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九城の場合その五 お母さん



 私は教会の前庭に植えられた灌木の茂みに身を隠し、背の低いレンガ塀越しに見慣れた坂道を窺っていた。今はひと気もなく、静寂に包まれている。肌寒い夜風が草木を揺らし、足元から土の匂いをすくい上げた。雲間を縫った淡い月明かりが教会の尖塔に降り注ぎ、十字架を金色に染めるのを見上げた時、私にはこれが夢だと分かった。


「神様、どうか御加護を。お導きを」


 私は十字架を仰ぎながら祈り続けた。特にそうしたいと思ったわけではない。この明晰夢はある夜の記憶を辿っている。故に、私は眼球のスクリーンを通して夢の中を覗き込むだけの、不自由な傍観者に過ぎなかった。


 ふと足音が聞こえてきた。闇に目を凝らすと、坂道を登って来る人影を視認できた。どうやら女性のようだ。ぴったりまとわれたモッズコートが、そのシャープな体のラインを鮮明に象っている。私はより低姿勢でレンガ塀に貼り付き、息を潜めて女性を見送った。大きなサックスケースを肩に掛けている……標的の笹岡美織だ。

 分かるや否や、レンガ塀を飛び越え、笹岡の背後に駆け寄った。ゴム手袋をはめた左手で口を塞ぎ、右手に持った文化包丁を彼女の眼前に突きつけた。


「抵抗すれば首を切る。分かったな?」


 笹岡は震えるように頷いた。見開かれた両眼は、月光を浴びて冷淡に輝く、包丁の切っ先に据えられている。


「歩け。こっちだ」


 私は声にドスを利かせ、教会と民家の間に横たわる、砂利の敷かれた小道へと笹岡を引っ張り込んだ。レンガ塀沿いに進んでいくと、周囲には徐々に草木が茂り、足元は踏み固められた下草や落ち葉に変わった。次第に傾斜が増し、雑木林が夜空を覆い隠していく。木々を避け、私たちは密着したまま闇の中を歩き続けた。笹岡は息遣いこそ荒いものの、抵抗もせず、従順な態度を崩さない。

 やがて、勾配のなだらかな開けた場所に出た。石造りの朽ちた井戸が大きく口を開け、夜の闇を吸い込んでいる。


「止まれ」


 凄むと、私はその場に包丁を放り、細くねじって三つ編み状にした手製のビニールロープを、手際良く笹岡の首に巻き付けた。そして、ピタリと背中を合わせ、彼女の胴体を背負い上げた。

 耳元で息の詰まる音が聞こえた。サックスケースが肩から滑り落ち、地面を強く打った。


「神様……神様……」


 満身に力を込めながら、私は喘ぎ喘ぎ呟く。


「どうか御加護を……お導きを。神様……」


 笹岡は手足をばたつかせていたが、じきにそれもなくなった。最期の抵抗が終わると、背負っていたモノがわずかに軽くなるのを感じた。笹岡美織は死んだ。

 笹岡の遺体を地面に下ろすと、首にロープを巻き付けたまま井戸の縁まで引きずっていった。途中、何度も転んだ。手足が震え、喉が渇き、頭は朦朧としている。一人の戦士として、神様の言葉を成し遂げたことは名誉となるはずだった。だが、身に巣食うのは人間を殺めたことへのおぞましい戦慄だけだ。

