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君は世界を何と定義する?
大気圏内と唱える者もいれば、
自分の知る物全てと述べる者もいるだろう。
全力で考え出した答えが君にはあると思う。
答えはない?
それもそれでご名答!
本当はそんな下らない定義は必要ないし、考えることは時間の無駄。
もちろん素直に考えてくれた人を笑うことはない。
答えが出た人用には、僕なりの定義を捧げよう。
世界とは、
“かちっ”と“こちっ”だ。
『めかくし』1
酷い臭い。
酒臭さに、汗臭さに、何より人臭さ。
私の現在地点、即ち新宿駅。
人混みとはよく言ったもの、人ゴミと書き換えて何の問題もない。
不衛生すぎる。
駅のホームへ下る階段で、私の気に入ってる真っ赤なスニーカーの底に胃液色のガムがくっついた時点で、心まで汚された。
こんな重たい気持ちだから周りがそう見えるのだろうか。
否、元からそう見えていたか。
心の汚れを口から吐き出す。
一つだけ溜め息。
気分はなんにも変わらない。
汚れを吐き出し、汚れを飲み込むただのサイクル。
「これからどうしよっかなぁ」
ガムが靴にくっついて不機嫌なのはその通り。
それでも憂鬱なのは、それのせいだけではない。
一番の憂鬱は今から乗る電車が自分にとって『帰り』ではなく、『行き』だということ。
しかも行き先不明。背中にへばりつくエナメル質のバックが、分刻みに質量を増しているように感じる。
「あー…………」
ちなみにガムが靴にくっついたレベルの憂鬱が、もう1つ。自分を駅の改札前から追い回している影がいること。俗に言うストーカーというやつ。影と形容するのは後ろを振り返っていないからであるのだが、別に怖いわけじゃない。
ただ、取るに足らない存在だからだ。
とりあえず、こんな人間が密集してる中で手出しはしてこないだろう。
ざまあみんみんぜみ。
ストーカーと私の関係において、私が主導権を握っている。
そう思うと少し清々した。
ちょっと心が綺麗になったような気がする。
鼻歌を歌いながら駅のホームの端、人の少ない方へ向かう。
『黄色い線までお下がりください』の歩行者ブロックを道しるべにして歩く。
公共の規則に反して、黄色い線をちょっとだけはみ出して。
ドンッ
「ぇっ…………!?」
今まで歩いていた場所が天になり、地の底が大地に。
背中が痛い。
線路に、落とされた?
眩む視界、轟音、振動。
あれ。
電車が来ちゃったみたいだ。
「…………!!」
やばいやばいやばいやばい、ホームへ上らなきゃ!
慌てて震える足にむち打ち、立ち上がる。
身長が足りない。
縁へ手を伸ばそうとした。
でも、腕が上がらない。
肩脱臼?嘘でしょ、バックを下ろせばましか…否、手放す事などできはしない。
何故?ストーカーは確かに距離を置いていたはず。臭いでわかる。
じゃあなんだ、不幸だったのか、ただ単に。
笑うしかないやぁ。
見上げた先には、悲鳴と狂乱。あと野次馬。
というよりも私にとっては全部野次馬だ。
「さよなら、私の世界」
とびきりの殺し文句。
殺し文句が決まったからには私の世界には死んでもらわなきゃ。
その瞬間、私の右肩に激痛が走る。
気付いたら私はベッドの上にいた。
「……身体、痛い?」
「……………」
「悪かったよ……、でもあれ以外にどんな方法があった? 首に輪投げしたほうが良かったか?」
「殺す気ですか」
「あぁ、死んじゃうか」
私は生きているらしかった。
この肩の激痛、この激痛により存在を薄められている数多の痛みがそれを証明している。
「とりあえず生きててよかった。君、死んじゃうところだったんだよ」
「――素直にお礼は言います。」
「素直な子は『ありがとうございます』って言うんだよ」
「…………」
生きてることは解った、だがそれ以外の事は全くの未知数である。
「ここはどこですか」
「僕の家」
「病院じゃないんですね」
その言葉に目の前の人間は、顎に手を当てて視線をそらす。
「君かわいいもんだからさぁ、俺死にそうな人助けてあげたの初めてだからさ、独り占めしたくって」
この男、年は20歳くらいだろうか、身長男性の中程、眼鏡をかけていて、そしてイヤホンを左耳につけていた。顔は大人っぽく端正な顔つきに入るだろう。
まぁ、端正だろうがダンディーだろうが、今の言葉で台無しだ。
「ロリコンですか?」
「むむ、君は自分の外見がロリータの定義に位置付けできると自覚してるわけだ」
「………………」
非常にこの男と絡みづらい。
今私は目の前の男の家にいるということはわかった。
周りを見渡すと、まず人体模型が目に入る。
他にはアイドルのポスターが張られていたり、机の上にはチロルチョコが積み上げられていた。
混沌としていた。
漠然と、それでも直感でこの男の脳内はアウトだと思った。
その空間と私自身の存在の不確かさに、目から涙が溢れた。
「わっ! なんで泣くんだっ……ほんとに君をどうこうするわけじゃないんだ!」
眼鏡の男は、私の姿に困惑し、机に置いてあるチロルチョコを私に渡す。
菓子でつられてたまるか。
「君も警察や救急車にお世話になるのは嫌だったろう」
私はしばらく沈黙する。
故意に。
「――私のバック、見ました?」
男も同じく沈黙する。
こちらは多分無自覚に。
「……見させてもらったよ」
男は静かに頷き、私のエナメル質バックを目の前に置く。
バックは口を開いたまま。
口の中には血にまみれた、ナイフに縄に小さいサイズの銃。
ここまできたら本当にアウト、言い逃れようはない。
だが男はそれを見て、恐怖の念も軽蔑の念も感じられなかった。
言い表すことのできない強いて表すのなら、興味があるというような態度だった。
感情は感じられない。
逆に私はそれに対して、身体を支えている心の芯をぶれされたような気分を覚える。
一般人の守る常識に従おうとしない、この人間の恐ろしさ。
それとも目の前の人間は、『私と一緒』か?
