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鷲尾の場合その一(前編) ポプラ

一話前編です。後編は解決編になります。

 デザートのメロンを皮まで食べてしまう執念深い人種は、この探偵事務所に掃いて捨てるほどいるというのに、所長は調査員の一人であるこの僕こそその名誉に適任だと思い立ったらしい。

 僕は以前から、所長でもあり、大先輩でもある古屋敷秀馬こやしきしゅうまを崇拝しているフリに余念がなかったが、それもこの秋までだろうと腹を据えていた。

 三年前、新米の僕に探偵のいろはを叩き込んだのは所長だったが、今や転んでも起き上がれないだるまの様な風貌で、飛び出た腹に当時のカリスマ性は微塵も窺えない。定年間近の男が張り込み調査するには体力が乏しいし、標的をこっそり尾行するには電柱の陰から腹の贅肉がはみ出し過ぎる。蓄えられた口髭だけは三年前の面影に忠実だった。

 僕はそんな所長を半端に尊んでいる自分が嫌だったし、所長椅子の心地良さに満足している彼の姿を見るのはもっと嫌だった。


 十一月の肌寒い朝、『古屋敷探偵事務所』に出勤した僕は、足早に所長デスクへ直行した。そこは来訪した依頼人が腰を据える、パーティション仕立ての相談室の奥にある。埃っぽい本棚に包囲され、背後には汚れた窓が灰色の街並みの一部を切り取って映写している。この事務所は七階建て雑居ビルの最上階にあるので、東西を横切る賑やかな商店街を一望できるのだ。

 所長は首からぶら下げた一眼レフカメラを背に広がる街並みへ向け、熱心にファインダーを覗き込んでいた。


「所長、おはようございます」


 僕はまばらに散らかった所長の後頭部に向かって挨拶した。


「やあ」


 レンズを僕に向けながら、所長は揚々と挨拶した。ファインダー越しに、不服の申し立てを溜め込んできたこの仏頂面を覗かれるのは、あまり気分のいいものではない。


「お話があります。すぐ終わりますから」


「本当に?」


 所長は案じ声を発しながら、読みかけの朝刊、調査報告書、コーヒーマグ、ノートパソコン、食べかけの板チョコレートなどで雑然としたデスクの僅かに空いたスペースにカメラを詰め込んだ。僕は仏頂面の下から笑顔を引っ張り出し、「もちろん」と請け合った。


「我が事務所のホームページにある『調査員の紹介』ページを、今すぐにでも消して下さい。以上です」


「ダメ」


 所長は即答し、念入りにカメラのレンズを磨き始めた。僕はひるまなかった。


「調査員の姓名と顔写真、プロフィールを公表するメリットが、依頼の増加や信頼の獲得に依存するものとは到底思えません」


 笑顔を絶やさず、こうも続ける。


「これは決して、僕の紹介項目に『デザートのメロンを皮まで食べてしまう執念深さ』と書かれた腹いせではありません」


 所長は膨れた腹を叩きながら大笑いした。


「あれ気に入った? 傑作だったでしょ?」


「先輩、メロンの皮食べるんですか?」


 すぐ耳元で声がした。僕は大げさに驚くフリをして派手に飛びのいた。しかし、その拍子に本棚へぶつかり、頭とスーツの肩に埃が降り積もることは計算外だった。埃でかすんだ視界の中で、山田千沙やまだちさが古屋敷と一緒になって笑っていた。

 赤い派手なパーカーにジーパン姿の彼女は、繁華街を練り歩く休日の小娘そのもので、童顔な顔立ちは発育の良い小学生を連想させた。山田も『古屋敷探偵事務所』に務める調査員の一人で、誰あろう、この僕を露骨に好いてしまっている。


「先輩、本棚にぶつかりながらメロンの皮食べるんですか? でもそんな先輩が嫌いじゃないです!」


 山田の目には、笑い過ぎて今や涙が浮かんでいた。


「食べるわけないだろ。要は、僕が嘘つきってことを間接的に伝えたいのさ」


 僕は冷静にたしなめると、所長の方へ視線を滑らせた。


「大方、二ノ瀬の奴が入れ知恵したんでしょう?」


「まあね。ちょっと待って……他にも色々教えてくれたんだ」


 所長は不慣れな手つきでパソコンのキーを叩き、マウスを忙しなく動かした。僕は唖然とした。


「文字に起こしたんですか?」


「『調査員の紹介』ページを作る旨を二ノ瀬に伝えたら、喜んで情報提供してくれたよ。……あったあった。えー……鷲尾瑛助わしおえいすけ。二十七歳。割とノッポ。割とハンサム。割とくせ者。頭はキレるが、ボーっとしてればカカシみたいな奴。眼球にハエが止まっても気付かない」


 山田に再び笑いの発作が訪れた。


「次。寝付くのが苦手。布団に潜ってから最低三十六回は寝返りを打つ。しかし眠りは深く、いざ眠ってしまえば、鼻にセメントを流し込まれても目を覚まさない」


 所長は笑いながらも喋り続けた。


「次。物事をうまく分別できる。必要な物、いらない物を手際良く判断。しかし分別といっても、ほじった鼻くそを『燃えるゴミ』に捨てられる程度のスキル。反対の穴に戻したり、食べたりしない」


 これには僕も笑ってしまった。


「あとは……相談に乗るが、自分のことは晒さないセコイ奴。破廉恥な嘘つき。無鉄砲で不意に走り出す。免許はあるのに車を持たない。怒ると怖い。そんな自分が嫌いじゃない」


「大体あってます」


 僕は素直に認めた。


「でも、それとこれとは話が別。『調査員の紹介』ページはすぐに削除するべきです。顔と名前を公表されたのでは、調査時に支障が出ます」


 僕は、今度ははっきりと、勇ましく言い切ってやった。もう誰も笑わない。


「でもね、瑛ちゃん。依頼件数もかなり減ってるし、せめて今までと違う取り組みをしないと何も変わらないんだよ? 集客するには、他社とは全く違う方面から考え方を見直さないと。せめて今年いっぱいはさ……ね? チョコレートあげるから」


「今年いっぱい……分かりました」


 僕は生返事で了解し、渋々とチョコレートを受け取った。これ以上押し問答する余力もなかったし、所長の狡猾で頑固な性分を相手取るのはもう面倒だ。それに、相手は腐っても事務所のボスだ。これ以上盾突いても無益でしかない。それくらいの利巧さは備えてるつもりだ。


「ちょうどいい。私からも二人に話がある」


 一刻も早く立ち去ろうとする僕の背中に、所長が深刻な口調で話しかけてきた。僕は奇妙な緊張感にかられながら元の位置に戻った。彼の険しい声色が予兆するものは、僕の闘争心に炎が燃え上がるほど素晴らしい、危険で困難な調査依頼の到来以外にありえない。


