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鷲尾の場合その五 不法侵入



 神居清太の現住所を聞き出し、汽車へ乗り込んでから二時間が経っていた。僕は今、南へ向かっている。既に幾つも山を越えた。針葉樹の群生を横目に、雪原ばかり広がる殺風景の中を延々と走り続けている。太陽は山頂の背に沈み、地平の彼方に山並みのシルエットを刻み込んでいた。


 この向こう見ずなやり方が〝愚か〟だと感じてしまう自分を、僕は『柄にもないな』と思っていた。前回の場当たり的な尾行作戦が生み出した惨劇が、未だに尾を引いているようだ。真久が味方についた……しかし、二ノ瀬を失った代償は計り知れない。

 僕はいつだってこの無鉄砲さが好きだった。やり方に無茶があっても、全力で挑めたならどんな結果だろうと満足できたし、それが若さの特権なのだと納得していた。そして結局は、こうして一人の青年に会おうとする突発的な試みが後悔に繋がらないことを、心のどこかで確信していたのかもしれない。


 汽車は山麓を抜けると、まばらな集落の中に佇む目的の駅へと辿り着いた。小ぢんまりとした質素な造りが町明かりに照らされ、夕闇におぼろな輪郭線を投げかけている。改札を抜けると、静まり返った待合い席にカップルが一組座っていた。片割れは神居清太だ。

 好印象だった黒髪はブロンド一色に染まり、肩までだらしなく伸びていた。えんじ色のレザージャケットを着こなし、タイトなジーパンの裾口から底の厚いワークブーツを覗かせている。


