました。ご主人はお出かけですか? いつ頃……」


「主人なら当分帰らないわよ。それよりその『神様の言葉』って何?」


「知らないの?」


 私はうっかり声を荒げてしまった。しかし、八重崎は気にする素振りを見せなかった。


「姫々が来ることは聞いてたわよ。でもあたしは、あなた方とお友達の〝神様〟って人とは縁もゆかりもなくてよ。あたしの〝神様〟は『エリンジュームの神様』だけ」


「エリンジュームの? 何? ここに神様が住んでるの?」


 私は怪訝な声色で詰め寄った。そんなもの聞いたことがない。


「住んでる……とは違うわね。喧嘩したの、あたしたち……あの人はもう戻って来ないかも」


「……それって旦那さんのこと?」


「違うわよ。もっと若くて、ずる賢い子」


「完全に人間じゃないですか。そもそも、神様は人じゃありません。父、子、聖霊の三位一体による最も高貴な存在です。神父様は神様から発せられた警告の言葉を受け取ったんです。私たちは結託し、神様の言葉に従わなければならない。神様は私たちに名誉ある使命を与えて下さった」


「〝私たち〟って、それあたしが含まれてるわけ?」


 私はほとんど聞いていなかった。緑色の封蝋を解くため、全神経を指先に注いでいた。中から出てきたのは、銀箔の散りばめられた短い文面の手紙だった。


「『戦士よ。あなた方は、数日以内に急接近する男に警戒しなければならない』」


 私は達筆な神父様の文面を読み上げながら、すぐさまピンときた。


「恵比寿賢治が越してくるのはいつ?」


 八重崎は意表を突かれたように目を瞬いた。


「明後日の金曜日。明日の午後、本契約するのにもう一度来るけど。なんで姫々が彼のこと知ってるの?」


「さっき会ったの。確か二〇一号室だったはず……殺された笹岡美織の部屋」


「そうよ。この前電話がかかってきて、『例の部屋空いてますか?』って。興味本位でしょ。作家志望のフリーターって言ってたからネタ集めかも。一人暮らしだって」


「本当かしら?」


 私は考えを巡らせた。


「警察の類かもしれない。身分を隠して捜査に来たとか……」


「警察はとっくに手を引いたわ。犯人はまつ毛一本残していかなかったんだもの。それにあの部屋カラッポよ」


「それじゃあ、警察に近い何か……探偵とか」


 それを聞いた八重崎が嘲笑った。彼女の端正な顔立ちには不釣り合いな笑みだ。


「ドラマの見過ぎよ。それに私が探偵なら、調査対象になり得る住人に自己紹介なんかしないわね。そもそも誰が雇ったのよ」


 私は反論できなかった。彼女の意見は的を射ている。


「でも、急接近する男性っていうのは恵比寿賢治のことで間違いないよ。現れるタイミング、殺人部屋を選ぶセンス。神様は、私たちが共に手を取り合い、あの男を警戒するよう望んでおられる」


「あたしは望んでないわ。面倒くさい」


 八重崎がいくら駄々をこねようと、私には彼女を説き伏せる自信があった。


「三〇三号室のことだけど……確か岡野って人が借りてる」


 その言葉で、八重崎の顔に緊張の兆しがよぎるのを私は見た。


「何でいつも電気がついてるの? 朝出かける時も夜帰って来る時も、あの部屋の窓からはいつも明かりが漏れてる」


「住人に電気の使い方について教育するつもりはないわよ」


「それと匂い。最近になって、通路にお香の匂いが漏れ始めた。この前、回覧板を持って行く時に匂ってたよ」


「あたしは花の香りの方が好きだけど」


「三階の共有通路に虫が湧いてる」


「虫くらいどこにでもいるわ」


「まだあるよ。私は岡野を見かけたことがない」


「呼び鈴鳴らしてみたら?」


「あの部屋に住民なんていない」


 のらりくらりとかわす八重崎を追い詰め、私は核心に迫った。


「岡野に大麻を栽培させてるんでしょ? 違う?」


 八重崎は何も答えなかった。熱いお茶をグビグビ飲んでいる。


「あなた方がグルなら、岡野も安心して部屋を出入りできるでしょうね。一日中明かりがついてるのは栽培のため。お香は大麻独特の匂いをごまかすため。笹岡美織の一件で警察やマスコミが押し寄せた時、さぞ焦ったでしょうね。岡野はヤクザの回し者かしら? もしかして偽名?」


