28
ついに決裂
見たくないものは
見なければ見ないほど大きくなっているもの。
『めかくし』28
「唯はいませんかー?」
いつもなら安らぎを覚える庵兄の声。
しかし平のネズミと沙也夏さんから聞いた情報を知った後では、その声は裏のある上辺だけの柔らかい声にしか聞こえなくなっていた。
沙也夏さんは私の顔をしばらく見つめた後、インターホンの通話ボタンを押した。
私はその沙也夏さんを引きとめようとしたが声が庵兄に聞かれてはまずかった。
沙也夏さんを信頼はしているのだ。
しかし、嘘をつくのが得意じゃなさそうな沙也夏さんがあの察しのいい庵兄のことを騙せるとは少し思えなかった。
「唯はいないわよー?あたしも会いたいくらいだもんー」
しかし予想よりも涼しい顔で沙也夏さんは庵兄にそう言い放った。
庵兄は画面の向こう側で少し眉をひそめる。
庵兄は自分の思ったことが通らないと微かに不機嫌になる。
その時の庵兄の目は細くそして鋭くなる。
この時の庵兄もそのような様子で、少し睨むようにこちらを見ていた。
怖い。私は庵兄の表情を見てそう思ったが、このような反応を見せるということは沙也夏さんの言葉を信じて、私がここにいるということに気づいてないということだ。
……と思ったのも束の間だった。
「沙也夏さんがそういうなんて意外ですね。なんで嘘をつくんです?」
庵兄はまるで威嚇をするような声で沙也夏に言ったのだ。
沙也夏さんもそれにはびくっと震え珍しく怯えた表情をしていた。
「庵クンの『統臭』はやっぱり健在なんだねー」
その今の雰囲気にはそぐわない眠たくなるような平の声に、私は睨む勢いで声のほうを向いた。その顔があまりにも切羽詰っていて凄みのある顔をしていたのか平を私をなだめるように二足歩行をして前足をちょいちょいと動かした。
「大丈夫、ボクの声はボクを認知している人にしか聞こえないから。ボクも庵クンに見つかるのはゴメンだよ」
平はそう言ってから私の緊張の顔が少し緩んだのがわかったらしく、沙也夏さん、つまりは通話口の近くまで近寄り庵兄を見ていた。
私も平の言葉に反応したかったが、声を拾われる恐れがあったので頷くだけに留めた。
それでも庵兄の能力について聞いたのは兄弟のはずなのに初めてだった。
私は庵兄の何も知らなかったのかもしれない。
そう思うと悔しいような悲しいような気持ちが胸に重くのしかかった。
「庵クンの『統臭』は唯チャンの『無臭化』の逆バージョンなんだよ。唯チャンに消せない匂いがないのと同じように、庵クンが作れない匂いはない」
「……唯、聞こえませんか?私にも、沙也夏さんにも、あまり迷惑をかけてはいけませんよ?そんなに悪い子だと私は思ってません」
庵兄の言葉に、沙也夏さんは固まったままでいた。肉食獣に睨まれた草食獣のように圧倒されている。私はその沙也夏さんらしからぬ様子に疑問が生じた。
「そして洗練された庵クンの能力は唯チャンみたいに効果を発揮させる対象を限定できるのはもちろん、『知覚できない匂い』を作ることに成功したんだ。そして匂いというのは本能に直接関与できるもの、時に人の心を操るさえもできる。興奮させたり、恐怖させたり、ね。」
平のその説明を聞いて、今さっき疑問に感じたものの答えがわかった気がした。
庵兄は沙也夏さんだけが認知できるように恐怖させる香を漂わせていたというところ、だろう。
私の『無臭化』で対抗することは恐らく可能だが、それを発動した瞬間に庵兄に私がいることがばれてしまう。それはなるべく避けたいところで私は時が過ぎるのをただ待っていた。
しかしそんなことで引き下がる兄ではないことくらい、さすがに私はわかっていた。
「残念ですよ唯、こんな手荒な真似はしたくないのですが。唯にも非があることを認めてくださいね?」
庵兄はそこで言葉を切り、ここぞとばかりに低くすごみのある声でこう言った。
「『匂神生かしの酸素食いの香』、唯が仲間を犠牲にしてまで身を隠すような子だとは思っていませんからね」
庵はそう言い、にやっと笑ったのだった。