「鷲尾さん!」


 神居が顔をほころばせて駆け寄ってきた。その人懐っこい笑顔だけは、一ヶ月前の面影に忠実だった。


「ビックリしたよ。家に帰ったら婆ちゃんがさ……」


「神居、このおじさん誰?」


 一緒にいた若い女が割って入ってきた。風体は世間知らずな山田そっくりだが、この女には愛嬌が皆無だ。


「俺の恩人だ。つーか帰れ。邪魔だ」


「ひどーい! 神居が誘ったくせに!」


「胸糞悪いんだよ、お前」


「は? 胸糞って何? もう帰る!」


 女は足を踏み鳴らして駅を出ていった。


「恩人って僕のこと?」


 僕は聞いてみた。神居の口からそんな言葉を聞かされるなんて夢にも思わなかった。


「そっ、恩人。……ねえ、腹減ってない? 近くに油そば食えるとこあるから行こうよ」


 駅の外は小さな公園になっており、遊具越しに商店街のネオンが輝いて見えた。僕らは公園を抜け、賑やかな商店街から目的の店を目指した。


「さっきの子、めちゃくちゃ怒ってたぞ。まだ近くにいるんじゃないか?」


 言いながら、僕は周囲に警戒の目を走らせた。


「あいつ、彼女の兄貴と付き合ってる女。名前忘れた」


「恩人の僕が言うのもなんだけど、お前クズだな」


 神居は小さく笑った。


「俺にとってこの町は狭すぎるよ。……ところで、急にどうしたの? さっき家に帰ったら、『脅迫電話が来た!』って、婆ちゃんが血相変えて怯えてた」


 今度は僕が笑った。


「ちょっと急いでて……君に電話を代わってほしかっただけさ。伝えといた時間通りに着いただろ?」


「まあね……ここだ」


 神居は軒を連ねる居酒屋の一つに入っていった。店内は仕事終わりのサラリーマンで賑わっている。だだっ広い宴会席の脇に埃っぽい空席を見つけると、僕らはそこを陣取った。


「これに見覚えがあるか? ポプラで君のカバンを落とした時、中からこれが出てきたんだ」


 オーダーを済ませると、僕はすぐに本題へ移った。神居はテディベアの付いた鍵を受け取り、目の高さに掲げ、その顔に驚きと疑念の色を浮かべた。


「知ってる。エリンジューム荘のマスターキーだ」


「何だって?」


「アパートの万能鍵だよ。これで全部の部屋のドアが開けられる。ここへ引っ越す前、あいつに渡したはずなのに……何で鷲尾さんが持ってるの?」


 僕はしばらく答えられなかった。頭の中がこんがらがっていた。


「僕は今、ある調査でエリンジューム荘に部屋を借りてる。そこで大家の八重崎亜子から貰ったんだ。三〇三号室の『エリンジュームの神様』を見せたいからって……」


「へえ。〝隠す〟ためじゃないんだ」


 神居の言い草には、僕の好奇心をくすぐるニュアンスがたっぷりと含まれていた。


「あのアパートについて知ってることがあれば話してほしい。もしかしたら、笹岡美織の事件に関する解決の糸口が見つかるかもしれない」


 神居の表情が強張った。


「ニュース見たよ。もしかして鷲尾さん、俺のこと疑ってる?」


「疑ってる」


「はっきり言うね。そういうとこ嫌いじゃないよ」


 しかし、これは神居に緊張感を持たせるための嘘だ。


「正直なところ、犯人が羨ましいよ」


 神居は声を低く抑えて言った。


「美織の断末魔に立ち会えるなんて最高じゃないか。今際の叫び声……どんなだったのかな。想像するだけで打ち震えるよ。……でも、俺にはできなかった。美織が死んだら、もう二度とあの美しい悲鳴が聞けなくなるからね」


 店内の賑やかな喧騒が、窓を打つ秋の雨音に変わった気がした。僕の意識は神居を連れ立ち、ポプラの休憩室へと舞い戻っていく錯覚に、あの日の〝続き〟を見ていた。

 あれから何も変わっていない……神居も、そして僕自身さえも。


「まだ美織の部屋を出入りしてた頃、外でたまたま亜子さんと顔を合わせた」


 神居は続きを話し始めた。


「面識があるなら、あの人がどういう性格か知ってるだろ? 旦那がいない日はよく部屋へ招かれるようになった。マスターキーを受け取ったのは夏の盛りだよ。亜子さんの手作りアイス食ってた時だ」


「なぜ君に鍵を?」


「俺がコレクションの隠し場所のことで悩んでたから。そのことを亜子さんに話したら、三〇三号室を安く貸してくれた」


「無理だ。その部屋には岡野という男が住んでる」


「住んでないよ」


 神居は言い切った。


「表札はフェイクだ。岡野なんて奴は存在しない」


「どうして言い切れる?」


「岡野武人は俺が創った架空の人物だ」


 僕は面食らった。


「もしかして、君が『エリンジュームの神様』ってこと?」


「何それ。聞いたことない」


 神居は肩をすくめた。


「マスターキーを貰ったのはたまたまだったんだ。美織に内緒で二〇一号室の合い鍵を作ろうとしてた矢先に、三〇三号室の鍵を失くしてさ。どっちにも入れるようにって、亜子さんが旦那に内緒でマスターキーをくれたんだ。その二つの部屋以外には使わないって、誓いを立てさせられた。もちろん、俺は誓いを守ったよ」


「それじゃあ君は、八重崎亜子が三〇三号室に何を隠しているのか、知ってるってこと?」


「多くは語れない。亜子さんとの約束だからね。俺ってこういうことには律儀なんだ」


「僕もいずれあの部屋へは入る。だからせめて、予備知識になるようなヒントをくれないか?」


 神居は狡猾な含み笑いで考えた後、やおら口を開いた。


「亜子さんにとって、隠したいもの=忘れたい過去なんだ。要するに、隠しちゃえば都合のいいようになると思ってるのさ。ちなみに、俺は亜子さんの〝忘れたい過去〟を一つも知らない。あの部屋では分からないように工夫されてる。……でも、井戸が見える」


