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鷲尾の場合その六 真相

伏線回収、及び物語における重大なネタバレがあります。前話までを未読の方は注意してください。

 僕は九城の部屋を出てからも忍び足を絶やさず、浮き足で通路を渡り、音もなく二〇一号室へ飛び込んだ。踊り場に真久がいなかった。何かが階段を転げ落ちていく痛々しい物音が聞こえてから、まだ一分と経っていない。僕はドアに密着し、覗き窓から通路を窺った。階段を登る足音が段々と近づいてくる。やがて、ドア越しに姿を見せたのは、口角から血を流した九城姫々だった。

 ショートボブは肩の上でもつれ、逆立って乱れている。表情は苦悶を刻み、右手で支えられた左腕が無気力にぶら下がっている。階段から落ちたのは九城に違いない。真久と一悶着あったのだろう。肝心の真久は、電話を掛けても応答がなかった。

 罪悪感がひしひしと身をすくませていった。二人の間に何が起こったのかは分からないが、この結果が自ら招いた災厄であることは確かだ。九城を怪我させたのは自分なのだと、自責の念に訴えかけないわけにはいかなかった。


 僕はコタツに潜り込み、撮影した写真をノートパソコンへ取り込む作業に勤しんだ。何かに専念していないと、後悔を誤魔化せそうになかった。それに、この大きな収穫をみすみす棒に振るわけにはいかない。法を犯した成果があの四枚の手紙の中に眠っている……気力を奮い起こすだけの確かな手応えがそこにはあったのだ。

 作業が終わると、僕はモニターに映し出された四枚の写真に集中力を注ぎ込んだ。電灯に照らされた墨の文字は実に達筆で、わずかに光を反射させていたものの、全てを読み解くのは容易だった。


『戦士よ。役目は終わった。神のために命を捧げよ。魂の器が、お前の首を待っている』


『戦士よ。惑わす蛇の言動に、物事の本質を見出さなければならない。過信は愚かである。故に、警戒を怠ってはならない』


『戦士よ。あなた方は、数日以内に急接近する男に警戒しなければならない』


 四枚目に目を通した時、顔がモニターに吸い寄せられた。


『戦士よ。決行は金曜の夜、二十三時以降とする。雑木林にて笹岡美織を絞殺し、遺体と所持品を井戸へ捨てろ』


 にわかには信じがたい内容だった。これらが九城に宛てられたものなら、全てに共通している『戦士』とは彼女のことで間違いないだろう。やはり、笹岡を殺害したのは九城なのだろうか? 決行日が書かれておらず、時刻も犯行場所も曖昧だ……どうやら、手紙の送り主とは直前まで打ち合わせができていたようだ。九城と直に会っていたのか、それとも五枚目の手紙が存在するのか?


 不審な点は他にもある。

 九城が手紙の指示通りに遺体を井戸へ捨てたのなら、胴体を除く笹岡のバラバラ死体が、彼女自身の部屋の浴槽で発見されるはずがないのだ。

 いずれにしても、送り主と九城が特別な絆で結ばれていることは確かだろう。たかが紙切れ数枚で九城をその気にさせ、笹岡を殺害させる自信が送り主にはあったのだから。

 僕は別の手紙へ意識を集中させた。


「数日以内に急接近する男……惑わす蛇……僕か?」


 だとすると、手紙の送り主は、僕がエリンジューム荘へ越してくることを知っていたということになる。八重崎夫婦から情報が漏れたか、どちらかが送り主ということも思慮できる。だが、則夫が契約書にサインした名前はここまで達筆ではなかったし、亜子にこれほどの字が書けるとは思えない。

 更に、手紙には〝あなた方〟と記されている。真久の『耳が温かかった』、丸山の『九城は木曜にしか来なかった』という供述からも、九城が八重崎亜子と密会していたのは事実だろう。亜子の自作自演でないとすれば、送り主は彼女たちの繋がりを知る、それ以外の人物ということになる。


「神のために命を捧げよ……」


 神……あの九城をこんな紙切れで踊らせることができたのは、そこに〝神〟の存在を後ろ盾とした偽りの啓示があったからだ。神父を務める鈴木なら、九城を丸め込むのに難儀しないだろう。しかし……


「魂の器が、お前の首を待っている」


 鈴木は九城に、「神のために死んでみろ」と伝えたかったのだろうか? 『魂の器』が何を指しているのかも分からない。四通に分けられていることからも、それぞれを開封した異なるタイミングがあったはずだ。九城はいつこれを読んだのだろう? 階段から落ちた彼女は、かろうじてまだ生きている……もしかすると、階段から落ちることで『死』へと踏み切ろうとしたのかもしれない。


 解析は深夜にまで及んだが、時間が経つにつれ、根拠の乏しい憶測が無機質な言葉の羅列を繰り返すばかりになった。これは、血の巡りの悪い姿勢で構えていても、結局は独りよがりな推測しか得られない、という皮肉めいた教訓なのだろう。功績を目に見える形で残すには、やはりアクションを起こすしかない……遂に、三〇三号室の扉を開ける時が来たのだ。




 明朝の空は、僕の快活な目覚めほど清々しいものではなかった。灰色を帯びた雲は幾重にもかかって空を覆い、雪片を風に乗せ、はた迷惑な冬の演舞に興じている。イヴの朝には不相応な彩りだが、僕にとってはどこ吹く風だった。浮ついたカップルが妄信する理想的なクリスマス像など、今の僕には毛の先ほどの興味もない。僕は、今日、これから、謎めいた三〇三号室の敷居にいよいよ足を踏み入れるのだ。


 僕は高揚した心持ちでシャワーを浴び、軽い朝食とコーヒーを済ませ、着慣れた背広をパリッと着こなすと、二〇一号室を後にした。正体が明るみになったからには、物書きフリーター流の変装グッズで武装する必要はなくなった。しかもこの背広には、「八重崎の慕う『エリンジュームの神様』とやらに謁見する以上、身なりはきちんと正装すべきだろう」という僕なりの敬意が込められている。


 三〇三号室の前までやって来ると、昨夜とは異質の緊張感が好奇心を煽り始めた。周囲には以前と同様、散乱した虫の死骸や、微かなお香の匂いが漂っている。僕はそれらを尻目にマスターキーを取り出すと、強張った指先で錠前に差し込んだ。

 ドアが開き切る前に、僕はもう息を呑んでいた。邪悪な臭気を含んだ暑い空気が通路に漏れ出し、自慢の背広の縫い目にまで絡み付いた。染みるような悪臭に目を細め、やけに明る過ぎる部屋の中を注視した。


 植物だ。エリンジュームのおぞましい群生が部屋中を浸食している。群青や赤紫の花を咲かせ、鋭利な葉を備えた長い茎が陽の光を求めてもつれ合っている。悪臭の原因は、エリンジューム独特の香りがお香の匂いと一緒くたになり、蒸し暑い空気をまとって密閉されていたことにあるようだ。靴箱の上には、皿に乗せられたコーンタイプのお香が灰となって置き去りにされていた。


 鼻が馬鹿になってきたところで、僕はようやく部屋へと踏み込んだ。玄関には長靴が置いてある。どうやら、葉の棘から足元を守るための長靴のようだ。僕は遠慮なく御好意にあやかった。長靴で室内へ踏み込んだ矢先、僕は舌を巻いた。

 視界が暗緑色に染まった。足の踏み場もない。床も壁も植物まみれだ。更には、至る所に設置された植物栽培用ランプ、四隅に設置された四台の加湿器、暖房がもたらす暑すぎる室温……突如、冬のボロアパートに熱帯雨林が現れたようだった。

 まさか、これが神様……?


