鷲尾の場合その一(後編) ポプラ
解決編です。前編を未読の方は注意してください。
僕は道路を突っ切り、反対車線から走って来たタクシーの前に立ちふさがった。タクシーはブレーキを踏み遅れたが、僕は歩道側へ跳んで避けた。
「山田、よく聞け。これは罠だ。ハメられた。いいか、後でまたワンコールするから、それを合図に塩田店長と接触し、『今すぐ北橋店へ戻れ』と伝えるんだ。探偵であることを明かしても構わない」
僕は後部座席に飛び込むや、ルームミラーが初老ドライバーの哀れっぽい表情を映し出す瞬間を見た。
「ポプラ北橋店まで!」
「はい!」
ドライバーの返事は限りなく悲鳴に近かった。飛び出してきた謎の男が、頭からダイブして乗車し、電話片手に『罠だ』『ハメられた』などと散々まくし立て、運転席のすぐ背後からシートを貫く強烈な殺気を放ち出せば、どんなドライバーだって眠気が吹き飛ぶはずだ。
北橋店の陰気な駐車場を視野に入れるのに、五分も推理に専念していればそれでよかった。僕はポプラを少し過ぎた辺りでタクシーを降り、駐車場の闇に姿を溶け込ませた。
その時、専用口のドアの閉まる金属音が微かに鼓膜を打った。周囲に人の気配はない。誰かが中に入ったようだ。
僕は後を追った。ドアをそっと開けると、わずかな隙間から聞き慣れたボイラー音が漏れ出してきた。不気味な通路の暗闇が、静かな夜更けのとばりに飲み込まれていく。僕は二つの闇が交錯するその真ん中で、目を凝らして立っていた。通路にひと気がないことを確信すると、闇を掻き分け、音もなく走り出した。
厨房の奥から淡い光が漏れている。直後、何か硬い物が叩きつけられるような破壊音が聞こえ、ガラスの割れる音がそれに続いた。
僕は厨房へ向かって脚を伸ばしたまま尻込みしていた。昨日とは全く違う緊張感が二の足を踏ませている。それは恐怖そのものだ。探偵になって三年、自分の身をここまで危険な目にさらしたことなどなかった。何かを履き違えている……これはもう、探偵の出る幕ではない。
でも僕は、騒々しいボイラー音の只中を後戻りしようとは思わない。
「やれる」
自分に言い聞かせた。大丈夫……ちょっと昔を思い出すだけでいい。
次には厨房に足を踏み入れ、吹っ切れた足取りで前進を続けた。明かりは事務所からだった。僕は洗い場の陰に隠れて携帯電話を取り出し、山田にワンコールした。
事務所の明かりが消えた。
「……待て」
僕はうごめく漆黒の気配の前に立ちはだかった。浮足立つような、妙に軽い身のこなしだった。あんまり勢い良く立ったので、内臓をそっくりそのまま洗い場の陰に置いてきてしまった気がした。僕は壁伝いに手を這わせ、照明のスイッチを入れた。
光が降り注ぐ厨房の真ん中で、江藤が顔にカラッポの表情を貼り付けて佇立していた。
「何をしてるんですか?」
僕はゆっくりと、慎重に尋ねた。
「こっちのセリフだろ、鷲尾瑛助」
それはまったく別の人間……それも、とびっきり心のねじけた人間が、江藤の姿を借りて喋っているように見えた。語気は荒く、瞳には残酷さの一端がかいま見える。見る者を震え上がらせる冷たい瞳だ。
「言ったはずだ。店長を尾行し、見張れと」
「やっていましたよ。でもあなたにとっては、そのまま従業員専用口だけを見張ってもらっていた方が、都合が良かったのかもしれませんね」
「……全部お見通しってわけか」
江藤は手を塞いでいたボストンバッグと壊れた置き時計を手元の調理台に置き、真正面から向き合った。それは降参の印にも見えたし、攻撃態勢のようにも見えた。
「途中まで……山田が南橋店の裏からあなたが出てくるのを目撃するまで、僕はずっとあなたの手の上で踊らされていた。あなたが探偵を雇った目的は、表面上は塩田店長によるセクハラ疑惑の解明でしたが、実際は、わざと自分を尾行させるよう僕を誘導し、自分のアリバイ証人に仕立てること。あなたの本当の狙いはそこにあった」
「御名答」
江藤が朗らかに言った。笑っている。
「見上げた推察力だ。だからこそ、お前の誘導はよりたやすかった。山田ならこうはいかなかっただろう」
「僕だけじゃない。神居も利用した」
「そうだ。神居にお前たちの正体をバラしたのは俺だ。だがそんなことしなくとも、神居がお前たちの正体に気付くのは時間の問題だっただろう。神居はそれほど利巧な奴だ。だからあいつを利用し、お前に俺への不信感を抱かせるよう仕向けさせた。そうして、最終的には探偵のどれかに俺を尾行させ、南橋店に入る姿を目撃させることでアリバイ証人になってもらう。車を使わなかったのはより確実に尾行を成功させるためだ。もし俺を尾行する探偵がいなかったとしても、店長を尾行した奴が専用口を見張っていれば俺の姿は自然と視界に入る。同じことだ」
「更衣室で店長を尾行するよう僕に指示した時、あなたは車を南橋店の近くに停めてきた帰りだった。僕たちは車を発進させるあなたの存在に気付かず、従業員専用口〝だけ〟を見張り続ける……それがあなたの計画だ。あなたは会議に参加しているフリをし続けるその裏で、物置の陰に隠れたもう一つの裏口から出ていき、こうして事を済ませ、再度裏口からこっそり店内へ戻り、会議に参加する手はずだった。あなたは四年前まで南橋店で働いている。だから外からでは気付きにくい裏口の存在を知っていた」
「そこまで把握済みなら、俺が事務所で何をやってたのか分かるよな?」
僕は調理台に置かれたボストンバッグと壊れた時計を一瞥した。その二つが何を物語っているのか、考えなくても答えは出ていた。
「金庫からお金を盗み、それを外部犯の仕業に見せるため偽装工作していた。話によると金庫の鍵は壊れてるみたいだし、それならあなたにとっても架空の犯人にとっても都合が良いはずだ」
江藤の満面に醜悪な笑顔が広がった。悪寒が背筋を這い登り、後頭部を撫でていった。
「またまた御名答」
江藤は悦に入った声を厨房に響かせた。
「あなたのことは調べさせてもらいました。多額の借金があるそうですね。南橋店では同僚との金銭トラブルが相次ぎ、この北橋店へ異動となった。つまり、あなたが我々を出し抜いて何か悪巧みしようとする場合、金銭絡みである可能性は高い。さっきガラスの割れる音が聞こえましたが、恐らく窓を割り、そこから侵入したように繕った……こんな静かな夜に窓の割れる不審音を立てなきゃいけなかったのは、あなたにとって大きなメリットがあるためだと考えられる」
僕は無残に破壊された時計に注目した。針は零時五分を指したまま止まっている。その時刻にはまだ三十分ほど早い。
「その壊れた時計、わざと目立つ所に捨てるつもりだったのでは?」
江藤は何も答えなかったが、わずかに鼻の穴が膨らんだ。
「あなたは犯人を追う警察の立場になって物事を考えた。犯行現場に壊れた時計の破片を残しておけば、犯人が誤って時計を落として壊し、それを持ち去ったと推測できる。あなたの描く犯人像は実に臆病だ」
「犯人は時計を壊したことでひどく動揺した。壊れた時計をどこかへ捨てなければ、犯行時刻のまま止まった時計が決め手となり、足が付くと考えた。針を動かして犯行時刻をずらせばいいのに、犯人は思いつかなかった。そこまで考えが及ばなかったのも、破片を残していったのも、時計を安易な場所に捨てたのも、全て『臆病な犯人が動揺していたから』で一応は筋が通る」
