第三十二話
光量が、絞られていく。
舞台上の一所に、小さな光りの円台だけを作って、他は全て暗闇に沈んでいく。
喧騒はやがてざわめきに変わり、ざわめきはやがて静謐に辿り着く。
只中を、歩く。
闇と静、その真ん中を、ゆっくりと歩く。
足音は小さく、だが、しっかりと刻まれている。観客はその音に息を潜め、息を飲み、息を奪われる。
無音の最中、ただ一人音を生み出す者が、小さな小さな光の円中に姿を表し、そして謳い始める。
「或るところに、一人の若者がおりました」
原色の帽に、差し込まれた極彩色の鳥の羽。
「若者は、ある若者と共に剣を握り」
淡い黄緑色の服にはフリルが躍っている。
「やがて、人々に英雄と呼ばれるまでに至ります」
常ならば腰に佩びている刺突剣もこの日ばかりは外されていて。
「……この物語を何としましょうか。誰にでも英雄となれる資質がある? 今を築く礎となった英雄たちを忘れるな?」
背に負っていたリュートも今だけは下ろしている。
「様々。様々ございましょう。男はこの物語に滾る熱を見て、女はこの物語に涙を見る。子は夢を見、老人は繋ぐ血を見る」
この日ばかりは、奏でることはない。ただ朗々と謳い上げるために彼は此処にある。
「それでよい。それでよいのです。この物語には全てがある! そう全てが!」
熱が篭もる。弁舌に油が差されたかのごとく、詩人は手振りを交えて語り掛ける。
「愛がある! 友情がある! 夢がある! 悪意がある! 憎悪がある! 恩讐がある! 涙がある! 笑いがある! 喜びがある! 悲しみがある! 出会いがある! 別離がある!」
「なればこそ! なればこそこれだけは訴えかけましょう!」
「忘れるな!」
「人よ! 忘れるなかれ!」
「この物語を!」
「その事実を!」
「四英雄譚を!」
「忘れるな! 人よ!」
「思い出せ、人よ!」
「語られるべき物語を!」
そう、詩人は、謳った。
飲まれたように、静寂が残る。
熱に浮かされた空気だけが、王立劇場に残る。
僅か残された光が閉ざされ、舞台上もまた、とぷりと暗闇に落ちていった。
「貴方はどう思います?」
言って、彼女は自ずから「これはないな」と内省する。
言葉が指し示すところの、「あの詩人の語りをどう思う?」という問いに対しての否定ではなく。問いかけそのものに対する否定。
もっと語るべきことが、語りたいことがあるはずだろうに。何故それを言えないのか。言わないのか。
「そうですね……」
文字通りの愚問だと決め付ける彼女と比して、少年は顎に手を当てて至極真面目に考える。
「……熱が、ありますね。……って、それは誰が見ても分かることですね」
困ったような笑みを浮かべて、少年はそう答える。
「すいません。芸術にはことさら門外漢でして。言えることは、それくらい。叩きつけるような、熱があるとしか」
「いえ」
少女は二度、首を振る。
「いいえ」
少女は三度、首を振る。
「そうね、そうですわね。熱が、ありますわね」
まるで浮かされるようだと、少女は頬に手を当てる。
不恰好な、一夜。
されど夢物語のような、一夜。
豪奢なれど落ち着いた、絢爛ではあっても決して派手ではない、貴族令嬢が着込む戦闘服を身に纏う少女、クレア・ティスエルは、ただこのひとときを心に刻むためにこの場にあった。
かくて、戯曲「四英雄譚物語」ここに開演。
王立劇場。
虚飾する言葉が余りに少ない、王都ベラティフイラに存在するその劇場はベラティフィラ国内にあって最も古く、権威あり、そして壮麗な芸術劇場であった。