「何?」


「教会の近くに井戸があるんだ。あのアパートじゃ三〇三号室の窓からしか見えないみたいだし、知らなくて当然」


 僕らはしばらく口をつぐんだ。二人前の油そばが届けられ、食べるのに夢中になっていた。僕はその間、神居から得た情報を一から整理しなおした。


「八重崎はどうしてマスターキーのことを僕に黙ってたんだ?」


 僕の辿り着いた疑問がそこだった。神居は首を傾いだ。


「教える必要がなかったんだろ? 俺の時と違って、三〇三号室だけ入れればよかったんだから」


「そうかな……僕は、他に入ってほしい部屋があったんだと思う」


 神居がせせら笑った。


「そりゃご都合主義だね。普通に生活してて、それを自力でマスターキーだと見抜くことはほぼ不可能。他に入ってほしい部屋があるなら、亜子さんはマスターキーであることを明言すべきだったはずだ。鷲尾さんはさ、そうやって勝手に決め付けて、自分の都合のいいように解釈したいだけなんだよ。自分を騙してれば、そのうち全て正当化されると思い込んでる。入ってほしい部屋じゃない……鷲尾さんには入りたい部屋があるんだ」


 言い返す手段がなかった。神居の指摘は見事に的を射ている。


「九城姫々を知ってるか? 二〇二号室に住んでる」


「名前くらいなら。俺も美織も面識はなかったよ。何で?」


「笹岡美織殺害の容疑者……と決め付けてる」


 神居が顔をしかめた。


「また決め付け? 警察は手を引いたのに、何で鷲尾さんが意地張ってんのさ。元警察の血が騒ぐの?」


「話せば長くなるけど、そこへ至るまでの揺るぎない経緯があったんだ。主犯でなくとも、九城が間接的に関ってるのは確かだ」


「ふーん。で、そいつの部屋に侵入して動かぬ証拠を見つけ出そうって魂胆か」


「その通り」


 僕は素直に認めた。これ以上、神居をあざむいていく自信がなかった。


「もしかして、エリンジューム荘に部屋を借りたのは九城姫々を追い込むため?」


「そうじゃない。ただ、彼女の素性を暴くことで本来の目的を完遂できるんじゃないかと考えてる」


 僕は腕時計で時刻を確認した。終電が迫っていた。


「帰るよ。今日は会えて良かった」


「そば食っただけじゃん。泊まってけばいいのに」


「今日中にアパートへ戻りたいんだ。それに、十分な収穫はあったよ」


 外へ出ると雪がちらついていた。僕らは来た道を戻っていった。


「ところで、僕はいつから君の恩人になったの?」


 道すがら僕は聞いた。ずっと気になっていたことだった。


「今ある生活に別の生き甲斐を見つけた時から」


 言いながら、神居ははにかむように微笑んだ。


「俺さ、今ボランティアやってんだ。爺ちゃん婆ちゃんの家行って面倒みてやったり、募金活動したり、犬の散歩したり。金は貰えないけど、飯は食わせてくれるし、可愛いスタッフも多いんだぜ」


「電話に出たお婆さんは?」


「それは俺の婆ちゃん。今だけ居候してる。俺、ポプラの一件以来すげえ荒れてさ。大学辞めて親に勘当されて、全部放り出してここまで逃げてきた。服もCDもケータイのメモリーもコレクションも、女や貯金だって全部。自分を不幸にすれば救われると思ってた……せこいよな」


「仕事柄たくさんの人間を見てきたけど、君みたいな類は少なくなかった気がするね」


 僕は切実な思いだった。


「『浮気された私は不幸だ。だから物的証拠を突きつけて、慰謝料をたっぷりもらえる権利がある』。口では言わないけど、目の前にいるのはいつも人の皮をかぶった狂気だった」


「俺はもうかぶらないよ」


 神居が気炎を吐いた。


「八方美人はやめた。それで甘えたり、すがったりもしない。ここへ来たことで、ゼロからやり直すチャンスに巡り合えたんだ。鷲尾さんがそのきっかけをくれた。あの時、人を殺してたら今の俺は存在しない。だから鷲尾さんは俺にとって恩人だ」