『酸素食いの香』は自殺する時に使われるもので、苦しむことなく死ねることからこの世界では主流になっている香である。
その応用的なもので、作られたのが『匂神生かしの酸素食いの香』なのだ。
私はフラッシュバックのように鳶色の瞳をして手の甲に梵字を施した刺宮家の人間を思い出した。
忘れもしない、私の家族の身体を弄び、私自身も電車に突き落として殺そうとしたあの男。
刺宮憲。
そう、ちょうどこのインターホンの前で憲は『匂神殺しの酸素食いの香』が入った小瓶を私と七宮に見せびらかしていたのだ。それに対して七宮は憲の挑発を買い力を合わせて退かせた。
一年も経っていない出来事なのに、ひどく昔のことのように感じた。
……だが、今はそれが問題なのではない。
私は庵兄の言動が信じられなかった。
庵兄はあの憎んでいた刺宮の連中とまったく同じ手口を行おうとしているのだ。
しかもこんなことをして薄く笑う庵兄は、私の知っている優しい兄ではなかった。
私は、もう迷わなかった。
「……『無臭化』。」
私はそう呟き、知覚はしていなかったがこの空間にある全ての匂いを無へ返した。
すると沙也夏さんを縛っていた匂いも解けたのか、ふぅぅっと長い息を吐いた。
「やっぱりいたんですね?唯」
「どうして、庵兄。どうしてこんなことするの」
私は面と向かって庵兄と話したかったが、もうそうすることさえ危ないと感じた。
これを見た後なら七宮を殺人兵器として利用しようとすることもやりかねないと思うし、今この扉を開けたら沙也夏さんや平に何をするかわからなかったからだ。
「唯が心配だったんですよ。学校で過呼吸起こしてから保健室に運ばれて、その後さらに保健室から脱走したっていうもんですから」
「そうじゃなくて……」
「唯、せっかく学校生活に戻れて普通を手にできたんですよ?私は唯にだけはせめて普通に生きててほしかった。だから私は連れ戻しにきたんです」
「でも七宮を取り戻さないといけないの」
「……そんなにあの男が大事ですか?」
私は無意識のうちに七宮の名前を出していた。庵兄にストレートに尋ねられて私は口をつぐんだ。それは七宮が大事か否かで悩んでいたわけではなく、表現に迷ったからだった。
「七宮はオタクで細かいことにうるさくて、私のこと突き放した……けど」
私は最後の言葉がうまく出てこなかった。それでも、譲れない気持ちが私の中にはあった。
「七宮は私の大事な人なの。七宮がいない日常なんて、意味ない」
「……そうですか」
私は口を開いている間、庵兄の顔を見ることができなかった。その声は怒りに近い攻撃的なものだったからだ。
「もっと早い段階で彼と切り離しておけば良かったですね、失敗しましたよ。まさかこんな障害になるなんてね」
庵兄の顔をおそるおそる見ると、その顔は笑みだった。
しかし、私は背中にびっしりと冷や汗をかいていた。庵兄のその顔は張り付いた仮面のようで、その仮面の裏にある般若の形相をした庵兄の片鱗が見えたからだ。
「それなら唯がしっかり普通に楽しく過ごせるように、私は頑張りますね?それまで唯も、もう少し非日常を楽しんでいるといいよ」
庵兄は一体何を頑張るつもりなのか、私は聞くことができなかった。
しかし、平からの予備知識もあり、その内容はおぞましいものであるということは容易に想像できた。
「庵兄……、お願い、いつもの優しい庵兄に戻って……」
私の記憶にある優しく柔らかく椿の香る庵兄の姿が、どんどん遠ざかっていくのを感じた。掠れる声で私は庵兄にすがりついた。
庵兄は笑った。
しかしその笑みは決して柔らかいものではなかった。
「私はいつも唯の味方ですよ?では、さよなら」
庵兄はそれだけ残してインターホンの先から消えていってしまった。
私は必死で涙が溢れるのを我慢していた。
泣いてしまったら、何かが崩れ落ちてしまいそうだったからだ。
沙也夏さんも平も何も言わず、ただただ冷たい静寂が主のいない部屋を覆っていた。
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