しかして、それも当然。王立である。「王」が「立」てたのだから、「王国」においてそれを上回る規模の劇場を建てて、国が、王が、面白いはずもない。
人々は、貴族は商会は、それを避ける程度には王への尊崇の念を抱いていたし、それを許すほどベラティフィラという国は衰退してもいなかった。
建国祭の最中にあって、王立劇場の門前は混雑していた。馬車が闊歩し、装飾を施したドレスを身にまとった淑女が、礼服を着込んだ紳士にエスコートされては大口を開けた劇場入り口の門に吸い込まれては消えて行く。それが止むことなく、喧騒と相反して淡々と。誰も彼もが微笑みを湛えて、そうしていく。
その門前にて、一人の少年が眉を顰めていた。己の服を省みて、だ。
――分かってはいたけれど、どうにも浮いている。
ドレス、夜会服。あれはきっと貴族の執事だろう男が、燕尾服。見渡す限り、あるものと言えばそれだ。
そこにぽつんと一人だけ、道衣。
魔術師の正装……ではある。事実、貴族の家付が時たま王宮や魔術省に呼び出しを食らった際、公式の行事でない限りは道衣での出仕が許されているのも確か。
こういう権威に相応しい服というのを購入する、という選択肢があるにはあるのだが、多分、今回を除けば、生涯において二度と無い気がする。その服に袖を通すということは。
だというのにその一度だけのために貯蓄の大半を叩く、とは最早愚行ではなかろうかと、少年は、フェイト・カーミラは心の片隅で反論する。したところで、何ら意味などないのだけれども。
ああ、ほら。見てみるといい。門の片隅に立つあの厳めしい顔つきの門番を。相応しくない者は尽く跳ね除けて寄せ付けもしなさそうなあの顔を。こんな小枝のような細腕の少年など、簡単に首根っこを捕まえてぽいと放り投げてしまいそうではないか。
そして遠巻きに感じる、高級階級だろう人間たちの、訝しげな眼。
ふいと右に顔をやってみる。十代後半だろうか。少しばかり頬に無駄な肉がついた令嬢が顔をぱっと逸らした。
ついと左に顔をやってみる。三十代半ばのジョンブルめいた男が道端に犬の糞でも見つけたかのような視線を向けている。
そちらを見たまま、フェイトは深く溜め息を吐いた。
――まあ、どうとでもなれということで。
件の英国紳士然とした男が、その豊かな腹をぶるんと揺らし、肩を怒らせてこちらへ近づくより先に、フェイトは一歩を踏み出して、迫り来るそれよりも遥かに暴力慣れしていそうな門番に向かって歩き始める。
そして、案の定、その警備の男は余りに不釣合いな薄汚れた道衣を来た小鼠を見るなり、そのいかにも人を怒鳴りつけることに慣れたような眉を片方だけ釣り上げて。
少年を見過ごした。
フェイトの後ろでかすかに群集がざわめいた。一人の男が「なっ!?」と声を上げて門番に詰め寄り声を上げる。
――そう驚かないでもらいたい。
何故なら。
――私自身不思議なんですから。
同時に、「流石に行き届いた場所なのだな」とも思える。
門を通り過ぎれば庭園がある。それを行けば劇場入り口の大扉だ。
よく整備された石畳の上を歩いていけば、その道中、傍らにて声を掛けてくる一人の男。
「フェイト・カーミラ様ですね」
問いというよりかは、確認。
齢四十、あるいは五十くらいだろうか。年輪を感じさせる重厚な皺と、年季を感じさせる白髪に、質のいい燕尾服。ああ、これぞ真の「執事」なのだと一目で分かる、思わせる風貌の男。
「はい、そうですが」
「クレアお嬢様がお待ちです。こちらからどうぞ」
年の差にして三十、四十年若い、あるいは子や孫として扱われてもおかしくはない若輩にも、執事はきっかりと腰を九十度に曲げて礼をする。そしてフェイトはその言葉に申し訳なさを覚えた。