 僕には、探偵を続けていて良かったと思える〝タイミング〟が一箇所だけある。調査に関った人々の笑顔に励まされ、自分の居場所を見出したその瞬間だ。そしてまさに今、僕はここに自分の居場所を見出している。


「あのさ……」


 公園に差し掛かると、神居は期待の眼差しで僕を振り返った。


「探偵って面白い?」


「ああ」


 僕は笑いかけた。


「面白過ぎる」


 汽車が別れの合図を運んでくるまで、僕らの他愛のない会話は続いた。




 帰り道、エリンジューム荘へ続く坂道のふもとで九城と鉢合わせた。自分の足元ばかり見ていた彼女は、距離がぐっと縮まるまで僕の存在に気付かなかった。


「こんばんは、九城さん」


 僕は穏便に挨拶した。


「こんばんは、鷲尾さん。仕事の帰り?」


 九城の空元気な声が夜のしじまに響き渡った。その上ずった声に何を秘めているのか、僕には分からなかった。正体を見破った末の見栄っ張りなど、仕事の疲れにあらがってまですることではないし、何より九城らしくない。


「鼻持ちならない知人へ会いに……何で本名まで知ってる?」


 僕は聞いてみたが、そうする前から見当はついていた。


「あなたとお知り合いの山田さんから社員証を盗み見て、事務所を特定したの。ホームページの『調査員の紹介』であなたと二ノ瀬を見つけた」


 九城は冗舌に喋り終えた。どこか繕うような声色は、不安定な彼女の胸中を全く隠し切れていなかった。


「胸糞悪いよ、お前」


 神居を真似て言ってみた。九城をとことん怒らせてやるつもりだった。


「調査の邪魔ばかりして、甚だ目障りだ。何か後ろめたいことでもあるんだろ?」


「あなたが嘘ばかりつくからよ」


「嘘って? どの嘘?」


「あなたの思い当たる嘘すべてよ」


 虚勢を張り続ける九城の態度が、僕の底意地の悪さに火をつけた。


「人を騙すのは悪いことかな?」


「当然よ」


「じゃあ殺すことは?」


 僕は核心に迫った。


「絶対に許されない……誰にも人を殺す権限なんてないもの」


「でも神様が殺せと言えば殺すだろ?」


 九城の横顔が醜く歪む。


「神様が人殺しを命じるわけがない」


「それじゃあ答えになってないよ。どうでもいいけどね」


 九城の反応を楽しんでいると、右手の暗がりに教会の厳かな風格が伸び上がってきた。


「そうそう、知ってる? 人に聞いたんだけど、教会の近くに井戸があるらしい」


「それがどうした……」


「どうでもいいけどね」


 どうやら潮時だった。嫌悪感をもろに剥き出してくる九城に対し、僕は身の危険を感じずにはいられなかった。

 エリンジューム荘の前庭に足を踏み入れた時、遠くから聞こえてくる歌声が記憶の一部と共鳴を始めた。それは厄介払いしたはずの『カカアコ・クッキング・バンド』の歌だった。僕は盛んに首を振って音の出所を探った。