「違う」


 僕は結論を急がなかった。これが神様のはずがない……頭の中から聞こえてくる否定の声を、振り払うことができなくなっていた。僕はもう一度よく室内を観察してみた。

 畳や壁には随所にカビが生え、それが放射状に広がって黒ずんでいた。顔の周りには小さな虫が何匹も飛び回っている。植物はエリンジュームだけではない。壁には大きな葉をつけたツル性植物が縦横無尽に這い回っていたし、足元には得体の知れない花がいくつも咲き乱れている。そのほとんどがプラスチック製の大きな鉢に植えられ、発育の良いものは腰丈まで茎を伸ばしている。

 しばらく後、僕は何も植わっていない鉢が点在していることに気が付いた。その内の一つに、土の中から僅かに姿を覗かせるCDケースを見つけた。引っ張り出してみると、それは八重崎に貸したはずの『カカアコ・クッキング・バンド』のCDだった。

 不意に、居酒屋での神居とのやり取りが脳裏をかすめた。


『亜子さんにとって、隠したいもの=忘れたい過去なんだ。要するに、隠しちゃえば都合のいいようになると思ってるのさ。ちなみに、俺は亜子さんの〝忘れたい過去〟を一つも知らない。あの部屋では分からないように工夫されてる』


 僕は土にまみれたCDの成れの果てをつまみ上げた。八重崎は決して、このCDを貰おうとはしなかった。僕の所有物として受け取り、そのままここに埋めたのだ。


「八重崎にとって、僕は〝忘れたい過去〟……違う。僕だけじゃない……そうか!」


 僕はCDを戻すと、鉢植えとエリンジュームの迷路をかいくぐり、窓辺まで近づいていった。そして、締め切られたカーテンを引き、垂れ下がったツルを払いのけ、結露した窓をこじ開けた。眼下に丘の冬景色が広がった。僕は目を凝らし、身を切るような冷たい風が雪と共に舞い込んでくるのもお構いなしに、じっと佇んだまま観察を続けた。

 神居とのやり取りには続きがあった……。


『あの部屋では分からないように工夫されてる。……でも、井戸が見える』


『何?』


『教会の近くに井戸があるんだ。あのアパートじゃ三〇三号室の窓からしか見えないみたいだし、知らなくて当然』


 神居の言葉は真実だった。丘のなだらかな斜面に沿って密生する雑木林の合間から、確かに井戸が見える。そこに井戸があると言われなければ、林の影に紛れた黒いシミにしか見えなかっただろう。五十メートルほど東に教会が建っている。


「本当に隠したかったものは、大き過ぎて隠せなかった……」


 最後に八重崎と会った日、彼女は確かにそう言って、三〇三号室に入るための鍵を僕に手渡した。この部屋からしか見つけられない井戸を見せるために……まさか、あの井戸が『エリンジュームの神様』?

 携帯電話が鳴った。二ノ瀬からだ。


「時間がないから質問はナシね」


 二ノ瀬が開口一番に釘を刺した。驚いて相槌さえ打てなかった。


「聞き込みはうまくいったわ。教会周辺の住民から鈴木神父に関する情報を聞き出したんだけど、あわよくば彼を出し抜けるかもしれない。私今、教会の前にいるわ」


「教会? 二ノ瀬、一体何……」


「鷲尾、鈴木は歩けるのよ」


 声に確信めいた力強さがあった。


「山田さんのデジカメに、それを裏付ける写真を見つけたわ。今送るから、把握次第すぐに教会へ来て」


 電話は一方的に切られてしまった。僕は状況が呑み込めず、虫の飛び交う中を呆然と突っ立っていた。二ノ瀬の言葉の半分も理解できていなかった。山田のカメラが鈴木の歩行写真を記録できるはずがない。カメラはずっと僕の手元にあったし、鈴木を撮影したことなど一度もないのだから。

 考えている内にメールが送られてきた。添付された一枚の写真には、僕の不吉な笑顔が写っていた。ポプラの制服を着て、片手に銀トレーを持っている。神居を追い込むために、山田と古屋敷所長を客席に配備したあの時、彼女が退屈しのぎに僕を呼び寄せ、撮影したものだ。


「ぐぅっふ……!」


 僕は激しくむせ込んだ。ハッと驚いた拍子に、生ぬるいすえたカビの悪臭を腹いっぱい吸い込んでしまった。写真の左隅に、見覚えのある二人の男が写り込んでいた……窓際の席で向かい合うその二人は、鈴木神父と八重崎則夫だった。この二人のことは覚えている。写真を撮られる直前、僕は二人の元へアイスコーヒーを運んだ。あの日、車椅子での来客は一度も見かけていない。鈴木は店内まで歩いてきたということになる。


「……待てよ」


 僕は頭の中から雑念を放り出し、仕入れたばかりの新鮮な情報を一旦整理するのに、意識を集中させた。

 あの四通の手紙の送り主が鈴木だった場合、笹岡殺害の首謀者は彼ということになる。故に、笹岡の死体を井戸に捨てさせたのは、彼なりの思惑があったからだ。そして、以前、ミサで鈴木と会った時、彼は教会の地下に礼拝所があることを自ら話している。


「もし……もし、地下礼拝所が井戸の底に繋がっていたとしたら?」


 繋がっていたとしたら、鈴木はまんまと笹岡の体をバラバラに刻み、胴体以外の部位を主の部屋の浴槽に遺棄することができる。わざわざ絞殺させたのは、胴体を綺麗な状態で手元に残そうと試みたからだろう。

 しかも、笹岡の部屋はアパートの二階にある。鈴木が車椅子に乗り続ける以上、九城が彼を疑うことは絶対にできないはずだ。

 どのみち、神に仕える鈴木を九城が疑えるはずもない。恐らく、この策における鈴木の勝算はそこにあるのだろう。神父という立場をうまく利用し、神の啓示を偽り、九城をそそのかして笹岡にけしかけさせ、自分の手を汚さずに事を進める。


 この推察に狂いがなければ、笹岡美織殺害事件の黒幕は鈴木ということで間違いなさそうだ。調べを進めれば、鈴木と則夫の関係も明るみになるだろう。そうなれば、この案件は一気に解決を見ることとなる。

 恐らく二ノ瀬は、聞き込みから得た証言と山田の写真を照らし合わせ、確固たる信念へと辿り着いたのだろう。無論、それは僕も同じだ。鈴木と則夫の密接な関係が浮き彫りにされた今、探偵としての士気に発破をかけないわけにはいかなかった。

 僕は温室のような三〇三号室から肌寒い共有通路へ飛び出すと、急いで鍵を掛け、脇目も振らずに階段を下り、雪の降る坂道を転がるように駆け下りていった。すぐに教会の尖塔が見えてきた。もうすぐで真実に追いつける……手を伸ばせばたやすく触れられる所に、追い求めてきた答えがある。


 教会の前庭はレンガ塀が埋まるほどの積雪に覆われ、雪山の頂から灌木の細い枝がわずかに突き出ていた。膝上まで達するのっぺらな新雪の中央に、表階段へ向かって一筋の道が築かれている。おそらく二ノ瀬が残していったものだろう。大胆不敵な足跡は、さながらモーゼによって一刀両断された大海のようだ。僕は二ノ瀬の足跡を辿り、階段をかっ飛ばして聖堂への扉をこじ開けた。

 神聖な静寂が僕のあらゆる感覚を抱擁していった。かすれた呼気は落ち着きを取り戻し、精神が徐々に研ぎ澄まされていく。


「二ノ瀬?」


 僕は静まり返った聖堂に呼び掛けた。周囲に人の気配はない。ステンドグラスがぼんやりとした光彩を放ち、整然と並んだ皮張りの長椅子をおぼろに照らしている。ただでさえ汚れてくすみがかっていた赤いカーペットは、この薄暗がりの中でほとんど漆黒に染まって見えた。その上を、僕は祭壇へ向かって突き進んでいく。