「瑛ちゃん、今受け持ってる案件を下り、千沙と共に『ポプラ』へ潜入調査するんだ」


 『ポプラ』という名に僕はすぐピンときた。傍らでは山田が大歓喜している……僕と一緒に調査できるのが嬉しいってわけだ。お気楽な奴め。


「一ヶ月前に二ノ瀬が受け持った、例の案件ですよね? 僕たちの出番ってことは、いよいよなんですね」


「いや……私たちが思っていたように事は運んでいない。二ノ瀬の報告では、店長のセクハラ疑惑は氷山の一角に過ぎない、と。依頼人の江藤氏にはもう話を取り付けてある。すぐにでも現場に向かってくれ」




 およそ一ヶ月前、古屋敷探偵事務所に江藤という中年男性が訪ねて来た。隣町にあるチェーン飲食店『ポプラ』で働く主任らしい。濃い青ひげが顔の下半分に密生している以外は至って普通で生真面目。ハキハキとした喋り方は威厳ある人格者を思わせた。

 お茶を差し出すのに相談室の仕切りを跨いだ時、江藤の姿を直視した僕は、プログラム通りに動くロボットのようだと感心した。言動もさることながら、その表情には何の感情も読み取れなかったのだ。


「先輩。ポプラの案件ってどんなものなんですか?」


 ロビーでエレベーターを待っている時、いつになく真剣な眼差しで山田が問うた。仕事上における僕の唯一のストレスは、まさにこの女……尾行のスキルに関しては折り紙付きなのに、人を苛立たせるスキルでも遺憾なくその才能を発揮してきたこの名うての女だった。

 張り込みではトイレが我慢できないし、一人でもよく喋る。緊張感がないのだ。字は汚いし人の話も聞けない、覚えられない。現場に着いても尚、自分が探偵であることをほとんど自覚できていない。


「あたし、先輩のためならすっごく頑張れちゃいますから!」


 一人ハイテンションで意気込み始めた……その言葉に偽りがないことを、僕は誰よりも一番良く理解しているつもりだ。僕が山田の尾行技術に本物の才能を見出せたのは、皮肉にも、彼女が僕を愛し過ぎた結果だった。山田は帰路に着く僕に気付かれることなく尾行し続け、完璧な抜き足で夜の闇に溶け込み、そして僕の住むマンションを突き止めたのだ。

 後日、その事実を山田本人の口から聞かされた時、僕は舌を巻くと同時に恐怖した。山田の偉業は、褒めるなら『素晴らしい尾行』、訴えるなら『ただのストーカー』だ。僕はその日を境に、山田から可能な限り遠くへ逃げようと努力し、本棚にぶつかって埃まみれになる代償なんて些細なことだと自分に言い聞かせた。


「一度しか言わないから、よく聞いとけよ」


 到着したエレベーターの中身がカラッポなのを確認すると、僕は早口に説明を始めた。


「ポプラ店長の塩田氏が女性従業員にセクハラしているので、パート従業員として潜入調査し、証拠を握ってその実態を暴いてほしい。従業員は女性アルバイトを中心に次々と辞めていき、噂が広まれば閉店も考えなければならない。主なセクハラ内容は、勤務中にプライベートな話を持ちかける、退勤後、車に同乗させ家まで送る、自宅に連れ込んでの淫らな行為など。一部、事実無根の噂として流れている情報もあるので、その点を慎重に踏まえた上で調査してほしい。……以上」


 よどみなく降下していったエレベーターは、僕が話し終わる頃には一階で止まっていた。ドアが開くと、山田はひと気のない通路に向かって勢い良く嘆息を吐き出した。どうやらセクハラされる側の人間として、ひどくご立腹のようだ。


「あたしもありますよ、されたこと! 高校の時ですけど、教師でいました! 忘れ物したり問題を間違えると、ヒゲで頬ずりしてくる奴! 終わった後、必ず二、三本刺さってるんです!」


「凶器だな!」


「はい! あれは凶器ですよ! あんなのを顔の上で育てるなんて犯罪です!」


「そうとも! ヒゲに水を撒いて肥料を与える奴は極刑だ!」


 バス停に向かって闊歩しながら、僕は冷たい寒空目掛けて拳を突き上げた。声の後に白い息が続くのを見つめながら、僕は腹の中で精一杯笑い飛ばした。自宅まで尾けられた身分から言わせれば、山田への同情の余地はほとんど皆無だと豪語してよかった。教師のソレを犯罪で通し、自分の愛を正当化しようなんて考えは、さながら自己中心的発想の典型ではないか?




「お待ちしておりました」


 バスを降りた矢先、僕は肝を潰した。眼前にうやうやしく現れたのは江藤だった。トレンチコートの下から純白のコックコートを覗かせ、紙袋を両手にぶら下げて深々と頭を下げている。僕と山田がそれに続いた。


「仕込み作業は三十分前に始まっています」


 顔を上げると、江藤はもう歩き出していた。


「お二人には厨房のマニュアルが渡りますが、状況によってはホール……つまり料理を運ぶ接客の仕事にも携わって頂く場合があります。この袋の中に制服とマニュアルが入っていますので、現場へ入る前に着替えて下さい。更衣室は担当の者が指示します」


 走るように歩きながら、江藤は早口でまくしたてた。


「私たちが探偵だとよく分かりましたね」


「前に事務所を訪ねた時、あなたがお茶を入れて下さったのを覚えています。鷲尾さん……でしたよね?」


 点滅する青信号を前に、江藤は更に歩幅を広げた。僕は返事ができなかった。この男、待ったなしの全速力だ。


「待ってよー!」


 山田が横断歩道の向こう岸から叫んでいた。自動車と排気ガスの濁流の陰に、彼女の赤いパーカーが見え隠れしている。


「待ちましょうか?」


 江藤は飛ぶように歩きながら聞いた。


「いいえ。それより江藤さん、私はてっきり、店長と面接でもやるのかと思ってましたけど?」


 僕は肩で息をしながら尋ねた。


「今ポプラは創業十周年なんです。南橋店との連携による新商品の開発などに追われ、店長は今とても多忙です」


「……南橋店って?」


「この通りをまっすぐ南に行くと、橋を越えた先にもう一つポプラがあります。南橋店は私が元々働いていた店舗で、今いる北橋店へ異動になったのは四年前のことです」


 江藤は息も切らさず喋りつつ、向かってくる通行人を巧みな身のこなしでかわしまくった。


「私に人事権はありませんが、あなた方は四日も前に、私が面接したことになっています。私が面接をやるのは珍しい話ではありませんし、店長へは私から強くお二人を推薦しておきましたので、了承を得ることができました。それに、例え偽装された履歴書でも、調査対象である店長にあなた方の素性は知られたくない。そうでしょう?」


「ごもっともです」


 気付くと、目の前はもうポプラの駐車場だった。ポプラは赤い屋根とレンガの外壁が好印象のファミリーレストランで、全国に店舗を構える大手チェーン飲食店だ。外食を好まない僕さえ何度か利用したことのある、地元民には馴染み深いレストランである。

