第三十話
炎舞い、雹礫乱れ、土躍る。
現界するは、魔道交錯する綺羅めいた夜。
人知れず始まり、人知れず終わる筈だった彼らの夜を、しかしはっきりと、歴史というものは、観測者というものは、その眼でじっと見つめていた。その事象を、余すことなく。
「ひぇっひぇっ」
老人の笑声が、小さく木霊する。彼らに届くわけもなく、ただその空割れた響きを耳にするのは老人の傍らにて傅く一匹の犬と、「蜘蛛印」の望眼鏡――彼はそれを遠見筒と呼んでいた――を片目で覗く一人の詩人だけだった。
「素晴らしいとは思いませんか」
詩人が舞台から目を離さぬままに、独白めいた言を紡ぐ。老人はもう一度だけ笑い、背負った木に身体を預けて瓶の葡萄酒を自ら生み出した炎でもって遠く炙った。
詩人、ノルビス・ラウラス。老人、キストゥス・アルビドゥス。その飼い犬、クゥルゥ。
魔術飛び交う鉄火場から遠くはなれた林にて、彼らはひっそりと呼気を吐いていた。じっと、ずっと、見世物を眺めつつ。
「素晴らしいのう」
キストゥスは暖めたワインを手酌で注ぎ、その芳醇な薫りを鼻腔一杯に堪能しながらのたまった。その抜けた語調にノルビスも気付いたのだろう。遠見筒から目を外して、振り返り老人を見る。
「アルビドゥス殿、さては聞いてはおりませんね」
「ひぇっ、ひぇっ。正ぇ解」
悪びれもせず、キストゥスは笑う。
「ジジイには些か遠すぎるわ。そらあ、見れぬよ。見れぬものは、見れぬ」
「遠見筒、交互に使えばよろしいでしょう。貴方は先ほどに一度触れてからそれっきりだ」
「おお、それなぁ。面白い道具じゃ。うむ。欲しい」
「……御入用でしたら是非ともラウラス商会にお声掛け下さい」
「いんや、止めておこう。高い買い物になりそうじゃからの」
ノルビスは口の中で嘆息を噛み砕く。出来ることならば紛うことなき魔術の大家である彼、キストゥスに、あの場で行われている魔術合戦について詳らかに解説をしてもらいたいところだったのだが、どうやら当人にその気は一切存在せず、老人の関心は雪月を肴に酒を飲むことに針が振れているらしい。
せめて今まさに現在進行形で水嵩を減らしている葡萄酒の代金分くらいは勘案して欲しいのだが、どうやらキストゥスからすればノルビスをここまで連れてきたことだけで酒代は支払ったと見做している様子。
「どうやら男子の方が魔術を真っ当な形に戻したようです。……些か遅きに失したように思えますが」
「そのようじゃのう。まっこと、愉快な童よ」
「は? いや、あの、見えぬのではないのですか」
キストゥスは酒を舐めて、舌をたっぷりと湿らせてから答えた。
「見えぬが、分かる。視るに遠いが感ずるに近い。解かるよ、世界魔力の揺らぎが変わったからのう」
「およそ人界において、儂ほど『鼻』が利く者はそうそうおらんよ」
魔術の腕よりも余程そちらの方こそ自負がある。
亜妖を自称する魔なる人は、そう言ってまた、深く酒を煽った。
そして僅かに、眉を上げた。
「童。……詩人」
「は、何か」
「既にそうじゃが、より増すぞ」
要領を得ない、迂遠な言葉にノルビスは疑問符を浮かべる。
「奇っ怪な夜よ。けったいな夜よ。魔導を引き摺って来おったわ」
「一人、また増えるぞ。戯作よな。下作よな」
老人は笑う。空虚な笑みを浮かべ続ける。
男はまず、名を覚えた。全員のだ。そうすべきだと思ったから。
そも、まともな人間ならばその命を受けた時点で幾らなんでも、と断りの言葉を漏らしていただろう。それが一体誰に向けてのものなのか、それすらも刹那脳裏から零れ落ちて。漏らしてから初めて失言だったと気付き、顔を青くして前言を撤回しようとする。それが通常の反応というものだ。魔導の頂点、その魔術省を離れ中等学校へ迎え、などと言われた日には、誰もがそうしてしかるべきはずだった。……その男を除いては。
