九城の場合その六 エリンジュームの神様
前話に続き、伏線回収、及び重大なネタバレを含みますので、これまでのお話を未読の方は注意してください。
初めて神の意思に背き、鈴木の首を掻っ切ったあの瞬間、私の中で大きな決着がついていた。
私はエリンジューム荘へ向かって歩いていた。足取りは勇ましく、頭の中は驚くほど澄んでいる。今しがた人を殺したことも、自由に過ごせる時間が残りわずかなことも、しっかり把握できている。鷲尾ではなく、鈴木を殺したことは、自分にとってのけじめであり、決着でもあった。神の名に精通してきたペテン師を葬ることで、私は本来あるべき自分の姿を取り戻したかったのだ。
しかし、鷲尾に真実を知られた以上、警察が動き出すのは時間の問題だ。殺人犯の正体を知った彼らは、やがてエリンジューム荘へ押し寄せ、私の身柄を拘束し、手土産にパトカーへ放り込み、その場から連れ去るだろう。そうなる前に、やらなければならないことが一つだけある。三〇三号室へ入り、『エリンジュームの神様』をこの目で見るのだ。そこに、亜子さんは何らかのメッセージを遺しているはずだ。
私は一旦、右腕を応急処置するため自室へ戻った。傷は深かった。縦に大きく裂傷し、血が滲んでは傷口から溢れ出した。私は調度品にまみれた押し入れの奥へ腕を突っ込み、埃のかぶった救急箱を引っ張り出した。すると、黒いコードで繋がれた二つの電子機器が、持ち手部分に引っ掛かったまま後を追いかけるように這い出てきた。どちらも手に納まる程の大きさで、一つはトランシーバーのような黒い物体、もう一つは小さなモニターの付いた、縦に長い銀色の物体だ。モニターにはタイマーが表示されているが、今は止まっている。
気味が悪い。そのどちらにも見覚えがない。誰かが置いたのだろうか? 一体誰が?
私は黒い物体からコードを抜いてみた。何事も起こらない。
「何なのよ……?」
私は驚いて立ち上がった。黒い物体が微かに声を反響させた。間違いない。これは盗聴用の受信機だ。ということは、恐らく銀色の方は録音機だろう。タイマーは録音時間のはずだ。
私は一定の音量で声を出しながら部屋中を歩き回った。発信機に接近すれば、聞こえてくる音が大きくなるはずだ。
やがて、一分と経たない内に目星がついた。それは蜘蛛だった……いや、正確には蜘蛛を模した立派な盗聴器だ。じっと動かず、巣の真ん中に黒い点となって引っ掛かっている。試しにそれへ向かって声を発してみたが、受信機は今までになく大きく、鮮明な声を反響させてくれた。
ふと、真久の顔が脳裏に浮かんだ。この部屋に出入りし、こんな細工を施せるのは、真久の他に考えられない。しかし、何故こんなことを?
折しも、階段を登る足音が聞こえてきた。ゆっくりと規則正しく、力強い。仰々しい自己主張のようだ。足音は頭上へと移動し、聞こえなくなった。三階には岡野武人しか住んでいない。まさか、全てが終焉を迎えようとしているこのタイミングで、私の前に初めて姿を現したというのだろうか?