 刈り込まれた芝を踏み越え、店の脇にある従業員専用口の前まで来た時、山田が僕らに追いついた。セミロングの茶髪は乱れ、片方の付けまつ毛が危なっかしくぶら下がっている。


「先輩! 置いてくなんてひどい!」


「……まあね」


 僕はネクタイを緩めながら絶望的に呟いた。なるほど、この女から逃げ切る手段など存在しないらしい。


「このドアの向こうをまっすぐ進んで下さい。突き当たりを右に行くと厨房、左に行くとドアがあり、その向こう側が休憩室になっています。テレビ、コップ式自動販売機、ポット、電子レンジが置いてあるので休憩時に使ってください。そこに『神居』という男の子と『大河原』という女性がいますので、着替えなどの手順を聞いて下さい。私は荷物の搬入作業を手伝なければならないので、ここに残ります」


 江藤は両手にぶら下げていた紙袋を押し付け、僕らをドアの所まで促した。


「最後に一つ」


 僕は江藤のカラッポの表情を振り返った。


「くれぐれも無茶だけはしないで下さい。調査は慎重にお願いします」


「任せて下さい!」


 まつ毛をブラブラさせながら山田が躍り出た。


「鷲尾先輩は腕利きの探偵なんですから。メロンの皮だって食べちゃうんですよ!」


「山田、まつ毛取れてるぞ」


 僕は言って、逃げるようにドアの向こうへ飛び込んだ。お出迎えは騒々しいボイラーの重低音だった。後を追ってきたしかめ面の山田がまた何か不平を言っているようだが、うるさくて聞いているどころではない。

 通路は暗くて狭く、剥き出しの冷たいコンクリートがボイラーの騒音と共に左右から迫って来るようだ。天井を伝う二本の太いダクトは、ほの明るい壁の突き当たりまで続いており、通路の末端でそれぞれ左右に分かれて尚も走り続けている。


 僕は説明通り、突き当たりを左へ曲がり、ドアをくぐって休憩室へと入った。視界は途端に明るい空間へと様変わりした。整然と並べられた椅子や大きな円卓、自動販売機などが次々と目に飛び込んでくる。壁や床はベージュ色で、清潔感があってなかなか広い作りだ。すぐ左手にはどっしりした木製の黒い台が置かれ、大きな液晶テレビがそこに鎮座している。始まったばかりの朝のローカル番組が陽気なBGMを奏でていた。

 テレビに注目していた制服姿の二人が、今しがた現れた僕と山田に気付くなり、弾かれたように立ち上がって近寄って来た。


「初めまして」


 四人は顔を見合わせ、パラパラと挨拶した。五十半ばと思しき女性は山田と同じくらい小柄で、薄い化粧の上にホクロが点在していた。


「大河原です」


 女性は嬉しそうに名乗り、並びのだらしない歯で笑った。

もう一人は顔立ちの整った色白の青年で、黒髪のショート・シャギーがとても好印象だ。背丈は百八十センチくらいだろうか? 僕よりわずかに低い。


神居清太かみいせいたです。大学二年の二十歳」


 神居は会釈し、爽やかに微笑んでみせた。穏和な性格が溢れ出している。


恵比寿賢治えびすけんじ。フリーター。引きこもって物書きをやっていましたが、お金が底を尽きたのでここで働くことになりました。お世話になります」


 僕はこてこての嘘で塗り固めたプロフィールを空で読み上げた。内偵をする時はいつも『恵比寿賢治』で、僕はこの名前を特に気に入っている。 


野坂亜璃亜のざかありあ。二十二歳。フリーター。海外留学の資金を稼ぎたくて、ここに決めました。よろしく!」


 僕はウインクを投げかける山田を横目で見て、全身を駆け抜けた悪寒が両肩を震わせようとするのを必死に抑え込んだ。山田曰く、『亜璃亜』は生まれた子供に付けようと企てている名前らしい。まったく、おめでたい奴だ。


「二人は知り合いなんですか?」


 神居が身を乗り出して聞いた。僕は焦った。


「違いますよ。外で江藤主任と話している時に、たまたま鉢合わせたんです。僕ら初めての出勤で、不安だからここまで一緒に来たんですよ」


 神居も大河原も、即席の嘘で何とか納得してくれたようだ。この職場では決して、正体が探偵であることも含め、僕と山田に繋がりがあることを悟られてはならないのだ。


「着替え、教えてあげるから。こっちね、こっち」


 大河原が仰々しい身振りで更衣室まで案内した。奥に短い通路が伸びていて、左右にそれぞれ更衣室のドアが佇んでいる。


「右が女性用、左が男性用更衣室です。それじゃあ大河原さん、野坂さんをお願いしますね」


「ラジャッ!」


 大河原が親指を突き上げるのを確認すると、神居は軽やかな手つきでドアを開け、中に僕を招き入れた。

 四畳半ほどの更衣室は半分が物置になっていた。食器類の在庫が段ボールに入れられて天井高くまで積まれ、使い古しの鍋や壊れた子供用の椅子が壁際に押しやられて散在している。私物の置いてあるラックの陰からは、朽ちたクリスマスツリーがあらぬ方向へ突き出していた。


「素敵でしょう?」


 床を這っていた得体の知れない虫を蹴散らしながら、神居がやぶから棒に聞いてきた。僕は鼻で笑った。


「そうですね。賞金が貰えるなら住んでもいいですよ」


 これも嘘だ。目の前に大金を積まれようが、鍋を枕にゴキブリと添い寝するのは死んでも御免だった。


「以前はネズミが出たんですけど、主任のおかげで根絶やしにされちゃいました。法令で許可が下りないと使えない、凄く強力な農薬を主任が手に入れたんです。モノフル……何とかっていう名前の。もうここには無いですけど」


「モノフルオロ酢酸ナトリウム。別名『1080』です」


「すっげえ! 何で知ってるんですか?」


「前に……ずっとずっと前に、小説を書くための資料集めで調べたんです。たまたまです」


 僕の着替えを手伝いながら、神居は人懐っこい笑顔で話しかけてきた。


「普段はどんな小説を書いてるんですか? 是非この店のお話も書いて下さいよ。ここって、従業員が個性派揃いで楽しい所ですよ」


「もっぱら恋愛小説ばかり書いてます。僕自身、恋愛には疎いんですけどね。でも神居くんくらいイケメンなら、きっと職場でも女の子には困らないんだろうな。ああ羨ましい」


「そんなことないですよ。俺、女の子苦手だし……仕事中だって誰とも喋んないんですから。見てれば分かりますよ」


 女性従業員の内情を聞き出そうと思ったが、どうやら手応えはなさそうだ。


「……恵比寿さんこそ、恋愛小説家ってことはロマンチストなんじゃないですか? 女の子のハートを鷲掴みするようなシチュエーションをいくつも持ってるんでしょう? 少し分けて下さいよ」


