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どっちが生きようとも、
死のうとも、結局は同じことなのさ。
『めかくし』42
「……ここまで熱い人間だと思いませんでしたよ」
庵は雅の様子を眺めて、観賞するかのようにそう言った。鬼の形相で掴みかかってきたはずの雅は、喉を抑えて、地に伏せていた。雅の喉からは絞ったような声しか出なかった。
「な、んで……鼻は潰した……はず……」
「本当は『零計画』を行う者として、『統臭』を使いたくはないし、ましては説明もしたくないんですけどね。鼻というお飾りを壊したところで、無駄ですよ。私の統臭は『幻臭』をコントロールする能力ですからね。鼻などの感器官ではなく脳に作用するんです。」
庵は雅に懇切丁寧に説明をしているが、恐らく三割も雅の頭に入っていないだろう。息ができない状態で長ったらしい話を聞くなんてことは、まずできない。
「……匂神の死神よ、お前の相手は我輩だ!!」
その時、ビチンッと弾けるような音が聞こえる。軋轢の身体がまた正常に動き出したようだった。庵はそれに気づく前に彼は大きな両腕を振り上げていた。庵の判断はもう遅かった。
軋轢の腕は、音楽ホールの床を殴る。殴るだけでは足りない。地面を拳で突き刺した。漆黒の拳から波紋のように亀裂が入り始め、床を作っていた組織が内側から壊れていく。庵は思わず顔をひきつらせた。
「……こんなの、ありですか…………!?」
「我輩に壊せぬものなど、ない!!」
軋轢が咆哮した途端、音楽ホールの床はもう維持できなくなり大きくこの空間が揺れる。庵は現実とは思えない事態に動揺しながらも、軋轢の動きを封じるための、電力を高める動作を行なっていた。どうやら自分の懐に愛美の電力を操作するスイッチがあるようだ。
パン
「ぅっ…………!!?」
庵は銃声と共に、うめき声を上げてカタカタと震えながら手の甲を見つめた。真っ黒い風穴から血が吹き出る。銃弾の勢いでかろうじてふとっばされなかったが、腕の関節が歪みスイッチを押すことができない。満身創痍の雅が、この時とばかりに銃を発砲したのだ。銃口を向けるだけでも精一杯な細い腕で、庵のスイッチを押そうとする左手の甲を打ち抜いた。
「くふっ……ぅ……ごほぉ!!」
雅は庵が怪我に気をとられた瞬間に、『統臭』の効果が切れたのか詰まっていたものを吐き出すように、咳き込んだ。荒い息を繰り返し、目の前の敵を睨んでいた。そしてガダンッと聞いたことのないような『崩れる音』と、床の奥のほうから、床の破片が一階のフロアへ落ちていく音が聞こえてくる。
「お義父様……アイツに最後の、鉄槌を」
「…………雅」
「私は大丈夫です。……終わりにしましょう」
「………………」
しかし、軋轢は身体を静止したまま動けなかった。これ以上言葉を交わす時間がないことはわかっている。だがそれと同時に、雅は最後の最期に『嘘』をついたこともわかっていた。
雅は大丈夫なわけがない。息を吹き返してやっと命が繋がったところで、今度は地面に叩きつけられる。受身など取れるはずがないのだ。それでも雅は大好きな『お義父さん』のために笑ってみせた。
「いってらっしゃいませ、お義父さんが正しいことを証明してください……!」
軋轢はそんな雅のことを抱きしめた。言葉よりこっちのほうが伝わると思ったのだ。雅の身体が小さく震えているのがわかった。それでも軋轢は離れなければならなかった。それは彼にはやらなければならない使命があったからである。
雅の元を離れ、パンダは飛翔した。
それは何かの冗談かのように、大きなジャンプだった。パンダが消えた地上は力をなくし、欠片となって砂埃を纏いながら崩れ落ちていく。神獣の赤マントは鮮やかにはためいて、そのまま罪人のもとへ落ちていく。
「ぅおああぁああ!!」
その軋轢の勢いに、庵は震える手でスイッチを押そうとしていたが、軋轢の鉄槌を避けるほどの身体能力もなければ、運ももっていなかった。軋轢の拳が、庵の左胸に突き刺さる。それを打音に留まらず、ぐちゃっと何かが潰れる音がした。しかしその音も――――崩れていく『殺物の音』にかき消されていった。
軋轢は、まるで一つの『世界』が壊れてしまったかのような錯覚を起こすほどの、音の渦に巻き込まれて、さらに目の前が茶色と灰色にまみれていく。この下はこの階と同じくらいの広さがある音楽ホールがある。