「その時計の時刻は今から三十分後……つまりあなたは、僕がここに現れなければ、その時間を南橋店の会議で過ごすはずだった。自分のアリバイを証明してくれる大切な時計を犯人が捨てるはずがない。しかしそれをあえて捨てることで、時計の示す犯行時刻が真実であると警察に推測させることができる。我々に南橋店へ入る姿を目撃させた時刻と、実際に会議に参加した時刻に生じたラグは、車を利用したのでさほど大きなものではない。店のトイレにでもこもっていたことにすればいい。そもそも、犯行現場の壊れた時計ほど信用できないものはない……」
「やめろ」
江藤はささやかに、しかし力強く言い放った。長く、重たい沈黙が訪れた。恐怖心を煽る静寂だった。僕は、これから始まる危険なシナリオが江藤の頭の中で組み上がっていく様子を、その光輝を欠いた瞳を通して覗き見ているような気がした。
「俺は臆病だ」
沈黙は過ぎ去り、江藤のかすれ声が空気をわななかせた。
「逃げ出した、全部諦めて。金持ちが大嫌いだった。俺は何も持っていなかった。他人の不幸がたまらなく好きだ……弱い奴を服従させた……生き甲斐だった! いつも貪欲だ……あいつさえいなければ、あの時こうしていれば……抜きん出た力や、才能や……何か一つ、恵まれたものがこの俺にあればと! 他人を憎み、妬み、呪い、俺はずっと生きてきた!」
溢れ出す感情が江藤から人格を奪い去ってしまっていた。無表情に生真面目なお喋りをさせる最初のイメージは消え、今や涙を流し、怒りが沸点を越えて顔面を醜く歪ませている。
「努力した……信じようと……未来があったんだ。そこに希望があった……俺は知っていた。知っていたのに……うだつが上がらない……幸せが分からない。店が潰れ、離婚し、親権がなくなった……残ったのは借金だけ。いつもそうだ……筋書き通りに進まない。今だって……そうか……終わりか。俺は終わるのか。鷲尾瑛助……お前が終わらせるのか?」
江藤が調理台の引き出しから出刃包丁を取り出し、切っ先をこちらに向けたりしなければ、僕はその難儀な質問に答えられたかもしれない。恐怖が銀白色の残忍な輝きをまとってじりじりと迫り、江藤の手の中で震えた。その間も、僕は包丁だけをまっすぐに注視していたが、その鋭い刃先が体の一部を貫く瞬間を、なるべく想像しないようにした。
「終わらせない……続いて行く……お前さえ死ねば、筋書き通りだ」
江藤が一歩にじり寄るたび、僕は三歩後ずさりした。途中、頭上からぶら下がっていたフライパンを手に取り、両手で胸の前に構えた。攻守兼用の優れ物は底が焦げて頼りなかったが、胸の奥に小さな勇気の炎を灯してくれた。
「マニュアル通りに生きるのは幸せか?」
僕は声を絞り出した。江藤の顔に赤みが差し、口周りの青ひげが鮮やかな紫色に変わっていった。
「不便極まりない……普通の生き方をことごとく否定されてきた俺は、マニュアルをなぞらないと歩くことすらできやしない。お前にこの苦痛が分かるか? 詮索好き……ストーカーまがいの……悪趣味の……下劣な探偵どもめ……だから利用してやった!」
「それでも構わない!」
張り上げた声が排気フードの中で反響し、江藤の赤ら顔を硬直させた。僕は必死だった。この絶望的シナリオをハッピーエンドに仕立てようと、あり合わせの半端な打開策の数々が、頭蓋の内側で渦を撒いて旋回している。
「僕は境遇に幸、不幸の線引きなんかしない。幸せに定義がないのに、そんなことするのは滑稽だ。でも、だからこそ、誰にでも幸せを選ぶ権利がある」
「それがお前の哲学か」
「いや。僕は選ばなかった。三年前、一瞬ですべてを失った……この世で最も不幸な人間に陥ったとさえ思った。僕もあなたと同じ、不幸になることを選んだ」
「違う!」
江藤が歯をむき出して叫んだ。刹那、江藤の鬼のような形相は、こちらに向かって振り下ろされた包丁の切っ先の陰に隠れた。闇雲に突き出したフライパンは包丁の頑強な刃を見事に捉え、鈍い金属音を響かせた。
今の不意打ちで足がもつれた。湿った床に打ち捨てられた人参の切れ端が、靴の底ですり潰されて足をすくった。僕は派手に尻もちを着いた。痛みがない。恐怖で麻痺している。
「違う」
耳元で刃先を揺らしながら、江藤は静かに繰り返した。勝算を見出した男の穏やかな口ぶりは、先ほどとは打って変わって物静かだった。江藤は空いている方の手で胸倉を掴み、立ち上がろうとする僕の体を床に抑え込んだ。
「神の所業があるとしよう」
江藤が囁いた。
「絶対的……不滅の力だ。その存在を前に、俺たちは神の創った道を歩くしかない。俺の選んだ分岐点……その全てが不幸への道のりだ。俺に選択の余地はなかった……俺だけが知ってる……神は意地悪だ」
「神なんかいない」
僕は江藤の顔を睨み上げた。フライパンを握る手に満身の力がみなぎっている。もう逃げられない。戦うしかない。
「人間にとって世界一好都合な産物だ。そんな存在を認めろというなら、僕は諦めず立ち向かう。神に逆らえるのは人間だけだ。運命に立ち向かおうとする意志が、人間を突き動かす本能そのものだからだ。でも……神なんかいない。不明瞭な存在に、僕は僕の運命を託さない!」
がむしゃらに振り上げたフライパンが爽快な金属音を打ち鳴らし、江藤の手から包丁を叩き飛ばした。刃は床の上で騒々しくのたうち回り、手洗い台の傍らにそそり立つデザート・ブーツの厳かな足元で止まった。
とても見覚えがある……頼もしくもあり、僕にとっては憧れの靴だった。くすんだブラウンのホースレザー、地面をこする長いシューレース。この靴の主は、三年前、絶望に瀕していた僕を救った。探偵として、人間として、無我夢中で生きることの堅実な喜びを思い出させてくれた。
江藤の背後に古屋敷秀馬が立っていた。蓄えられた口ひげは一本残らず奮い立ち、三年前の威厳を彷彿とさせている。つぶらな瞳は大きく見開かれ、威圧的に江藤を見下ろしていた。所長のこんな表情を、僕は一度だって目にしたことがない。
「私の部下から離れろ」
獅子の咆哮のようだった。所長は江藤の首根っこをつかみ、後方へ軽々と投げ飛ばした。その先に塩田店長が立っていた。肩は落胆で沈み、軽蔑の眼差しで江藤を見下ろしている。
「大丈夫か? 立てるか?」
僕は差し出された所長の手を取り、立ち上がった。節くれ立って温かい、大きな手だった。
「助かりました。でも、どうして所長がここに……?」
「先輩!」
山田が通路の暗がりからひょっこり現れ、所長をなぎ飛ばして僕に抱き付いた。
「え、あ……まさか」
山田を引き剥がすのに手こずりつつも、僕ははっきりと理解した。
「先輩、手の空いてる調査員を一人連れて来いって……」
「私だ。呼吸ぐらいしかやることなくって」
所長は胸を張って躍り出た。まるで、職務中に暇を持て余すことが世界一の名誉であると言わんばかりだ。
