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唯パートです!
『めかくし』43
手遅れになる前に。
私は泥の道をゆくのだ。
「はっ……はぁ……!」
私、匂神唯は永遠に続くのではないかと思ってしまうほどに、長い通路を疾走していた。沙也夏さんと分かれてから短距離選手のように、駆けまわっていた。バスケをやっている身ではあったのだが、しばらくするうちにペースが衰えてきていた。
喉がキリキリと痛んで、息を吐く緩くなった口元から唾液が垂れそうになる。顔から湯気が出そうなくらいに身体が熱くて仕方がなかった。
「沙也夏さんっ……庵兄ぃ……七宮っ……」
私は誰に言うでもなく、大事な人の名前を呟く。こうでもしていないと足が動かなかった。景色の変わらないこの通路は間違いなく私の走る意欲を失わせていた。
平のネズミは信頼できないし、あまりにも目的地が見えないし、何より刺宮の人間が私の邪魔をしてこないところから、私は何回も来た道を引き返そうとした。しかし、沙也夏さんに申し訳がないということももちろんあるし、私の直感のようなものが訴えているのだ。
この先に私の求める場所がある、そう訴えているのだ。
「ぁ…………」
私はそう思ってほぼ歩いているに近い速度で前を進んでいると、突き当たりが見えてきた。私は行き止まりなのかと思い絶望しそうになったが、目を凝らしてよく見てみると、そこには大きな扉があった。それを見つけたときに私は思わず「あっ!」と叫んでしまった。
それからなるべく音をたてないようにその扉に近づく。扉の横には『演奏メインホール』と書かれていた。メインというくらいなのだから、庵兄か軋轢などの人間がいる可能性が高いと思った。そのどちらかがいれば七宮のいる場所も自ずとわかってくるだろう。
だが、つまりはこの扉の先に何かしらの障害がでてくる覚悟をするべきだということである。
私はしばらく扉に手をかけて、固まっていた。嫌な汗しか出てこない。それでも私には時間が残されていなかった。腹を決めて私は重いその扉を力いっぱい押した。
まず私へ飛び込んできたのは、荘厳なパルプオルガンの音色だった。腹に響くその音は教会を連想させるものだった。そして次に目についたのは視界の端から端まで広がる観客席。薄暗いその空間には、老若男女の様々な人が座っていた。どうやら空席もあまりないようだった。そこには家族連れもいて、子供と思われる坊ちゃん刈りの子は遊園地でもらえそうな、手を離したら飛んでいってしまうパンダの風船を握って楽しそうに笑っている。
それは今まで通ってきた血なまぐさが嘘のような、平和な風景だった。それが逆に隔絶されているような『違和感』を漂わせていた。これは平の仕業なのだろうか、それがどうあれ、私の腕にびっしりと鳥肌をたたせるくらいには狂気的だった。
そして皆が皆、パルプオルガンの音色に合わせて何かを歌っていた。それは言葉なのかさえ私にはわからなかった。ただ一つ言えることはこの音楽ホールに収容されているほぼ全員がそれを唱和しているということである。
まるでその姿は、コンサートの合いの手を練習している、心待ちでしょうがない熱烈なファンのようだった。
私が頭上に視線をうつすと、二階席も満員に近いようで最前席の人たちは紫色の大きな旗を準備していた。その紫の旗には見覚えのある『家紋』がはためいている合間で見え隠れしていた。
合掌した手の後ろに銃が交差している、その家紋は見間違えもない『刺宮』のものだった。
ここの人間は刺宮関係の人間だということがわかり、声を上げそうになる。しかし、私を見て特に襲いかかってくることはなかった。多分、この人達は私が『匂神』の人間だということに気づいていない。それなら無理に戦う必要はないだろう。そうとなれば、まず私はこの集団に浮かないようにしなければならない。
この場を後にすることも可能だったが、目の前の大きなステージを見ていると軋轢がここに出てくるのではないかという気がしてならなかった。刺宮の人間がこんなにいるのだ、きっと派手好きなあの家長はここで何かを見せるのではないだろうか。