「今度は何?」


 九城の声には刺々しさが残っていた。


「歌が聞こえる。トラウマのハワイアンソングが……」


 漠然と聞こえていた音色も、一階の共有通路ではより明瞭だった。


「変だな……一〇三号室から聞こえる」


 僕は空室のはずのドアに耳を押し付けた。八重崎亜子の部屋で名簿を見た時、ここは確かに空き部屋だった。


「私には一〇二号室から聞こえるけど」


「いや、間違いなくこの部屋からだ」


 僕は呼び鈴を鳴らし、拳でドアを叩いた。九城が脇に立った時、愉快な音色がばったり止んだ。中から顔を覗かせたのは丸山太だった。


「なんだら?」


「こんばんは。夜分遅くに失礼します。確認したいことがあったんです」


 僕は驚いた様子の丸山に向かって愛想良く言った。


「丸山さんは、ずっと前からこの部屋に住んでるんですか?」


「こんばんは、丸山さん」


 九城が強引に割って入ってきた。両手で顔を隠したり、体の前で指を動かしたりしている。どうやら手話のようだ。


「丸山さんは、私が越してくる前からここに住んでたわよね?」


 九城は言いながらも、次々と手話を繰り出し続けた。丸山は小刻みに頷いた。


「この部屋だ。ずっとなあ」


 僕に手話の知識はない。だが、九城の目論見なら十手先まで読める自信がある。九城は焦っている……彼女が何を考え、どう裏をかこうとするのか、僕には手に取るようにはっきりと分かる。


「本当に?」


 僕は詰め寄った。


「本当だ。もう帰ってくれ。寝たいんだ」


「最後に一つ。僕の目だけを見て答えて下さい。よろしいですか?」


「そうだな。分かった」


 僕は更に間合いを詰め、丸山の瞳をまっすぐ見つめた。これでもう手話は届かない。狭まった丸山の視界に九城は映らないはず。目を逸らせば疑いを深めるだけだ。


「丸山さんが最後に九城姫々と話したのはいつですか?」


 僕は大音声で問うた。正体が暴かれた以上、隠し立ては必要なくなった。九城の前で探偵としての意思を示すことは、それ自体がプレッシャーとなり、攻撃へと連鎖していくからだ。


「先週の木曜、姫々がここに来た。いつも日曜だったが、その週は木曜にしか来なかった」


 日曜日に来れるはずがない。九城は真久と一緒に探偵たちを尾けていたのだから。


「ありがとうございました。おやすみなさい」


 僕は微笑しながら九城を振り返った。


「九割把握できた」


 こけおどしではない。一〇二号室を覗くことができれば残りの一割は埋まる。契約を済ませに八重崎の部屋へ入った時、これ見よがしに居住者名簿が置いてあった。あれは、僕に偽の情報を与えるための罠だった。そして何より、九城と丸山が繋がっていたこと……これは紛れもない真実だ。


「『九人の預言者』を返すよ」


 僕は施錠の外れたドアを開け、本を持って九城の元へ戻った。


「先週の木曜……僕がここに越してくる前日だ」


 僕は本と一緒に言い添えた。


「彼と口裏でも合わせてたんだろ?」


 九城は下からすくい取るようにして本を奪い取った。その目には冷たい殺意が巣食っている。


「おやすみ」


 僕はゆっくりとドアを閉めた。鍵は掛けなかった。




 翌朝、枕元を行ったり来たりする人為的な物音で目が覚めた。開かれたカーテンの彼方から太陽が顔を覗かせている。コタツには出来たてのおにぎりと味噌汁が用意されていた。

 キッチンに立つ二ノ瀬の姿を目の当たりにしても、僕は恍惚とした夢見心地から抜け出すことができなかった。脳みそは寝ぼけ眼の捉える光景をうまく処理できていない。夢の断片に意識を置き去りにしてしまったようだ。

 二ノ瀬は卵八個分の巨大ベーコンエッグをコタツへ運び終えた。バジルスパイスの香りが鼻孔に触れた時、切り離されていた意識がいよいよこちら側へ戻ってくるのを感じ取った。僕らは朝食を挟んで向かい合った。


「おかえり」


 僕は味噌汁から立ち昇る湯気の先端を見つめながら言った。


「うん。ただいま」


 二ノ瀬は微かに笑った。僕を勇気づけてくれる笑顔……そして、もう二度と見ることはできないと覚悟していた笑顔だ。

 僕らは黙々と朝食を食べ始めた。この満ち足りた喜びを言葉に置き換える必要はなかった。二ノ瀬がここへ戻ってきた訳も、箸の持ち方を間違えていることも、この際どうでもいい。僕は今、大きな幸せをかみしめている。幸せは別腹だ。いくら食べても膨れない。