気付くと、僕は声を上げて笑っていた。ごまかしの愛想笑いでも、強引な嘘笑いでもない、ありのままの笑顔だった。心の奥深くで何年も出番を待ち構えていた感情の一つが、胸のわだかまりを押し上げ、声となって溢れ出してくる。
幸せだった。永遠に笑い続けていたいとさえ思った。一度手放すと、もう二度とこんな風に笑うことができない気がした。
「足をすくわれたか……憐れだな」
江藤から片時も目を離すことなく塩田が吐き捨てた。その顔に血の気はなかったが、江藤はもっと悲惨だった。投げ飛ばされた姿のまま横たわり、手足を無気力に放り出して天井を仰いでいる。漠然と機能する男の生命が、消えゆくロウソクのか細い灯のようになって瞳の奥を照らしていた。
「塩田さん」
僕は江藤を眺め続ける塩田の悲哀な横顔に向かって声をかけた。
「改めまして……『古屋敷探偵事務所』の調査員、鷲尾瑛助といいます」
「江藤が依頼したんでしょ? 全部聞いたよ」
塩田はまだ江藤を注視していた。不意に立ち上がって反撃してくることを警戒しているようにも見えたし、失望と怒りの混沌に思いを馳せているようにも見えた。
「では率直に申し上げます。明日、我々に最後の内偵調査をさせて頂きたい」
ようやく塩田と目が合った。いぶかしむようにすぼめられた目だった。
「この男の卑しい魂胆を見破ってもまだ物足りない……と?」
「そうです。恐らく次は死人が出ます」
背後で山田と所長が息を呑むのが分かった。しかし当の塩田は、この最悪の事態を把握しきっていたような振る舞いを見せた。足の先から頭のてっぺんまで、体全部をこちらに向けたのだ。それは、亡骸も同然の江藤の肢体から完全に意識を切り離した男の、揺るぎない決心の明示のようでもあった。
「一体どこまで見抜いてる?」
塩田が尋ねた。その力強い語調にかつての軟弱さはない。
「九割以上は間違いないでしょう。今回の一件は核心に迫るものがありました。だからこそ自信があります……僕らなら食い止められる」
塩田はただじっと僕を見つめるだけだったが、その顔に怪訝の色はなく、むしろ安堵するように落ち着き払っていた。まるで、その勇敢なセリフが誰かの口から語られるのを、ずっと前から心待ちにしていたような表情だ。
「ですが、解決には塩田店長の協力が必要です。これから僕の言うことを、明日、必ず実行してください。よろしいですか?」
僕は塩田が何らかの反応を示すのを待った。強引に話を進めたくなかったからだ。塩田は暗闇の中を模索するように目を凝らし、こちらをじっと眺めていたが、やがて大きくうなずいた。
「まず、僕を厨房ではなく、ホールとして配備してください。出勤時刻は開店前。サポート役は誰でも構いませんが、神居くん以外でお願いします。あと、メニュー表を見せて下さい。セットや時間指定のあるもの、全部のメニューです。それから、開店前の朝礼で従業員全員にこう伝えてください。『今日をもって、ポプラ北橋店は無期限の営業停止になります』と」
計画はよどみなく進んだ。塩田は指示通りに動き、江藤が窃盗未遂で解雇されたことを理由に営業停止する旨を伝えた。どうやら塩田は、店を一旦閉めることに関しては本気らしかった。管理体制を一から検討し直すなら、まさにこのタイミングであると見極めたようだ。
僕はホールゾーンと呼ばれる小スペースで、落ち着かなげに視線を漂わせながら待機していた。他の従業員が仕込みに励むその陰で、開店するまでの間、ホールスタッフとして最低限の仕事をこなせるよう努力しなければならないからだ。
気分が悪かった。苦悶の緊張感が胃の腑にはびこり、口の中までほろ苦い臭気を押し上げていた。喉がカラカラだ。
このホールゾーンにはビールサーバーやデザート保冷庫、箸や手拭いの在庫ダンボールなどがひしめき、客席と厨房を連結する肩幅しかない通路の役割も担っていた。ホールスタッフは、この中で肩と肩をぶつけながら忙しなく走り回ることを日課としている。
塩田はいつもの蒼白な顔色で仕込みに追われながらも、優秀なサポート役の手配を怠りはしなかった。
「田口です。昨日はお疲れ様でした」
その配役に抜擢されたのは田口麗華だった。昨日、すれ違いざまに挨拶した、長い黒髪とホクロが好印象の女性だ。プリーツのあしらわれた白のエプロンをまとい、片手に丸いシルバートレイを持つ姿は、いっぱしのウェートレスさながらだ。
「昨夜はすごく疲れました。そのまま死ぬかと思いましたね」
僕は真実を述べた。田口は僕の肩越しに視線を留めたまま、細くて長いしなやかな指先でトレイをクルクルと回していた。視線の先は神居清太だった。
「今日はホールなんですね」
挨拶代わりとばかり、神居は明け透けなしかめ面で第一声を放った。江藤の解雇と営業停止が重なり、苛立ってやきもきしている様子だ。
「ホールは深刻な人手不足らしくて。店長は猫の手を借りるくらいなら、僕の手の方がマシだと考えたみたいです」
「俺を監視するために?」
神居は威嚇するような大音声で問うた。近くで作業していた従業員が一斉に振り向いた。
「なんてね、冗談です。でも、その悪趣味な人間観察、ほどほどにしといた方がいいですよ」
神居は満面にいつもの微笑みをたたえた。ホールゾーンに足を踏み入れ、戸棚からエプロンを引っ張り出す彼の後ろ姿を、僕は黙って目で追った。
「今日は僕もホールなんです。恵比寿さんのことしっかり見張っていて下さいよ、田口さん」
「任せて下さい」
田口がさも嬉しそうに返事をするのを、僕は案じ顔で聞いていた。
「あっ、休憩時間についていいですか?」
田口は立ち去ろうとする神居を間一髪で呼び止めた。
「私が十三時からで、神居さんはその三十分後にお願いします。他のスタッフも調整しておきました」
神居は笑顔で頷くと、目の端で僕を一瞥し、大股できびきびと去っていった。
「イッ……!」
僕は背骨を貫く鋭い痛みで飛び上がった。振り向くと、田口が拳を握って立っていた。どうやらひと思いに殴打されたらしい。
「じっとして。何かついてます」
田口はすがめた目で狙いを定めながら、頑強な二つの拳に息を吹きかけた。取って付けたような真剣な表情をしている。僕は狐につままれたような心境だった。
「取りたいなら、ぜひ手を開いてからにしてほしいですね」
田口は広げた手で遠慮なく背中を引っぱたいた。あまりの衝撃に背骨がヘソへ向かって弓なりに突き出し、痛みが気道を塞いで呼吸を止めた。
「取れました」
田口は悪戯っぽく笑いかけ、痛みでもがくことしか出来ない僕にそっとトレイを差し出した。それを手にした時、僕は事の真相を悟った。
なるほど、緊張が取れている。
「オーダーを受けたら、伝票を調理場スタッフに渡して下さい。料理ができるとベルが『チーン』と鳴るので、急いで取りに行くこと。大抵は店内のどこにいても聞き取れます。ホールでは常に視野を広く持って、片付けは静かに、迅速に、丁寧に。いつも笑顔で、『俺は日本一幸せな人間だぜ』くらいの振る舞いを見せつけて下さい」
食器の載ったトレイを片手で運ぶ練習に取り組む間、田口はずっと背後について回ってそれを繰り返した。僕はことさら気分が悪くなっていた。
「恵比寿さん、生年月日はいつですか?」
ホールゾーンでしばしの休憩中、田口が唐突に聞いてきた。