 カーペットは祭壇の手前で荒っぽくめくれ上がっていた。近寄って見ると、大きく開かれた跳ね上げ戸の下に、四角く切り取られた闇が広がっていた。地下へと続く石階段が、僕を深い暗闇へと誘い込んでいる。僕はもう一度辺りを見回し、改めて誰もいない事実を悟った。残された道は、眼下をうがつ地下への入口だけということだ。


 僕はネクタイを緩め、冥暗の淵へと体を沈めていった。階段は肩幅しかなく、沈黙の暗闇も相まって甚だ息苦しい。数段下りると、つむじまですっかり闇に浸かってしまった。

 階段にはリズムが皆無だった。高さに一貫性がなく、切り立つ断崖のような一段を下りたかと思えば、ほとんど高低差のない一段が矢庭に現れたりした。僕は焦り始めていた。剥き出しの冷たい石壁に手を這わせ、着実に歩を進めていくだけの繰り返しは、英気を挫く焦燥でしかない。行き着く先はどこなのか、そこに二ノ瀬はいるのか、鈴木も一緒なのか、自分を待ち受けるものが何なのか……どんなに目を凝らしても、答えは闇のベールに覆われたままだった。


 しばらくすると、左手から壁の固い質感が消え、指先が冷え冷えとした虚空に触れた。どうやら左へカーブしているらしく、階段はそこで終わっていた。数十メートル前方から明かりが漏れ、壁と低い天井の一角を赤褐色に照らし出している。僕にはそれが、炎の投げかける暖かな光だと分かった。


 脳みそに指示を仰ぐのさえもどかしかった……急き立つ気持ちが、僕の脚を明かりの出所に向かって疾駆させていく。乾いた空気が頬をこすった。

 奥には部屋があった。縦長の楕円を描く狭い入口から見えるのは、無数のロウソクが煌々と壁際を縁取り、その異様な現状の一部始終を照らし出す、身のすくむような光景だった。

 部屋の中央に鈴木が立っていた。背筋をまっすぐに伸ばし、黒い法衣を身にまとい、不敵な笑みを浮かべ、物言わずこちらを見据えている。その傍らに、黒い大きな棺が横たわっている。研磨された岩の台座に置かれたそれは、フタが開いている。この位置から中身が確認できないことを、僕は快く思った。棺の中身を見てはいけない気がした。鈴木の卑しい笑顔がそれを物語っている。


「さあ」


 僕が初めて教会を訪れた時のように、鈴木は朗らかに手招きし、頷きかけた。

 果敢に足を踏み出すと、部屋の全容が明らかになってきた。円形を模した内部には、壁際に石造りの粗末なひな檀が築かれている。僕の背丈ほどのそれには、数え切れないほどの燭台が置かれ、その上で炎を灯すロウソクの汗を受け止めている。炎は僕を取り囲み、高くそびえるドーム型の天井の、細かな岩のツララまでも明瞭に照らし出した。棺の置かれた台座の奥に、別の通路へと続く入口がくり抜かれている。僕がくぐったものより遥かに大きい。周囲はほの暗かったが、通路の末端では外界からの光が降り注いでいた。

 その入口の脇に、地面と天井とを結ぶ天然の石柱が、厳かな大木のごとくそそり立っている。二ノ瀬が、その根元に縛り付けられていた。後ろ手に結わえられ、柱に括り付けられる彼女の姿を目の当たりにした時、僕は事の重大さと、自分たちの置かされた局面がいかに危機的かを思い知らされた。


「ようこそ」


 鈴木は笑みを湛えたが、声に抑揚がなかった。


「前に話したかな? ここは禁教時代に造られた地下礼拝所だ。無論、今は誰にも使われていない」


「望みは何だ?」


 声が武者震いした。直後、二ノ瀬がハッと頭を持ち上げ、その憂いに濡れた瞳で僕を見つめた。鈴木の顔から笑みが失せた。


「私は望まない。因果は運命であり、私にはそれを受け入れる覚悟ができていた。……三年前、妻が殺されてからずっとだ」


 虚ろな声だった。無表情の凹凸は岩肌のように冷徹で、剛直だった。


「三年前に殺された?」


 僕は声を潜めた。不吉な胸騒ぎがした。


「三年前の冬、郊外を走る幹線道路で自動車事故が起きた……凄惨な事故だった。スリップした自動車が対向車を直撃し、三人が死んだ。両車はハンドルを切ったが間に合わず、同乗者の座る助手席をえぐり合って停止した。共に生き残ったのは運転手だけ。私と……お前だ」


 妻と娘の最期の姿が目に浮かんだ。引き裂かれた体、砕けた骨肉、飛散した臓器。真紅に染まる視界の中で、〝それ〟は、人の形を留めていなかった。


『目の前で人が死ぬ……むごく破壊された姿で。この世のものとは思えない。地獄の片隅に足を踏み入れるような感覚……見てはいけない生命の裏側をかいま見るような感覚……人格を置き去りにして、人間ではいられなくなるかのような感覚を、僕は誰よりもよく知ってる』


「お前は知ったつもりでいたかったんだ」


 鈴木の声が、呆然自失の僕の意識をこちら側へ引き戻した。


「自分を騙し続けた嘘つきめ。お前がもう少し素直だったら気付けたはずだ。私とお前との大きな接点に」


「あなたが……鈴木誠」


 それは、もう二度と口にすることがなかったはずの名前……深い眠りから戦慄の記憶を呼び起こすタブーの一つだった。


「あの当時、僕たちは顔を合わせなかった……事故後も、退院後も、あなたは面会を拒否した……弁護士を通じて話を進めるしかなった……」


「そのとおり。しかし私は、お前の名が『恵比寿』ではなく、『鷲尾』と分かった時から勘付いていた」


 鈴木は落ち着いた物腰で言葉を発した。


「それから、私はある一つの計画へ辿り着いた。手駒を配置し、この地下でお前を迎えることは、その計画における最後のステップだった。そして、まさに今、鷲尾瑛助はここにいる」


「……僕への復讐か?」


「そんな綺麗事ではない。お前を殺すのに、わざわざ復讐心に駆られる必要はなくなった。所詮、死はきっかけに過ぎん……『魂の器』を象る造形美の片鱗だ」


 棺の中身を愛撫する鈴木の横顔には、まどろみに近い恍惚の表情が湛えられていた。愛おしい存在に至幸を見出す男の顔、まさにそれだった。


「二ノ瀬を解放しろ。僕とあなたとのいざこざに、彼女は関与していないはずだ」


 僕は注意深くそう言った。鈴木の口角に愚弄の笑みが浮かび上がった。


「私が二ノ瀬を選んだのだ。初めて私の元を訪ねたあの日から、いずれは彼女を手中に収め、役立たずの九城に代えてこの地下へ招待できると確信していた」


「故に、ありもしない神の啓示で九城を殺そうとした」


 僕は言葉を引き継いだ。鈴木は黄色い歯をにやりと覗かせた。


「九城だけじゃない。神の意思を偽り、彼女を丸め込んで笹岡美織を殺害させたのはあなただ」


「どうしてそれを?」


 鈴木はさも嬉しそうに驚いた。


「九城の部屋へ侵入し、あなたが彼女に送ったと思われる手紙を読んだ。あの文面には、送り主を推測させる明確な説得力があった。『神のために命を捧げよ』。更にこう続いた。『魂の器が、お前の首を待っている』」


