52
きっと私達が求めていたものは、
ずっと前から近くにあったもので。
『めかくし』52
沙也夏さんが病院に行ってから、半年ほどの時が過ぎた。私と七宮、そして帰ってきた沙也夏さんとは本当に色々な意味で大変だった。まず私達が気になったのは、もちろん沙也夏さんが宿した子供は誰との子供かということだった。それによって現実問題、その子への処置の方法も変わってくると考えたからである。
しかし、沙也夏さんは泣きながら何回も首を横に振って「身に覚えがない」と繰り返すのだ。何か思い出せないかと聞いたところで沙也夏さんの答えは全く同じだった。念のため、七宮がどうなれば子供ができるのかを沙也夏さんに聞いたのだが、沙也夏さんにはそれくらいの知識はあったのか、馬鹿にされたと七宮がボロ雑巾になるまで蹴られるという事件も勃発した。
そうなると私も七宮も何も言うことができなかった。だが時間は私達に決断を迫ってくる。つまり、沙也夏さんのお腹に宿した子供をどうするかということだった。誰との子供かわからない以上、中絶という選択肢が有力なように思えた。そして沙也夏さんもそうしたいと考えると思っていたが、沙也夏さんはまた首を縦に振ることはしなかったのである。
「産みたい」と、沙也夏さんはまっすぐな瞳で私達を見て言ったのだった。
音楽ホールでの一件があってから、初めて沙也夏さんは自分の望みを主張したのだった。私には何が正しいのかなんてわからなかった。だが自殺未遂を繰り返していた沙也夏さんが、子供を産みたいというのなら、それは悪いことではないように思えた。不謹慎な話だが、子供がいる間は、沙也夏さんも自分の身体に責任を持ってくれるだろうし、生きがいのようなものにもなるだろうとも思ったからだ。
その決断を下してから、沙也夏さんは最初のうちはいつもと変わらず、身体に無理をしてしまうことが多かったのだが、次第に変化が訪れた。まず、徘徊をしなくなり夜もちゃんと家にいるようになったのだ。そして少しずつご飯も食べてくれるようになった。味覚を失った沙也夏さんは、しばらくご飯を口に入れても飲み込めないことが多かったのだが、それでも大分ご飯が食べれるようになった。マタニティーブルーなどにより荒れている時期もあった。しかしそれでも懸命に沙也夏さんと私達は時を過ごして、ついに出産日である今日まで辿りつくことができたのだ。
**
「足元に気をつけてね、七宮」
「そうだね、なんだかこの辺障害物ありそうで怖いなぁ」
私、匂神唯とひょろっとしたメガネ男の七宮智は、大きな駅に出向いていた。私は七宮の手を引いて先を歩いていく。七宮はそれに引っ張られて歩いているような状態だ。普通は男は女を引っ張っていくものだろう、そう思っていたのだが今となっては、状況はまた違う。状況は、音楽ホールで起こった『暴走』により大きく変わったのだった。
七宮は視覚、嗅覚、味覚を失ってしまい、盲目のまま歩くことを強いられている。目を瞑っていて、ただの棒にも見える杖を使いながら、歩行ブロックを認識して歩いている。その反対側の手を握り、人にぶつからないように導いていた。
このまま真っ直ぐ歩いていけば、自分達の目的地に着く。だが歩行者ブロックの先には別れ際を惜しむカップルが立ち話をしていた。私は歩行者ブロックを外すか、そこに声をかけて突っ切るか一瞬迷った。選択している時に私の歩みが遅くなったのを感じたのか、七宮は首を傾げる。私は七宮の手を一層強く握る。そして私と七宮はそのまま、直進した。
「すいません、目が見えない人が通るので」
私はあまり通らない声で、それでもしっかりと相手に伝えた。しかしカップルの男がその言葉に反応するのが遅く、七宮はその人の足を踏んで、大きくよろめいた。私は七宮の身体を倒れないようにカバーしながら、その男性に軽く頭を下げて謝ろうと思った。しかし、そうする前に目の前の男は、私達に向かって舌打ちをしたのだった。一瞬、『郷愁狂臭』をブッ刺してやろうかと冗談にもならないことが頭に浮かんだが、すぐに切り替えて次のエスカレーターへ誘導することを考えた。
「ねぇ唯ちゃん?」
「…………何?」
「前、大供君が言ってたこと覚えてるかな」
「大供って誰だっけ……」
「五町家の武器商人だよ。『郷愁狂臭』を創ってくれた人」
私はそこまで言われて、古めかしい城のような外装のアンティーク屋にいる、いかついおっさんを思い出した。そういえば元気にしているだろうか。私はそんなことを考えていた。