「待たせていますか」
「お気になさらず。お嬢様が楽しみのあまり逸っただけのことですので」
現時点で開演前四十五分。どうやらお嬢様はそれより早くに来ていたらしい。
フェイトは肩を竦めて、先導を始める執事の後ろを大人しくついて行った。
王立劇場は三階建てである。
一階部分は商家や裕福な庶民、あるいは懐が少しばかり寂しい貴族が利用し、二階部分は金のある貴族が利用する。三階部分は王族が利用する為に作られた……はずなのだが、そこからの観劇は傾斜の関係でかなり見にくい作りになってしまったようで、今は形骸化されており、急遽二階部分の一番豪奢な部屋を王族向けにしているそう。
劇場内を歩く道中、執事から説明を受けたフェイトは「これを建設した建築家は無事に生を全うしたのだろうか。そんなやらかしをして無事だったのだろうか」と意識を飛ばしてみたりもした。
フェイトが導かれる先は、当然のように二階部分だった。
腐っても、と言っては失礼だ。腐っていない家なのだから。ここは流石公爵家とでも言うべきか。それとも流石、でさえないのだろうか。無用の問答を内心でする。
そうする時間がある程度には劇場は広い。一階部分、と言ってもその高さは優に二階分はある。これでは階段一つ昇るにも苦労があるだろう、案外王族が三階を利用しないのはそこの煩わしさがあったのかもしれない。
舞台広間は吹き抜けらしい。貴族席、と言っていいだろう、二階部分にまで声は届くのだろうか。一般家屋にして四階部分である。さらには人が入り、客席部分のスペースもある。要らぬ心配を浮かべる。
一つの扉の前で、執事の足が止まった。
「こちらでお嬢様がお待ちです」
どうぞ、と扉の傍らに立って、執事は入室を促す。執事が扉を開かないのは入るタイミングを自身で計れるよう配慮したのだろうか。
柄にもなくフェイトは緊張を覚えた。扉の向こうで待ち受けているのは、何時も顔を突き合わせているクラスメートに違いないのに。
かといって、ただここでぼうっと突っ立っているわけにもいかない。一呼吸置いて、扉を開く。重厚な扉だ。内部の音を外に漏らさないよう配慮されているのだろう。それに準じて、重量もしっかりとある。
扉を開いて、中に入って、フェイトは一つ、息を呑んだ。
「御機嫌よう」
少女は、彼に向かって、ドレスをつまんで、瀟洒に礼をする。
似合わない、とは、到底、思えない。
むしろ、その逆で。
フェイトは、余りにも当たり前すぎる事実をただ反芻するのみだった。
そうだ、彼女は、クレア・ティスエルは、紛れもない公爵家令嬢なのだったと。
クレアの側に控えていたメイドが「失礼いたします」とフェイトに一声と一礼を掛けて音もなく退室しても、暫くの間彼は雷に打たれたかのように身動ぎをしなかった。常ならばそのメイドの顔を「どこかで見た気がする」と記憶域をひっくり返すはずの脳も、この時ばかりは機能を停止して。
身動ぎしない彼に対して、不安を覚えたのだろうクレアは、常日頃なら見せるはずもない行動を、スカートの膝上をぎゅっと握り締めて、何か粗相でもしてしまったのかと言わんばかりに顔色を伺うように。
「あの……フェイト・カーミラ?」
なにか、おかしいところがあるのかしら。
視線がそう、尋ねている。
「あ、いえ、そ、う、です、ね」
馬子にも衣装ですね。それは流石に失礼だ。
見違えるようですね。それも正直どうかと思う。
貴族なのだと思い出しました。これも無い。
美しいですよ。そんな言葉は歯が浮いて。
「え、えと。とて、も、似合って、いますよ」