「上出来だ!」


 鈴木は愉悦げに声を張った。炎の幾つかが小躍りした。


「お前たちがここまで優秀とは思っていなかった。お陰で九城には手を焼かされたがな。……さあ二ノ瀬、今度は君の番だ。教えてくれ。なぜ分かった?」


 二ノ瀬は縄をほどこうともがいていたが、やがて自分を捉える鈴木の視線へ向かって睨みを利かせた。


「教会周辺の住民に聞き込みして、あなたが決まって水曜日に外出していることを突き止めたわ。朝の定時に教会までタクシーを呼んで、車椅子無しで乗り込む姿が目撃されてる」


「なるほど……今日は水曜日だ」


「ポプラで八重崎則夫と密会した日もね」


 束の間、両者の間で空気が張り詰めた。


「調査員が撮影した写真に、あなたと八重崎則夫がポプラで一緒にいる姿が写っていたわ。あの日は水曜の祝日だった。だから、今日も必ず外出するはずだと割り切ったの。ふもとで待機し、坂道を登っていこうとするタクシーに乗り込んで、あなたが教会から二本の脚で出てくるのを車内で待ち伏せした。鷲尾を呼んだのはその時よ」


「教会を訪ねたのはなぜだ? ボストンバッグを提げていた一昨日の昼頃だ」


「私は、私のやり方を認めてもらいたかった」


 こちらに一瞥を投げかける二ノ瀬の顔には、ぼんやりとした後ろめたさが漂っていた。


「その日、私は逃げたの……あの部屋からも、鷲尾からも。事務所で別の調査を買って出て、この案件のことを全部忘れようとした。でも満たされなかった。私は、あの部屋から完全に退くことで、私なりの決心と向き合いたかった。だから教会へお祈りに……私には、私だけの神様がいたから……負けたくなかった……薄っぺらな信仰心に過ぎなくても、あの子の神様だけには負けたくなかった」


「それって私のこと?」


 背後に九城が立っていた。左腕を力なくぶら下げ、腫れ上がった紫色の目でこちらを見つめている。息が荒く、額に滲んだ汗の粒が炎の光を浴びて輝いていた。


「何しに来た?」


 鈴木は仰々しく顔をしかめた。


「お話があって来ました」


 九城はかすれ声で言った。じりじりと歩み寄る彼女の目には、鈴木しか映っていないようだった。九城は右手に握られた紙切れを突き出した。


「八重崎亜子の部屋にこれが……私を殺せと書かれています……」


「確信に至ったというわけか」


 冷淡な声色に嘲弄の響きが加わった。九城は僕のすぐ脇で、腕を伸ばしたまま凍りついていた。


「バカなお前でも気付いたわけだ。これが『神の言葉』のはずがない、と。いかにも、私が八重崎亜子へ送ったものだ。二つ目の『言葉』の開封を彼女に命じた時、それを一緒に手渡した。しかしお前はその日、亜子の部屋へは行かなかったようだが」


「もし訪ねてたら、殺されてたってこと……?」


「いや……いずれにせよ、亜子にお前は殺せなかっただろう。殺そうと思えば、その後いつだってやれたはずだ」


「亜子さんはどこ?」


「死んだ」


 全員が一斉に顔を上げた。


「私が殺した」


 淀みない口調だった。

 僕は鈴木の言葉の陰に神居清太の挙動を見て取った。それは、人命に対してズレた価値観を抱き、人間を破壊することに何の抵抗も示さない背徳者の言動そのものだった。


「嘘だ……」


 九城が声を震わせた。


「信仰者であるあなたが、人を殺せるはずがない! 神様に仕えるあなたが……」


「お前は笹岡美織を殺したじゃないか」


 真実が静寂を運んできた。僕も二ノ瀬も、悔恨に歪む九城の横顔を呆然と眺めるしかなかった。僕が一番驚いたことは、九城がその真実に関して否定の意を示さなかったことだ。


「それは、神様が私にそうしろと仰ったから……神様が笹岡の死をお望みになったから……みんな神様の御意思だった。だから私は……彼女を殺さなければならなかった」


「違う。それはお前の意思だ」


 鈴木は厳格な面持ちで九城の言葉を撥ねつけた。


「『神の言葉』の紙切れが、お前のような小娘に何を期待する? この私が、お前のようなバカ娘に何を期待する? 『言葉』の開封は最初の一つで十分なはずだった。お前は八重崎亜子と共に、鷲尾瑛助を〝警戒〟しているだけでよかったんだ。引っ越し業者への扮装、部屋のすり替え、尾行……亜子から話を聞かされる度、腸が煮えくり返る思いだった。お前は、自分の意思による軽率な行動の数々を省みてもまだ、これが『神様の御意思』だのと戯言を抜かすのか?」


 九城は答えなかった。唇を噛み、ブーツのつま先をねめつけている。


「二つ目の『言葉』は応急措置用だ。お前の暴走が手に負えなくなった時は開封させ、あわよくば、亜子にお前を始末させるつもりだった。……手紙に記された『蛇』とは私のことだった。……だが、結局はどちらも失敗だった。ミサでは面と向かって警告したにも関らず、お前の暴走を止めることができなかった」


 九城はますます俯いて、ますます何も言い返せなくなっていた。鈴木が九城の哀れな顔を覗き込んだ。


「三つ目の『神の言葉』を開封したな?」


 九城はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「ではなぜ生きている?」


 九城は目を上げ、突き上げるように鈴木を睨みつけた。


「『神様の御意思』に沿うのがお前のやり方だったはずだ。神の指針を知ったからには、お前は死を以って忠誠を尽くし切るしかない。もっとも、今は虫の息のようだが」


 鈴木は上から下まで舐めるように九城の体を観察し、嘲笑った。


「所詮、その程度の信仰心なのだ。お前がしてきたことは子供の〝おままごと〟と大差ない」


「……黙れ」


 九城は拳の中で紙切れを握り潰した。


「人徳に背いたあんたなんかに、私を否定できやしない。私たちは人を殺した。例えそれが神様の御意思であったとしても……」


「私の信仰心はとっくに死んでいる!」


 鈴木が叫んだ。


「バカの一つ覚えが……私は神など信じていなかった! 三年前、妻が死んでからずっとだ!」


 憤怒に燃える鈴木の両眼が、僕の心身を貫いていった。しかし、僕はひるまなかった。


「教えて下さい。あの事故から今に至るまでの経緯を。なぜ二ノ瀬を人質にとり、八重崎亜子を殺さなければならなかったのかを」


「……いいだろう」


 鈴木はロウソクの明かりを受けて四方八方へ影を伸ばしながら、中央の台座を回り込んで棺の向こう側へと移動した。そして、側面に付けられた円形の取っ手を掴み、棺を斜めに持ち上げ、中身を披露した。

 一瞬にして目に焼き付いたそれは、首のない全裸の遺骸だった。それもただの遺骸ではない。あらゆる人間のパーツから創り出された、悲愴と怪奇の戦慄が織り成す死の象徴だった。

 パーツはそれぞれ胴体に縫合されていた。両腕は褪せてくすんだ褐色で、皮膚は剥がれ落ち、その下から乾いた肉が覗いている。ほとんどミイラと化していた。

 それとは両極端に、なまめかしい肌色を保っているのは脚部だった。つい先ほどまで元気に歩き回っていたかのような、生き生きとした艶が残っている。描かれた脚線美はどこか記憶に新しい。

 胴体は灰褐色に染まっていたが、腕ほど荒れてはいなかった。形は生前のように留められており、皮膚もしっかりと貼り付いている。乳房の隆起が女性を連想させたが、膨らみは胸部だけではなかった。腹に子を身ごもっている。