 食事も終わり、洗い物を済ませると、僕らはこの瞬間が来ることを分かっていたように、少し緊張した面持ちで再び向かい合った。


「勝手に部屋を出ていってごめんなさい。あなたに言いたいことがあって戻ってきたの」


 張り詰めた表情とは裏腹に、二ノ瀬の声は落ち着き払っていた。


「昨夜、九城姫々と喫茶店で会ったわ。そこで、真久くんがあなたに情報を流したことを話した」


「ああ……」


 僕は曖昧に返事をした。


「いや、いいんだ。僕は初めから、真久が全部話してしまうだろうと考えてたから」


「怒らないんだ?」


 二ノ瀬が調子外れな声を出した。僕は弱々しく微笑んだ。


「嘘つきの僕は、正直者には怒れない体質だからね。……怒ってほしかったの?」


 二ノ瀬は哀れっぽい表情で首を振った。


「あなたが怒った時、本当はすごく怖かった……でも、それ以上に悔しかったんだ。私は、何かに怯えてる自分が大嫌いだったから。……いつも強がってたし、それを悟られたり、女ってだけで軽蔑されるのが不愉快でたまらなかった」


「君は、僕の知る探偵の誰にも引けを取らないよ」


 僕は穏やかに言った。


「同期入社の君は、僕にとって密かなライバルだった。何でもうまくこなす君に嫉妬して、胃潰瘍にでもならないかなとか期待してたけど……前に言った通り、僕は二ノ瀬にはかなわない。僕にないものを、君はあまりにも多く持ってしまっているから」


「例えば?」


「さあ? とにかくいっぱいだよ」


「そっか……ありがと」


 二ノ瀬の顔に哀愁の笑みが広がった。


「鍵、私のために開けといてくれたんだよね?」


「それは……」


「私ね、鷲尾が好きだよ」


 言葉の陰に、儚い響きがあった。僕は呆然と二ノ瀬を見つめていた。


「ずっと好きだった……だから、私はもうこの部屋へは帰らない。これ以上、あなたを傷つけたくないから」


「何でそんな風に考える? 君は誰も傷つけない」


「違う。自分が傷つきたくないから誰かを傷つける……私にはそういうズルさがあるの。私がこの部屋にいると、全部ダメになっちゃう」


 僕らは目を見交わした。僕の戸惑いは、二ノ瀬の熱い眼差しによって飲み込まれていった。


「一刻も早く九城を止めるしかない。私には無理だった……でも、あなたならきっと彼女を救えるはず。予想では、この案件は間もなく解決を見るわ……鷲尾は最前線で、私はあなたの影になってそれをサポートする」


 二ノ瀬は上着のポケットから黒いカメラを取り出し、僕に手渡した。僕のカメラだ。


「それ、取り戻しておいたよ。山田さんのカメラあるよね? 私が写真整理して報告書と一緒にまとめといてあげる」


「二ノ瀬、僕は……」


「何も言わないで」


 二ノ瀬の声が大きくなった。


「鷲尾の気持ち、分かってるつもりだけど……でも、今は本当のことを知るのが怖い……」


「君は誤解してる。本当に僕の気持ちが分かるなら、この部屋を出て行こうとするはずがないんだ」


「ここへ来たのも、出ていくのも、そこに私なりのけじめがあったからよ。誰のせいでもない……これが私の意志だから」


 もう何も考えられなくなっていた。二ノ瀬がここでの調査を切望したあの時同様、彼女を止められる気がしなかった。山田のカメラを渡し、二ノ瀬が笑顔で部屋を出て行く時も、その背中に勇猛な決意の印を見た時も、それは変わらなかった。




 朝食と一緒くたに詰め込んだ幸福が、胃の中で錆びた鉛に変化したようだった。コタツを出たり入ったり、意味もなく部屋中を歩き回っては二ノ瀬の言葉を反芻している内、時刻は正午を過ぎてしまった。この不穏な精神を反映するように、空には暗雲が立ち込め、雪がちらつき始めた。