私は受信機を放り出すと、何者かを追って三階へ駆け上がっていった。通路には誰もいない。冷え切った静謐に満たされ、歪んだ羽目板の切れ間から隙間風が忍び込んでいる。吹き曝されながら、私は三〇三号室の前まで進んでいった。お香の匂いがする。足元にはコバエや蚕の死骸が大量に放置されている。数週間前、回覧板を届けに来た時と何も変わっていない。
私は恐々とドアノブに触れた。冷たい感触は氷のようだが、この決心は揺らがなかった。鍵が掛かっていない……三〇三号室は静かに私を迎え入れた。
真っ先に出迎えてくれたのは悪臭だった。お香の匂いにアンモニア紛いの刺激臭が上乗せされ、目や傷口に沁み込んだ。玄関から部屋の中にかけ、床の上をエリンジュームが密生し、茎の束の合間から、プラスチック製の白い鉢植えを覗かせている。靴箱の上には焚き始めたばかりのお香が置いてあり、だらしなく脱ぎ捨てられた長靴が玄関に転がっていた。長靴は乾いている。ここに置いてあったもののようだ。
「おいで」
部屋の奥から男のかすれ声がした。私は臆さず、土足のまま踏み込んでいった。
窓辺に真久が立っていた。エリンジュームの茎と葉の陰に紛れ、壁にぐったり寄りかかり、青白い顔をこちらに向けている。紫色の唇が、真久にはそぐわない冷然の笑みを形作っていた。
「何やってるの?」
私は尋ねたが、真久に視線を留めておくことが出来なかった。あらゆるアングルから室内を照らす数多の植物栽培用ランプ、四隅に置かれた四台の加湿器、色とりどりの花を咲かせた植物、壁と畳みを浸食するカビ、飛び交うハエ、息苦しい程の蒸し暑さ……関心を引くものがあまりにも多過ぎる。
この空間には、かつての神の真似事のように、人間の手によって創造された八畳間の地球が存在している。太陽が照り、雨が降り、大気が全てを包み込んでいる。ここでは、確かに植物が生きている。人間が呼吸するように、しっかりと呼吸できている。
「姫々を待ってた。ずっと、ずーっと……」
蒼ざめた真久の顔から笑みが消えていくのを、ランプの一つが照らし出した。
「もしかして……帰ってないの?」
虚ろな表情が頷きかけた。首の重さに耐え切れず、そのまま倒れてしまいそうに見えた。
「昨夜、姫々と喧嘩してから、俺は外で君を待った。思い直してくれると思った……すぐに戻ってきて、二人で『ごめんね』って謝って、旅行の話をするんだと思った……君は戻ってこなかった」
「ねえ、真久。私たちは終わったの。もうあなたと一緒にはいられない」
私は穏やかに、説きつかせるように言った。そして、意を決した。
「人を殺したわ。笹岡美織……彼女を殺したのは私よ」
真久は驚かなかった。顔色一つ変えず、小さく頷いた。
「ああ、知ってた」
真久は上着のポケットから『神の言葉』の封筒を取り出し、顔の横に掲げた。封蝋は金色……鈴木から最初に渡された、笹岡美織を殺す段取りが記されたものだ。
「何でそれを……」
「君が出かけた直後に部屋へ入った」
真久は従順に答えた。
「姫々がどこで何をやっているのか、俺には把握しておく義務がある。だから、部屋の中をあさることも、盗聴器を仕込むことも許されるんだ」
「やっぱり……あの蜘蛛はいつから?」
「先週、プリンを一緒に食べた日があったろう? 姫々の帰りを待つ間に仕掛けたんだ。前から準備を進めていた。俺はあの蜘蛛が憎かった。嫉妬心だ。あんな所に巣を張りやがって……握り潰してやったよ。巣には蜘蛛の変わりに、俺の分身を置いた。いつでも姫々の声が聞けるように」
虫唾が走った。暑さと臭いが相まって吐き気がする。
「念のため、その場で蜘蛛の話題を振ってみたがバレなかった。君は無闇に生き物を殺したりしない。蜘蛛に擬態させておく方が安全だと俺は思った」
真久は封筒をランプの明かりにかざした。
「面白いね、これ。鈴木っていう神父の魂胆だろ? 姫々の信仰心を逆手に取ったんだね」
「いつからそれを?」
「読んだのは君が笹岡を殺す前日だ。俺はね、姫々……君が笹岡を殺すあの現場にいたんだ。木立の間からずっと見てた。君がいつ、どこで、誰に何をするのか、この手紙がみんな教えてくれた」