 私は恐怖で立ちすくんだ。木立の奥に人影が見えたような気がした。しかし、いくら目を凝らしても闇を見透かすことはできず、耳は冷たい風の音を捉えるばかりだった。

 私は気を持ち直すと、遺体を井戸の縁にくの字に引っ掛け、沈殿した暗黒の遥か底へ沈めようとした。が、遺体はそれ以上動かなかった。私の上着を掴んでいる。


「死にたくない……」


 遺体が顔を上げた。笹岡美織ではない……それは自分自身だった。


「離せ……やめろ!」


 私は手を振りほどこうとした。しかし、全く力が入らない。踏ん張りが利かない。


「死にたくない……」


「神様がお前の死を望んでる! もう死ぬしかないんだ!」


「死にたくない……死ぬのが怖い……」


「死が怖いもんか! 死が……」


 次の瞬間、井戸の底へと引きずり込まれていった。目の前に、底無しの闇が広がっていく……




 振り上げた手は部屋の冷たい虚空を掴んでいた。呼吸は荒く、涙がこめかみを伝って耳まで流れ落ちるのを感じた。私は布団に沈み込んだまま、しばらく唖然として身動きがとれなかった。生々しい夢だった……目を閉じると、井戸の中を落ちていく感覚がありありと甦ってくる。

 部屋の電話が鳴った。時計を見るとまだ五時だった。私はベッド脇に置いてある電話台を引き寄せ、布団に潜ったまま乱暴な手つきで受話器を取り上げた。


「起きてたんだ。早起きね」


 相手は八重崎だった。


「何なのよ、こんな朝から……まだ陽も出てないっての」


「出勤ついでに一〇二号室へ来て。大事な話があるから」


「今言えば?」


「いいから来なさい」


「はいはい……」


 生返事するや、既に電話は切られていた。私は身を起こしたが、何かするでもなく、巣の真ん中で微動だにしない蜘蛛の姿を眺めるばかりだった。

 誰にも会いたくなかった。八重崎にも……真久にさえも。




 一〇二号室はもぬけの殻だった。テレビもカーテンもテーブルも敷布団も、電気ストーブさえ無くなっている。あるのは壁際に座り込む八重崎亜子、ただ一人だった。


「何で片付けちゃったの?」


 私はカラッポの部屋に声を投げかけた。


「もうおしまいなのよ」


 八重崎の目はアパートの壁を見透かし、青空の遥か彼方を見つめていた。時代遅れの野暮ったいドレス姿はいつも通りだが、何か様子がおかしい。


「おしまいって、何が……」


「昨夜、丸山さんが一〇三号室に住んでること、瑛助にバレちゃったでしょ? あたしの部屋まで大きな声が聞こえてたし、カメラには二人一緒の姿が映ってた」


「この部屋での密会は明るみになってない……」


「そう思い込んでるだけでしょ」


 八重崎は険しい面持ちで立ち上がった。目の焦点は、しっかりとこちらに合っている。


「あなたはいつもそうだった。自信過剰で、的外れで、自分勝手。やること成すこと全て裏目に出てる。姫々の目は、真実を一つも見抜けていない」


「大事な話ってそんなことかよ……」


 私はすげなく呟いた。糞真面目な顔で分かり切ったことを指摘され、とさかに来ていた。


「私は一人で必死だった。亜子さんが私に何かしてくれた? せいぜい引きこもって、お茶入れてただけじゃない……」


 八重崎の平手打ちが頬を打った。痛みはない。その代わり、次の言葉を見失ってしまった。八重崎は泣いていた。そして次にはもう、私を抱きしめていた。


「何で泣くのよ……」


「ごめんね、姫々。守ってあげられなかった」


「やめてよ……そんなこと言わないでよ」


 すすり泣く八重崎を前に、私は動揺を隠せなかった。

 とても温かかった。こうしていると、誰にも知られたくなかった苦しみを分かち合える気がした。抱えていたたくさんの不安を、全部忘れられる気がした。


「あなたを自分の子のように思ってた。あたしには子供ができなかったから……だから、姫々が『お母さんみたい』って言ってくれた時、すごく嬉しかった。……ねえ、一回でいいから、『お母さん』って呼んで?」