「彼は『五感が優れた者は同時に劣っているってのが大胡の持論だった』って言ってたんだよ。なんか今その言葉が身にしみてるんだよね」
「確かに、そんなこと言ってたね」
「僕は確かに『暴走』をしたときに、五感の能力を殺した。それで僕らの生活は一般人と一緒になると思ったんだ。でも、違ったよ。結局、『障害者』となった僕らは、今でもこれだけ社会に馴染めないじゃないか」
「…………」
私は七宮の言葉に言葉をなくす。確かにそうかもしれないと思ったからだ。庵兄は『統臭』で相手をコントロールしてしまうことを恐れて自らの殻に閉じこもった。私も五感の能力さえなくなれば、逸脱した存在ではなくなれば、庵兄がそんな思いをしないですんだのだと思った。しかし、今のこの状態はどうだろう。この世界でもたくさんいるはずである障害者となっても、理解されない苦しさを感じるのだった。
「なんか悲しいよね、弱者も必死に生きてるのに」
「でも、それなら私達のような人間を知ってもらえるように頑張るしかないと思う。諦めるには早いでしょ、七宮」
私は消え入りそうな七宮の声に、ぴしゃっと言い放った。私にとってそれが生きながらえた者の宿命だとも思った。七宮は私の方を向いてから、静かに笑みを浮かべる。
「そうだね、精一杯生きていこうか」
そう言っている間に、私と七宮はエスカレーターを上がっていて、人が混雑している駅のホームに着いていた。もう人臭さを感じることはない。その群衆はまるで陽炎のようで、七宮の『暴走』のときに見たような生気を感じられないものだった。
人がたくさんいると、変な輩にホームから突き落とされるかもしれない。私は七宮の手を握り、自動販売機がある広い場所へ歩くことにした。
その時、ふわぁっと風が吹いた。それと共に、私は確かに『匂い』を嗅ぐ。胸にこみあげる感情のままに声をあげそうになる。それを必死に押し殺した結果、音を立てず私の頬が涙で濡れることとなった。
優しくて、懐かしい、椿の匂い。
「どうしたの、唯ちゃん」
「……ううん、なんでもない」
私は風を掴むように拳を握ってから、逆手で七宮の手をもう一度強く握り直した。そして道しるべである『黄色い線までお下がりください』の歩行者ブロックを七宮に踏ませられるように、私は黄色い線をちょっとだけはみ出して歩を進めていった。
**
「展開早いね、もうこんなに最終局面だなんて」
「電車の乗り継ぎが悪かったからね……」
真っ白な病院の風景が、夕日の橙色で染まっている中、私と七宮は沙也夏さんを待っていた。私は今だけ神様はいるものだと思って、両手を合わせて祈っていた。七宮は両手で膝をぎゅっと掴んでいる。チェックのズボンはその手汗で掴まれた場所を濡らしていた。
私達が到着した時には、もう沙也夏さんは産むため集中室に入っていた。時折、苦しそうな沙也夏さんのうめき声と、それを励ます看護師さんの声が扉の向こう側で聞こえていた。それだけでもこちらまで息苦しくなる。その苦痛を変われるものなら私が変わりたかった。それほどまでに大変な状況が想定できた。
それからどれだけの時間が経ったかはわからない、しかし体感的には途方もない時間が経った頃だ。がちゃっとその部屋から白衣を着た看護師さんが現れた。まだ赤ちゃんの産声を聞いていない。嫌な予感が頭をよぎる。だがその想像を必死でかき消して私は立ち上がる。
「沙也夏さんは……? あ、赤ちゃんは……」
看護師さんの表情を恐る恐る見てみる。その表情はなんとも計りずらいものだった。強いていうのなら困っているというような表情だった。
「産まれたのですが……」
看護師さんの言葉に、私は純粋に産まれたんだ!という嬉しい気持ちでいっぱいになった。しかし歯切れの悪い看護師さんの物言いにすぐ私の喜びはしぼんでいった。
「産まれたの、ですが?」
七宮も見えないながらもその様子が気になったのか、看護師さんに次の言葉を求めた。看護師さんは何と説明すればいいのかわからなかったのだろう、黙って扉を開けてその先へ私達を導いた。私は七宮の腕を掴んでそっちへ連れて行く。
そこには息を荒くして、潤んだ瞳でベッドに横たわっている沙也夏さんがいた。そして医者は白いタオルに包まれた赤ちゃんをポンポンと叩いている。私はその状況を把握するまで一瞬、フリーズしていた。