「いいですよ。その代わり女の子紹介して下さい」


「結構がめついですね」


 他愛のないお喋りがうまくいったのはラッキーだった。こんなに早い段階で息の合う情報源が見つかるとは思っていなかった。あとは頃合いを見計らい、店長の悪行とやらの確たる証言を手に入れれば、この案件は一気に解決となる。


「南橋店での研修はどうでした?」


 長靴のストックをあさりながら神居が尋ねた。


「研修って? ……ああ! とっても疲れましたよ。いちいち細かい所を突っ込まれるんで」


 僕は咄嗟に機転を利かせた。無論、僕も山田も研修など行っていない。


「そうそう。僕なんか一ヶ月もやらされましたよ。もう四年も前ですけどね。江藤主任がこっちへ異動になる直前で、あの人にみっちりしごかれちゃいました」


 ラックのてっぺんから長靴を一式引きずり下ろすと、神居はやんわり微笑んだ。


「私物がある場合こっちのラックに置いて下さい。ロッカーはないので、貴重品は肌身離さず管理して下さいね。俺はいつもここに置いてます」


 神居はそう言って、ラックに置いてある自分のカバンを指差した。年季入りの茶色いパンチングバッグは糸がほつれ、かなり使い込まれている様相だ。僕はあらかじめ紙袋の中に仕込んでおいたデジカメを抜き取り、こっそりズボンのポケットに忍ばせた。尾行調査などで使っているこのデジカメは、今回も『動かぬ証拠を掴む』という大役を果たすのに、しばらくの間窮屈なポケットの中で出番を待ってもらうことになる。


「それじゃあ、厨房に行きましょうか。今日からしばらくは俺が面倒を見ます……あっ、マニュアルは置いといて下さい。読む場所も、暇も、全くありませんから」


 僕の手から分厚いマニュアルを取り上げると、神居はそれをラックの上に放り投げ、にっこりと笑いかけた。締めに黒の頭巾をかぶり、『恵比寿』と書かれた名札を胸に着けると、僕らは更衣室を後にした。貸与された制服は頭巾と共に小さくて窮屈だったが、長靴は手ごろなサイズが余っていたのを拝借できた。神居に連れられて再び薄暗い通路へ戻ると、慌ただしい厨房の喧騒がボイラー音と競うようにやかましく聞こえてきた。

 渇いた喉の下で、心臓が乱暴にあばらを叩き始めた。僕はひどく緊張していたが、その兆候を一瞬のまばたきにさえ表すまいと努力していた。馴染みの無い空間の、知らない人間が大勢いるその只中に放り込まれるなんて、僕にとっては大惨事だ。恵比寿賢治が『引きこもりの物書きフリーター』を気取るのは、つまりそういうことなのだ。


 足を踏み入れたその厨房に、僕が思い描いていた清潔さや快適さは全く窺えなかった。天井のほとんどは埃まみれの排気フードに覆われ、フライヤーで使い古された油の独特な香りを腹いっぱい吸い込んでいる。錆びついた鍋やフライパンが吊るされて宙を漂い、ガステーブルから立ち昇る炎の熱気をことごとく浴びている。業務用冷蔵庫の脇に置かれた巨大ゴミ箱からは生ごみのすえた悪臭が放たれ、鼻の奥深くまで入り込んで脳みそを襲撃した。

 タイル張りの湿った床には野菜の切れ端が散在し、従業員が慌ただしくその上を跨いで行く。その凄惨さたるや、まるで、誰の目にも触れられぬまま何年も時が過ぎてしまうかのように見えた。


「初めまして、恵比寿です。今日からお世話になります」


 僕は従業員の好奇に輝いた瞳とすれ違うたび、機械的にそれを繰り返した。大概の従業員は子育てを終えて手持ち無沙汰になった、五十過ぎの女性ばかりのように見えた。仕込み作業を進める傍らでしがない世間話に興じていたが、見慣れない男がそばを通ると話すのをやめ、好奇心を露に詮索を始める。僕が挨拶を交わした相手はみな漏れなくその手合いだった。


「初めまして、恵比寿です。今日からお世話になります」


 四人目の相手は初めての男性だった。手洗い台に新品のハンドソープを三つも並べている。手指乾燥機の傍らに掛けてある小さな鏡には、男のやつれた青白い顔が不気味に映り込んでいた。

所長から見せてもらった資料写真の中でこの顔を見たことがある……間違いない、ターゲットの塩田店長だ。


「ああ、君か」


 鏡の中の僕に向かって塩田が言った。まだ青臭さのちらつく若者だが、頬はこけ、声からは生気が抜け落ちていた。


「話には聞いてたけど……今日だったっけ?」


 塩田は神居を振り返った。神居は小刻みに頷いてそれに応えた。


「もう一人、野坂さんって女の子が来ますよ」


「あ、そう……何でこんな忙しい時期に……忙しすぎるもの……悪いことは重なるもんだな」


 塩田は取って付けたような笑顔で誰にともなく笑いかけた。神居さえ無反応だった。


「ハンドソープさ、三つ置いてみたんだ。みんな手洗うの大好きだから、いちいち補充するのが面倒で……」


「店長」


 神居が深刻な声色で話しかけた。塩田は鋭くすがめた横目で神居を見た。


「退勤後に大事なお話があります。時間を取ってもらえますか?」


「ああ……もちろん」


 曖昧な返事を残し、店長はアーガイル紋様のくたびれたのれんをくぐって客席の方へ消えていった。塩田と入れ替わるように現れたのは山田と大河原だった。


「あの人が店長さん? 病気か何かなの?」


 山田が呆け声で尋ねた。大河原が盛大に笑った。


「店長は参ってんのよ。十周年祭で忙しいし、発注ミスばかりするし」


「そうそう、聞いて下さいよ野坂さん」


 神居が声をかけた。


「先週、卵が三千八百個届いたんですよ。その前は千二百匹のサンマが押し寄せて……あれは腹抱えて笑ったよ」


 窮屈な手洗い台で四人揃って手を洗いながら、みんな一斉に笑った。


「誰か店長を気遣ってあげないの? 女の子が声を掛けてあげればいいのに」


 しめた。偶然かもしれないが、山田は『野坂亜璃亜』を演じる者として適確な疑問の一つを投げかけてくれた。二人の答え方によっては証言が得られるかもしれない。


「私は嫌いじゃないのよ……」


 大河原は乾燥機の中に突っ込んだ手をもじもじさせながら言った。


「でも、塩田店長には奥さんがいるしさ。それにほら、一人いたでしょ、仲の良かったバイトの女の子」

 僕は入念に手を洗うフリをしながら耳をそばだてた。


「ああ、笹岡美織のことですか?」


 神居が答えた。『笹岡美織』という名は資料になかったはずだ。


「吹奏楽のサークルが忙しくなるからこの先はほとんど出勤できないって聞きましたよ。店長に元気が足りないのは、笹岡さんが来られなくなったからだって、みんなで噂してたんです」


