48
遠くのほうで音がする――。
幸せそうな君の声が。
手に掴めない虚構でも、僕は。
『めかくし』48
それは『振子』の洪水だった。近くで何十、何百もの『かちっこちっ』という音が鳴り始める。これはもはや鳴っているというより、爆弾を落とされたときの爆破音に近かった。その音は感覚に飢えた俺へ染み込んでいく。この音を追い出せない。
「ぃ、嫌だっ……!」
俺は『兵器』として活用されないように、必死で自分の中に有り続ける恐怖から目を背けていた。しかし同時に助けが来ない限り、どんなに抵抗してもいつかは、この気持ちに飲み込まれてしまうこともわかっていた。せめて他に感覚があればここまでこの音に集中しなくてもいいのだが、この『めかくし』も四肢を縛る枷も外れなそうだ。
でもこれで音をどうにかしようと『静止』しようとしたもんなら、それこそ軋轢や庵の思うツボだ。それで犠牲にする対象をいずれか選んで殺すことになる。それだけ避けたかった。
だが感覚が俺をとらえて離さない。拒んでいる感情と感覚が、身体の隙間から入り込んでくる。そして俺は唯一の逃げ道である思考の世界へ落ちていく。現実へ引きずりあげる真っ黒い腕をかいくぐって、俺は考えて、考え続けた――――。
そして俺は目を覚ました。俺は久しぶりに太陽の日差しを浴びた気がして目を細める。この視界は眼鏡越しの薄く灰色掛かったものだった。俺は自分の服装を見る。それはみずぼらしいヒートテックにスウェットではなく、自分のお気に入りである白いシャツに茶色と黒のチェックのズボンを履いていた。
「な、なんでだ……」
俺は自分の服装を確認したその視点で、俺の足元にある地面を捉えた。それはフローリングでもアスファルトでもなく、水溜りが広がっていた。俺は試しに右足を持ち上げて、そのまま降ろす。すると足を中心に波紋が広がって俺の姿を歪ませた。
その光景を何も考えず見つめてから、俺は初めて目の前の景色を見ることになる。そこには人が立っていた。人の顔はそれぞれ俺の知っている顔ばかりだ。その集団は俺を取り囲むように、ここに存在している。
一番最初に目についたのは、白髪混じりで目尻に皺が寄っていて、さらに白い顎鬚が生えているスーツ姿の男だった。彼の左手には小さいパンダのぬいぐるみがあった。その男に俺は見覚えがあった。今はその姿を無くして人間あらざるものになった男――――俺の実父である刺宮軋轢の姿だった。
彼の右手は、一人の女性の腰を抱いていた。女性は鼻筋の通った若い顔をしていて、真っ黒い髪を肩まで下ろしている。そして着るのが楽そうなゆったりとした灰色のワンピースに赤いニットを着ていた。そして少し長めの前髪を音符のワンポイントがついたピンで止めている。俺はそのピンにだけ見覚えがあった。俺が何歳かも把握できないときに小さい手で握ろうとしたピンだ。恐らく軋轢と共に寄り添っているこの女性は、俺の母だった。名前さえ知らない七基の血を持つ実の母。
それを覆うように、うるさいほど明るい金髪をウーパールーパーのような髪型で収めている憲の姿、なぜか生身のままスーツを着ている雅の姿、そして和装をして般若面を左手に持った倦の姿があった。倦のそばには、パーマをかけた髪に赤メッシュが際立つ沙也夏ちゃんの姿がいて倦の腕に抱きついていた。横にはシルクハットを被り『野望』という名を持つ杖を握った大胡が立っている。
さらに刺宮家をはさんだ反対側には、やる気のなさそうないかにも普段着の庵君がいた。その隣には愛美ちゃんが庵の顔を覗き込んでいる。その姿は何にもコスプレをしていなくて可愛らしい女の子らしい服を着ていた。そして庵君の前には――――唯ちゃんが立っていた。いつも通りのジャージを着て俺のほうを見ていた。
俺はその景色を見て、言葉が出なかった。
俺を囲う五感家の人は皆、本当に幸せな顔をして笑っていたのだった。愛しい人と共に寄り添って、今にも会話が聞こえてきそうなほどに、生き生きとした表情でそこに存在していたのだった。
この中で、一体誰が幸せになれただろう?
誰もが、当たり前のことを求めただけだったのだ。こんな風に笑うために、ただそれだけのために。それが何故こんなことになってしまっただろう。五感家の抗争の中で、たくさんの命を奪い合った。でも、こんなことを誰も望んではいなかったはずなのだ。
五感家の繁栄も、零計画もベクトルこそ正反対であれ、望んだものは同じだっただろう。ただ居場所が欲しかったんだ。少し特異なだけでこの世界に生きていけない人間達の曲がってしまった望みが、狂ったこの抗争を生みだしてしまった。
俺は人形のように動かない五感家の人達を見て、俺は耐え切れなくなり膝を折り、水溜りに手をつき涙をこぼし続けた。眼鏡に涙が溜まっていく。不思議と水溜りに膝をついても『濡れる』という感覚を起こさなかった。
ここは思考し続けた『俺が望んだ世界』なのだろうか。しかし、ゲームがフリーズした状態のように俺以外の人間は笑みを浮かべたまま立ち尽くしているだけだった。そして俺はふと五感家の人間がいる場所よりも奥のほうで何かが蠢いているのが見えた。俺は涙を袖で拭き取って奥のほうに視線のピントを合わせる。
「人、か…………?」
俺はその正体が『人影』であることがわかった。それが幾重にも連なり一つの黒いモヤになっていたのだ。それは何百、何千、どの単位に属するのかも見ただけではわからなかった。しかし表現しずらいほどに大量の人影が五感家の周りを覆っていた。
「さぁ、選べよ」
俺は突如聞こえたその声に驚き、空を見上げる。確かに声は上から聞こえたのだ。しかし上には雲がかった空しかない。だが声は空耳でもなんでもなく俺に問いかけた。
「異端児、人間共に『暴走』と呼ばれている『スイッチ』は既に押されているんだ。お前は『優性民族』と『劣性民族』、どちらをとる?」
「お前は何者だ……どこにいるんだ?」
「何者と言われても説明に困るね。俺様は、お前を決断へ導く『お前の意思』さ。ここはお前の思考の世界。お前は人と関わることを避け続けた。だからこそ一人で解決できるように、自分の中に人を創ったのさ。人様がよく言う『多重人格』ってやつ。俺様は七宮智の人格の一人ってわけ」
「……意味がよくわからない」
「わかんなくていいさ、それよりちゃっちゃと決着をつけてやろうぜ。お前も薄々わかっているだろう? 『暴走』、つまり振子へのお前の恐怖心は、もう自制できるようなレベルではない。それは逃げようのないものだ。だからこの思考の世界にまで『静止』が掛かった。お前が何かを殺し、音を鳴らさなければ世界は動かない」
もう一人の智と名乗る上から聞こえるその声は、神様の代弁をしているように重く俺にのしかかった。本当に俺は選択をしなければならないのか。
数人の笑顔と、顔が見えない大衆の群れ。『優性民族』か『劣性民族』か。俺が選ぶとしたらその答えは――――。
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