「そんなの……やだよ……」


「一回だけ」


「……お母さん」


「もう一回」


「お母さん……お母さん……お母さん!」


 涙が止まらなかった。


「つらいよ、苦しいよ、逃げ出したいよ! 信じ続けてきたのに……愛し続けてきたのに……報われなかった……」


 ここ数日で味わった辛酸が涙となって溢れ出してくるのを、どうにも制御できなくなっていた。私は八重崎の肩に顔を埋め、小さく嗚咽した。


「頑張ったね」


 背中をさすりながら八重崎は言った。


「もうすぐで終わるから。そしたら、あなたはこのアパートを出なさい。大丈夫、きっとうまくいく。……明日の朝、私の部屋へ来て。鍵を開けとくから」




 夕闇に紛れて雪が降り始めた。朝方の穏やかな快晴は見る影もなく、大量の降雪が視界を真っ白に覆い隠し、音もなく降り積もっていく。その只中を、私はエリンジューム荘へ向かって歩いていた。日がな一日、何をしていたのか覚えていない。ずっと上の空だった。

 二階の踊り場に真久が立っていた。強張った表情でこちらを見下ろしている。なぜ彼がここにいるのか、階段を中ほどまで進んだ後でようやく思い出した。


「待ってたんだ……旅行のことで話し合うはずだったろ?」


 真久が急いで階段を降りてきて、私の前に立ちふさがった。私は目も向けず、何も答えなかった。真久の言葉すべてが嘘に思えた。


「外で話さない? ふもとのファミレスとかさ……お腹空いちゃった」


「部屋がいい」


 私は無愛想に答え、真久の脇をすり抜けようとした。真久の手が進路を遮った。私たちは視線を交えた。


「何?」


「外がいいんだ」


「雪が降ってる」


「何怒ってるんだ?」


「怒ってねえよ……」


「何だよその言い方……」


「どいて」


 押しのけようとした手を真久が強引に掴み取った。


「離してよ!」


「お前おかしいぞ。鷲尾って奴が来てからずっと」


「真久だって……鷲尾とグルのくせに! あいつらと組んで私をはめようってんだろ!」


「違っ……誤解だ! 俺たちは姫々を助けようとして……」


「離して……!」


 私は真久の手を力任せに振りほどいた。反動で足を踏み外し、視界がぐらりと傾いた。次にはもう、五臓六腑が体の内側で宙を舞うのを感じていた。


『これで死ねる』


 脳裏に淡い期待が過ぎった。私は受け身もとらず、勢いに任せて階段を転げ落ちていった。しかし、体のどこかを打ちつける度、死ねもせず、しぶとく生き続ける自身に生命力の尊さを実感させられた。それは、『生きたい』という思念そのものだったに違いない。打ち身だらけでようやく階下に辿り着いた時も、かろうじて繋ぎ止めていた意識の中でその思いは生き続けていた。


「姫々……?」


 頭上から絶望に叩きのめされたような声が聞こえてきた。目を上げると、涙を浮かべた真久の案じ顔がこちらを覗き込んでいた。


「帰れ……」


 声と一緒に血が滴ってきた。口の中が切れていた。


「じっとして。今救急車……」


「帰れよ!」


 真久を突き飛ばし、私は立ち上がろうとした。左肘に激痛が走り、よろめいたが、反対の手で何とか踏ん張った。痛みが衝撃に追いつき、体中から悲鳴が上がった。


「もう顔も見たくない……声も聞きたくない……私に触るな!」


 私は手を貸そうとする真久に向かって叫んだ。声は骨を伝い、頭の中にガンガン響いた。


「全て終わらせるまで……ここへは来ないで」


 私は手すりにしがみつきながら、一段ずつゆっくりと階段を登っていった。真久の視線が絶え間なく背中に刺さり続けている。しかし、私は決して振り向かなかった。そうすることで、真久への想いを完全に断ち切ろうとした。

 真っ暗な自分の部屋に帰り着くと、私はそのままベッドの上に倒れ込み、夜を明かした。




 翌朝、痛みと寒さで目が覚めた。空気の冷たさに傷の痛みも相まって、体が氷のように固まってしまっていた。左まぶたが開かない……どうやらひどく腫れているようで、指で触れると熱い脈を感じた。