 二ノ瀬には、二ノ瀬なりの考えがあるようだった。九城に会い、真久との接触を口外したことからも、また、あえて尾行作戦に参加したことからも、二ノ瀬は自分のやり方で九城を救おうとしていたに違いない。


『ずっと好きだった……』


 何か一つ心の整理がつくたび、二ノ瀬の言葉が無作為に頭の中を支配した。

 今まで、二ノ瀬の気持ちに気付いていないフリをしてきた。ただの〝同僚〟として二ノ瀬との距離を維持することで、三年前から背負い続けてきた呵責と対等に張り合おうとしていたのだ。それが、最愛の妻と子を死なせてしまった自分にできる唯一の罪滅ぼしだった。もしかしたら、二ノ瀬はそのことに気付いていたのかもしれない。

 目まぐるしく入れ替わっていく数多の悩み事が、僕から調査への意気込みを削ぎ落としていく。今の僕には、やる気を奮い起こすためのきっかけが必要だった。昨日は八重崎からの電話が鳴った。今日は……?


「もしもし……」


 コタツでまどろんでいると携帯電話が鳴った。相手は真久だった。


「真久です。昨夜、姫々と会って鷲尾さんの部屋へ行ったことを話しました」


「うん……うん?」


 二ノ瀬も会って話したと言っていた。どちらが先だろうか?


「彼女には何て?」


「指示された通りです。姫々の情報を密告したことや、あなた方の素性は伏せました。本当です。姫々は信じてくれたみたいでした」


 だとすると、どちらが先かは重要ではなさそうだ。二ノ瀬が九城にどこまで話したのかは分からないが、もし、八重崎や鈴木との繋がりに関することまで話していれば、真久の嘘がバレた可能性が高い。真久が九城からの信用を失えば、今後の調査に支障を来す恐れがある。


