51
歌っていても喚いていても、
聞く人が聞けば、どうにだって評価は変わるものさ。
『めかくし』51
音楽ホールで七宮があの選択をしてから、私は気を失った。ちなみに後日話を聞いてみたら、七宮も意識がない状態になったらしい。そして目覚めると七宮の家にいたのだった。あの時の混乱は今でも覚えている。一瞬、音楽ホールで起こった全ての狂気じみた出来事は悪い夢ではないかと錯覚した。
それでも、沙也夏さんがソファで、そして七宮が隣に寝ている時点で、まず夢ではないということがわかった。とりあえず七宮の顔が近すぎたので七宮をベッドから蹴り落としてたたき起こす。それでも痛そうな顔をしつつ、目を覚ました七宮を見て、安堵感が身体に満ちていく。しかし私はしばらく時間が経たないうちに、とある『感覚の変化』に気付いた。
「あれ……私の鼻、詰まってる?」
私は何回も鼻をすすってみる。別に風邪をひいているわけではない。しかし七宮の匂いや、部屋の匂いを嗅ぎ取れないのだ。部屋の匂いは私の勧めでラベンダーのお香を焚いていたはずだ。今は焚いていないにしても『匂神』でなかったとしても、残り香くらいは常人でも知覚できるはずだった。
「ん、その声は唯ちゃんかな」
私が人知れず困惑していると、七宮はぶつけた背中を抑えながら立ち上がる。そして顔を一回はこちらへ向けたのだが、視線を合わせることなくきょろきょろしていた。私は一瞬わけがわからなかった。しかし周りを把握しようとする手の動きや目の動きを見て、私は嫌な予感がした。そして、彷徨う七宮の手が落ちていた自分の眼鏡を潰そうとした時に、私はその七宮の手をつかんだ。
「七宮、もしかして――――――目が見えてないの?」
七宮はしばらく黙っていた。それでも七宮の額の脂汗と表情が物語っていた。私は七宮の両手を握ってこっちを向かせる。やはり七宮の焦げ茶色をした瞳は焦点があっていなかった。
「どうしたものかね……。目の前真っ暗で、何も見えないんだ」
七宮も動揺が隠せないのか、小さい声で私に言う。私は七宮にどんな言葉を返せばいいのかわからなかった。病院へ連絡したほうがいいかと思い、私は立ち上がる。それを察したからか、七宮は私の腕を離さなかった。
「ねぇとりあえず、ご飯にしないかな」
「…………」
「話したいことが山ほどあるんだ」
私はこういう時の七宮に逆らっても、キレられるのはわかりきっていたので、病院に連絡するのは止めておいた。しかしそれよりも私自身が病院に行ったところで、治りそうもないことを心の奥底では考えていたことが病院に行かない要因として大きい。
そう思って私は沙也夏さんを起こそうと顔を覗いた。私はそれをすぐに後悔することになる。沙也夏さんは寝てなどいなかった。目の下に隈を作って虚ろな瞳を瞬きもせずに、晒していた。
「ごめん唯、ちょっとあたしのこと、ほっといて」
私がどう声をかけようか狼狽しているときに、沙也夏さんは掠れた低い声で私にこう言った。私は沙也夏さんに何が起こったのか聞き出したかったが、到底答えられる状態ではなさそうだ。それよりもこんな顔をしている沙也夏さんが悲しくて仕方がなかった。だからせめて、美味しいものを作れば沙也夏さんは喜んでくれるだろう、そう思って私は、久しぶりに台所に立った。
それから色んなことを思い知らされることになった。最初に料理を作るときに、私の嗅覚は全くの使い物にならなくなったことが顕になった。パスタがあったので、手軽にできるペペロンチーノの作ったのだったが、にんにくを炒っても臭いを認知することができなかった。出来上がった美味しそうな匂いも私は感じることができない。そして更にわかってしまったのが、七宮が失ったのは視覚だけではないということだ。
七宮を椅子へ誘導して座らせ、机にペペロンチーノを盛ったお皿を乗せる。そして私はとりあえず七宮の指にフォークをちょんと当てて、持たせた。七宮はぎこちない手でフォークを持ちクルクルと回転させ、パスタを巻いた。しかしパスタをしっかり巻けてない時に口に運ぼうとしたので、私は結局全部巻いてあげて七宮の口元に入れる。
「…………ん?」
七宮はモゴモゴと口にパスタを入れて、飲み込めてないでいた。そして怪訝そうな顔を浮かべつつもどうにか喉に通していた。私はその反応を見て、当然不安になった。それは明らかに口に合わなかったというサインだったからだ。逆ギレしそうになるのをどうにか抑えて、私はまず自分の舌で自作のペペロンチーノを味わうことにした。
「この味、気に入らない?」
食べてみたところ、匂いを感じることができないので風味は半減以下になっているが、別に普通のペペロンチーノだ。前に七宮と沙也夏さんに振舞ったものと、まったく同じ味のはずである。
「いやごめん……違うんだ。全然、味がわからなくてね。匂いもわからないし」
「…………えぇっ?」
七宮は申し訳なさそうな顔をして、私にそう告げたのだ。私は思わず頓狂な声を上げる。視覚だけではなく、嗅覚も味覚も失ったと彼は言うのだった。
