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視点がきりかわりますー
きっと私達は似た者同士。
『めかくし』39
「ついに、ここまできましたか」
匂神の長男である庵は、長く湾曲した道を、飽きるほどに歩き続けていた。人と人が衝突し争っている音が遠くのほうで聞こえる。気のせいだと思ってしまえばそんな気がしてしまうくらいに、この空間は静寂に包まれていた。だからこの独り言も妙に響いて聞こえる。
これで泣いても笑っても、五感家の抗争は『転がる』。どのように転がるかは庵にも、恐らく今から会いにいく刺宮の家長にも、予測し得ないだろう。しかしここまで踏み込んでしまえば、大きな変化をもたらすことができる。
そんなことを考えながら歩いているうちに、庵は飽きるような赤い絨毯と白の壁の色調から開放されることになる。突き当たりの大きな扉が見えたのだ。それは今までのカラーコーディネートを覆す真っ黒の扉だった。随分と頑強そうな造りを見て、この先に音楽会場があるとは到底思えなかった。
この先にあるのは、戦場だ。
庵はそんなことを思った。だからといって、恐れを感じるほどの意気地なしではない。とにかく、今は時間がないのだ。『振子』が今も刻み続けている。
大きな漆黒の扉を、自分の体重を使って思いっきり押す。その扉は想像よりも重くはなく、苦戦することなくこの扉はギィッと音を立て、開いた。
そこにある風景は、庵の想像するものとは少し違うようだった。庵はまるで自分を国王かのように振舞う『あのパンダ』のいつもの態度を考えると、超大規模な音楽ホールに自分を誘い、玉座で待ち構えているかと思っていたのだった。しかし、そんなことはなく、音楽ホールの大きさは先程の雅がいた場所に近い。ここからは空の客席を見渡すことができる。ここはステージのようだ。
庵の想像していた音楽ホールの大きさは、確かに思っていたものと異なっていた。しかしもう一つの予測は的中していた。厳かな刺繍が凝らされている真っ赤なソファーに、彼は背もたれに寄りかかりながら庵を待ち受けていた。
刺宮の家長、刺宮軋轢の姿だった。
「遅かったではないか、匂神の死神よ」
「私は運動得意ではないので、勘弁してください」
この二人は実質上、五感家の家長という立場にある。しかしこの会話だけ聞いていると態度や風格の違いがはっきりとわかる。しかしソファーでふんぞりかえる男の格好は奇妙で、滑稽なものだった。
パンダの着ぐるみに、ソファーよりも鮮やかな色の赤マント、漆黒の扉を連想させる艶がある黒のグローブ、そして茶色のムートンを履いたその姿。あまりにも場違いな外見である。
しかし、その姿を庵が指摘することがなかった。見知っているその格好を今更どうにか言う必要もないのだろう。何よりそれを言い出せないほどに、二人を包む音楽ホールの雰囲気は異質なものに変わりつつあった。
「どうにもわかりませんね、隠し通そうと思えばこの計画も私に知られずに済んだでしょう。情報源は多少なりともこちらにありましたが、それでも突き止めることができるとは思いませんでした。何か企んでいるでしょうかね?」
「我輩は企むなど、小さいことをするようなパーソナリティは持ち合わせてない。まぁわざとこちらの情報を流したのは間違いないがな」
「なぜそんなことを?」
食いつくような視線で尋ねてくる庵に、軋轢は溜息をつく。無機質な真っ黒の瞳で庵のほうを見た。表情を作れるのならば、苦笑をしているというところなのだろう。
「そんな観察眼で見ても、我輩には偽物の目しかないぞ」
「別に視線で全てを判断しているわけではありません。動作全般を総合して心理を読み解くことができるのでね」
種明かしをしたので、もうそれは止めますと庵はそれだけ言い、目を細くして笑った。先程のすくませるような眼光はそこには既になかった。
「お前は早いうちから処分しないと面倒くさいことになると思ったのさ。だからここで我輩直々の鉄槌で地獄に叩き落とそうと思ったのだよ」
「それはご丁寧に。いつ暗殺されるかヒヤヒヤしてましたよ」
「己のボディーガードの為に何十人の人間を雇った? 影武者を使ったときもあったな。それにこちらの幹部の弱みもどうやら握っているようだからな。埒があかないと思ったのだ」
「…………何のことでしょうね?」