「昭和五十九年の七月四日ですけど……」
「その日は水曜日です」
「何で知ってるの……」
「そして今日も水曜日。つまり、今日は恵比寿さんの誕生曜日ってわけです。おめでとう」
田口は無表情のまま、辺りに乾いた拍手の音を響かせた。
「うん……ありがとう」
僕はちょっぴり元気になった。
いよいよ店が開くと、僕は出来上がった料理をトレイに載せて客席まで運び、満面に作り笑いを貼り付けて接客に励んだ。練習通りの出来栄えだったが、その間、田口は影法師のようにまとわりつき、僕の左斜め後ろを滑るようについてきた。その洞察力たるや、笑顔の片鱗に忍ばせていた疲労の兆しをあっさりと見抜くほどだった。田口はそんな時、胸ポケットから必ずペンを落とした。拾う〝ついで〟に僕を下から睨み上げ、熱い眼差しで檄を飛ばすためだ。末恐ろしい。始めて一ヶ月のスタッフとはとても思えない。
「ごゆっくりどうぞ」
僕は、険しい面持ちで向かい合う二人の男性客にアイスコーヒーを差し出し、仰々しい手振りでその傍らに伝票を置いた。もうすっかり作業に慣れ、リラックスしながら接客できるようになっていた。田口もペンを落とさなくなった。
「鷲尾せんぱーい!」
背筋を凍らせる呪いの言葉のようだった。僕は無視しようと決め込んだが、一旦声の出所に目をやると、それどころではなくなった。山田が窓際の客席からこちらに向かってデジカメを構える、おぞましい光景の断片が視界に焼き付いたからだ。
僕はとっさに客席の隅々にまで目を走らせた。幸いにも、客席で活動するホールスタッフは僕と田口、人目を盗んで大あくびするレジ係の女だけだった。田口は訝しげに眉根を寄せているが、僕は気にせず山田のいる席へ駆けていった。所長も一緒だ。
「全部台無しにする気ですか?」
僕はカメラのレンズを覗き込みながら、愛想の良い微笑みを浮かべて非難した。所長はラミネート仕立てのメニュー表で自分の顔を覆った。
「ほら、怒ってる。私はやめようって言ったんだよ?」
メニュー表越しに目だけ覗かせながら、所長はくぐもった声で弁解した。山田は何度もシャッターを切ると、テーブルの下で足をばたつかせ始めた。
「だってつまんないんだもん」
積み重なった苛立ちと不満と図々しさは、失敗したティラミスの残骸のようだった。所長からメニュー表をもぎ取ると、山田はデザートの項目に指を走らせた。
「あたしは所長とじゃなくて、先輩とデートしたかったのに」
「私は二ノ瀬さんとデートしたかったさ」
所長は嫌味っぽく言い返したが、次には山田と額を寄せ合ってメニュー表を覗き込んでいた。僕は呆れて観察していたが、監視役として配備されたこの二人は、それと気取られずうまくこなしているようだ。はたからすれば、恰幅の良い爺さんが下品な孫に手を焼く、安穏な日常のひと時を演じているように見えたはずだ。
そして数秒後にはすっかり仲直りしており、二人揃って嬉しそうに『ポプラパフェ』をオーダーしていた。巷では〝バケツパフェ〟とか〝パフェの斜塔〟などと呼ばれる、ポプラで最も豪華な巨大デザートだ。
厨房へ向かって歩いていると、空のトレイを小脇に、神居がのれんをくぐってくる姿が見えた。僕はとっさに店内の時計へ視線を移した。今しがた十二時を回ったところだ。徐々に客足も増え、席が埋まり、賑やかになっていく。
僕は笑顔で応対する神居のそばを通り過ぎ、のれんを払って慌ただしい厨房へ入っていった。背後に田口がいない。
僕は調理スタッフに伝票を渡すと、すぐさまホールゾーンへ足を運び、保冷庫の陰から客席を覗き込んだ。すぐ手前のレジカウンターを挟んだ向こう側に、神居の姿があった。五歳くらいの女の子を連れた、仲むつまじい家族からオーダーを受けている。そのすぐ後方で、田口が空いた席の片付けを手慣れた調子でこなしていた。
その二人が同時に厨房へ向かって歩き始めるのを確認すると、僕も厨房へ引き返した。神居は調理場のスタッフに伝票を渡し、田口は洗い場で食器を下げていた。
「一緒に二十番テーブルをお願いします」
言いながら、田口は足早にのれんをくぐっていった。客席を覗くと、田口はもう片付けを始めている。僕も急いで加わった。
「三度目のベルに注意して下さい」
僕の手は飲み残しのオレンジジュースを持ったまま硬直した。田口は皿をトレイへ重ねていくかたわら、その微かな声を、騒々しい店内の只中へナチュラルに溶け込ませた。気付くと、ベルの遠音が耳の奥に微かな余韻を残していた。呆けている間に、一度目のベルが鳴っていたらしい。
「これを洗い場に下げても、急げばもう一席くらいなら片付ける余裕がある」
僕は手元のシルバートレイに反射する田口の姿に向かって囁いた。田口の凛とした表情がトレイの端で頷いた。
「厨房に近い十番テーブルをお願いします。私はホールゾーン側の席から厨房へ」
僕は冷静な面持ちで踵を返し、ジュースがトレイにこぼれるのもお構いなしに客席を駆け抜けた。洗い物をシンクの中へ放り込み、大急ぎで客席へ戻った矢先、二度目のベルがのれんをくぐって後を追いかけてきた。心臓の高鳴りがベルの残響と共鳴している。
十番テーブルは食べ残しの山だった。かじりかけのハンバーグやオムライスは品の悪い子供の食い散らかしのようで、それが優に五人分は置き去りにされている。僕は焦燥感で手元を震わせながらも、慎重に片付けを進めていった。ここで誤って皿を割ったりすれば、確実に三度目のベルを逃すことになる。
隙間なく埋まったトレイは無闇に重い。今にも崩れ落ちてきそうなパスタ皿の山が、足を踏み出すたびに不穏な音を立てた。僕は肩でのれんを掻き分け、洗い場にトレイを沈めた。
折しも、三度目のベルが鳴り響いた。
背後から神居が現れる。毅然とした足取りだ。調理スタッフがトレイにランチセットを乗せている。それを受け取り、戻って来る。のれんを前にして間を置く……もたついている。ホールゾーンの方から田口がやって来た。トレイに洗い物を山積みにし、足元がおぼつかない。田口が神居の背後を通り過ぎ、洗い場にトレイを置いた。やおら、神居はのれんをくぐって姿を消した。
僕は洗い物を放り出し、再びホールゾーンへ駆け込んだ。神居が十五番テーブルの家族にランチセットを差し出す姿が見えた。その後も神居は厨房へ戻らず、手持ち無沙汰で客席をうろうろしながら、しきりに十五番テーブルの家族へ目を向けている。
僕は、味噌汁をすすった父親が顔をしかめるのを見た。その後方で神居が笑っている……断じて接客のそれではない。哄笑したい感情を腹の内側に押し留めるような、歪んだ悪辣の笑みだ。
「神居」
僕はホールゾーンを飛び出し、したたかにその名を呼んだ。声が嫌悪の響きをまとって上ずるのが自分でも分かった。神居は咄嗟に笑顔を引っ込めたが、こちらを見据える眼からはまだ、彼の身に巣食う冷酷な光輝が滲み出ていた。僕は決して、その瞳から目を逸らさなかった。
「何ですか?」
神居は大儀そうに返事をし、目の端に十五番テーブルを捉えたまま動かなかった。僕はテーブルの間を突き進み、神居の腕を掴んで引き寄せた。
「来い……来るんだ!」