軋轢の妻が立っていたのであろうこの大きい音楽ホールで、あのパンダは一体何をするつもりなのだろう。軋轢の妻ということは、七宮のお母さんということにもなる。どんな人だったのか、七宮はどっち似だったのかなど一瞬思考回路が脱線したが、すぐに私は一階の座席の空席に座った。
木を隠すなら森の中と言われるし、人を隠すなら人の中だ。そんな変な確信が私にあった。私はすぐに腰にある『郷愁狂臭』の鞘に右手を置きながら改めて周りを見渡す。
ステージをよく見ると、豪奢な椅子とマイクスタンドが置かれていた。それを見た瞬間、「あぁこれは予想通りになりそうだ」と直感した。そしてステージの奥には映画館規模の大きなスクリーンがあった。そこには人の営みを上から見ているような映像が流れていた。まるでその光景は監視カメラで写した映像のようだった。
同じ映像が、ステージの左右に設置されている小さいテレビにも流れている。そのテレビは二階にいる人間や、私のような後列の人達にも見えるようにたくさん設置されていた。私はしばらく個数を数えていたのだが、首が痛くなってやめることにした。
それにしても、これだけ盛大にやるのだから、きっとこのイベントは軋轢が絶対に成功させたいものだろう。しかし、だとすればガードがあまりにも甘くはないだろうか。私は阻害要因とさえカウントされていない場合も、もしかしたらあるかもしれない。
だとすれば、どこかに刺宮の幹部、憲、雅、そして倦がどこかに潜んでいるのかもしれない。どちらにせよ気を抜かないようにするべきだろう。
そんなことを考えているうちに、音楽ホールが更に暗くなる。いきなり暗くなったので周りの人はぼやっとした輪郭しか見えなくなった。私はゴクンッと生唾を呑む。いくら気を張っているとはいえ、こんな状態で襲われたりしたら『透藤』の目を持っているわけでもないし、手のうちようがない。
『さぁ皆さん。今夜はようこそお越しくださいました』
そんなことを考えているうちにステージにある幕の側に一人スーツ姿の男が立っていた。すぐに彼へスポットライトがあたる。どうやらその男は憲でも倦でもなく、普通な人間のようだった。その声が音楽ホールに響いたとき、周りの歌をひたすら歌っていた観客達はシン、と静まり返った。誰一人として声を漏らさない。子供連れがいるにも関わらず、だ。その徹底ぶりに私は背筋が凍る思いがした。
『ここに映されているのは、前にも説明いたしましたとある駅です。ここを一つの例として今から劣性民族を軋轢様の息子様によって、淘汰されます』
私はハッとしてその駅をもう一度凝視する。その映像をよく見ると自分の知っている場所だということに気がついた。それは私が家出をして憲に駅のホームから突き落とされた新宿駅だったのだ。あの人の出入りの多さや、売店の配置、路線の多さを見て間違いないと私は決定づけた。この駅にいる人間を七宮の『暴走』で殺すと、確かにあのスーツ男は言った。
周りからは拍手が上がる。数え切れないほどの人数が音を鳴らし、反響する。私はその音に吐き気を感じた。音楽ホールから耳が痛いほど賞賛の音が聞こえるため、まるで世界がその蛮行を高評価しているようにさえ、感じ取ってしまうからだ。私は耳を塞ぎたくなる衝動を必死で抑えていた。
七宮はこんなことを望んでなどいない!私はそんな言葉を、唇を強く噛んで呑み込んでいた。
『今日から刺宮家を中心とした五感家の、栄光ある新たな出発点となるでしょう』
そんな私の心持ちも知らず、無駄に楽しそうな黒スーツの男はゴホンとわざとらしく咳払いをした。そしてこう公言する。
『では私めの言葉はこれくらいに致しましょう。さぁ皆様、家長様がお見えになられています。しっかり祈りを捧げて参りましょう』
彼がそう言うとスポットライトがスーツの男から消えて、変わりに真っ赤でいかにも貴族みたいな人が座りそうな贅沢な作りのソファに、スポットライトがあてられる。私はそこに座るであろう『殺物パンダ』が出てくるのを息を潜めて待っていた――――。
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