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25

新しい名前は出ませんよ?

こいつを覚えてるでしょーか

僕は夢を見ていたのか。

それともこの世界こそが夢だったのか。



『めかくし』25



「だいぶ良くなった?匂神さん」


「…………はい」


保健室の先生は、私のほうを見て優しく笑いかける。


私、匂神唯は過呼吸になった後、保健室に運ばれたらしかった。白が基調であるこの部屋を見て、一瞬七宮のいた病院を思いだし息をつく。


「過呼吸って普通、あまり身体を動かさないで安静をとるもんですよね」


「そうなんだけどねぇ、部員さん達が必死になって連れてきたのよ。監督もいなかったし、その判断ができなかったのでしょうね」


確かに、いきなり部活仲間がぶっ倒れたら冷静ではいられないだろうなと思う。それでも普通は、身体を動かさず、ビニール袋を口につけて酸素量を制限するものなのだが、その基礎的なものは全く守られていなかったようだ。


これは部活の方でも一つの課題にしなければいけないな、と思った。否、それ以前にその場にいなかった監督が何より問題ではあるが。


「匂神さん、ちょっと監督さん呼んでくるから、安静にしてて待っててね」


「わかりました」


保健室の先生はそう言うと、ガラガラと扉を開け、多分職員室のほうへ監督を呼びに行った。


私はベッドに寝そべりながら、天井の白を眺める。


「匂神さん……かぁ」


家出をする前は、名字を呼ばれても何の違和感も、恐怖心もなかった。家出する前がごく普通の生活だったわけではない。


父親に言われて誘拐してきたのだろう小さな子の面倒を見たり、明らかに怪しげな廃ビルの地下の場所を確認しに行ったりというような『非日常』は経験していた。


しかし今は、『匂神』という己の名字を知り、声をかける存在だというだけで不信感をもってしまうようになっていた。


もう日常に戻ることはできないのかもしれない、殺してしまったと思い心臓が跳ねたあの感覚は、そう簡単に和らぐものではないからだ。


「わかってるじゃん」


そう、わかっているのだ。そんなことくらい、それでもあと一歩が踏み出せないのだ。


「どうせ戻れないなら突き進むほうがいいと思うけどなぁ」


そうなのかもしれない、しかし突き進むとはどういう意味なのか。


「……て、待って、私は今誰と喋ってるの?」


私は瞑想していたことですぐには気づかなかったが、誰かが私の思考に相槌を打っていた。


私はベッドに座ったまま、辺りを見渡す。どこをどう見ても真っ白な部屋ということに代わりはなかった。


「ここだよ、ここ。キミのお得意の嗅覚で見つけてよ」


そんなことを言われても薬品のツンとした臭いしか私の鼻は感じ取れなかった。


「しょうがないなぁ、ボクはここだよ」


ずいぶんと声が近くなった。声のトーンは中性的なもので声の主は少年を連想させる。


声はすぐ目の前から聞こえる。しかし、視界の先には何も見えない。


「ここだって」


そう言われたときに、私は気づくことになる。目の前なんてものではなくて、顎の下から声が聞こえることと、お腹のあたりに質量を感じることに。


私のお腹の上には白いけむくじゃら、否、一匹のネズミがいた。真っ青な瞳に白いボディ、そして柄なのだろうが茶色のハートがお尻にあった。


「ひぁあああっー…」


私はハムスターは許容範囲だったのだが、ネズミのあの独特な長い硬質な尻尾を見た途端、悲鳴をあげた。


それでも、それは静かな保健室だということもあり、少し控えめなものだった。


「うるさいなぁ、ボク別に悪いことしてないでしょ」


「ネ、ネズミが喋ってる…」


「ボクはネズミ?……ああ、まぁそうだよね」


ネズミには当然表情がない。しかし、せわしない動きを見ていると、なんとなく何かを伝えたいんだろうなという意思は理解できる。


「ネズミが喋れるっていうことも世の中にはあるんだよ。ボクがそれを証明してる」


非常識だと思った。

『常識に非ず』という意味はもちろん、私の常識に土足で踏み入れていく傲慢さに私は穏やかな気持ちではいられなかった。