「『魂の器』だ」


 鈴木は酔いしれるように言った。宝物を誇示する幼子のように、無垢で、無邪気な微笑みを浮かべている。


「器? ただの死体よ」


「言葉を慎め」


 棺を元の位置に戻すと、鈴木は厳格な口調で九城をたしなめた。


「この器の完成は、私を死の淵から蘇らせる契約書そのものなのだ。キリストの降誕とは違う……私は復活を約束された人間として、この世に新たな宗教を創成させる」


「それに魂を移すってこと?」


 九城が呆れ声を出した。自分が口にしていることのばかばかしさを自覚しきっているようだ。


「そうではない。私は生まれ変わるのだ。新たな体と、時間を得るために。それには、まず、命の源が必要だった」


「もしかして、あなたが本当に欲していたのはお腹の子供?」


 僕は一つの仮説に辿り着いた。鈴木は満悦そうに頷いたが、笑顔はすぐに溶けて消えた。


「だが、残された時間があまりにも少な過ぎる……私はもうじき死ななければならない」


「余命が……?」


 尋ねると、鈴木は遠い眼で語り始めた。


「半年前、胃ガンが見つかり、余命一年を宣告された。私はその時既に、自分に降りかかる不幸を何かのせいにするのはやめていた。そんなことをしても、虚しさばかりが取り巻くだけだ。病気を患った無力の老いぼれは、世界の片隅に追いやられ、ひっそりと消えていくしかない」


「秋のはじめ、私は病院のロビーで笹岡美織と出会った。サックスケースを持っていたので、すぐに彼女だと気付いた。面識はなかったが、私は坂道を登っていく彼女の姿を幾度か見かけたことがあった。そして、他愛のない会話を進める内、彼女がエリンジューム荘に住んでいること、妊娠していることが分かった。すべてはここから始まった。失うものは何もない……私は腹をくくった。『魂の器』計画が始まった」


「ちょっと待って」


 九城は手で口を押さえ、微かにわなないた。


「それじゃあ、あの時、彼女のお腹には……」


「そうだ。お前が殺したのは妊婦だった」


 九城は息を呑んだきり、沈黙してしまった。爪が頬へ食い込んでいった。


「より完璧な『魂の器』を完成させるため、私には銘々の人間が持つ優れたパーツが必要だった」


 鈴木は淡々と続けた。


「神の名に異様なまでの執着を持ったお前の存在は、この計画においてかなり好都合だった。今までの付き合いから、お前にとって神からの啓示がどれほど大切なものかは承知していた。よしんば、どんな愚かな啓示だったとしても……それが人を殺す命令だったとしても、お前は屈しなかったはずだ、と。事実、『神の言葉』を受けたお前は、笹岡殺害を難なくやってのけた」


「妊婦だと分かってたら殺さなかった!」


 九城が涙声で言い返した。


「お前に殺させる必要があったんだ。私にできないことを、お前がどれほど機敏にこなせるか確認したかった。再び『神の言葉』が必要になった時は、それを円滑に進めるための予行にもなる」


 鈴木は肩越しに振り返り、背後に伸びるもう一つの通路を指差した。


「あの向こうは井戸に繋がっている。九城が笹岡を殺し、荷物と一緒に井戸へ落とした後、私はこの地下で遺体をバラバラに刻み、胴体以外の部位をアパート二階にある彼女の部屋へ遺棄した。だが、お前は車椅子に乗っている私を疑うことはできない。時間帯は人目につかない深夜。部屋の鍵はカバンの中に入っていた」


「八重崎亜子に声をかけたのは、笹岡が死ぬ一ヶ月ほど前のことだ。不定期だが、彼女は度々教会を訪ねることがあった。私は、彼女がエリンジューム荘の大家であることを知っていた。亜子はただ居眠りして帰っていくのを常としていたが、その日は私から声をかけた。彼女の脚が欲しかった」


「変態野郎」


 九城がはっきりと呟いた。鈴木は聞こえなかったかのように顔を背けた。


「亜子は教会の匂いや、雰囲気が好きだと話してくれた。だが、決して神を信じようとはしなかった。何度か会う内、彼女は悩みを打ち明けるようになった。もっぱら、子供がいない寂しさや、旦那のギャンブル依存症に関することだった……」


 僕らは怪訝に歪む互いの顔を覗き見た。


「何かの間違いよ」


 二ノ瀬が異論を唱えた。縄を解こうとするのをとっくに諦めていた。


「彼が事務所を訪ねた時、契約金として五百万も提示したのよ。それに何ていうか……浪費家には見えなかった」


「私がそう演技しろと指示を出したんだ」


 僕の中で切れていた糸と糸とが繋がり、次第に結び目を固くしていった。


「亜子を殺し、脚を手に入れるのに、則夫の存在はいつか必ず弊害となる。私は『則夫を説き伏せる』という名目で亜子を言い包め、彼と接触する機会を作ってもらった。則夫と親密になっておけば、事を有利に進められる場合が多い。そして、頃合いを見計らってどちらも九城に殺させるつもりだった。……結果的に、則夫との交流はうまくいった。そして、何度目かの接触の時、飲食店で鷲尾を見つけた」


 鈴木は興奮で声を上ずらせ、顔の隅々まで笑みを広げた。


「本当に偶然だった。その日は成り行きで、笹岡が働いていると聞いていた飲食店で話をすることになった。すると、私たちにコーヒーを持ってきたホールスタッフが客に名指しされた。名札とは違う名前で、『わしお』と。もちろん、私はその名を知っていた。忘れようもない仇の名だ。私はお前を呼びつけた二人の会話を盗み聞きし、お前が探偵として潜入調査していることを突き止めた。則夫のケータイでお前の名を検索し、該当したホームページから探偵事務所を割り出すまで、そう時間はかからなかった。お前の名は『調査員の紹介』ページに写真付きで掲載されていた」


「あの店でお前を見つけた時、私は、この計画が期待以上の仕上がりになるだろうと確信を持った。仇の血を得ることで、器はより精度を増す。私は笹岡殺害事件のほとぼりが冷めるまで待ち、その後、則夫へ探偵を依頼するよう促した。お前を調査と称してエリンジューム荘へ接近させ、九城と八重崎夫婦との接触を経て、いずれは教会までおびき出させる自信が私にはあった」


「だが、浪費家の則夫が、探偵を雇えるだけの金銭を持ち合わせているわけがない。そこで私は、則夫に五百万という大金を貸し付けることで、彼の意気込みがいかに本気なのかを探偵側に悟らせた。お前たちにやる気を出させ、確実にエリンジューム荘まで引っ張り出すためだった。この思惑はうまくいった」


「八重崎亜子は僕たちの正体を知っていたってこと?」


 僕が問うた。


「いや。亜子にも九城にも、お前たちの正体を教えてやる必要はなかった。亜子がそれを知れば旦那が雇ったのではないかと疑うだろうし、九城は人を殺している。そもそも、私がお前たちの正体を知っているのはおかしい。計画に差し支えるリスクは極力避けなければならなかった。まあどちらにせよ、則夫との連携があれば勝機は逃さなかった」


「則夫さんには、私たちに他の部屋を提供するよう指示を出すべきだったわね」


 二ノ瀬が口を挟んだ。


「彼がわざわざ『笹岡美織の部屋に越してこい』なんて言い出さなければ、九城らに余計な警戒心を持たせることはなかったはずよ」


「お前たちをエリンジューム荘まで誘導するのは最優先事項だ。よって、鷲尾瑛助を確実に引っ張り出すためには、上等な餌が必要だった。その役割を担うものとしては、あの部屋はまさに君たちへ打ってつけだっただろう。だが……そんな矢先、亜子が則夫を殺した」