「『暴走』の副作用、なのかもしれないね。僕は五感家の血を継いで、卓越していた感覚以外の感覚が、なくなってしまったのかもしれない。唯ちゃんには、いつもと違う感覚とかないかい?」
「……私の鼻が、利かなくなった」
やっぱりそうかい、と七宮は頷いていた。しかし七宮の消えた感覚を参考にするとしたら、私は嗅覚以外の全ての感覚を喪失するはずだ。そこは七宮が『暴走』を起こした本人だからという例外扱いなのだろうか。もし、この法則が正しいとしたら沙也夏さんの味覚も無くなってしまっているということになる。誰よりも食べるという行為を楽しんでいた彼女には、どこまでも酷なことだろう。
そう思いながらも、目の前にあるパスタをどうにかして胃の中に流し入れる。そうでもしなければ到底頭もまわらなそうだったからだ。私の行動を知ってか知らずか、七宮も黙々と手探りでパスタを巻き取って食べている。
私は七宮よりも早く食べ終わり、フォークを皿に置く。カランと乾いた金属音が鳴る。その拍子に、私は目からスッと液体が垂れていくのがわかった。鼻も詰まってしまって息苦しくなる。食べても味がよくわからないから泣いているわけではない。
全てが終わったような、安心感と虚無感。そして失った者に対する心を毟られるような痛みだった。軋轢を殺めた庵兄も、はっきりとどうなったかはわからない。だが、なんとなく直感でわかるのだ。否定したくてたまらないけれども、もう庵兄はこの世にいないような気がするのだ。心を支配する虚無感の一端は庵兄のことだと思う。
「唯ちゃん、泣いているの?」
私は、心配する七宮の声を聞いて目の前を向く。涙を流しているときに色んな感情が混じりすぎて、この時まで私がどこを見ているのかわからなくなっていた。
「……大丈夫、なんでもないよ」
私は七宮の食べ終えた食器を台所へ持っていき、その足で沙也夏さん用のペペロンチーノを彼女が大好きな桃色の縁が施された皿によそった。沙也夏さんにもこの顔を見せないようにしないと。そんなことを考えながら歩いていったのだった。
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それから様々なことを知ることになった。音楽ホールでの出来事は吐き気がするくらいに、綺麗に淘汰されていたこと。沙也夏さんからは味覚が失われていること。そして長い時間をかけて、塞ぎ込んでいた沙也夏さんから壮絶な倦さんとの最後を聞くことになった。
沙也夏さんは今までのような笑顔を見せることはなかった。むしろ表情自体がなくなったということが等しい。沙也夏さんはフラリと真夜中に家を抜け出すことが多くなった。七宮と扉の暗証番号を変更しようかと一回相談した。しかし沙也夏さんのためとはいえ、夜祭にいた頃のように沙也夏さんを縛り付けるのは私達がするべきことではないという判断に至った。沙也夏さんになるべく笑顔で接することに努める。
だが沙也夏さんの不意にこう呟くのだ。「あたしって生きてていいのかな?」と。この言葉に、私は必死で首を縦に振る。そうしつつも、私も庵兄のことが頭をよぎり、沙也夏さんの言葉に引きずられそうになる。しかし命を張って救ってくれた命を粗末に使うことだけはしたくなかったのだ。それをもしかしたら押し付けになってしまうかもしれないが、沙也夏さんに伝え続けた。
そしてある日、事件が起こった。
沙也夏さんはいきなりお腹を抱えて、倒れ込んでしまったのだった。びっしりと玉のような汗をかいて、苦悶の表情を浮かべる沙也夏さんをなるべく服のボタンなどを外して楽な体勢にしてあげて、私はパニックを起こして氷水を持ってこようかてんやわんやしている時に、七宮は「ストレス性の胃腸炎ではないか」と言い出した。
恐らく味覚を感じなくなった時点で、人を食おうとはしないだろうということで、一か八か私は救急車を呼ぶことにした。しばらくして到着した耳を壊しそうなほどの音に、沙也夏さんは耳を塞いで部屋の隅で震えていた。救急車という存在自体初めて知ったのだろう。
暴れる沙也夏さんをどうにか救急車に乗せる。この時にわかったことは、沙也夏さんの戦闘能力も常人くらいになっていたということだ。逃れることに必死な沙也夏さんを、救急車に同伴していた男の人が無理矢理捕まえて搬送していった。私がそれについていこうとしたが、未成年は救急車に同伴してはいけないと差し止められてしまった。結局七宮がついていくことになったのだが、沙也夏さんはもちろん、感覚に不自由を持つ七宮も心配で、私は内心穏やかではなかった。
そして祈るように待ち続ける私へ、連絡が入る。それは私の想像を絶するものだった。思わず携帯電話を取り落とすところだった。
「沙也夏ちゃん、子供できたんだって」
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