 神居は小さく抑えたその声を、包丁がまな板を叩く忙しない騒音に紛れ込ませて言い切った。それに便乗するように大河原が続いた。


「確かにさ、あんまりいい噂は聞かないね。私は嫌いじゃないのよ。でもね、女癖の悪さとか、結構ひどいらしいんだわ。それにちょっと……というよりかなり、ズボラなんだわ。厨房は臭いし、事務所は不潔だし、金庫の鍵は壊れてるし……」


「大河原さん、続きは休憩時間にでも」


 神居はそっと促し、徐々にボルテージの上がってきた大河原の興奮を間一髪の所で食い止めた。

 僕と山田には持ち場が与えられ、それぞれ神居と大河原が付き添いでサポートした。僕は洗い場と簡単な仕込みを、山田は業務用の巨大炊飯ジャーでおいしいご飯を炊く手順を学ぶことになった。


 洗い場の一角からは厨房の隅々まで見渡せたので、店長の卑猥な悪行の一部始終をカメラで撮影することは可能だった。しかしそれは、厨房のどこからでも、こちらの正体を見抜かれるリスクが伴うことを如実に物語っている。いかなる状況でも正体がバレてはならない。それが潜入調査の難しさであり、醍醐味でもあるのだ。


 しかし、いざ仕事が始まってみるとカメラを構えるどころではなかった。客席を始め、厨房のあらゆる部署から大量の洗い物が運ばれてくる上、「手が空いたら皮を剥いてくれ」と任されていたジャガイモは、山積みにされたまま一向に減る気配を見せなかった。


 そして、僕にとって最も厄介なのは神居清太だった。神居は手本として二、三分、手際良く食器を洗う技を披露してみせたが、いざ開店して客が出入りし始めると、ただ後ろに立ち、忙しさで目を回す僕の哀れな姿を傍観するだけになった。恐らくどれだけ動けるのかを観察しているのだろうが、そんな状態が三十分も続くと段々腹が立ってきた。調査ははかどらないし、皿洗いの副業を強要されている気分だ。


「恵比寿さん! これ、よろしくね!」


 どこからか山田が現れ、明け透けに親しみを込めた物言いで洗い物の山を築いていった。山田は洗い物だけでは物足りないとばかり、僕の苛立ちまでも上乗せしていった。今のやり取りを周囲の人間がどう捉えたのかは分からない。唯一はっきりしている点は、今や『野坂亜璃亜』がただの〝お小遣い稼ぎ小娘〟になってしまっている、ということだけだった。




「恵比寿さん、今日はお疲れ様でした。明日は夕方の十七時に出勤してほしいって、主任が言ってましたよ。洗い場に引き続き、閉店作業の流れを教えますね」


 退勤後、休憩室のテレビを呆け顔で眺めていた僕は、神居がそう指示するのをぼんやりと聞いていた。腰が鈍く痛むし、漠然と機能したままの脳みそを労わるのがとてもだるかった。せっかく買ったアイスコーヒーも、喉に流し込む作業が面倒くさくてほったらかしだ。

 突如、神居の険しい面持ちが僕の前に現れた。


「明日からはもう、一人で洗い場できますよね?」


 僕らはしばらく見つめ合っていた。こちらがすぐに返事をしなかったせいだが、それは停止状態の脳みそに本気で発破をかけなければならなかったからだ。

 勘付かれている……僕は神居の鋭い眼光を見つめながら察した。神居はずっと僕に付きっきりで、山田との奇妙な馴れ合いにも最前線で立ち会っている。『物書きフリーター』の分際がスーツで出勤して来た事にも疑問を抱いているはずだ。

 『恵比寿賢治』にとっての理想はマンツーマンでの監視を逃れ、仕事とは別の何かに専念すること……神居がその事実を悟っているなら、この唐突で無茶な質問にも納得がいく。神居はきっと、僕が「一人でできます」と答え、自分を遠ざけてくるだろうと勘ぐっている。その答えが聞ければ、神居の疑問は確信に変わるはずだ。


「まさか。一人でなんて無茶ですよ。あんな所に一人きりなんて怖すぎます」


 僕は隠し事などないとばかり、努めて明るく答えた。神居も笑った。


「要領が良かったし、なかなか身のこなしが軽いから大丈夫だと思ったんですけど……分かりました。明日また、二人で頑張りましょう。それじゃあ、僕はまだ仕事があるので」


 神居が休憩室を出ていくと、それと入れ替わりですぐに山田が入ってきた。眼球がまぶたの内側へひっくり返り、力の抜けたきゃしゃな腕を両肩からぶら下げている。


「せんぱーい。疲れましたー」


 僕は怒りに任せて立ち上がり、山田の腕をもぎ取らんばかりに鷲掴んで更衣室の前まで引っ張っていった。


「理解しろ!」


 声を殺して怒鳴りつけた。


「僕たちは今日初めて会った赤の他人なんだ。それがどういう意味か分からないのか? 僕は鷲尾瑛助じゃないし、誰の先輩でもない。探偵としての自覚をほんの少しでいいから持ってくれ!」


「……ごめんなさい」


 僕は山田の腕をそっと放した。山田は怯えたような表情で僕の剣幕を見上げたまま、今にも泣き出しそうだった。


「自然体で構わない」


 言い、それから穏和に続けた。


「僕は嘘つきだ。だから、どんな時も自然体でいられる君がとても魅力的だった。本当に海外留学を望んでいることも知ってる。調査中、君はいつだって大真面目だ。でももう少し……ほんの少しでいいから考えてくれ。何が正しくて、何が間違いなのかを」




 依頼人である江藤主任のひらめきなのか、次の日の僕と山田の出勤時刻は大幅にずらされていた。山田は朝、僕は夕方からの出勤になっており、僕はこのことを素直にありがたがった。忙しい仕事がてらのただでさえ難しい情報収集の最中に、お粗末な山田のおまけが付いてくるのはもうウンザリだ。

あの程度の説教で山田が応えたとは思っていなかったし、そういうことなら、厨房内を自分一人で嗅ぎ回っている方がよっぽどセンスがいい。僕は「その通り。ぜひそうあるべきだ」と朝から自身を説き伏せていた。

 大きな心配事が消えた心の清々しさとは裏腹に、筋肉痛の手足をひきずって出勤するのは一苦労だった。休憩室への重いドアを開けると、中から楽しげに弾んだ笑い声が聞こえてきた。退勤済みのパートの女性たちが制服姿のまま円卓を独占し、飲み物片手に大声で談笑している。その中心で、落ち着きのない身振り手振りで場を盛り上げるのは山田だった。あたかも十年はここで働いてきた振る舞いで輪に溶け込んでいる。