「何で?」
声が震えた。
「知ってたなら、何で止めなかったの?」
「言ったろう、俺は姫々を応援するって。……いずれにしろ、君は聞く耳を持たなかったはずだ」
顔が熱くなった。使命感に浮かれ、踊らされていただけの行動の一つ一つを、真久に見抜かれていた。恥ずかしさと情けなさで、彼を直視できなかった。
「姫々、顔を上げて」
優しい声だった。私は顔を上げた。決然とした真久の青白い表情に、わずかな赤みが差し込んでいた。
「もう時間がない。俺から姫々に、最後の物語を贈りたい」
「どういうこと……物語って?」
「『エリンジュームの神様』だ」
真久の口からその言葉が出てくるのは意外だった。私は応えず、ただじっと立ち尽くしていた。
「全ての発端は、神居清太という人物にあった」
「誰?」
「笹岡美織と付き合っていた男だよ。二十歳の学生で、容姿端麗。恵まれた環境で勝手ばかりしてきた、腹黒い奴さ。今年の夏、俺はアパートを出入りしていた神居と鉢合わせた。利己的で気に食わない奴だったけど、俺たちはある共通意識の下で意気投合した。自覚するほどの異常愛、執着心、嫉妬心、支配欲……それらが俺たちを強く結び付けていった」
「神居は色んなことを教えてくれた。二〇一号室の笹岡美織と付き合っていること、八重崎亜子と親しいこと。野良猫や鳩を捕まえては解剖し、内臓をコレクションすること。三〇三号室に『岡野武人』名義で部屋を借り、そのコレクションを隠していたこと。笹岡の部屋も同時に出入りできるようにと、八重崎亜子からこっそりマスターキーを受け取っていたこと。八重崎亜子が彼に便乗し、旦那に内緒で植物を栽培し始めたこと。鉢植えの中に〝秘密〟を隠すことが、八重崎亜子の本当の目的だったこと」
「違う。この部屋には大麻が……私が問い詰めたら、亜子さんは白状した……岡野武人が栽培してるって……」
「はぐらかすための嘘だろう。岡野なんて人物は存在しないし、この部屋に大麻草はない」
「一日中電気がついてる」
私は引かなかった。
「植物を枯れさせないためだ」
「虫は? 通路に死骸がたくさん転がってる」
「俺が蜂なら、大麻草より花の蜜を選ぶけど」
「あのお香は? 大麻の匂いを誤魔化すためでしょ?」
「姫々……順を追って説明したいんだ」
哀願する真久に向かって、私は渋々と頷いた。
「秋の終わり、俺は神居からマスターキーを受け取った」
真久はテディベアの付いた鍵を取り出し、ひとしきり宙でゆらゆらさせた。
「神居は、『引っ越すことになったから鍵を八重崎亜子に返しておいてほしい、もう二度とアパートへは近づかない』と説明してくれた。けど、俺はこのマスターキーを返さなかった。直後、姫々の部屋で笹岡殺害に関する手紙を見つけたからだ」
「……どういう意味?」
「俺が神居に成りすまし、八重崎亜子を利用することで、この先、何らかの形で姫々のサポートができるはずだと考えたからだ。八重崎亜子は神居が引っ越したことを知らない……俺が素直に鍵を返せば、神居がこの部屋を手放したことは明白になる。俺は神居の名を借りて八重崎亜子に手紙を書いた。神居との関係は把握しきっている……あいつは喋りすぎた。彼女からの返事は上々で、しばらく手紙のやり取りは続いた。彼女は旦那に対する不満を書き連ねるようになり、俺は彼女を励まし続けた。やがて、彼女は俺のことをこう呼び始めた……『エリンジュームの神様』と」
「真久のことだったんだ……」
「八重崎亜子は、心の拠り所を求めていた。すがるものはなく、浪費家の旦那と一人で戦ってきた。〝神様〟なんて存在は、姫々の崇拝するそれとは異なる、もっと身近な拠り所だったに違いない。そうして俺たちは結託し、ある一つの目的を掲げた。それが、八重崎則夫を殺すことだった」
私は嘆息を繰り返した。喉がからからだ。
「俺が彼女を促した。俺が殺る、あなたは旦那を井戸のある雑木林まで誘い出してくれればいい、と。神居の容姿を知ってる八重崎亜子に、俺の姿を見せるわけにはいかなかった。そして、彼女は神居がどういう人間かをよく心得ている。暴力的、破壊的。動物を殺し、内臓を集めて部屋に飾るような輩だ。俺が旦那殺害を提案した時も、不審に思わなかっただろう。実際、この計画は終始うまくいった」