 耳のずっと奥で、鈴木の最後の言葉が反響し続けた。

 想定していた最悪の事態だった。則夫は死んでいた……亜子は一度も、旦那の居所を明言しなかった。


「私は『魂の器』を出来る限り美しく維持するにあたり、雑木林の雪を井戸へ落とし、それを利用することで器を腐敗から守っていた。あの井戸が雪に埋もれなかったのはそのせいだ。事の起こりは、則夫が探偵社を訪ねた次の日だった。私はいつものように雪を地下に落とし、それを回収しにここへやって来た。この通路の奥で、則夫の死体は血に染まった雪の中に埋もれていた」


「私は亜子を教会へ呼びつけ、問い詰めた。この時まで、井戸の底が教会の地下に繋がっていることを彼女は知らなかった。亜子は渋々と自白を始めた。あまり多くを語らなかったものの、則夫を殺害したこと、死体を井戸へ捨てたことを白状した」


「なんで殺さなきゃならなかったの?」


 九城が囁くように尋ねた。身も心もボロボロで、今にもくず折れてしまいそうに見えた。


「死人に口なしだ」


 鈴木が無念そうに答えた。


「恐らく、私という味方を得たことで大きく勇気づけられたんだろう。亜子はずっと一人で戦ってきた。恨みもあっただろう……憎しみもあっただろう……そうして、我慢してきたものが殺意へ変わった。だが、このタイミングで則夫が死んではいけなかった。探偵と私を繋ぐ唯一の接点が絶たれてしまったからだ。お前たちの動向を知るだけなら亜子で十分だが、やはり調査状況を把握するには則夫の存在が不可欠だった。雇い主が失踪すれば鷲尾にも訝られるだろう。この時から、『魂の器』計画は失敗の一途を辿り始めていた」


「けど、あんたは私に『言葉』を渡したし、亜子さんは私が部屋を訪ねることも知ってた。……ずっと分からなかった。神様がどうしてそれを望むのか……あんたがどうしてそれを望むのか」


「私は望まない」


 鈴木はその言葉を繰り返した。


「あらゆる障害は英気となって私の元へ返ってくる。私は諦めなかった。お前に『神の言葉』を渡し、亜子には九城を部屋へ招き入れろと指示を出しておいた。九城と手を組み、鷲尾を迎え撃つその裏で、お前の動きを監視させるためだ。そして、首尾良く事が運べば……九城、最後に死ぬのはお前のはずだった」


「……どういうこと?」


「お前の首だ」


 鈴木は再び棺を傾け、『魂の器』を……首の見当たらない、滑稽な死体の寄せ集めを晒した。


「この計画を思いついたあの時から、ずっと決めていた。お前の顔は、若い頃の妻に生き写しだ。しかし……」


 侮蔑をあらわに、鈴木は九城へ向けたその顔を思い切りしかめた。


「ひどい顔だ。使い物にならん」


 九城は歯を食いしばったまま、醜く腫れ上がった左まぶたの僅かな隙間から殺意の光をたぎらせた。


「結婚したのは神父になる前だ。とても幸せな日々だった……事故が起きるまでは」


 鈴木は非難の目で僕を見据えた。


「妻の亡骸はこの地下に安置していた。事故がもたらした身体への損傷はむごいものだった。私は、かろうじて生前の姿を保っていられた両腕を取り外し、『魂の器』とした。この腕のことなら何でも知っている。小さな手、繊細な指先。小指はいつも甘い味がした。きゃしゃな腕いっぱいに、私を朝まで抱きしめていてくれた。不自由な脚に代わり、この腕は私を精一杯愛してくれた。あの車椅子は妻のものだった……私は事故の後遺症に見せかけ、車椅子を利用し続けた。私があれに座れば、妻はいつまでも私を抱いてくれる」


 いたたまれなかった。鈴木の哀愁の瞳に映るのは、干からびた骨肉の残骸に過ぎないものと化してしまっている。あの事故さえなければ、その両腕には今も血が通い、持ち主の体に留まっていたはずだ。この惨劇が幕を開けることもなかっただろう。


「脚を手に入れたのは昨日だった」


 鈴木の視線が脚線美をなぞった。


「昼頃だ。教会を訪れた亜子は、旦那殺しに関して警察へ自首すると言い出した。ここで彼女を引き止めなければ、私の計画は全て水の泡だ……私は亜子をこの地下に誘い出し、縄で絞殺した」


「悪魔!」


 がなり声を上げながら、九城は棺越しに鈴木の胸倉を鷲掴んだ。


「亜子さんは知ってた! あんたの目論見も、自分が死ぬことも! 迷いの中で、ずっと私を守ってくれたんだ……返してよ……亜子さんを返して……!」


 九城が退くのと、二ノ瀬が小さく悲鳴を上げるのは同時だった。鈴木の手に、錆びた片刃のノコギリが握られていた。棺の陰からそれを取り出し、コートの上から九城の右腕を切りつけたのだ。地面に点々と血の花が咲いた時、僕はようやく事態を呑み込んだ。


「来るな!」


 僕が駆け寄ると、鈴木はノコギリの刃を二ノ瀬に向けた。切っ先の向こう側から、沈着に構えた二ノ瀬の面持ちが覗いていた。しかし、それが二ノ瀬なりの強がりであることを僕は見抜いていた。


「妙な動きを見せてみろ。この女の肌を削り取るぞ」


「……最後には僕たち全員を殺す気か」


「察しがいいな。だが女を殺すのは後だ。いくらお前でも、二ノ瀬が死ねば逆上するだろう」


「その時は、僕があなたを殺す」


 本心だった。言うが早いか、僕は自分が〝誰かのため〟に正直者になっていることに驚いた。


「愛か」


 愛……鈴木が口にすると、その言葉は意味を失った。鈴木は僕の知らない愛を知りすぎている。その元凶は、彼の中に危険な思想と野心の数々を生み落とす、歪曲された感性そのものだ。


「どうやら亜子が世話を焼いていたようだな。母性愛……そんなところだろう。子供がいなかったあいつにとって、お前たちの存在は特別だった。何かヒントを残して、私の計画をぶち壊そうと腹案していたようだ」


「そうか……だから『エリンジュームの神様』なのか」


 僕は思わず呟いていた。


「八重崎亜子にとって、則夫の死体が捨てられた井戸は〝忘れたい過去〟だった。あの井戸は三〇三号室からしか見えない。死体を隠すにはもってこいだ。彼女は井戸を『エリンジュームの神様』と称し、僕に鍵を渡した」


「そして、尾行作戦で僕らの正体を知った八重崎は、僕にヒントを残すことで、あなたの画策を挫こうとした。でも彼女には彼女なりの葛藤がある……もし九城の笹岡殺害を彼女が知っていた場合、あなたの画策と共に、九城の犯行が警察に露呈される危険があるためだ。彼女は、九城を守り、僕を利用することであなたの思惑を食い止めようとした」


「虫のいい話だ。警察が介入しなければ、九城の笹岡殺害が露呈しなかったとでも?」


「あるいは、全ての罪を背負おうとしたのかもしれない」


 僕はうずくまる九城の背中に向かって言った。


「九城の代わりに罪を背負い、口封じのためにあなたを殺そうとした。昨日、八重崎が教会を訪ねた本当の目的は、あなたを殺すためだった。車椅子に支えられた老体だ……手に掛けるのはたやすかっただろう。でも、彼女はあなたが歩けることを知らなかった」


「随分な自信だな」


「しがない推測だ」


「……殺すのが遅すぎたか」


 鈴木は辛辣に言った。


「亜子がどんなヒントを残したのか知らんが、とっとと殺しておくべきだった。お陰で全員が一度に会してしまった。しかし……『エリンジュームの神様』か……彼女らしい発想だ。鷲尾、エリンジュームの花言葉を知ってるか?」