床の板や、石、湿った木材が辺りを覆い尽くし、まだ茶色い砂煙が立ち込めている。軋轢は落ちてそのまま両足で着地をした。人が落下したとは思えないほどの、ドスンと重たい音をたてる。
恐らく自分の目の前には庵が、自分の背後には雅が、落下した木材の下敷きになっている。軋轢はどちらを先に確認するか一瞬、迷った。
軋轢は――――後ろを振り返った。
そして少し盛り上がっている、大小様々な木材の欠片や塊の山を、軋轢はひたすら崩していった。自分の愛しい『娘』の姿を探し続けていた。さっきの破壊とは比べものにならないほど丁寧に、その山を壊していった。
焦げ茶の床のパネルと、光沢のあるアスファルトの破片の隙間から、白い腕が見えた。軋轢はそれを見つけて、その脇にある障害物をガラガラと排除していく。
そこには雅の姿があった。
やはり受身が取れなかったようで、軋轢が見つけた雅の姿は、顔だけを横にしてうつ伏せの状態だった。眼鏡が石か何かに当たったのか割れていて、その眼鏡のガラスが目尻に刺さっていて血を流している。それはまるで血の涙を流しているようだ。
軋轢は雅を抱き起こし、その雅の脈を確認しようと首筋に手を当てる。しかし『感覚』というものを遮断したその軋轢の身体は、その感覚さえわからなかった。それでも軋轢にはわかっていた。雅は能面のような顔はしないということを。この身体が異常なほどに軽いということを。
涙を流すことができなかった。無機質なその瞳は感情を写すこともできない。
「お前がいたから……我輩は…………」
軋轢はポツポツと言葉を紡ぐ。雅を抱きかかえて、そっと壁に座らせた。胸の大きな傷と目尻の傷が、どうしても目立ってしまう。それを見て、軋轢はいつも美に対して気を遣っていた雅の姿を思い出した。
「こんな姿では、悲しいだろう?」
軋轢は前にある自分の赤いマントの紐を緩める。そして人を包むには充分すぎるその布を、雅に被せた。軋轢がこのマントを脱いだのは、初めてだ。何故ならば――――
「――――――そうやって貴方は、悲劇のヒーロー気取りですか?」
ザクリと、嫌な音が鳴る。
軋轢のマントを無くした背中には、大きな縫い跡があった。あたかもそれは着ぐるみについているチャックのように。いつもこれを隠すためにマントを着用していたのだ。それが向かうところ敵なしの武装の唯一である弱点だった。
そして弱点のその縫い跡に、深々とナイフが刺さっていた。軋轢は痛覚がないため、むせかえるような、おぞましい感覚を知ることになる。軋轢の背後には人間が立っていた。それはあたかも亡霊かのように、生気をなくして存在をしていたのだ。
「甘さを指摘したのはどちらでしたかね?そのままそっくり、その言葉を返しますよ。家長さん」
その白い顔をして軋轢の後ろに立っているのは、他でもなく匂神庵だった。顔が瓦礫の下敷きになったのか痣だらけになっている。右腕はいつのまに動くようになったのか、ナイフを力強く握りしめていた。
「なぜお前が……生きている…………?」
軋轢は搾りだすような声で庵に尋ねる。軋轢の身体はまた、言うことをきかなくなってしまったのだ。その理由は先程の電力しか要因として考えられなかった。しかし愛美の身体が光を発しているかを、壁に顔を向けている軋轢が確認することはできなかった。
「まずこの空間で、あなたの身体を制限するくらいには、電力が通用したという点。そして私が一発殴られたときに瓦礫や木材の上に落ちることで身体の負担が少なくなった点、でしょうか」
庵はそこまで言うと、這いずるような滑らかで身震いのする声で、軋轢に囁いた。
「まぁ、天が私に味方をしてくれたようでね」
そして無抵抗な軋轢の背中をナイフでもう一度刺す。張り付いた笑みを浮かべたまま何回も突き刺して、裂いていく。それを止める人間は残念ながら、現れなかった。匂神の死神は、軋轢という怪物を壊すまで永遠に――――繰り返していた。
『かちっこちっこちっ』
どこかでこんな振子の音が鳴り響いた。
>43
今回は二人物語の退場者がでました。
彼の復讐劇は本当に価値あるものだったのでしょうか。彼が最期に案じたものは妻ではなく、娘だったのではないでしょうか。なら何故彼はこの現状で満足できなかったのでしょうか……。
彼女はたくさんのものを失いましたが、一番大切な存在を守って死にました。幸せといえば、幸せかもしれませんが……それは人の感じ方次第なのかなと思います。
さて、物語は終幕へ続いていきます。
最後まで見届けてやってください!