怒声に驚いて客が振り向いたが、僕は気にもせず神居を引っ張っていった。ホールゾーンへ入ると、神居は乱暴に手を振り払った。
「客前で何のつもりだ! バッカじゃねーの!」
「潮時だ。お前のイタズラは残酷すぎる」
僕は落ち着いて言い放った。神居の顔から怒気が抜け落ち、次第に嘲弄の笑みが広がっていった。
「へえ。また何か見破ったんだ、探偵さん」
「お前の思惑は外れた。それだけは確かだ」
神居は客席を覗き込んだ。十五番テーブルの様子を窺っているに違いない。
「あれ……おっかしいなあ」
神居は白々しい呆け声を出した。
「何で死なないんだろ、あのお父さん。味噌汁に毒入ってたのに」
戦慄が僕から声を奪い去っていった。
神居の心には罪悪の意識が微塵も存在していない。罪の界隈に踏み込んだ者の代償……呵責や後悔といった代償を歯牙にもかけず、愛嬌に満ちた化けの皮をかぶり、平然と生きている。
そんな男が今、大好きなアニメを見逃した子供よろしく、顔に不機嫌な形相をぶら下げ、爪を噛み、激しく地団駄を踏んでいる。だが、それはほんの束の間だった。神居は途端に全ての動きを止め、僕を振り返った。
「少し早いけど、休憩にしましょう。まだ昼前で誰も休憩室にはいないはずだから、二人でゆっくり話せますよ。お互い、もう隠し事は一切なしです」
神居はさっさと歩いて行ってしまった。世紀の殺人ショーが僕の手によってぶち壊しにされたことを、ようやく現実のこととして受け入れる気構えが出来たようだ。同時に、自分には逃げ場がないことを察して、これから始まる第二幕に大きな期待を寄せているようにも見える。無論、僕はその期待に抜かりなく応えるつもりだ。
無人の休憩室はひっそりと静まり返り、窓の向こう側に淡い秋雨の街並みを映し出している。風に吹かれた雨粒が窓を打ち、鼓膜を打った。ひとつひとつに優しい響きを含んでいる。気色ばんで向き合う二つの剣幕をなだめすかすように。
僕らは丸テーブルに向かい合って座った。僕は窓を、神居はドアを背にしている。僕は食らいつくように神居をねめつけた。万が一でも、背後のドアから逃げられるようなことがあってはならない。
「隠し事はなしだったよな」
僕はおもむろに切り出した。
「鷲尾瑛助……僕の本当の名だ」
神居の心へ直に刻みつけるよう、僕ははっきりと力強くこの名を明かした。
「一生忘れねえよ」
語調こそ猛々しいものの、神居の視線はテーブルの上で組まれた自分の手に落ちていた。
「全部おしまいだ。鷲尾さん……あんたをみくびってた」
囁きながら、神居は小さくかぶりを振った。愛嬌の潰えた弱々しい成れの果てだ。
「怖かった。ホールゾーンにいる鷲尾さんを見つけた時からずっと。俺は、俺の計画が全部見透かされてて、先読みされてると悟った。江藤が昨夜ヘマしたおかげで、あんたらはもうここにいないはずだった。店長のセクハラ疑惑に白黒つけさせるために雇われたあんたらが、それを江藤の罠だと知って今日ここにいるのはおかしな話だ。……ああ、俺は知ってるさ。江藤が計画と一緒にあんたらのことも大分話してくれたからね。昨日、江藤がクレームの件で俺を呼びつけるのを見ただろう」
「江藤は〝俺と店長〟の関係に気付いてて、それをネタに俺を脅してきやがった。恵比寿と野坂の正体を明かした江藤は、自分の計画について話し始めた。南橋店での会議のこと、監視のこと、江藤自身に不信感を抱かせるようあんたを誘導させること。意味は分からなかったが、江藤にとって有益な情報であることは確かだった」
「江藤の存在はあまりにも邪魔だった。俺の唯一の居場所を脅かす害虫だ。だから俺は、あいつの計画が失敗するよう細工してやった。俺は研修で一ヶ月も南橋店で勤務していた時期がある。だから外部の者では気付きにくい裏口の存在を知っていた。元従業員のあいつならそれをうまく利用するだろうと推測できるし、わざわざ南橋店で会議を開いたことからもそれは明確だ。一か八か、俺はあんたに一つ余計な情報を提供したんだ。……江藤のバカが……胸糞の悪い……成り下がりの甲斐性無しめ……ざまあみろ」
「君の目論見はうまくいったよ」
僕は素直に称賛の言葉を贈った。
「君が特に念を押していた裏口の件。江藤主任の考えでは、探偵側が裏口のことを知っているはずはなかった。君の助言がなければ、僕らはまんまと主任に出し抜かれていた」
「あんた、本当は南橋店の研修には行ってないし、そもそも江藤が行かせるはずがない。行けば裏口の存在がばれ、自分の首を絞めることになるからだ」
神居の目が初めて僕を捉えた。曇天のように濁った瞳が虚ろに据わっている。
「鷲尾さんのことだし、もう〝俺と店長〟の関係についても気付いてるんだろ?」
「我々が裏口の存在に気付かず、江藤主任の計画が成功していれば、塩田店長が失墜するのは時間の問題だっただろう。セキュリティーの甘さ、鍵の壊れた金庫、セクハラ疑惑……おざなりな管理体制が全て露呈されてしまう」
「だが、君は計画を阻止し、店長を救った。いや、救わなければならなかった。主任が君の弱みを握っていたように、君もまた、店長の弱みを握っていたからだ。店を思うままに動かすことができる……君にとっては最高の脅迫相手だったろう。女性従業員への暴行やセクハラを繰り返し、その罪を店長に着せることもできる」
「君にとって、店長の失墜を目論む主任の存在は弊害でしかない。故に、君が江藤主任の邪魔立てをしたのは、店長を救うことで優れた環境を維持し、主任を失脚させるためだと十分推測できる」
「ちょっと違うね」
神居はいつもの優雅な調子で指摘した。
「店長には愛人がいたんだ。笹岡……覚えてる? 多忙な吹奏楽サークルで出勤できなくなった笹岡美織。店長と仲が良かった笹岡美織。前に話したよな? あいつは俺の女だったんだ。いつも一緒に過ごした。俺は、あいつが他の男と話すのを許さなかった。俺たちには他にもたくさんのルールがあって、その数だけ愛が深まると信じてた。美織がルールを犯すたび、俺は罰を与えた」
「あいつの悲鳴は最高だ。弦楽器の繊細な音色のようで、鼓膜を抜けて頭蓋に響くのが至福の快感だった。俺は今までたくさんの女の悲鳴を聞いてきたけど、どれも美織にはかなわない。……でもあいつは、俺の示す愛情をただの暴力だと判断したらしい。店長が日毎に衰えていく美織を気遣った時、あいつは俺の全てを明かした。すると店長が俺に責め寄った。俺はすぐに美織を諦めた。いつか必ず、また俺の元に戻って来ると信じていたからね。でも、それを機に美織と店長の関係が始まった。店長には妻子があった。美織はそれを知っていた……知っていたのに。美織は妊娠した……店にいられなくなった」
「俺は美織の住むアパートへ行き、急に出勤しなくなった理由を問い詰めた。あいつは店長との関係を明かし、俺に泣きついてきた。汚らわしい……目の前のそれはもう、店長の子を身ごもった醜い女だ。俺は遂に美織を見限った」