庵は軋轢の言葉にも眉一つ動かさず、受け答えをして貼り付けたような笑みを浮かべていたままだった。軋轢はソファーから立ち上がる。庵はその姿を見上げる形になる。それほどに軋轢の身体は縦にも横にも大きいのだった。
「お前のような狡猾な人間には、本来我輩は一番相性がいいのだよ」
軋轢はそう言うと、ソファーの側にあった何百万円するかわからないような立派なピアノを――――殴った。怒りのあまりに殴ってしまったというわけではない。そのピアノに軋轢の拳はめりこんでいた。
そしてグッと軋轢はその拳に力を入れたかと思えば、何かの冗談かのようにピアノが拳の入った場所を中心にして真っ二つに割けていった。綺麗な音色を作り出すピアノがこんな破壊音を鳴らすとは。庵はさすがに驚いているようだった。
「それほどにも強大ですか、『殺物』というものは」
「――――我輩は細かいことを考えるのが好きではないのだ。作戦などの脳は雅に任せてあったからな。そして『殺物』というのは人間に適用されない、だから心を『殺物』しようとしてくるなどと噂が流れておるらしいが……ハハッ、まあいい」
そして真っ二つになったピアノの片方を両手でいとも簡単に持ち上げる。破片とは言い難いほどの、庵の身長分くらいありそうなピアノだったものは、軋轢の手により『鈍器』に姿を変えた。そして庵に向かって投げ飛ばされる。
「…………!!」
庵は元よりあまり運動が上手ではない。いや、上手ではないというよりも身体を動かすことが習慣化されていないのだった。それでも庵はそのピアノを後ろに下がって避けた。
軋轢はその様子を見て、特に悔しそうな様子を見せていなかった。むしろ腰に手をあてていて満足そうにしている。
つまりこれは『攻撃』ではなく、『力の誇示』だということだ。
「我輩直々に、お前の心臓をブチ抜いてやろう。お前が本当に死神と化してしまう前にな」
「これはこれは、恐ろしいですね」
軋轢の言葉に、いつも通りの薄っぺらい笑みを浮かべつつも、さすがに余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)というわけではないようだった。ピアノを突き破ってしまうほどの力を、対して身体を守ってくれそうな筋肉を保持していない庵が受けてしまえば、それだけで致命傷ということである。
「でも、私が何も用意してきていないとでも思いますか?返り討ちに遭ってもしりませんよ」
しかし、相手を牽制するかのように、両手を広げて軋轢に問いかける。その姿に軋轢はしばらく動きを止めていた。その可能性を危惧して様子を見計らっているのか。その時軋轢はこんな言葉を投げかけた。
「お前は、我輩を討ち取ったとして、本当に『零計画』を実行するのか。相棒も妹も、お前の大事なもの全てを失うその論理を押し通すのか? その覚悟がお前にあるのか?」
庵は依然、無機質な笑みを浮かべたままだった。軋轢は着ぐるみであり表情がないのは当たり前なのだが、笑みから全く表情は動かない庵もまた、無機質という言葉が似合いそうだった。
「私を心配してくれるんですか?」
「我輩の質問に答えろ、匂神庵」
相手を小馬鹿にするような庵の態度にも、一切軋轢は反応をしなかった。ただの飾りとしてあるだけの真っ黒な瞳が、感情を内在しているようにぎらりと光った。
「……勿論ですよ。全ての五感家に関わる人間を葬らなければ永遠に、この悪夢は終わらない。これで全て終わりにするんです。私達は生きている限り、子孫と争いを増やすんですよ」
庵は微かに身体を震わせていた。軋轢はその姿をただ見ていた。憤るわけでも賞賛するわけでもなく、庵の言葉を聞いていた。
「私が全て終わらせてみせます。あなたを討ち、『兵器』を使い五感家を滅ぼす。そして私も全てかたがついたら……人生を終いにしましょう」
「――――――そうか」
軋轢はそれだけ呟いて、漆黒のグローブを握り締めた。着ぐるみはパンダの姿に忠実なくせに、手だけは五本指で人間と全く同じ形である。そして前々から置いてあったスタンドマイクを腕で叩き落す。それは観客席の後方まで飛んでいった。
「五感家を守るため、我輩はお前を殺戮する。覚悟しろ」
一つの世界を賭けた激突が、人知れず幕を開けた。
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