「『秘密の恋』」


 流暢に答えると、鈴木はささやかに頷いてみせた。


「三十年前、四人の男女がこの丘へやって来た。私と妻、そして亜子と則夫だった。彼らはこの丘にアパートを建て、名をエリンジューム荘とした。間もなく、二人は教会で式を挙げた。立会人は私以外におらず、ひっそりと静かな式だった。よく覚えている……私がここに赴任した最初の挙式だったからだ。後に聞いた話で、二人が駆け落ちしていたことを知った。若気の至りだな……親の反対を押し切り、遠いこの地へやって来た。誰からも祝福されず、二人はエリンジューム荘で『秘密の恋』を成就させた」


「くだらない」


 九城が地面に向かって吐き捨てた。顔は青ざめ、袖口には血が滲んでいる。


「何もかも犠牲にして、結局報われないなんて……誰かを永遠に愛することなんて出来ないのに……」


「それでも私たちは、誰かを愛さなければならない」


 鈴木が諭した。


「全ての生き物は、誰かを愛することで、そこに幸せを見出そうとする。誰かから愛されることで、そこに自分の存在を見出そうとする。それが生きるということだ。だが……九城、お前は今死に瀕している。誰からも愛されなくなった時、人間は死ぬ」


「私がついてる」


 二ノ瀬の一声が聞こえた。体の自由を奪われ、幾人もの肉を切り刻んできた残忍の刃に睨まれながらも、その声は芯から勇ましく、力強かった。


「私は、姫々との出会いを無駄にはしない。こんな私と対等にぶつかり合ってくれた……もっと姫々のことを知りたい……愛したい」


 九城は何も言わなかった。今はただ、涙に濡れた目を二ノ瀬の方へ向けまいと、血に染まる手で顔を覆い、嗚咽を押し殺していた。


「出来た娘だ」


 鈴木がほくそ笑んだ。


「二ノ瀬葵……私はますます君の首が愛おしくなった」


「そういうことか……」


 僕は全てを悟った。鈴木は『魂の器』の最後の仕上げに、二ノ瀬の首を選んだのだ。


「二日前、君が教会を訪ねたあの時から、私の中で標的は変わった。そして君は今日、美貌と知性を備えて再び私の前に現れた。九城には甚だ辟易していた。このバカ娘と取って代えるのに、君ほどふさわしい逸材がこの先現れるとは思えない。よって私は、君を美しい姿のまま殺す」


「やめろ!」


 甲高い叫び声に誰もが不意をつかれた。九城は前のめりに立ち上がると、壇上からロウソクを一本もぎ取り、『魂の器』に燃え盛る炎を突きつけた。鈴木の両眼が見開いた。


「葵の縄を解け。奥さんの腕を燃やすわよ」


「よせ……そこから離れろ……」


 鈴木の狡猾な表情の陰から、怯えの色がじわりと差し込んできた。鈴木が躊躇し続ける間も、溶け出した蝋が血と混ざって遺骸を打ち続けた。


「縄を解け……早く!」


「分かった! 切る……今切る!」


 言って、鈴木は九城に背を向けたが、ノコギリを素早く右手に持ち替え、振り向きざまに九城へ切りかかった。刃は九城の指先をかすめ、ロウソクを半分に切り飛ばした。九城は尻もちをつき、鈴木は反動でよろめいた。

 その瞬間、何かが僕を突き動かした。自我をかなぐり捨て、ほとんど狂乱状態に達しかけていた。棺を飛び越え、シルクの法衣に掴みかかると、勢いも殺さず地面へ叩きつけた。ノコギリは主の手を離れ、鈍い金属音を響かせながら地面を滑っていった。


 僕らは取っ組み合い、殴り合い、ひっかき合いながら地面を転げ回った。稀に、鈴木の重い一撃が顔面を見舞った。顔からパーツが吹っ飛んでいきそうな威力に、僕はしこたま度肝を抜かれた。鈴木の強靭っぷりは、萎れ切った余命半年のそれではない。拳を撥ね退け、喉や眼球、股間など、迅速なカウンターで適確に急所を狙ってくる。

 僕が馬乗りになり、顔面に殴りかかろうと腕を振り上げた時、鈴木の拳が鳩尾深くへ食い込んだ。呼吸が止まり、苦痛で目がくらんだ。間髪入れずに次の一発をもらい、僕はとうとう横様に倒れた。血と一緒に歯の欠片が吐き出されてきた。刹那、視界が真っ白になった。


「血だ! 仇の血……鷲尾の血!」


 鈴木はノコギリの柄をたぐり寄せ、狂喜の哄笑を放つ顔の高さまで切っ先を掲げた。

 二ノ瀬が足をばたつかせ、悲鳴を上げた。その声は、朦朧とする意識の中枢まで届いていた。地底の奥深くからこだましてくるように、おぼろな響きを連ねて鼓膜に触れた。

 僕は目を瞬いた。何事も起きない。ただ、くさい。肉の焼ける臭気。白む視界。五感が冴えてきた。

僕は頭をもたげた。『魂の器』が燃えていた。


「九城……九城! 小娘がっ! 何をやってる! 何をやってる!」


「火葬よ」


 素っ気なく言いながら、九城はまた一本、棺の中にロウソクを投げ入れた。鈴木が天井を仰いだ。


「ぅぐうあああああああああああああっ!」


 絶叫が降り注いできた。

 おどろおどろしい光景だった。ノコギリ片手に、鈴木はその場で激しくのたうち回った。無い物ねだりする聞き分けのない子供のようにも見えたし、腹の内側を業火で焙られる地獄の罪人のようにも見えた。

 途端に、鈴木の動きが静止した。仰向けに寝転がり、胸を大きく上下させ、荒い呼吸を繰り返した。法衣は砂と埃にまみれ、白髪混じりの頭髪はあらゆる方向へ逆立っている。


「死が怖い……」


 しわがれ声が言った。


「終わりだ……破滅だ……永遠が……闇が……死が……怖いぃっ!」


 鈴木はがむしゃらに立ち上がり、二ノ瀬の首目掛けてノコギリを振るった。二ノ瀬は咄嗟に前屈して攻撃をかわしたが、なびいた黒髪の多くが犠牲となった。鈴木は諦めず、次の攻撃体勢を構えた。破壊の意識に取り憑かれた男の眼球は、無防備な二ノ瀬の体に照準を定め終わっている。


 僕は捨て身の覚悟で立ち上がり、鈴木の懐へタックルし、後方へ押し倒した。だが、怒り狂った男が相手では、その細い手首を地面に押さえ込んでおくのが精一杯だった。そして、それも長くは持たなかった。腕に力が入らない。先ほどのダメージが残っている。

 僕は胸を蹴り飛ばされ、気付くと仰向けに倒れていた。あらゆるものが遠退いていった。世界から存在が隔てられ、意識が闇の淵へと滑り落ちていく。眼前に鈴木が立っている。胸倉を掴まれ、地面に押さえつけられた。耳元にノコギリを掲げ、おぞましい冷酷の微笑みを浮かべている。秩序の失われた、非人間的な姿だ。