「そして、美織の妊娠をネタに店長を脅迫した。俺は何人もの女性スタッフと関係を持ち、俺のやり方で服従させた。俺の本性に気付いた女どもは、何も知らずに店長へ相談を持ちかけた。でも店長は俺を辞めさせられないし、ただ聞き流すしかない。俺は店長に店の現状維持を図らせ、辞めたがる女には徹底的に相談に乗れと脅し続けた。その内、パートの間で店長によるセクハラ疑惑が浮上し始めた。女子を気遣う店長の行き過ぎた配慮が誤解を招いていた。お陰でより動きやすくなった」
「でも江藤が黙っていなかった。二日前、入ってきた二人の新人に俺は強い疑念を抱いた。十周年祭の忙しい環境下に新人を二人も放り込むなんて、明らかに常軌を逸してる。俺はその日の内に店長を問い詰め、江藤の強い推薦で雇用したことを白状させた。そしてその片割れが、今目の前にいる。江藤の悪事を見抜いて、毒の仕込みを防いだ優秀な探偵だ。……一体どうやった?」
神居が身を乗り出した。僕も負けじと顔を突き出した。
「山田が毒物を発見する手柄を立てた」
「山田?」
「野坂亜璃亜の本名だ。昨日の出勤前、君が主任に呼び出されてここを退室した後、山田が君のカバンを引っ掛け、落として中身をぶちまけた。その中に、二重のポリ袋に入れられた白い粉を見つけた。モノフルオロ酢酸ナトリウム……劇薬の殺鼠剤だとすぐに分かった。君自身がその毒について話しているし、何より僕には知識があった」
「ポリ袋はボロボロで、かなり前から携帯しているようだし、警戒を怠っているかもしれない……もしバレたとしても、すり替える価値は十分ある。休憩時間、僕は更衣室で江藤主任から依頼を受けた後、中身をすり替えた。君が料理に仕込んだのは塩だった」
神居の表情がみるみる険しくなったが、僕は構わず続けた。
「計画はかなり綿密だった。まず、塩田店長にポプラを営業停止させるよう説得し、君を焚きつかせた。君にとって、ポプラがどれだけ居心地の良い場所なのかは承知していた。この環境を奪うことで君を追い詰め、あえて毒を仕込ませるよう仕向けたんだ。人間を毒殺し、最前線という特等席でそれを観察する場合、最も自然な形はこの飲食店しかないと思慮できる」
「ムカツク」
神居が吐き捨てた。
「いつ、誰が、『毒を仕込んだのは俺だ』なんて言った? 状況証拠だけで俺は犯人扱いか? 確かに毒が仕込まれることは知ってた。でも入れたのは俺じゃないし、料理を作ったのは調理場のスタッフだ。カバンに入ってた毒だって、誰かが俺を陥れるためにでっち上げたに決まっ……」
「うるさい」
怒りが声を押し出した。神居は狼狽し、出し損ねた言葉で喉を詰まらせたような顔をした。僕はそんな神居の顔を真正面から覗き込んだ。
「大人をなめるなよ、クソガキ。強がりでまくし立てたいだけなら相手を選べ。僕は警察でも弁護士でもない……正直者のしがない探偵だ。今日、君のおいたを終わらせるためにここへ来た」
「できやしない。あんたには俺を犯人として立証する術がない」
神居の言葉は自信からくるパワーでみなぎっていた。本物の毒物を入れ損ねたこと以外、自分には決定的な不手際がなかったと誇示し、また信じ込んでいる。そして、その言葉どおり、僕が証拠を握っていないのは事実だった。
僕は携帯電話を取り出し、いささか驚いた様子の神居を尻目に山田へコールした。
「二ノ瀬に今すぐ休憩室へ来いと伝えてくれ」
僕はすぐに電話を切ったが、こちらを用心深く注視する神居にはもう一言添えてやった。
「すぐに証拠が来る」
一分もかからない内にドアが開いた。神居は大いに安堵したことだろう。入って来たのは田口だった。
「休憩か? 悪いけど、もう少しだけ……」
神居はそれ以上喋らなかった。盛んに首を振り、僕と田口の姿を交互に眺め続けている。既にその表情からは、真実に気付いてしまった男の恐怖の色が溢れ出していた。いつもの優雅な振る舞いからかけ離れた、最も神居らしくない表情が剥き出しにされている。
「お前……探偵か?」
神居が核心に迫った。女が頷いた。
「二ノ瀬葵。二十三歳。独身。鷲尾の同期です」
神居はゆっくりと顔をこちらに向けた。怒りとも、悔しさとも、恐怖とも取れる面持ちが、物言わず僕を睨み続けている。
「運は良かった」
神居の気を逆撫でしないよう、僕は慎重に囁いた。
「江藤主任が我々の素性を君に話して聞かせた時、田口麗華の正体までは口外しなかったようだね。お陰で今日の計画は終始うまくいった。唯一の誤算は店長が僕のサポート役に二ノ瀬を寄こしたこと……店長は田口の正体を知らなかったし、陰で君と繋がっている以上、暴露するのは危険だろうと解釈できた。どのみち、僕と二ノ瀬は事前に打ち合わせが出来ている。無闇に接近し過ぎて君に勘付かれるのは好ましくない。君は視野が広いし、すこぶる目ざとい」
「そんな君が、毒を仕込む料理に気を配らないはずがない。白い粉は料理によって目立ってしまい、口へ含む前にクレームになる恐れがある。入れるなら、目立たず、溶解しやすい料理がいい。ポプラで条件を満たせる品はごくわずか。コーヒーやスープ、味噌汁などが好ましいが、スープはディナーメニューにしか含まれないし、コーヒーはブラックで飲まれると底に溜まった毒が溶けきらないかもしれない。料理を運ぶ君が手出し可能なのは毒を入れるまでで、溶かす作業は客に任せるしかない」
「しかし味噌汁なら条件を全て満たせている。熱くて溶けやすく、具が多く気付きにくい。味噌が沈めば好都合だろう。だが味噌汁はランチメニューだけの限られた時間にしか提供できない。これを逃せば夜のスープまで待たなければならないし、成功率も味噌汁ほどではない。だから我々は、君がランチタイム終了までに仕掛けてくるだろうと割り切っていたし、実際そうさせるよう焚きつける自信があった」
「……休憩時間か」
「そうだ。二時のランチタイム終了に合わせ、二ノ瀬が調整していた。君は最低でも三十分はホールを離れなければならない上、二ノ瀬が休憩に入っている間、僕のサポート役に応じなければならなかった。君には断る理由がないし、いつもの平静な姿勢を心がけるなら、僕を受け入れるしかなかった」
「だからどうした」
神居は臆さず頬杖を突いた。
「つべこべ言ってないで、さっさと証拠を見せてみろ」
「ここにあります」
二ノ瀬が歩み寄り、テーブルの真ん中にデジタルカメラを置いた。神居は動じなかったが、その大きな眼は瞬きもせずにカメラを見据え続けていた。
「あなたが塩を入れる瞬間が映っています。それ以外にも、興味深い映像が少々」
神居の手がカメラへ伸びたが、二ノ瀬は機敏な身のこなしでそれを取り上げた。
「せっかち」
二ノ瀬は神居の耳元で囁くと、ドアの前まで後ずさりしていった。
「嫌な女」
神居は空振りした手で再び頬杖を突き、声を低くして毒づいた。僕は否定してやらなかった。
「最も重要なのは、毒の仕込み場所を厨房に留めることだった」
僕は仕切り直した。
「のれんをくぐる前なら、二ノ瀬はどこからでも君の悪行をカメラに収めることができた。客席で毒を混入させることは考えにくいが、念のため山田を配備しておいた。あの時間帯、殺しの標的を模索していた君が客席の山田を見つけることは容易だったろうし、その正体を知っている以上、彼女に警戒しないはずもない。君が毒を仕込める機会は、料理を受け取り、のれんをくぐるまでの間しかなかったんだ。そして君は田口麗華の正体までは知らない……それが我々の武器でもあった」