 私はゆっくりと上半身を起こした。体中の節々に痛みが伴うので、どのパーツにどれ程の傷を負っているのか、判断が難しかった。ただ、表情が歪むほどの重症箇所は左肘だった。重力に引っ張られるだけで、肘を中心に指の先端まで激痛が駆け抜けた。折れているかもしれない。


 私は水を飲もうと立ち上がった。膝を少し擦り剥いてはいたが、足腰は平気なようだ。キッチンまで歩いていき、鏡を覗き込んだ。

 腫れ上がった左まぶたは、黒く濁ったグロテスクな色合いに仕上がっていた。眉尻から目尻にかけて縦に裂傷を負い、乾いた血が黒光りしながら傷口を塞いでいる。

 私は濡れた指先を傷痕に這わせ、血を拭いとった。作業を済ませると、醜い顔を反射させて視界に映り込ませようとする危険物を、出来る限り遠ざけようと心掛けた。一夜でお岩さんと化してしまった自分を見る度、惨めに陥っていく心境をいたわるのはおっくうだ。


 かつてない、最悪のイヴになってしまった。この部屋で迎えた最初のクリスマスは高熱を出したが、真久が一日中付き添って私の好物を食べさせてくれた。だが、もうどこにも真久はいない。この部屋にも、心の中にさえも。彼との関係に終止符が打たれた今、私は孤独の境地に立たされている。

そして何よりも、神様のために死ぬことも選べず、その上こんな哀れな姿で生かされる日々は、私にとってあまりに不名誉なことだった。


 九時を過ぎて間もなく、八重崎が部屋を訪ねるように言っていたことを思い出した。まだ話し足りないことでもあるのだろうか? 昨日の八重崎は様子がおかしかった。こちらも取り乱しはしたが、それは八重崎が流した涙の不意打ちが原因だった。乱心の八重崎は、この苦しみがじきに終わることを知っていた。そう、知っていたのだ。


 私は身支度を整え、左手を支えながら部屋を出た。踊り場から階下を見下ろしたが、人影はなかった。真久がまだそこにいて、私が出てくるのを待っているかもしれないという懸念があった。私を説得するためなら、凍てつくような夜を明かすことに何の抵抗も示さないのが水野真久だ。だが、この一夜で凍てついてしまったのは、私たちが四年以上も育んてきた愛に他ない……。

 一〇一号室のドアは施錠が外れていた。部屋の中は暖房が利いているし、監視カメラも稼働していたが、八重崎の姿が見当たらない。呼び掛けても応答がなかった。私はとりあえず腰を下ろした。


「…………」


 テーブルの上に『神の言葉』の封書が置いてあった。身に覚えのないオレンジ色の封蝋だが、『言葉』には既に読まれた跡があった。どうやら鈴木が八重崎へ送ったもののようだ。私は紙切れを引っ張り出し、広げて読んだ。


「『九城姫々を殺せ』」


 私は痛みも忘れて飛び上がった。頭上から、階段を駆け下りてくる騒音が降り注いできた。監視カメラは、鷲尾が走り去っていく姿を克明に捉えていた。彼が大慌てでどこへ向かったのか、私には考える余裕がなかった。

 再び静寂が訪れると、言い知れぬ殺意の気配に身がすくんだ。どこからか八重崎が現れ、一思いに殺しに掛かって来るのではないかという恐怖で気が狂いかけた。だが、押し入れからも脱衣所からも、凶器を持った八重崎が姿を見せることはなかった。

 私はもう一度『神の言葉』を読み返した。そこには確かに自分の名が記されている。続きはない。『九城姫々を殺せ』。たったそれだけだ。


「これは神様の言葉じゃない」


 邪悪な可能性は、ある一つの結論へと私を導いた。

 私は紙切れを握り締め、部屋を出ると、教会へ向かって突き進んでいった。外はまだ雪が降っていた。




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