「神は意地悪だ」


 鈴木が囁いた。全く同じ姿を、僕は過去に一度だけ見たことがある。


「江藤……」


 口の中で声がくぐもった。鈴木には聞こえていなかった。


「咎のない私から最愛の妻を奪うだけでは飽き足らず、『魂の器』までも破壊した。この世に生を受ける前から、私は神を愛していたというのに。神は私を嫌いなようだ」


「神なんかいない……」


 僕は声を絞り出した。


「人間にとって世界一好都合な産物だ……そんな存在を認めろというなら……僕は諦めず立ち向かう」


「黙れ」


「神に逆らえるのは人間だけだ……運命に立ち向かおうとする意志が……人間を突き動かす本能そのものだからだ」


「黙れ!」


 鈴木が切っ先を振り落とした。僕は右腕を突き出し、顔からギリギリのところで食い止めた。

僕には分かっていた。江藤と対峙した時とは違う。今は、命を賭してでも守り通さなければならない大切な人が……二ノ瀬葵が、そばにいる。


「……神なんかいない。不明瞭な存在に、僕は僕の運命を託さない!」


 指先に渾身の力が集まった。鈴木の手からノコギリの柄をもぎ取ると、それを手の届かない場所へ放り、鈴木を蹴り飛ばした。僕らは同時に立ち上がり、再び睨み合った。

 傍らに九城が立っていた。手にノコギリを持っている。たくさんの怨念と憎悪を宿した、呪いの凶器を。


「九城……さあ、やるんだ」


 鈴木が甘い囁き声で促した。


「鷲尾を殺せ。お前なら出来る。さあ……」


「私はもう、誰からも指図されない。自分の意思で! 生きていくんだ!」


 刃がこちらに向かって飛んできた。僕は身構えたが、大きく振り抜かれた刃は目の前を通り過ぎ、油断していた鈴木の首元を深く切りつけた。血潮が噴き出し、目を大きく見開いたまま、鈴木は燃え盛る棺に向かってゆっくりと倒れていった。

 周囲に金属音が響き渡った時、僕はようやく我に返り、微動だにしなくなった鈴木の亡骸から九城へと視線をずらした。呆然自失の九城の手からノコギリが滑り落ちていた。自分のやったことに驚き、恐れ、言葉を失っているように見えた。


「……終わった」


 僕は誰にともなく言った。九城に掛ける言葉が思い浮かばなかった。


「全て終わった。帰ろう、エリンジューム荘へ」


「私は……私は……」


 深閑に九城の幽かな声がこぼれ落ちた。九城は石柱の前まで歩み寄り、拘束された二ノ瀬の体を右腕でしっかり抱きしめた。


「さようなら、葵」


「どこへ行くの?」


 立ち去ろうとする九城の背中に向かって二ノ瀬が尋ねた。九城はおもむろに足を止め、肩越しに振り返った。


「神様へ会いに」


 妖艶の笑み……それは、膿んだ左目が死角に潜り込んでさえいなければ、醜さの際立った不気味な冷笑になるはずの笑みだった。僕がかつて九城の素顔に見た天真爛漫な笑みとは無縁の、彼女なりの生き様を象徴する誇りのようでもあった。宗教観念を捨て、自分の意思で生きていくことを選んだ女の誇り……これに相違ない。

 去り際、九城は僕に一瞥を投げかけ、地下から姿を消した。


「怪我は?」


 二ノ瀬を縛り付けていた縄をロウソクの炎で焼き切った後、僕はすかさず聞いた。二ノ瀬は顔色こそ悪かったものの、大きな怪我はなさそうだった。


「あなたこそ、腕が……顔だって」


 痛みでうずいている左頬に二ノ瀬の指先が触れると、背筋がぞくぞくした。直後、痛みは退散した。


「こんなの平気だよ。それより、スーツの方が重症だ……肘に穴が空いてる」


「埋めればいいじゃない。……これからどうする?」


 僕らは灰になりつつある棺と、その脇に息もなく横たわる男の亡骸を見つめた。命を脅かしていた空間が安息に包まれたところで、〝それら〟を前に、あらゆる感覚器官に平常運転を呼び掛けるのは無理な話だった。棺は何日も前から燃え続けているように思えたし、鈴木は僕が生まれる遥か昔から、ここに横たわっているような気さえした。


「とにかく部屋へ戻ろう。それから警察に通報……消防車も呼んだ方がいいな」


「ふもとの街で薬を買ってこなきゃ。事情聴取が始まって身動きできなくなる前に。あなたは先に部屋へ戻って安静にして」


 僕らは来た道を戻り、雪の舞う教会の外へと踏み出した。冷たい新鮮な空気を腹いっぱい吸い込み、地下室で溜め込んだ臭気の一切を吐き出した。


「あの子、大丈夫かしら?」


 二ノ瀬は足元を見ながら案じ声を出した。雪の中に血痕が滲んでいた。


「まさか自殺なんか……」


「九城はそんな奴じゃない」


 僕は豪語した。


「あいつは逃げない。僕には分かる」


「……そうね」


 僕らは教会の前で別れた。二ノ瀬はふもとの街へ、僕はエリンジューム荘へ向かって歩き出した。一人きりになると、また痛みが戻ってきた。心をむしばんでいくような痛みだった。この数日で、僕と関ってきた多くの人間が死んだ。もう元には戻らない。くだらない冗談で笑い合うことも、一緒におでんをつつくこともない。通り過ぎていく出来事が思い出に変わっていくように、人の死もまた、背後に過ぎ去る情景の一端に過ぎない些事として、誰かの心に留まるものだ。少なくとも、まだ、僕の心に彼らは生きている……故に心は痛い。


 エリンジューム荘が眼前にそびえる所までやって来た。どこか悲哀な表情でこちらを見下ろしている。主人の帰りを今か今かと待っているようだ。しかし、どんなに待ち焦がれても、エリンジューム荘が八重崎夫婦を迎え入れる日は二度とこない。


『病気を患った無力の老いぼれは、世界の片隅に追いやられ、ひっそりと消えていくしかない』


 鈴木の言葉が脳裏をよぎった。主人を失った老朽アパートは、その一途を辿ることになるだろう。残されたさら地には、エリンジュームの花が咲くかもしれない……僕はぼんやりと考えた。


 前庭に足を踏み入れ、ポケットから部屋の鍵を取り出した時、僕は思わず歩調を緩めた。手に取ったのはマスターキーの方だった。


「何で黙ってたんだろ……」


 僕はテディベアに向かって呟いた。八重崎亜子が鈴木の思惑を食い止めようとしていたのなら、この鍵がマスターキーだったことも、『エリンジュームの神様』の正体も、黙っている必要はなかった。でも彼女は……


「痛っ……!」


 後ろから何かがぶつかってきた。振り返る間もなく、左の脇腹に熱と痺れを感じ始めた。見ると、何者かの手から刃物の黒い柄が覗いていた。スーツ越しに脇腹を貫いている。根元まで深く刺さり、内臓をえぐり、体内で熱を放っている。刃物が引き抜かれると鮮血が噴き出し、雪を赤く染めた。

 倒れる間際、僕は何者かの上着にすがり付き、その顔を見た。


「真久……!」


 黒髪、細面、赤いジャケット。生気が氷漬けにされたような青白い肌を晒し、雄々しくも冷徹な面持ちで、水野真久が立っている。

 真久は僕を突き飛ばし、手からマスターキーをかすめ取った。


「返してもらうよ」


 かすれ声が言った。


「この鍵は俺のものだ」


「どうして君が……」


「まだ分からないの?」


 虚ろな眼が僕を見下ろした。


「俺が『エリンジュームの神様』だ」


 言い残し、真久はエリンジューム荘の中へと突き進んでいった。




 感覚が薄れていった。血が止まらない。身動きが取れない。雪を散らす曇天を見上げ、浅い呼吸を繰り返した。体が重い。意識が雪の中に沈み込んでいく。


「……二ノ瀬」


 涙が溢れ出した。

 彼女に会いたい。会って伝えたい。胸の内全てを……この想い全てを……




 お願いだ……もう一度……もう一度だけ……彼女に会わせてくれ……




 そして、何も見えなくなった。









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