「せっかく学校に、普通の生活に戻れたのになんでそんなありえないことが起こるの!」


この言葉は、目の前のネズミの存在を全否定するものであったが、私は思わずそんなことを吐き出すように言った。


「匂神さん、普通って一体なんだろうね?」


「普通、そりゃあ普通に学校に行って部活して、帰りにコンビニよって……」


私は家族を失う前の学校生活を口にしながら、とりあえず伝えたいことをネズミを言う。


「まずネズミがしゃべるのは普通って思いたくないです」


ネズミはそう言うとちょうどハートの模様あたりをかいかいと掻いて、毛繕いをしていた。


「なるほどね、まぁそうなのかもしれないけどさ。匂神サンはネズミがしゃべったって誰かに言う?信じてくれないって何も言わなかったりしない?」


「それは……」


私が言いかけた言葉の続きは『そうかもしれない』というものだった。


「もしかしたら普通じゃない体験をしても、信じてくれないからとか変な奴だと思われるからとか考えちゃったりして言えないだけかもしれないよね。」


ネズミはまるで人の心理など知れたものだというような言い草でそう言う。


その物言いは、口調さえ違うが暴君であるもう一人の異形を連想させた。


「あと、無理矢理忘れさせられてるのかも、しれないよね?」


「……………!」


その言葉を聞いて思い浮かんだのは、七宮の話だった。細かいことは聞いていないが遊園地での大規模な事件を誰かの干渉で忘れさせられていたという内容のものだった。


「この世界に普通なんて無いんだよ。異常な状況なんてはすぐそばに在るんだ」


私はネズミの姿をもう一度見て、ごくと生唾を飲む。


もしかすると、このネズミは。


「そうだ、名乗るのが遅くなっちゃったね匂神サン」


このネズミは私が『つい最近いた方の世界』の住人なのか。

まさかな、と思った頃にはネズミは名字を名乗っていた。


「ボクは五町平ごちょうたいらって言うんだ。平クンって呼んでね」


『五町』、脳に対する干渉に秀でた家系。

五感家の良い意味で保護者、悪い意味で始末屋と確か七宮と言っていた。


今までにも、夜祭の座長である五町大胡や、アンティーク屋という名を借りた武器屋を経営している五町大供など『五町』の名字を持つ人に会ってきた。


五町平、どこかで聞いたことがあるような気がした。


いつだろうと考えつつも、五町という名字に頭の中で警鐘が鳴り響いていた。


バックの中に隠し持っていた大供作の大型ナイフの『郷愁狂臭』に手を伸ばす。


「ほらボクを殺すなんて、非生産的なことしないでさ」


平のその言葉にビクッとしてしまうあたり、私も馬鹿正直だった。

平は得意気にチュウと鳴き、私のベッドから降りた。


素早い動きに私は目で追うことしかできない。


「キミがこうしているうちにね、お友だちが色々大変なんだよ」


平は自分の尻尾を追いかけながら、クルクルと回っていた。


「七宮に何かあったの!?」


私は咄嗟に平にそう叫んでいた。自分の予想以上に大きな声が出て自分で焦っていた。


「カレねー、自殺しようとしてたんだよ?」


「……………え?七宮、が?」


「精神病院に入院してた憐れな異端児でしょう?軋轢クンの息子サンの」


平という名前のネズミは、真っ青で艶のある瞳をこちらに向ける。その瞳に感情を読み取ることができない。この感覚は私にパンダのキグルミの無機質な瞳を思い出させた。


「ほらそんなところにいないで、ボクはキミを連れに来たんだ。アリスを導く白ウサギのようにね」


私はそれが罠だとか、そんなことを考えている余裕はなかった。そして、もしかするとこれはキッカケでしかなかったかもしれない。


私にとっての普通とは。

私にとっての世界とは。

私にとっての幸福とは。



私は平を追いかけて、この場を後にした。景色など見ている暇などどこにもなかったからだ。


帰ってきた保健室の先生と監督が首を捻って困った顔をしたことや、下を見て走り続ける私を見て不思議がる生徒がいたことは、また私の知らない話だった。






>26



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