顔を背けて、それだけをどうにか伝えることに成功する。
クレアはそれにはにかんで。
「……そう、それなら、良かった」
華が恥じらんだ。
半ば本心で、フェイトは目の前の彼女が一体誰なのか、自失していた。
「クレア・ティスエル?」
「はい」
「クレア・ティスエル」
「ええ」
二度、名前を呼ばれて彼女はきょとりとする。そのような表情も素振りも、日頃なら見せないだろうそれ。
だけれど、二度名を呼んで、二度とも肯定するのだからきっと彼女がそうなのだろう。
「……フェイト・カーミラ」
「はい?」
呼んだあと、呼ばれる。
「貴方はフェイト・カーミラ。そうでしょう?」
「……私はクレア・ティスエル。それだけのことでしょう?」
それだけのこと。
「そうですね」
そうだ。それだけのことだった。
互いに何が変わろうが、変わろうとしようが、彼女は彼女で、己は己だった。
「座りましょう? 時間はまだまだありますわ」
クレアは椅子を指し示す。
「そうですね。ええ、随分と、早くに来てしまった」
「仕方ないでしょう? 私はそれほどにこの日を楽しみにしていたのですから」
クレアのその素直な言葉に、フェイトはやはり、目を丸くしてしまう。
「それともう一つ。よく分かりましたね」
自身が身に纏う道衣の袖を抓んで、この姿のまま訪れるだろうことを予測して、それを門番に話しを通しておく手際の良さ。そのお陰で煩わしくなりそうな出来事を回避できたのだからありがたいことだが。
「それほど私は分かりやすい人間でしたかね」
「そうではないけれど。……そうね、少なくとも着るものに頓着はしないだろうということは思い浮かびましたわね」
煌びやかに着飾った、しかし服に着られていない、確実に着こなしているクレアに言われると、思わず紅顔に至ってしまう。
「気にすることはありませんわよ。むしろ、変に取り繕われても可笑しいでしょうし」
「……喜んでいいのか悪いのか、判断に困る言葉ですね、それは」
「あら、これでも褒めているのよ?」
少女が椅子に身を預ける。軋む音さえ聞こえない。彼女が軽いのか、それとも椅子の作りが良いのだろうか。答えはその両方だろう。
クレアは空いている隣の椅子をぽんぽんと柔らかく叩き、促す。
誘われるようにして、フェイトが座ると、二人の距離が先ほどよりも、ずっとずっと近づいて。
クレアは歌うように囁く。
「貴方らしいって」
クレアは歌うように呟く。
「だからこそ好きになったのかもしれないわ」
誰に聞かせるわけでもない言葉は、染みるように部屋に消えた。
「へぇ」
フェイトは観劇の途中、感嘆の声を上げた。
「順序、違うんですね。本とは」
「そうですわね。本の四英雄譚と、演劇の四英雄譚では、章立ての並びが違いますわ」
と言っても、変えるのはラウラス家主催くらいなものですけれど。そう補足するクレアに「そうなんですか」と返しながら、フェイトは関心する。
「何かの意図があるんですかね」
「そこまでは私も存じませんけれど」
「それは失礼。後で調べ……」
調べて?
「……いや、別にそこまでしなくてもいいか」
「あら? 意外ですわね。私の記憶に狂いがなければ、フェイト・カーミラ、貴方は四英雄譚に並々ならぬ執着をお持ちではなかったかしら?」
「ないですよ。そんなもの」
切って捨てた後、フェイトはしばし、黙し考える。そして己の中で明確に答えを成して、再度否定する。
「ないです。それはきっと……」
借り物の姿だ。
そう言う彼の横顔は、クレアにとって酷く感傷的に映って。
「……それは」
一体誰から借りたもの?