「はいはい。正解正解」


 八重崎はあっさり認めた。


「三〇三号室の主は岡野武人おかのたけと。あたしとは確かに馴染みがあるし、部屋で大麻を栽培してるわ」


「その人と知り合いなの?」


 私が詰め寄ると、八重崎は明け透けに視線を逸らした。


「えっと……たしか……半年くらい前に行きつけのバーで仲良くなって……空き部屋を提供することになったの。無償でね。で? で? あたしを脅迫する気? そこんとこどうなのよ」


 私は首を振り、やんわりと笑いかけた。


「私は誰も支配しない。私たちは秘密を共有することでより強く結束するのよ。亜子さんに私の秘密を教えてあげる。笹岡美織を殺したのは私よ」


 さすがの八重崎も言葉を失ったようだった。目を見開いたままお茶すら手に取らない。


「『神様の言葉』に従い、私は彼女を殺した。夜、帰宅途中の彼女を背後から襲ったの。刃物で脅して移動させ、ロープで絞殺した後、雑木林の奥にある井戸に捨てた。なぜか翌日、胴体を除くバラバラの遺体が彼女の部屋の浴室に遺棄されていた」


「その話が本当だとしたら、姫々が信じてるのは神様じゃなく悪魔ね……なんちゃって!」


 私が膝を立てて熱い湯のみを手に取ると、八重崎は光の速さで言い添えた。


「私の前で神様を侮辱するな。悪党め」


「自分のこと棚に上げないでよ……」


「私は神様の御意思に従ったの。神様に間違いなどありえないんだから、私に罪はないのよ。むしろ、神様の期待に応えられたことを誇りに思ってるわ。神様は、笹岡美織が死ぬことで誰かが救われることをご存知だったのよ」


「何とでも言えるわね。……それで? あなたの望みは何? 神様じゃなく、あなたの望み」


「恵比寿賢治の正体を突き止めてやるわ」


 私は脇に座布団を払いのけ、座りなおした。


「彼の素性が割れれば、警戒と同時に攻撃できるかもしれない。神様の言葉はあと二つ残ってる。神様がお望みなら、彼を手に掛けることだって……」


「あなた、部屋に入って来た頃の面影がなくなってるわよ」


「そうね」


 私は粗末な相槌であしらった。頭の中では、恵比寿を攻略するための計画が徐々に具現しつつあった。


「恵比寿賢治とは何を話したの?」


 私はしばらく考えに耽った後、海外旅行誌を読み始めた八重崎に向かって尋ねた。


「色々。治安のこととか、アパートのルールとか。彼自身のことも。なかなか男前だったでしょ?」


 八重崎は雑誌の頂きから目だけ覗かせてウインクした。私はささやかに舌を打った。


「手出さないでよ」


「こわーい。もしかしてあたしたちライバル?」


 八重崎は雑誌を防御壁に見立て、怯えた声で聞いた。


「彼氏ならいるわよ。ところで、引っ越し業者に関しては話した?」


「いいえ。何で?」


 八重崎は退屈そうに答えた。視線の先はまた旅行誌に戻ったが、それは束の間だった。


「作業員として部屋に潜り込むのよ」


 雑誌を放り出した八重崎の顔には、不服そうな仏頂面が広がっていた。


「こっちで業者を手配できる? サービスとか言って」


「そんなサービス聞いたことない!」


「もっともらしく聞こえるようにこじつけてよ。亜子さん口がうまそうじゃない」


「あなたには敵わないわよ」


 八重崎はぶつくさ言ったが、もう雑誌を手に取る素振りは見せなかった。


「まあいいわ。旦那が得意先にしていた所が一社あったから、掛け合ってみる」


「ありがとう。とにかく、私が作業員として参加できるよう取り繕ってみて。それと、アパートの居住者名簿みたいのある?」


 八重崎はよっこらせと立ち上がり、和箪笥の一番上の引き出しから順にまさぐっていった。私は待つ間、ほったらかしだったお茶を一口すすってみた。おいしい。


「あったわよ。十二月七日付けの新しいやつ」


 八重崎は名簿の収まったクリアファイルをテーブルに広げた。ありがたいことに、簡略化されたエリンジューム荘の全体図面が表記されている。どの部屋に誰が住んでいるのか一目瞭然だ。