「これを見ても通報しないなんて、そんなに私がお気に入りですか?……ストーカーさん」
「気づいていたのかな、というかストーカーって……いやこれはストーカーに入るのか?」
男は私の物言いに不服なのか、私を説得する言葉を探しているのか唸った。
しばらくして口を開く。
その言葉は説得でもなんでもなく、殺し文句だった。
本当の意味で、私を殺す。
「いやはや、ばれちゃうなんて。君の嗅覚は最高級だね、匂神さん」
「…………!!」
私は何も言えない。
男は心底楽しそうに、さっき以上に饒舌に話し始めた。
「『僕らの物語はとあるちっぽけな島国の弱体化から始まる』これが冒頭、この島国…日本は神を作り出そうとした。神とは最強である。さて最強とは一体なんなんだろうか。最初は『動か静か』を議論された」
男は歌うように続ける。
「『動』、絶対的な暴力を主張した研究員と『静』、絶対的な知力を主張した研究員で派閥ができた」
私の固まった頬を見ながら、男は目を細めた。
「そして、どちらにもつかなかった余りの研究員は『人間の五感の超越』を目指し研究を始める。視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚をそれぞれ極めた者同士5人でチームを組めば最強だってね」
そこまで言って、にやりと不敵に笑い私を舐めるような目で男は見つめる。
「それで君が知っているように、仲良くなれるわけがなく。5つの分家に別れてしまう。視覚の透藤、聴覚の七基、味覚の世辞、触覚の刺宮そして――」
「――嗅覚の匂神……」
私は男を睨みながら、次に言うであろう言葉を盗み、発した。
身体が満足に動くのならバックの中身で何かしらの方法で男を殺すべきだろう。
だが、やめておいた。
そこまで知っている人間で『五感の家』の人間じゃないはずがないのだ。
どこの家の人間であれ、人を殺すのをなんとも思わないのは共通。
不満足な身体で勝てるわけがない。
「あはは……、それを知ってるのに私をまだ生かしてるってことは拷問? それとも何、色々楽しんでから殺す?」
「あぁ、バッグがこんなに血塗れなのに血がただの赤の絵の具かと思うくらい無臭だったからね……、まさかと思ったけど、そうかいそうかい」
私の精一杯の言葉を軽く無視し、自分の予測が的中したことに男は喜んでいた。
「お前っ――」
「殺してやるって?」
今度は男が私の言葉を遮る。
そして間髪入れずに私の頬を殴りとばした。
本気で、パーではなくグーで。
私は頭がぐわんと揺れて、思わず頭を抱える。
「僕は目の前で死なれたり殺されたり、死んだり殺されるのは嫌なんだよ!!」
生死云々で怒るのはよくわかる。
常識人ならそれはそうだろう。
だがこの反応で男の狂気の片鱗を見た気がした。
まるで『目の前じゃなければどうでもいい。』と裏返しに言っているようだったからだ。
しばらくお互い黙りこみ、男は深く息を吐く。
「ごめん……女の子を殴ってしまった。俺死んだほうがいいな……」
なんなんだこいつ。
「自分が死ぬのは嫌じゃないんですか?」
「冗談で言うには別に平気だよ、匂神さん」
本当になんなんだ、うざったい性格をしている。
「とりあえず僕よりも君を殺そうとした奴を憎むべきじゃないか?助けたやつを憎むなんてひどい話だよ」
「殺そうとしたやつ……?」
「そうだよ、まさか君不運で押されたと思った?肩を脱臼させるように仕組んで突き落とすなんて、刺宮の連中しかできないだろ」
「………………」
自分の顔が青ざめてくるのを感じた。
新宿駅なんていう人の波に、自分が知ってる中で2人も五感の家の者がいたとは。
「とりあえず今日はここに泊まっていきなよ、というか拒否権ないけど」
男は私の頭を撫でて、にししと笑った。
私はその手を振り払う。
「じゃあ名字教えてくださいよ、宿泊代はそちらに渡しますから」
どんなに恩を売られようが、家同士は戦うのみ。
甘い人間は殺されていくだけ。
「その前に君から」
「わ、私は匂神……」
「違うよ、君は名前」
何か企んでいるのだろうか。
名前を知って何か効果を発動する能力を持っているのかどうか。
「それを言えば名字を教えてくれるんですね?」
「名字だけなんて変だよ、ちゃんと名前まで教える」
男は不思議そうな顔をして私に笑いかけた。
そうとなれば背に腹は変えられない。
「匂神……唯」
「へぇ、唯ちゃん!かわいい名前だねぇ」
「あんたの名字は――」
男の雑談が入る前に、すぐに私は男の名字を問いただす。
「僕は……、七宮智。よろしくね」
一瞬私はポカンとした。
頭がごちゃごちゃになってから、1つの結論に辿りつく。
「五感の家にそんな名字ない! そんなんじゃ騙されないっ!!」
「あぁやっぱり気付いた? でも実は名字なんてないんだ」
男、七宮智は少し困り顔をしてから私、匂神唯に笑いかける。
「僕は七基と刺宮の混血児、異端児だからね」
「異端児……!!」
「まぁそんなわけだよ、それで唯ちゃん一言いわせて」
「っ…………?」
「見た目ボーイッシュな君と僕が一緒にいても、多分ロリコンではない。だからといってショタコンでもない。そこ、よろしく」
「……………」
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