「産まれたのですが……産声を上げないのです。これでは呼吸ができません」
医者は必死でその赤ちゃんの背中を叩いていた。そして朦朧としていた意識から回復したのか、沙也夏さんは腕で身体を少しだけ起こして、医者の姿を見て叫んだ。
「あたしの赤ちゃんを……叩かないで!!」
沙也夏さんは完全にパニックを起こして、起き上がって医者を蹴りかねないような剣幕で叫んだので、私はそんな事態を引き起こす前に、沙也夏さんのそばに駆け寄った。
「沙也夏さんっ! お医者さんは赤ちゃんを助けるためにこうしてるんです」
「そんなわけないわ、赤ちゃんが痛いって言ってる! 唯、お願いだから赤ちゃんをあたしに抱かせて!」
沙也夏さんは私が何を言っても無駄のようだった。しかもこの状態はいつも自傷をしようときのものとよく似ていた。実際にここでは、沙也夏さんの意思次第で身体を傷つけることができるものが揃っていた。私は自分が思う最善の選択――――医者の身体をどうにか引っ張って、赤ちゃんが沙也夏さんに見えるようにした。
その時、私は初めて赤ちゃんの顔を見ることができた。赤ちゃんは沙也夏さんに似ているわけではなかった。私はその顔を見て、ふと何かを思い出した。しかし名前が出てこない。沙也夏さんは赤ちゃんを見て、ふっと柔らかく微笑んだ。沙也夏さんの笑顔なんて『あの事件』以来、見ていないものだった。
「ほら、笑ってるじゃない」
そして沙也夏さんは安堵した表情でそう言った。私はその言葉を聞いて赤ちゃんの顔をすぐさま見直した。その赤ちゃんは確かに、笑っていた。産声さえ上げないその赤ちゃんは、にっこりと沙也夏さんに視線を合わせ、笑みを浮かべているのだ。
それはまるで、産声を上げる能力はあるのに、敢えてしないような――――怠慢しているような様子だった。
「おかえりなさい……」
沙也夏さんは赤ちゃんを見て、愛しげに微笑んでそう呟いたのだった。
**
『オープニング』が『エンディング』を生み出したところで、この物語はひとまずピリオドを打ってもいいのかもしれない。
私はいつも通り、七宮の部屋にあるソファに腰掛けて、たくさんのガラクタの中にある、七宮の瞳を遮った一つの拷問器具のような『めかくし』を見ながら、そんなことを考えた。
何も知らずに日常を過ごした人には見えもしなかった一つの戦い。それでも今まであったことは本当のことだと証明してくれるのは、その『めかくし』だ。
たくさんのものを失った。それでも得たものは零ではない。
たとえ途中で得たものを見失ったとしても、大事な人が私の代わりに見つけ出してくれる。
だから、私は『私』として、今日を精一杯生きていく。
“こんにちは、新しい私の世界”
愛する人と手を繋いで、この世界を生きていく。
>END
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
これを持ちまして『めかくし』完結です。
初めて、長編を完結まで書ききりました(笑
まだまだ至らない点がありましたが、少しでも何かが伝わればいいなと思っています。
ちなみにこの作品を書くにあたって表のテーマは題名通り、『盲目』でした。どんなに近くに寄り添っている人でも、結局全てを知ることはできなくて、何回もすれ違ってしまいます。それでも少しでも近づけようとする過程がとっても大事なんじゃないかなって作者は思ってます。
そして裏のテーマは『障害者』でした。精神障害者、身体障害者をイメージして書いた場面がいくつかあります。これも『盲目』に近いのですが、理解しがたい他者ってどうしても引いて見てしまいませんか?例えば電車で見かけたら目を背けてしまいませんか?特に精神障害者、知的障害者に対してそのような目を向けられるのが多いような気がします。
でも作中での、智が精神病院で暴れるシーン、沙也夏が徘徊をしてしまうシーンでもその背景がわかれば、恐らくそんな目を向けないことでしょう。少しでも理解しようと歩み寄ればそんな視線も変わっていくのではないかなと思います。全てを理解しようとするのは難しいです。それでもこう考えてくれる人が、これを読んで少しでも増えてくれるのであれば、嬉しいです。
長くなりましたが、重ねまして読んでいただきありがとうございました。
最後に、『めかくし』と次の新作『僕らの運命』に繋がる『+α』話も読んでいただけたら光栄です。
それでは!