「だが後日、彼女から届いた手紙には非難の言葉が綴られていた。どうやら、旦那の殺害が教会の神父に知られたようだった。死体を遺棄した井戸は教会の地下に繋がってたらしく、彼女は、俺がそれを承知でわざと井戸へ遺棄したんじゃないかと疑い始めた。神父と顔見知りだった彼女は、俺が神父と手を組み、陰でこそこそしているのが気に入らなかった。俺は本当に神父と面識がなかったし、手紙でそう伝えたが、二度と返事はこなかった。後日、俺はマスターキーを彼女の部屋へ郵送し、『神様ごっこ』を終わらせた」
「旦那を殺した収穫は大きかった。ナイフをちらつかせると、聞きもしないのに色々喋ってくれた。妻も知らない多額の借金があったこと、神父とグルだったこと、古屋敷探偵事務所で鷲尾瑛助という調査員を雇ったこと、神父から借りたお金をネコババしてたこと、そのお金はギャンブルと酒に消えたこと……洗いざらい白状すれば許されるとでも思ったんだろう。自分が殺されて然るべき理由を思いつくのに、これほど苦労しない奴も珍しい。……さっさと腹を刺して井戸に捨てたよ」
この男が真久のはずがなかった。かつて、世界で一番愛した男に、こんな残酷さの片鱗を見た覚えはない。
「このタイミングで探偵たちのことを知れたのはラッキーだった。旦那が何を依頼したかは分からないが、八重崎亜子との連絡が途絶えた以上、俺が直接動いて探りを入れるしかない。俺は探偵事務所に盗聴器を仕込むため、同僚に浮気調査の相談と称して事務所へ踏み込ませた。仕込みは成功だった。俺は同じ階のロビーで、鷲尾と二ノ瀬の会話を盗聴した。調査内容を知ることはできなかったが、アパートへ越してくること、それが二〇一号室だということ、二ノ瀬が同居人としてこっそり調査に加わることを突き止めた」
「盗聴器はかなり役立った。俺の分身だ。情報を聞き出し、包み隠さず教えてくれる。俺はアパート内に二つ仕込んだ。一つは姫々の部屋に、もう一つは八重崎夫婦の部屋に」
「亜子さんの部屋へ入ったの?」
「そうじゃない。テディベアだ。マスターキーを郵送する前、人形の中に仕込んでおいた。だから俺は、姫々と八重崎亜子が最初にコンタクトを取った、あの夜の会話を知ってる。受信機は録音機とセットで、姫々の部屋の押し入れに忍ばせておいた。あの部屋は電波を拾うのに最適だった。君はいつも押し入れの戸を開けておいてくれるし、アパートの中央に位置しているから、どの部屋から電波を飛ばしても相性が良い。俺は頻繁に姫々の部屋へ行き、録音機からデータを取り出してはまたタイマーをセットする、という作業を繰り返してきた。姫々の留守をわざと狙った時もある」
「でも万能じゃなかった。音声を安定して傍受できるのはアパートの敷地内が限界だったし、俺はアパートに常駐できない。録音した情報は後から取り入れ、対処していくしかなかったんだ」
「それじゃあ真久は、最初から全部分かってたの? 恵比寿賢治の正体も、目的も……?」
「いや。むしろ分からないことの方が多かった」
辛辣な口調だった。
「旦那を殺し、マスターキーを返送して間もなく、八重崎亜子の部屋で二〇一号室の契約を済ませたのは、鷲尾ではなく恵比寿という男だった。すぐに偽名だと分かったが、声を聞いただけでは確信が持てない……俺は鷲尾の顔を知らないし、同僚が接触したのは二ノ瀬葵の方だ。事務所で盗聴した鷲尾の声は録音しておらず、比較も不可能。だから、姫々が恵比寿の尾行を俺に頼んできた時、これはチャンスだと思った。俺は飽くまでも〝尾行に反対しているよう〟に振る舞い続け、裏では恵比寿の素性を探り出そうと思考していた。少し強引だったが、彼の部屋を訪ねることで、俺は知りたかった情報の多くを手に入れることができた」
「私を売ったのはその代償ってわけ?」
荒々しい声が口を突いて出てきた。胃の腑から腹立たしさがせり上がってきた。
「売った? なんのこと?」
真久は上ずった呆け声で聞いた。意表を突く言葉に心外を覚えたようだった。