「君が家族から受けたオーダーを調理場に伝え、出来上がった料理を運ばせるためのベルが鳴る……そのタイミングを見極めるのは二ノ瀬の役目だった。もう一ヶ月だ。短くはない。テーブルを片付けながら君が受けたオーダーの内容を聞くことができたし、その品がいつ完成するのか、二ノ瀬はしっかり見極めていた。対象のベルが鳴る時、我々は〝都合良く〟所定の位置にいる手はずだ。あとは、君が毒を仕込むまで何度も同じことを繰り返す。そして、君は毒を仕込む際、最も注意しなければならない人物が『恵比寿賢治』だと分かっている。故に、洗い場にいた僕だけを警戒していただろう……君はホールゾーン側から接近していた二ノ瀬には甘かった。カメラはトレイの上。積まれた食器の陰から撮影していた」
「それだけじゃありません」
二ノ瀬が再び躍り出た。声も足取りも軽やかに弾んでいる。
「内偵を繰り返す内、女の子たちから神居さんの悪行ばかり聞くようになりました。みんな怯えていて、深く語るのを口止めされているみたいだった……無性に腹が立ったので、神居さんを何度も尾行しました」
「何でだよ!」
神居はテーブルの底を蹴り上げたが、それ以上は成す術がないようだった。二ノ瀬が細めたまぶたの内側から、鋭い眼光を解き放ったせいかもしれない。
「店長がセクハラしていないことはすぐ分かりましたし、私としては、もっぱら神居さんの化けの皮を剥がすことに興味があったので。それに、あなたは女の敵です」
二ノ瀬は早口で説明するかたわら、手際良くデジカメを操作していた。
「ちょうど二週間前の正午、ひと気のない公園で神居さんを撮影しました。何が映ってると思います?」
二ノ瀬は神居の眼前にモニターを押しつけた。神居はのけ反ったが、目に掛かる長い前髪に少し触れた。
「野良猫だ。鳩も何羽かいる」
神居の口角が吊り上がった。
「じきに死ぬ」
「あなたが殺したのよ」
脳天に叩きつける痛烈な一言だった。二ノ瀬は数歩下がると、僕に熱い一瞥を投げかけた。どうやらバトンを渡されたようだ。
「僕はずっと迷っていた。君のカバンから毒物が出てきたからといって、それを人間相手に行使するだろうと決め付けるわけにはいかない。だがその映像で踏ん切りが付いた。君ならやりかねない、と」
神居の笑顔に醜悪さが加わった。
「趣味なんだ。血とか、内臓とか集めるの」
嬉々とした柔和な言い草だった。世間話でも始めるかのような物腰に、僕は寒気を覚えた。
「断末魔を撮影した後、死骸を見つけた子供たちの反応を観察して楽しむんだ。内臓は液体に浸して、ある部屋に飾ってある……見せてやりたいよ、とっておきの眼球コレクション」
「女の子たちにも?」
「まあね。剥いだ爪、髪の毛とか。最近は折れた歯をもらった」
「全部君の暴力だろ」
「制裁だ。どいつもこいつも、ルールを守らないクズばかりだった」
「さぞ歯がゆかったろうな。生半可な暴力じゃなく、いっそ殺してしまいたかったろう?」
「それって誘導尋問?」
笑いながら、神居はゆっくりと立ち上がった。自動販売機に向かって歩いて行く姿には、神居らしいクールな気高さが漂っていた。
「俺の負けです。証拠が出てきたんじゃ勝ち目ないですもんね」
神居は三人分の飲み物を抱えて戻って来るなり、あっさり認めた。僕は紙コップに入れられたホットコーヒーを黙って受け取ったが、渡された飲み物をためらいもなく口にする二ノ瀬には心底驚いた。
「俺のおごりです。安心して下さい、毒なんか入ってませんから」
いつもの人懐っこい神居がそこにいた。ここで初めて出会い、話しかけられた時の光景が、記憶の彼方からありありと蘇ってきた。それがとても心地良かった。
「塩を入れたのは俺です。のれんをくぐる直前だった」
神居は喋り続けた。僕は漠然と耳を傾けながら、指先を暖めてくれるコーヒーの恩恵に身をゆだね、一口すすった。神居がほくそ笑んだ。
「苦しみながら死んでいく人間を見て、悲鳴を上げる奴、おののいて何もしない奴、慌てふためく奴……俺は戦慄を帯びた波紋の中心にいて、蔓延していく混乱の中に見出すんだ。毒が体を支配するように、じわじわと崩壊し、朽ちていく世界の断末魔をさ。……嗚呼、打ち震えるよ。これはサスペンスドラマのチープな子供騙しでも、退屈な白昼夢の産物でもない。俺がかつて踏み入れたことのない至高のリアルなんだよ。……あんたらには分からないだろうな」
神居が一呼吸置く頃にはもう、コーヒーは一滴残らず胃の中へ流し込まれていた。僕は空虚なコップの底を眺めながら、深々とため息を漏らした。しかし、これは僕にとって大失敗だった。勢い余って理性まで吐き出してしまったようで、後に残ったのは心に巣食うおぞましい残留思念だけだった。
落ち着かない気分だった。奇声を上げながらテーブルの周囲を走り回れたら、どれだけ救われたか分からない。指先が震え始めると、僕はすがるようにして紙コップにしがみついた。手を離すと、椅子ごとひっくり返って地の底へ落っこちていくような気がした。
「分かるさ」
僕はたっぷり息を吸い込み、声を丁寧にひねり出した。油断すると、声が全部裏返って出てきそうだった。だが、このままだんまりを決め込むわけにはいかない。そんな心の動揺を気取られるのは絶対に嫌だった。
「目の前で人が死ぬ……むごく破壊された姿で。この世のものとは思えない。地獄の片隅に足を踏み入れるような感覚……見てはいけない生命の裏側をかいま見るような感覚……人格を置き去りにして、人間ではいられなくなるかのような感覚を、僕は誰よりもよく知ってる。だから、地獄の片鱗を一度でいいから拝みたいってその気持ち、僕には分かる。……それに、僕は君みたいな輩を何人も見てきてる」
「あんた誰だ?」
僕は確かにこの瞬間、神居の声に焦燥の響きを感じ取った。それは、神居が僕に晒した初めての弱みだった。
「三年前まで、僕は警察だった」
これは嘘ではない。
神居の顔から狡猾な笑みが消え去り、代わりに恐怖の色が差し込んだ。
「なるほど、合点だ。店長より肝が据わってるのも、状況の把握スピードも、キレのある推理の段取りも、毒のことについて詳しかったことも、みんなそういうわけか」
「三年前、ここから北の県境にある町公園で鳩の死体が大量に発見された。胃の残留物と血中から毒物検査による陽性反応が出て、大きく事件として扱われた折、僕も捜査に加わった。その後、毒物が『モノフルオロ酢酸ナトリウム』と特定されたが、捜査は難航。それが僕の扱った最後の事件になった……犯人はまだ捕まっていない」
「俺がやったとでも?」
「そうは言ってない。心当たりでもあるの?」
神居は口をつぐんだ。半端な言動が自分の首を絞めていくことに、ようやく気付いたようだった。神居は間違いなく焦っている。
「もう十分だ」
僕は見切りのつけ所をここだと判断した。
「二ノ瀬、すぐに店長を呼んで来て。終わりにしよう」
「まだだ!」