問いたい。だが、問うていいのか。問うべきなのか。やはりそこで二の足を踏む。
だが、しかし。この日だけは。この時だけは。終わり(・・・)にしようと決めてきた、この日だからこそ、クレアはただ一歩、踏み出す勇気を得ることが出来た。
「誰から借りたものなの? フェイト」
そしてもう一つ。聞きたくて聞きたくて、焦がれるように喉元を焼いていた言葉がまるでするりと、息を吐くように自然とついて出たのはきっと彼女の想いが成し遂げたものなのだろう。
「……貴方は」
喉がからからに渇く。吐いた言葉は飲み込めない。
分かっている。分かっていた。
だけど、それでも。此処まで来たのだから。此処までせり上がって来たのだから。尋ねてしまおう。そう思えた。
「一体、何処を見ていたの?」
「……一体、何をしたいの?」
少年は、舞台を見つめたまましばし黙する。
黙して、黙して、少女がその沈黙に耐え切れなくなるその刹那に、一つ息を吐いて、語り始める。
「そう……ですね」
昔語りを。
「或る少年の話をしましょうか。一人の馬鹿な少年と……もう一人は……ああ、こちらもきっと、馬鹿な少年です」
馬鹿が二人だと、フェイトはくつくつと笑った。
そんな彼に、クレアは少しだけ困惑の色を見せる。嗜虐的な笑みが僅かに混じり、同じくらい自虐的で、諧謔的なその笑いに。
「昔々あるところに、一人の少年がおりました。その少年の夢は、英雄。夢物語に出たような」
フェイトは一人の人間をすっと指差して。
「英雄でした」
名も知らぬ役者。
彼が演じるのはフデッカ。剣士フデッカ
「英雄たらんとして。英雄になろうとして」
言葉に詰まる。
何と言おうか。どう例えようか。幾ら考えたところで腑に落ちる言葉はなく。ならばいっそ、思うが侭に語ってしまえば、それこそ正なのではと思い至って。
「愚かにも、殺されてしまった、嗚呼」
なろうとした。なろうとして。なれずに終わった。だけれども。彼は、アモルは、フェイトにとって。少なくとも、フェイト・カーミラにとっては純然たる。
「しかし彼はきっと、どうしようもなく、英雄、でした」
アモル本人の前では決して吐くことのない言葉だけれど。絶対に、アモル本人に聞かせることのない言葉だけれど。
いいじゃないか。今日くらいは。いっそ。
語るつもりのない話を吐露するに足る、そんな夜だから。
祭りの雰囲気に当てられて、酔ってしまいそうな夜だから、宵に耽る、夜だから。
「少なくとも、私にとっては。あの一瞬だけは。『亡者』に斬りかかった彼のその姿は、そう見えたから」
……おおよそ、信じられるはずもない語り。
子供が「諸侯」に立ち向かい、殺され、呪われる。荒唐無稽なその騙り。
けれども、彼女は。クレアは。その語りを騙りとせず。
その全てを。
「そう……だったのですね」
信じる。
「だから貴方は、そうだったのですね」
信じた。
それは打ち明けたフェイトさえ予想していない事態で、目を丸くしていた。
「……いや、まさか、本当にそのまま信じてもらえるとは」
思わなかった。フェトは口中でそう持て余す。
「いえ、事実です。確かに私が今語ったことは全て真実。ですが」
「余りに荒唐無稽?」
クレアが繋いだ言葉に、フェイトはただ頷く。
「物証……と言っていいものか。それらしい証拠はあるんですよ。少なくともそれを見せないことには、到底信じてもらえないようなお話なので」
フェイトは言いながら、己の胸元を右の指先で二度、三度と叩いた。
そこには確かにある。しっかりと刻まれた「騎士公」アルゴルとの契約の証が。心の臓にまで巻き付く黒薔薇の茨が、今も脈打つ鼓動に合わせて、フェイトを苛み続けている。
見せずに済むなら、それでいい。
フェイトはそう考える……のだが。
「……」
胸元に注がれる視線が、やたらに熱い。
「……見ます、か?」
「……いいえまさかそんな。ですがまあ、貴方が見せたいというのならやぶさかでもないのだけれど」
思わず苦笑する。