「私が亜子さんと繋がってることや、教会にたくさんのお金を寄付してることを話したそうじゃない。葵がみんな教えてくれたわ」
「そうか……二ノ瀬が……だから昨日、君はあんなに不機嫌だったのか」
「真久が私を裏切ったから……」
「ごめん……本当に悪かったと思ってる。鷲尾に情報を漏らしたことも、それを黙っていたことも、みんな俺の勝手な考えだった。でもこれだけは分かってほしい……すべて姫々のためだった」
そうでしょうとも。私は真久の哀れっぽい表情を睨みつけた。純真無垢なこの男が……私以外の女性の愛し方を心得ないこの男が、その最愛の存在を裏切るのに、これほど理に適った釈明は他にないだろう。
「続きを聞かせて」
私は柔和な物腰で促した。
「その時のやり取りで、鷲尾が笹岡殺害の容疑者として本格的に姫々をマークしたことが分かった。俺は調査対象を逸らさせるため、八重崎亜子と神父が、あたかも君と接点があるかのようにほのめかした」
「嘘つけばよかったじゃない。関係のない第三者の名前を出すとか」
「鷲尾は俺を信用していた。嘘が発覚して探偵たちからひんしゅくを買うのは好ましくない」
「私にはついたくせに」
泣き所をつついてやった。いい気味だ。真久の顔に後悔の念が浮かび上がるのを見て、私は心の内で嘲笑った。
「そんなつもりじゃなかった。鷲尾から信頼を勝ち取って、姫々を不安がらせないようにするには、これしかないという直感的な浅知恵だった」
「それで、鷲尾は真久の思い通りに行動したってわけ?」
「そうさせるように仕向けた。翌日、俺は午前の仕事をサボって八重崎亜子の部屋へ行った。鷲尾に三〇三号室の鍵を渡すようにと、彼女へ指示を出すためだった。俺は、神居に代わってマスターキーを預かっていたこと、『エリンジュームの神様』が自分だったことを明かした。彼女自身の手紙を見せると、すぐに信じてくれた」
「鷲尾が言ってた。この部屋からしか見えない井戸があるって。それが『エリンジュームの神様』なんだって……」
「まさか」
真久が顔をしかめた。
「鷲尾が井戸のことを知ってたはずがない。墓穴を掘らないよう、僕らが死体を捨てたあの井戸のことを、亜子さんには喋らせないよう言い聞かせてたんだ。事実、彼女は何も喋らなかった」
「そんなこと言ったって……じゃあどうして、この部屋の鍵を渡したかったの?」
「今日、確実に旅行へ出発するために、鷲尾の注意を少しでも姫々から逸らさせたかった。この部屋にはたくさんの情報が詰まってる。あいつが一度ここへ踏み込めば、夢中になって推察に励むだろうと予想できた。でもこの部屋の鍵はなかった……神居がずっと前に失くしていた。だから鷲尾にはマスターキーを渡すしかなくなった。彼女にはマスターキーのことを黙っておけって言ったのに……どう見抜いたのか知らないが、鷲尾は鍵の正体に気付いていた」
「テディべアには盗聴器が仕込んであるのよね? 二人のやり取りを聞いてなかったの?」
「聞いてたよ。君たちが密会していた一〇二号室でね。でも亜子さんは鍵のことを何も喋っていない……筆談していたなら話は別だけど」
「ねえ……その手に持ってる鍵は何?」
私は宙ぶらりんのテディベアを顎で指した。
「鷲尾に渡した鍵を、何で真久が……」
「あいつには相応しくない」
真久の声が急に大きくなった。もたれかかっていた体を壁から引き剥がし、雄々しい激昂の面構えでこちらを見据えている。紅潮した頬が、ほとんど凍り付いていたはずのその顔を、徐々に溶かし始めていた。
「やっぱりこの鍵は、『エリンジュームの神様』と呼称された俺こそが持つべきものなんだ。この鍵には、支配欲を覚醒させる魔力が込められている。神居からこれを受け取った時、俺はエリンジューム荘を支配した気になっていた……」
「答えになってない。鷲尾がその鍵を持っていたなら……」
「あいつは死んだよ……さっき殺しちゃった」
抑揚のない声とは裏腹に、その表情はどこか誇らしく、愉悦げだった。
「殺した? 鷲尾を?」
私は手に汗を掴んだ。後ずさったが、背の高いエリンジュームに周囲を阻まれた。