神居は立ち上がって叫んだ。椅子が後ろへ吹っ飛び、倒れたコップから中身がほとばしった。二ノ瀬が中途半端に立ち止まったまま再度指示を仰いでいた。僕がドアに向かって顎を指すと、二ノ瀬の姿はすぐに通路の闇へと消えた。
「悪あがき? 君らしくもない。さっき自分で負けを認めたじゃないか」
僕は明け透けに嘲笑を浮かべながら、神居の青白い顔に勇猛たる二つの闘志の炎が宿るのを眺めていた。
「終わらない……あんたを殺して、俺が勝つ」
「僕は死なない」
僕は奮然と言い放ち、神居に律儀な立ち方の手本を見せつけるように、ゆっくりと腰を上げた。
「君の目論見をもう一度食い止めた。あの時、上司から貰ったチョコレートがたまたまポケットに入っててね。甘い物は苦手なんだ」
神居の蒼白な顔面に一縷の笑みがよぎっていった。嬉々としたそれではなく、己の失態を恥じ、嘲るような冷めた苦笑いだ。
「万策尽きた」
濡れたテーブルに神居の打ち萎れた姿が映っていた。失意の闇の中で、神居が勝利の算段を完全に見失ったのは確かなようだ。僕にはそれが分かったし、これ以上の追撃が意味を成さないことも承知していた。
僕は席を離れ、ドアへ向かって歩き出した。例えこれが永遠の別れになったとしても、それをドラマチックに演出するような真似はしない。神居を見限り、塩田店長に託した後、ここを去る。ポプラの敷居を跨ぐことは二度とないだろう。
「グレアム・ヤングを知ってる?」
ノブに指を引っ掛けたまま、僕は肩越しに振り返った。神居の物悲しげな背中が濡れた窓の向こう側に溶け込んでいた。
「イギリスの毒殺魔だろ?」
僕は淡々と答えた。蓄えていた知識の一つだった。
「それを聞いたら、彼はガッカリするだろうな」
神居は背中で語り続ける。
「グレアム・ヤングは、世界の毒殺者としてその名を広めたかったんだ。独学と実験で毒薬の知識を手に入れ、家族や同僚をも手に掛けた。彼も、俺も、普通とは全く違う自我に目覚めていたんだ。あんたら凡人には理解できない……サイコパスの典型……究極のエゴイズムだ。鷲尾さん……これは俺にとっての宗教なんだよ」
ドアが体目がけて押し開けられてきた。僕はひょいと跳び退き、通路の暗がりから塩田店長を招き入れた。その雄々しい顔つきは、最初会った時とは別人のようだ。これで安心して神居を任せられる。
「すまない。色々と迷惑をかけたな」
神居を見る塩田の眼差しは、零落した江藤を見るそれとは違っていた。そこに息を潜むのは、脅迫という呪縛から解き放たれた男の、生き生きとした闘争本能だけだった。
「午後のホールスタッフは二ノ瀬が手配しておきました。僕らは撤退しますので、後のことはよろしくお願いします」
去り際、僕は目の端で神居を捉え、丸まった背中に彼の名を呼んだ。
「笑止」
僕は大声で言った。
「僕もサイコパスだ」
「あんたまさか……!」
僕が神居の最後の声を聞き取ったのは、休憩室を出て、通路の闇に二ノ瀬の輪郭を見つけた後だった。二ノ瀬は制服の上に黒のジャケットを羽織り、腕には僕の上着と荷物を抱えていた。
「嘘つきね。アリも殺せないくせに」
僕は鼻で笑って誤魔化した。
「できるさ。そうでなきゃ、罪もない第三者に塩入り味噌汁を飲ませることはできなかったし、神居にそれを仕向けさせることも無理だった。神居が他に毒物を隠し持っていたら、客か僕のどっちかは死んでたからね」
僕は二ノ瀬から受け取ったコートをまとうと、そのまま出口へ向かって歩き出した。外に顔を出した矢先、弱い雨を含んだ秋風が右の頬を平手打ちしていった。
「私ね、あなたがコーヒーを飲んだ時、間違いなく死んだと思った」
ボイラーの騒音を頑丈なドアでシャットアウトすると、二ノ瀬はきつくまとった襟の隙間から案じ顔を覗かせた。
「僕もゾッとしたな。あれほど注意しろって言ったのに、君は神居から飲み物を受け取るなりそれをがぶ飲みした。砂漠で遭難でもしてたのかよ」
今度は二ノ瀬が笑い飛ばした。
「ご好意にあやかっただけよ。私の位置からだと、神居がコップの一つに何か入れるのがバッチリ確認できて、しかもそれをあなたに渡したから、『あっ、ラッキー』と思って」
「ラッキーなもんか。神居は意図的に僕を殺そうとしたんだぞ」
「ところで、あなた何で生きてるの? 神居は絶対毒を盛ったのに」
二ノ瀬は、隣にいる男が健康そのもので、喋ったり、歩いたり、しかめ面で自分を睨みつけていることが不思議で仕方ないようだった。
「山田が神居のカバンを落とした時、出てきたのは殺鼠剤だけじゃなかった」
僕は二ノ瀬の殊勝顔に向かって呟いた。
「食べかけの板チョコレート……いや実際には、一度溶かし、毒を入れて固め直した粗末な代物だったろう。手製さながらのいびつな形は、そういった最悪のケースを物語っていた。これも塩と一緒に、所長からもらったチョコとすり替えておいた。あらかじめ手の中で温め、溶かしておけば形を似せることはできる。コップの底には溶け切らなかったチョコが残っていた。……ところで、ずっと聞きたかったんだけど」
僕は声を落とした。
「どうして経過報告書に神居のことを書かなかった? 二週間も前からあいつの素性を知ってたんだろ?」
「書いたわよ。でも、所長に口止めさせて、神居に関する内容だけは誰の手にも渡らないようにしたの。事を大きくしたくなかったし、この案件は私一人で解決できる自信があった。でも調べを進める内に江藤の内面が明るみになってきて、手に負えなくなったの。だからあなた方を呼んだ。店長と主任のことを調べさせて、私は女性スタッフから情報を集めて神居の本性を暴こうとしたのよ。でもまさか、劇薬まで所持してるなんて夢にも思わなかった……」
二ノ瀬はわずかに肩をすくめた。
「この案件は私たちにとって大損だったわね。あなたは命まで張ったのに、江藤から搾り取れる調査料は最初に契約した分だけ。しかも金庫から盗んだお金でまかなおうとしてたんだから、愚の骨頂よね」
僕は力なく笑った。
「僕はただ、善意あるボランティアと偽って、自己満足な探偵ごっこをやりたかっただけだよ。僕らがあれだけ熱心じゃなきゃ、所長を丸め込むことなんかできなかったわけだし、この調査は江藤主任の計画を食い止めた昨夜の時点で終わってた」
僕らははひと気のないバス待合所へ駆け込み、互いに白い息を吐きながら、目の前を車が走り過ぎて行くのをただ眺めていた。雨をはじく天蓋の微細な響きが、待合所を満たし、ひどく疲れ切った心身に沁み込んでいった。
「お疲れ様でした」
二ノ瀬は僕の横顔から疲労の色を感じ取ったに違いない。その声には、時折見せる二ノ瀬らしい情け深さが注ぎ込まれていた。
僕は、この三日でどんな恐ろしい死に目に遭遇し続けたか、ひとところに全部吐き出してしまいたい衝動をぐっと押し殺した。二ノ瀬が愚痴はけの対象として成立した試しがないし、何より、そんな情けない姿を彼女の前に晒すのはもう御免だった。
「すげえ腹減った」
僕はやぶから棒に訴えた。二ノ瀬の瞳が爛々と輝いた。
「行きつけの喫茶店前にめちゃくちゃまずいラーメン屋が出来たんだけど、帰りに行ってみない?」
「毒入りじゃないなら何でもいいよ」
間もなくやって来たバスに乗り込み、僕らは『古屋敷探偵事務所』へ帰って行った。