「おはようございます……」


「あっ、おはようございます!」


 僕がそのかしましい空間に向かって挨拶すると、山田は快活な口ぶりでそれだけを言い、次には何事もなかったようにまた談笑に夢中だった。僕はほっと胸を撫で下ろした。山田の中の『鷲尾瑛助』が初めて『恵比寿賢治』に変わった、その奇跡の瞬間に立ち会えた気がしたからだ。

 制服に袖を通して更衣室から出ると、ようやく着替えることを思い立ったパートさんたちの群れが、笑い話のオチをひきずったまま更衣室に入っていく所だった。その中に山田の姿はなかった。山田は出勤してきたばかりの神居と立ち話に興じていた。


「おはようございまーす」


 神居が声をかけてきた。僕はドアをくぐって真っ先に厨房へ向かいたかった。神居の前で山田と肩を並べるのは好ましくないと思った。


「今日もよろしくお願いします」


 僕はごく自然な表情をこしらえるのに苦戦しながら挨拶した。


「腕、痛くないですか? 洗い場の洗礼に悩まされるのが入りたての新人なんです」


 神居は裏表の見当たらない、心から会話を楽しむような笑顔でそう尋ねた。僕の顔はもう随分も前からこんな風に笑っていない。本気で笑うには表情筋の隅々に笑い方を思い出させる必要があったし、笑い声は食いしばった歯の隙間からかろうじて漏れてくる程度だった。


「全身が痛いですよ。どこかに磨ぎたてのカービングナイフでも刺さってるんじゃないかな?」


 僕は背中に手を回して大げさにおどけてみせた。そして、得意の嘘笑いを浮かべて山田の方を向き直った。


「野坂さんはどう? 体痛くない?」


 僕は痛む体をねじりながら山田に尋ねた。僕らの関係に疑念を抱いている神居を前に、山田を露骨に無視し続けるとかえって疑いが深まると読んだのだ。


「あたしはへっちゃらです。味見ばかりしてましたから」


 期待通り、山田は夢見るような表情で答えてみせた。出し抜けに声をかけられ、さぞ面食らった顔をしたかっただろう。

 折しも、開いたドアの陰から江藤主任の生首が突き出した。


「神居、ちょっと来てくれるか? 先日もらったクレームの件について聞きたいことがあるから」


 神居は手に持っていたパンチングバッグを円卓に置き、ボイラーが轟音をうねらせる薄暗い通路へと姿を消した。休憩室には僕と山田だけとなった。更衣室からは大河原の下品な笑い声が絶え間なく聞こえていた。


「昨日はごめんなさい」


 山田が小さな声で言った。僕は山田に背を向けた。


「もういいから、早く帰るんだ」


「でも……嬉しかったんです。あたしのこと、あんな風に思ってくれてたなんて」


「は?」


 呆れた。あんなものは、心のあちこちに散らばっていた彼女への怨恨をかき集めて束にし、たちどころに美化させた代物に過ぎやしない。山田は何を勘違いしたのか、それを僕からの遠回しな告白と判断してしまったらしい。


「先輩……あたし……!」


 僕は振り向きざまの遠心力で思い切りビンタしてやりたい衝動にかられた。だが実際は、振り向いただけで何もできなかった。僕が手を出す前に、山田の両手が自分に向かって伸びてくるのが見えたからだ。それは、山田から切り離された全く別の生き物が意思を持ち、僕を抱き止めて絞め殺そうと目論んでいるようにも見えた。

 だが、そうはならなかった。その右腕が置き去りにされていた神居のパンチングバッグをなぎ飛ばし、床に叩きつけて中身をぶちまけた。分厚い文庫本や携帯電話、小さなテディベアの付いた家の鍵、デジカメ、銀紙に包まったチョコレートなどが音を立てて足下に転がり落ちるのを、僕らは凍りついたまま眺めるしかなかった。


「……早く!」


 我に返った僕は手当たりしだいに拾い集め、まだ硬直したままの山田を乱暴にせっついた。カバンを定位置に戻すと、僕は山田を睨み落とした。


「よく聞けよ」


 怯え切った山田の表情に向かって、僕は押し殺した声で言った。


「着替えたらすぐ事務所へ戻り、二ノ瀬からの新たな報告書があれば、所長からそれを受け取るんだ。二十二時頃に連絡するから、それまで事務所にて待機」


 早口で一気にまくしたてると、僕は休憩室を出て通路の暗がりへ飛び出した。

 目の前に神居が立っていた。凛々しい出で立ちの女性と一緒だ。


「こちら田口さん。主任と別れた後にそこで会ったんだ」


 神居はやぶから棒に女性を紹介した。


「田口麗華です。先月からホールで働いてます」


 田口は頭巾を取り、長い黒髪を滴らせ、浅く会釈した。口元のホクロが美しく映えている。


「恵比寿賢治です。昨日から厨房で皿洗いやってます」


 僕は架空の洗い場を創り出し、醜悪な剣幕で皿を洗うジェスチャーをやってみせた。田口はしばらく呆然としていたが、やがて思い出したように失笑した。


「今日はもうお帰りですか?」


 僕は早口で尋ねた。今すぐに厨房へ行きたかった。


「はい。これからやらなければいけない事があるので。……お先に失礼します」




 この日、厨房には塩田店長の姿があった。いつもは厨房の奥にある事務所でデスクワークに励んでいると聞いていたが、今日は看板デザートのラズベリームース作りに没頭したり、フライパンの上に火柱を立てたりするのに忙しなかった。

 あの慌ただしい様子を見る限り、デジカメの出番はなさそうだった。厨房の夕方は昼に比べて学生アルバイトの数が増え、青々しい雰囲気に包まれているのに、女好きの店長は誰にも話しかけないし、話しかけられない。これは今日たまたまではなく、店長はもうずっと前から、そういう糞真面目な物腰で仕事をするのが日課となっているように思えた。

 相変わらず顔に血の気はなかったが、料理人としての奮然たる闘志が、フライパンから立ち昇る火柱のようになって瞳から燃え上がるのを、僕は確かに見たのだ。


「店長のこと、気になりますか?」


 隣でジャガイモの皮むきに専念していた神居がボソッと尋ねた。店長を観察したのは皿洗いがてらのほんの束の間だというのに、なぜ気付かれたのだろう?