「何で怯える? 姫々だって殺したがってたじゃないか。八重崎夫婦の部屋で、君はそう言った。録音機に残ってた」
「あれは……」
「外で姫々を待ってる間、俺はずっと受信機を手放さなかった。朝になって、鷲尾と二ノ瀬が電話越しに話すのを聞いた。直後に君と鷲尾がアパートを出ていったが、俺は後を追わなかった。アパートの陰に潜んで、鷲尾が帰ってくるのを待っていた。一時間ほどで姫々が、その後にあいつが戻ってきた。すぐに分かった……人形に独り言を呟くのを、俺は聞き逃さなかった。俺は背後に忍び寄ってあいつを刺し、鍵を奪ってこの部屋のドアを開けた」
「私を誘い出すため?」
「姫々と八重崎亜子が最初に会った晩、彼女が君に『エリンジュームの神様』について話すのを聞いた。三階へ上がっていく足音を聞けば、君は誰かがこの部屋に入ったと推量するだろう。俺は、君なら必ず三〇三号室の秘密を知りたがると踏んだんだ」
「一体何を……」
「姫々。俺たちは死ぬんだ。今ここで」
心臓が警告のパルスを打ち鳴らした。虚ろな瞳に殺意を忍ばせ、戦慄がじりじりと迫ってくる。間違いない……真久は私を殺す気でいる。
私は眼前の男から片時も目を離さず、ブーツのかかとで鉢植えを押しのけ、強引に退路を築いた。こんな所で死ぬわけにはいかない。
「あんたの目的は、最初から私を殺すことだったの?」
私は大声で問うた。虚勢でも張らないと、いつもの自分を見失う気がした。
「そうだ。でもこの部屋じゃない」
真久は少しずつ間合いを詰めながら、鉢植えの一つを蹴散らした。土もろともCDケースが吐き出されてきた。
「旅行先が俺たちの死に場所だった。静かで、綺麗で、誰もいない所……忙しなく生きたんだ……最期くらい安らかに死にたいだろ?」
「やだ……私は逝かない……あんた一人で死ねばいいだろ!」
「俺たちはもう生きられない。人を殺めてしまった……俺が八重崎則夫を殺した本当の理由は、姫々を永遠に愛するためだった」
「何言って……」
「笹岡を殺す君の姿を見た時、俺は決心したんだ。俺も人を殺し、姫々と同じ所へ堕ちようと。姫々……俺は、君となら地獄へ逝ける」
「違う! 私は天国へ逝くんだ! 神様に仕えてきた私が、神様から愛されてきた私が、地獄へ堕ちるはずがない!」
「またそいつか……」
真久は苛立たしげに吐き捨てた。
「神様、神様、神様……妬ましい……そいつがいる限り、姫々の中で俺はいつも二の次だった!」
「違う……違う……」
つまずいて倒れ込んだ拍子に、足元で大きな鉢植えがひっくり返った。途端に吐き気が押し寄せ、私はその場に嘔吐した。中から転がり出てきたのは蛆の湧いた腐敗の生首と、強烈な死臭だった。紫紺の皮膚はただれ、歯を剥き出し、片方の目玉が抜け落ち、眼窩の奥に無数の蛆が集っている。八重崎則夫と思しき成れの果てが、物言わずこちらを見つめていた。
「そこにあったのか」
足元のそれを見下ろしながら、真久は朗らかに言った。
「録音機に、八重崎亜子と鈴木神父の電話のやり取りが記録されていた。旦那の首が欲しい、という亜子さんからの申し出だった。彼女なら、その首をこの部屋に隠したがるだろうと、大体の予想はついていた。きっと〝大きすぎて隠せなかった〟んだろう……鷲尾がこの首を見つけなくて良かったよ。あのお香は、死臭を誤魔化すために八重崎亜子が置いたものだった」
私は手で這ったまま逃げ出した。恐怖で腰が抜けている。背後から死が迫ってくる。
死にたくない……死にたくない……あんな風になりたくない……死にたくない!
「神様! 助けて! 助けて! 神様神様神様神様……っ!」
冷たい手が首を締め上げ、膝立ちにさせた。腰がのけ反り、腹が弓なりに突き出した。唾液と一緒くたに、声にならない叫びが滴り落ちてくる。束の間、視界がかすみ、意識が頭から遠退いた。苦しみも、悲しみも、そして幸福もない、無の闇……刹那、私は〝死〟に触れた。
耳に熱い息がかかった。
「向こうで待ってて。すぐ迎えに行く」
真久の声は届かなかった。
私は死んだ。
真久の手の中で。
恐怖に引きつった断末魔の表情に、最期の涙を滴らせながら。