「……なあ、真久。今日もう一度九城と会えるか? 彼女の部屋で」


「ええ。どのみち、明日の旅行の件を話し合うつもりでしたから。でも今日はお互い仕事なんで、会うのは夕方以降ですよ」


「旅行? 明日?」


「はい。二人で二泊三日の温泉旅行です」


「……なあ、真久。仕事終わったらすぐに僕の部屋まで来れるか? 彼女より早く、彼女に会う前に」


「ええ……今日は事務仕事だけなんで、十六時までには。……どうしたんですか?」


「会ってから話す」




 真久が部屋を訪ねたのは十六時を三十分も過ぎた頃だった。


「すいません。この雪でバスが遅れちゃって……」


 弁解する真久の頭には、はらい切れなかった雪が溶けかけの氷の粒になって輝いていた。その言葉通り、外は二時間も前から大雪だ。


「大丈夫、九城はまだ帰ってきてない。お茶飲んで。これからのことをかいつまんで説明する」


 僕は真久を部屋へは入れず、玄関に立たせたまま熱々のウーロン茶を飲ませた。


「今から九城の部屋へ不法侵入する」


 真久が勢い良くむせ返した。


「君には見張りに立ってもらう。もし僕が部屋を出る前に九城が帰ってきたら、彼女をどうにかして足止めしてくれ」


「じゃあ俺を待ってたのは、合鍵でドアを開けさせるため?」


「そうじゃない。鍵ならある」


 僕はテディベアの首根っこをつまみ上げ、真久の目の前でマスターキーを掲げてみせた。


「大家から貰ったマスターキーだ。僕はこれを使って九城の部屋へ入り、確たる証拠を見つけ出す」


「だったら俺も入ります。俺が鷲尾さんを入れたことにすれば……」


「ダメだ。君が僕に接近したことで、九城は少なからず僕らの関係を疑ってかかるはず……だから君は、この件に一切関与していないよう装うんだ」


「何でこんな急に……」


「君たちが旅行に出てからじゃ遅いんだ。準備はいいか?」


「……はい」


 僕は腑に落ちない様子の真久を追い立て、マスターキー、カメラ、薄地の手袋、懐中電灯を持って通路へと踏み出した。


「どうして俺を待ってたんです?」


 九城の部屋の前に立った時、真久が後ろから声を掛けた。


「帰宅時間は分かっていたんだから、姫々が帰って来る前に部屋へ入ることはできたはずでしょう? しかも明日からは旅行でいないんだし……こんなギリギリまで俺を待つ必要はなかった」


「九城が時間通りに帰って来るとは限らない。だから真久にはどうしてもいてほしかった。それに、

〝嘘〟は自分以外の誰かがいないと成立しない」


 僕は真久の怪訝な表情を振り返った。


「本当はこんなやり方間違ってる……でも、君に真実を打ち明けたことで、僕は僕を騙すしかなくなった。そうやって自分を追い込んで、この間違ったやり方を正当化したかったんだ。部屋へ入れば証拠が見つかるだろうなんて、そんなのは都合のいい勝手な解釈でしかない。でも僕はまだ、自分を騙すことができる」


「……よく分かんない」


「要するに、僕は臆病な嘘つき野郎ってことだよ。さっ、君は階段の踊り場から九城が来ないか見張って。こっちは必ず十分以内に済ませる。それまでに九城が帰ってきたら、階段の中腹あたりで足止めするんだ。僕が部屋から出てくるところを見られないようにしてくれればいい」


 真久が配置に着いたのを確認すると、手袋をはめた指先でマスターキーを取り出し、鍵穴へねじ込んだ。ドアは抵抗もなく開き、僕を部屋へと誘った。

 真っ暗な玄関に立つと、不気味なほど落ち着き過ぎている自分自身に気がついた。三階の共有通路からくすねてきた懐中電灯に明かりを灯し、足元を、それから部屋の隅々を照らし出した。

 ほの暗い一室の壁際を、インテリアの数々がぼんやりと縁取っている。僕はその一つ一つに電灯を向け、目ぼしいものには大股で接近して念入りにまさぐった。


 テーブルの上は片付いているが、下には読み終わったファッション誌が几帳面に山積みされている。ベッドは綺麗に整頓され、キッチンもよく片付いている。開けっぱなしの押入れには、上段に季節物の衣類が入ったクリアボックス、下段に調度品の数々が収納されているが、特に怪しい物が隠されている様子はない。といっても、何が証拠となるかはいまいち分かっていない。絞殺に使えそうなロープや、人体をたやすく分解できそうな刃物でも見つかれば大収穫だろう。


 部屋を半分も見て回ると、精神面での疲労が早くもピークに達しようとしていた。肌寒い空間の中で、額に汗が滲み始めている。収納スペースを覗き込むたびに罪悪感が募り、重みとなってペシャンコにされそうだった。あいにく、探偵の多くは、人様の部屋を泥棒顔負けの抜き足で物色するためのスキルを備えていない。僕も例に漏れずその一人だった。


 タイムリミットが迫っていた。締めの探りは、ガラス戸付きのシャレたキャビネットに決めていた。そこには、最も成果が期待できそうにない〝におい〟が漂っていたからだ。

 腰ほどの高さしかない、二段式の小さなキャビネットだった。下段はガラス戸がしつらえられ、介護福祉士に関する分厚い資料が整然と並べられている。上段は左右一対の引き出しになっており、全部で四つある。その内の一つに封の解かれた四通の封筒を見つけた。

 中にはそれぞれ短い文面の手紙が入っていた。読んでいる猶予はない。僕は手紙を広げ、上から順に撮影を済ませ、寸分の狂いもなくピッタリ同じ位置へ戻し、部屋を出ようと玄関へ向かった。


 折しも、ドアの向こう側で、騒々しい物音が静寂を貫いた。




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