「そりゃあ気になりますよ」


 僕は平然と答えた。神居がそれに気付けたのは、僕が店長を気にかけていたように、神居も僕のことを気にかけていたからに違いない。


「昨日は厨房にいなかったので、どんな仕事ぶりなのか拝見してみたくて。それに、噂になっている〝女癖の悪さ〟っていうのがどの程度のものなのか、興味があったんです」


 僕は正直に答えた。神居はピーラーの動きを止め、まっすぐにこちらを見据えた。


「恵比寿さんが探偵だから?」


 泡だらけの指の間からパスタ皿が滑り落ちていった。一瞬、僕は呼吸のやり方を忘れた。


「探偵? 僕が? 何言って……」


「誰にも言いませんから。その代わり、一つ、俺の頼みを聞いて下さい」


 完全に神居のペースだった。僕に弁解する余地を与えぬまま、神居は小声で喋り続けた。


「今日の閉店後、塩田店長は南橋にある『ポプラ南橋店』へ向かいます。これは江藤主任が仕向けたもので、塩田店長は南橋店の金本店長という男と落ち合い、明日に控えた『ポプラ十周年祭・最終日』の会議をする手はずになっています。その間、恵比寿さんには江藤主任の動向を監視してもらいたいんです」


 訳の分からない話だった。神居の言葉は暇を潰すためのでっち上げのようにも思えたし、疑いのある塩田を差し置いて、なぜ依頼人の江藤を監視しなければいけないのか理解できなかった。


「話が飛躍し過ぎでついていけません。そもそも、何を根拠に僕を探偵だと?」


 まだ自分が探偵であることを肯定したわけではないが、神居の顔つきや言動は自信に満ち足りていた。


「根拠なんてありません。勘でものを言っただけです」


 言うと、神居は口の端でうっすら笑った。


「カマをかけるにしては、計画について随分とペラペラ喋りますね。その勘について、よほど自信があるのでは?」


「そんな怖い顔してると、みんなにバレちゃいますよ?」


 僕は口をつぐんだ。これ以上ムキになれば神居の思う壷だ。


「恵比寿さんの……正確には、恵比寿さんと野坂さんの正体を知っているのはまだ俺だけです。店長は知りません……俺が黙っている限りは」


「つまり……正体をバラされたくなければ、江藤主任を監視しろ。そういうことですか」


 神居はうなずく代わりに微笑んでみせた。


「あなたは頭がいい」


 再び皮むきを始めながら神居は言った。


「昨日の帰り際、恵比寿さんは『一人で洗い場できますよね?』という俺の質問に対し、〝できない〟と答えた。あれは自分への疑いを晴らすための冷静な嘘。あなたはとっさに疑われていることに気付き、適確な答えを導き出したんだ。あなたは優秀です。だからこそ頼める。江藤主任を監視して下さい、と」


 どうやら神居は本気らしかった。僕は再開させた皿洗いをすぐにやめた。


「僕らの正体を明かした人物がいるなら、正直に答えて下さい」


 僕は前方にある手洗い台を見つめながら詰め寄った。神居はかぶりを振った。


「俺の独断です。根拠なんてありません」


「……分かりました。今日は残業しましょう」


 言うと、神居はいきなりピーラーを放り出し、僕の隣で一所懸命にグラスを洗うフリをしながら耳打ちしてきた。


「店を閉めるのは店長の務めなので、主任はその少し前に店を出るはずです。その後、店長は車で南橋店へ行き、金本店長と落ち合う。俺の考えでは、江藤主任は塩田店長の後を追うか、あるいは別のルートから南橋店へ向かう」


「それを尾行しろと?」


「そうです。その際、主任の行動から目を離さないで下さい。主任はきっと何か仕掛けてくるはずです」


「また憶測ですか?」


「あなた方の正体を言い当てるより、よっぽど現実性のある憶測です」


「江藤主任に個人的な恨みでも?」


「そんなところです」


 尋問が続く間、神居はずっと同じグラスを洗い続け、僕は手洗い台を睨んでばかりいた。


「この次の休憩時間、江藤主任はあなたに『店長を尾行しろ』と指示を出すはずです。あなた方のどちらかが店長を尾行し、その裏でもう一人が主任を監視してくれればいい。特に大切なのが……」


 その時、塩田店長が気配もなく洗い場に現れるのを見て、神居はとっさに話すのをやめた。塩田は洗い立ての巨大アルミ鍋を両手に持ったまま、こちらを訝しげに見つめている。鍋は塩田の枯れ枝のような両腕を、肩から引っこ抜いてしまいそうに見えた。


「何? 悪巧み?」


 塩田はひどく怯えているようだった。神居がせせら笑った。


「店長も入ります?」


「遠慮しとこっと……しっかり働けよ、新人」


 店長がそそくさと洗い場を出ていくと、神居が喋り出した。


「特に大切なのが、見張る場所です。南橋店の裏には従業員専用口とは違う、もう一つの裏口があるんです。そこをしっかりマークして下さい」




 休憩時間になると、僕は急いで更衣室へ向かった。中に駆け込むと江藤主任が制服に着替えているところだった。どこかへ出かけていた様子だ。


「どうしたんですか? そんなに慌てて……」


 江藤は僕の慌てぶりに驚いたようだが、相変わらず無表情だった。


「ちょっと忘れ物を……」


「ちょうど良かった」


 主任はドアの向こう側で誰か聞き耳を立てていないか、見透かすように目を細めながら囁いた。


「退勤後、塩田店長を尾行して下さい。店長は会議で南橋店へ行くことになっていますが、その前後で不可解な行動に出るかもしれません。始終、尾けることはできますか?」


「任せて下さい。山田千沙を呼びますので、二人で尾行しま……」


「いえ、鷲尾さん一人でお願いします」


 つい顔をしかめてしまった。目の前の男がのっぺらな無表情で反論してきた上、神居の言葉が脳裏をかすめたからだ。


『主任はきっと何か仕掛けてくるはずです』。


「その……調査料を抑えたいんです。一人なら半分で済むでしょう?」


「確かにそうですけど、もし失敗してチャンスを逃したら調査が長引いてしまいますよ? 尾行調査は複数で行う方が効率良いんです」


 僕が丁寧に説明しても、江藤は意固地に聞く耳を持たなかった。黙々と着替えを済ませると、去り際に「一人でお願いします」と、念を押すように言い残していくだけだった。

 しかし、これで神居の言葉にはっきりとした信憑性が浮き上がってきた。江藤が陰で何らかの行動に出るなら、その姿は誰にも見られたくない。調査員の数を一人に限定してしまえば、まず自分が尾けられることはなくなる。それに、ターゲットの向かう先を明確にしたことで、少なからず成功率を上げている。山田を昼に出勤させ、遠ざけたことにも納得がいく。全て辻褄が合う。


 僕は小首を傾いだ。江藤の目的が分からない。こんな回りくどいことをしなくても、塩田の化けの皮を剥がすことは可能なはず。

 情報を知りすぎている神居のことも気がかりだ。たった二日でこちらの正体を見破ったばかりか、江藤の行動を事細かに見抜いている。陰で江藤とつながっていて、彼の思惑を食い止めようと僕に話を持ちかけたのだろうか?