誰にも、それこそ両親にさえ見せたことのない漆黒の呪いだ。終わらぬ夜を凝固させたような不安の具象だ。だけれども、もう、いいかな、と思える。隠す必要も最早無いと。
「そうですね。じゃあ、見せたい、ということで」
「ん、んん! そう、なのね。なら、仕方ないわね」
咳払いをして、クレアは居住まいを正す。両手を握り固めて、膝上に乗せて仰々しく。肩に入った力が見て取れた。
苦笑いを浮かべたままに、フェイトは道衣を脱ぎ始める。中はズボンと麻で編まれた長袖の肌着だ。
顎を上げて、首元を指で下に伸ばす。
隙間から覗けばそこには黒い騎馬と、それを囲み飾るように黒薔薇の意匠が施された刺青のような紋様が印されている。
焼印ともまた違う、皮膚と混ざり合ったようなその徴。
それが齎された経緯や、その意味を除いてしまえば、単純にその呪印は美しいものだった。一角の芸術家が作り上げたような造形美を抱いていた。
「……」
だが、クレアからすれば、少女からすれば、それは確かに美しくも忌まわしいものなのだろうけれど、それ以上に。
この状況が倒錯に過ぎて。服の隙間から肌を覗くというこの事態が。眼下では多くの人々が演劇に夢中になっている只中、閉ざされた空間で秘されたところをまじまじと見るというこの異常が。
「……白いの、ですわね」
肌が。
「いや黒ですけど」
呪印は。
噛み合わぬ会話がそこにはあった。
天井に向けた視界をちらと下に落とす。すぐ近くにあるクレアの顔。金糸の髪からは甘い匂いが香りそうなくらい側にあって、彼女の顔は熟れた林檎よりもなお赤く染まっていて。
女の子が、いた。
どうしようもなく、女の子がいたのだ。
フェイトは胸元をそっと戻し、膝の上に畳んで置いてあった道衣を着直した。
「多分きっと」
何を言おうとしているのか、フェイト自身分からなかった。
「今の私と、数日前までの私は別人なんだと思います」
ただ、告げなければいけない気がして。
「死んでいた。……そう、死んで、いたんです。……生きていなかった」
だから、そう、だからきっと貴方の想いは勘違いなのだと、一時の過ちなのだと伝えたくて。
「別人、なんですよ。きっと、もう」
そう言って、フェイトは笑った。
溶けるような笑みだった。
溶けて消えてしまいそうな笑みだった。
差し伸べた手のひらに触れては消える、雪のように儚いものだった。
――嗚呼。
これは、ダメだ。
彼の言わんとすることは分かった。
だけれど、一つだけ彼が気付かぬ誤算があるとするならば。
――その笑みは、駄目よ。反則だわ。
別人であるはずの「彼」が浮かべたその笑みは、今まで少女が見てきた彼の笑みの中で、最も魅力的に映っていることだった。
中等魔術学校入学当初から、おかしな生徒がいるという噂は耳にしていた。
生徒の名はフェイト・カーミラ。魔術師でありながら、魔術をもって近接戦闘に精を出し、才能を自ら溝に捨てている数寄者愚か者。
当初は、興味本位だった。変わり者の生徒とは一体どのようなものなのかと。どれほど偏屈な人間なのだろう、確かめてやろうと考えただけだ。
一目見れば満足するのが分かりきった、珍味を試しに齧ってみるような気軽さで、少女は彼に触れてみた。
彼は、どこかを見ていた。果てのない、あるいは当てのない何かを。一体何を見ているのか。何を見ようとしているのか。時折見せるその瞳の深奥に潜む虚無は、なんなのか。興味は無くなるどころか、増してしまった。
そうだ。入り口はそこだった。何に惹かれたかと問われれば、ふと見せる影のある横顔だったと少女は述懐し、そして自虐する。これではまるで、恋に恋する乙女ではないかと。
そしてそれを否定する材料さえなく。気付けば彼を目で追って、立ちふさがって、かまって欲しくて、一体何を見つめているのか答えて欲しくて。
間違ってはいない。虚無を見つめ、陰に憂う少年はもう何処にも居ない。何処か空虚な笑みを、人を寄せ付けない堀のような笑みを浮かべていた少年は消えていなくなった。
だけれど、今彼が浮かべる笑みは。
死を見つめていたその時よりも。
ずっとずっと、何倍も、何十倍も、少女にとってきらめいて見えた。