「この隣の一〇二号室は入居者なし。これって確かよね?」


 私は何も書かれていない一〇二号室を指しながら念を押した。


「ええ。お陰様で、笹岡美織がバラバラの状態で見つかった後、すぐに三部屋も空いたわ」


 八重崎はそう言って、一〇二号室、二〇三号室、三〇一号室の順で指していった。


「それがどうかした?」


「今後、私たちは今みたいに会って話す機会が増えてくると思う。あらゆる情報の共有は私たちの強みになる。頻繁に……できれば毎日、この一〇二号室を使って密会すべきよ」


「電話でいいじゃない」


「木造アパートは音が響くの。恵比寿の部屋は私たちの部屋と隣接してるんだから、会話が筒抜けになるわ。……メールもダメ。時間がかかるし、誤送信でもしたら厄介よ」


 八重崎が何か閃いたような面持ちで口を開くので、私はすかさず阻止した。


「でも一〇三号室には住人がいるわよ。丸山さんっていうお爺ちゃん」


「大丈夫」


 私は得意顔で笑いかけた。


「丸山さんは難聴なの。よく挨拶するし、私が部屋にお邪魔することもあるわ。言ってなかったけど私、介護福祉士よ」


 言って、私は再び名簿に目を走らせた。


「この名簿、恵比寿には見せてない?」


「ええ。誰がどの部屋に住んでるのかもまだ知らないはずだけど」


「恵比寿がここを出た正確な時刻は?」


「十七時。二人で確認したから間違いないわ」


「私が自分の部屋に入ったのはその四分後だから、ぶつかったのは恵比寿がここを出た直後……彼が各階を回って表札を見て歩く時間には足りないわね」


「ちょっと、一人でぶつぶつ言わないでよ」


 八重崎は、私がまた無茶な提案を持ちかけてくるのではと恐れているようだった。でも、実際はそのとおり。


「部屋をすり替えるわ。丸山さんを一〇二号室の住民に仕立てて、恵比寿を出し抜くのよ」


「すごーい。うまくいくといいわね」


 八重崎は完全に他人事だった。


「亜子さんの協力が必要よ。この名簿を書き換えて、明日の契約時に恵比寿の目に触れさせて。これが成功すれば、もし出入りしているところを目撃されても説明をこじつけられる。あなたには大家としての権限があるし、私は介護を装って会っていたことにすればいい」


「恵比寿が一〇二号室を訪ねるようなことがあったらどうするの? あの部屋には家具の一切がないのよ? 生活感のない部屋から人が出てきたらすぐ怪しまれるじゃない」


「基本的には誰もいないんだから、留守だったことにすればいいわ。落ち着いたら挨拶して回るって言ってだけど、丸山さんとは外で接触させれば問題ないよ。明日の本契約で恵比寿と会う時、亜子さんの部屋を最初に訪ねるよう取り付けてくれれば、後は私が何とかする。丸山さんには私からうまく言っておくわ」


「明かりは? 夜になれば、丸山さんは一〇三号室で電気をつけるわよ。まさか真っ暗闇で生活しろって言うんじゃ……」


「大丈夫」


 私は威勢良く親指を立てた。


「アパートの構造上、窓から漏れる明かりを視認するには、ふもとに繋がるメインの坂道から直接窓を覗くしかない。二階と三階はそれで十分でも、一階部分は垣根と積雪が邪魔で絶対に見えないわ。明かりを見るにはアパートの裏に回り込まなきゃいけないんだけど、最近の大雪でその道は埋まってる。恵比寿が一〇三号室の明かりを見ることはできないのよ」


「もし彼に、雪の中を突き進んでいく根性があったら?」


「毎朝、裏庭へ続く足跡を確認する必要があるわね。いざとなれば、大家の亜子さんが一〇三号室の掃除をしていたことにすればいいわ。入居希望者が来たとか言って」


「掃除嫌いよ」


 八重崎は駄々をこねたが、それ以上何も言わなかった。

 私たちはしばらくお茶をたしなんだ。


「いくら年寄り相手でも、いつか絶対に不審がられるわね」


 八重崎がやおら意見した。


「わざわざ一〇二号室の住人に仕立て上げなくたって、あたしたちが人目に触れないよう気をつけて出入りすれば問題ないじゃない。耳が遠いなら尚更。デメリットが多過ぎる」


「亜子さんってお母さんみたい」


 言うと、八重崎は嬉しそうにはにかんだ。満更でもなさそうだ。


「この繋がりには意味があるわ。恵比寿に対する丸山さんとの関係を築くことで、こっちの不利になる情報の漏洩を防ぐことができるし、うまく利用すれば武器になる。恵比寿が入居する前にエリンジューム荘の中でネットワークを確立できれば、彼は手も足も出せなくなるわ。孤立したところを返り討ちにしてやる」


「あなたを敵に回したら便秘が治るんじゃないかしら」


 八重崎の〝ジョーク〟を、私は華麗に笑い飛ばした。


「最後にもう一つ。空き部屋も含め、各部屋にネズミ捕りを仕掛けて。理由は追って説明するわ」




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