 僕は、頭の中に次々と浮かんでは曖昧に消えていく幾多の疑問を抱えたまま、携帯電話から事務所に連絡を入れた。


「山田千沙に伝言です。手の空いている調査員を一人連れ、二十二時にポプラ北橋店の駐車場へ来て下さい。調査員の自動車か、あるいはタクシーを確保しておくこと。尾行対象は塩田店長。僕は別件で江藤主任を尾行します。この江藤主任に関してですが、時間までに、ここ三、四年ほどの素行調査をお願いします。結果はメールで知らせて下さい」




 夜風に冬の陰りがちらついていた。指先はかじかみ、奥歯が震え始めた。目の前を横切る幹線道路からは色鮮やかなネオンの光が消え、殺伐とした闇の中を自動車がまばらに通り過ぎていく。

 閉店後、僕は従業員専用口の脇にある倉庫の陰でうずくまり、ターゲットである江藤が出てくるのを待っていた。木造のボロ倉庫は身を隠すのには十分でも、冷たい夜風をしのぐには物足りなかった。ネズミが出入りしたような穴がいくつも開いているし、そこから冷たい空風がカビの臭気を含んで吹き出していた。


 江藤が従業員専用口から姿を現したのは、僕が待機してから三十分も後のことだった。江藤は駐車場の照明から逃げるような足取りで店の裏手へ回り、レンガ塀沿いにそのまま突き進んでいった。

僕はしばらくその後ろ姿を目で追った。黒のトレンチコートを身にまとい、片手にはボストンバッグらしきものを下げている。足元は磨き込まれたレザーシューズのようで、間隔の短いかすかな足音を闇夜に放っている。できるだけ静かに、懸命に速く歩こうとしているようだった。

 僕は江藤の後ろ姿を目に焼き付けると、いよいよ尾行調査に乗り出した。江藤はまず、店の裏手から隣の敷地へと続く高さ一メートルほどのレンガ塀を乗り越え、裏にある理髪店の駐車場へと降り立った。その先は住宅地となっている。


 すでに不審な点が二つ。一つは車を使わなかったこと。江藤が探偵事務所を訪ねた時、僕は彼が車で出ていく姿を見ている。もう一つは塀を乗り越えたこと。仕事終わりの疲れきった中年男性が家へ帰るのに、わざわざ塀を乗り越えるアクロバティックな帰宅ルートを思いつくだろうか?

 それらを顧みても、江藤がひっそりと南橋店へ向かっているのは確かなようだ。


 江藤は理髪店の前を通り過ぎ、更に宅地の奥へと入っていった。だが、僕はすぐには追わない。もし神居の言う通り、江藤に後ろめたい秘密があるのなら、自分が雇い入れた探偵に手の平を返される最悪のケースを想定している可能性は高い。事実、江藤は今この瞬間も、自分のまいた種で足をすくわれる危険性を大いに察知しているかのような行動に出ている。

 尾行調査は、ターゲットが尾行への警戒心を抱いていないからこそ成功が見込めるのであって、警戒心を惜しみなく剥き出しにしてくる江藤のような標的は、探偵として最も相手にしたくない手合いだ。しかも、江藤には顔が知られている。


 僕はとにかく距離を置いた。江藤は人通りのない宅地を進んでいたので、間に二本の電柱を挟んでもその姿をはっきり確認することができた。江藤の毅然さたるや、会社帰りの空元気なサラリーマンといった風貌だ。


 十五分ほど歩いたろうか。江藤は立ち止まることも、振り返ることも、Uターンすることもせず、南へ向かって黙々と歩き続けた。下見済みなのか、その歩調には迷いがない。

 更に十分後、江藤は差し当たったT字路を左へ曲がった。僕も急ぎ足でそれに続く。曲がった先は通学路となっており、グラウンドのフェンス越しに小学校のおぼろなシルエットが浮かび上がっている。

 僕は手頃な太さの落葉樹の陰へ飛び込んだ。背の低い落葉樹は葉の落ちた枝を力なくぶら下げ、冷たい秋の夜風に黙然と身を投じている。数十メートル先に江藤がいて、この先の幹線道路へ向かって歩き続けていた。だがそこへ行くと、ポプラに面するあの幹線道路へ戻ることになる。


「店長との接触を避けていたのか?」


 僕は追跡を続けながらも呟いた。道路に出てしばらく歩くと、信号の向こう側に構える橋のたもとが段々はっきりと見えてきた。街を南北に分かつ大きな川を越えるための橋だ。

 そして案の定、橋を渡り切るとすぐ目の前はポプラだった。現場の北橋店ではなく、南橋店だ。外見はほとんど同じ作りだが、駐車場はこちらの方がわずかに広く、地面から生えてきたようなボロ倉庫もなかった。代わりに、店の入り口付近に自動販売機が並べられており、ひと気のない駐車場に淡い光を投げかけていた。

 僕は駐車場の闇へと消えていく江藤を横目にしばらく歩き続け、ポケットから携帯電話を取り出し、かじかむ指先で電源を入れた。塩田を尾行中のはずの山田にワンコールするためだ。これには『今、連絡することが可能なら折り返し電話しろ』の意味が込められている。相方の状況が不明瞭な時、こうやって連絡を取り合うのは原則だった。


「今どこだ?」


 折り返しかかってきた山田からの電話を受け取るや、僕は出し抜けに尋ねた。江藤が従業員専用口から店の中へ入っていくのを確認した矢先だった。


「先輩、お疲れ様です! あたしたち今、ポプラ南橋店の南西にあるコンビニの駐車場であったかいココア飲んでます。塩田店長は十分前に車で来て、従業員専用口から中に入ったっきり目立った動きはないです。ここからでもよく専用口が見えますよ」


「それじゃあ、そこから北へ移動してポプラの裏へ回って。もう一つ別の裏口があるはずだから、そこを見張るんだ。僕は南から専用口を見張る」


 言いながら、神居の言葉を思い出していた。裏口を見張らせることで何か大きな動きがあるとは思えないし、何かの罠かもしれないという不安がまとわりついていた。どうやら疑心暗鬼になっているようだ。もう誰も信用できない。神居や塩田ばかりか、江藤さえも。


「先輩、誰か出てきましたよ」


 耳に押し当てていた携帯電話が、まだ山田と通話中なのを忘れかけていた。意識がすっかり頭の中へ戻って来た。とっさに専用口へ目を走らせたが、人の気配はない。


「裏口からか?」


「それがよく分からなくって。店の裏に物置みたいな小屋があるんですけど、その陰になってる所からひょっこり……あっ、江藤主任みたいです」


「……江藤」


 開いた口からその名がこぼれ落ちていた。意識が脳みそのシワにつまずいて派手にひっくり返った。


「主任は今どこに?」


 気付くと、僕は来た道を戻り始めていた。転んでもがいている意識を置き去りにして、足が勝手に歩を進めていく。


「北へ向かってます。店の裏から書店の敷地に……車? 車に乗りますよ、先輩! 今ドア開けました……書店の駐車場です……普通乗用車の……色は黒かな……暗くてよく分かりません」


「山田、引き続き店長を見張れ。僕は江藤主任を追う」


「えっ! でも行き先は……?」


「行き先は……そうか……ポプラ北橋店だ」




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