男にとって、その命令を下した相手は絶対的な上位者であり、過ちという概念を持たぬ存在であると決め付けていた。「彼女が言うのならば、そうなのだろう」と。際限の無い肯定。彼女が「空は赤で鴉は白なのだ」と告げたならば、男はやはり、迷い無く頷くはずだ。彼女が言うのならば、そうなのだろうと。
教師になれ。
男はそう言われた。彼女から言われたのだ。ならそうするのが正しいのだろう。それにより自身が魔術省の同期、魔術研究の最先端から離れ、教育者に転身する。それによって仲間たちとの間で技量の差が生ずるとしてもやはり彼女が言うのならば必要なことで、同時に彼女がそれを求めているのならば些事でもあった。
故に男はまず生徒たちの名前を覚えた。魔術省大臣、リジエラから言われたのは「教師になれ」だ。教師とは何をするものか。男は脳内で解を求め弄び、やがてそれは生徒を教え導くものだと辿り着いた。ならば、生徒全員の名をすべからく覚えていてしかるべきだ。出向までの間に、生徒全員の情報を集め、整え、その尽くを脳内に叩き込む。赴任初日にして、男は……シアナ・セントリウスは、全校生徒の特徴と名を一致させていた。
リジエラからの言葉に「裏」を感じ取ったのに間違いは無い。だが魔術省の人間は大まかに二つに分けられる。一つはリジエラの言葉の裏を勘案し、それを為そうとする者。一つは裏の意思があるのではないか、と考えながらもただ述べられたことだけを忠実に為そうとする者。そしてシアナ・セントリウスはまず間違いなく後者の人間だった。
宰相閣下が「愛し子」を保護している。それは魔術省においては公然の噂であり、しかしリジエラからの明確な報告が無い以上あくまで噂でしかなく。それでも噂でしかないそれを信じるならば、その愛し子が中等学校に入学するのならばこの年なのではないかと考えられていたのもまた事実。
裏は、それだった。その……少年か少女かは分からないが、その子の目付け。
言われずとも、言われずとも。
同期のあれならばそう言うだろうと、シアナは思う。だが自身は決してあれでもなく彼でもなく。疑いようのない「後者」なのは自分自身で理解している。……ならばそれこそ大臣閣下も理解していてしかるべきである。
つまるところ、目付けを任せるのならば、リジエラは決してシアナに命じない。正確には「頼まれた」のだが、シアナからすればリジエラは決して「頼んではいけない存在」だ。頭の中ではリジエラのお願いは彼にとって至極都合のいい形に変形していた。兎角、シアナには命じるはずがない。彼はリジエラの言葉を言葉通りにそのまま為す人間である。そうであろうとしている。そしてそのことはリジエラも知っているわけであって、わざわざ彼女がシアナに託けるということは、「裏を為すな」ということだろう。言葉通り受け取る人間を選び、「命じた」のだから。
だからそう、シアナ・セントリウスは教師であった。確かに愛し子は学内にいた。確かに中等学校に籍を置いたのは同時だった。しかし、そのことにシアナは一切の感慨を抱くことはなく。ただ教師であろうとした。
教師とはなんぞや。それは教え導くものだ。ならばシアナ・セントリウスという存在は、その知恵を、智慧を、出来うる限り学生たちに伝えることが肝要だ。
なんだ。易いのではないか。
シアナはそんな言葉を脳裏に浮かべた。
事実、彼からすれば容易な仕事のはずだった。……一人の生徒の暴走、と言っていいだろう行為さえなければ。クレア・ティスエル、彼女が巷を騒がせる殺人鬼騒動に首を突っ込みさえしなければ。
風色の小鳥が羽ばたいた。音もなく。涼やかに。
銀月の真下、暗闇の只中、囀りもせず、深々と、静々と、楚々として。
小鳥に導かれるように。……いや、事実その小鳥に導かれて、男はゆっくりと、しかし着実に歩を進めていた。幻想に塗れた、この死地に。
異変。異変と言っていい。男の接近というその事象にいち早く気付いた……ように見えるのは、土人形に弄ばれていたフェイト・カーミラだった。
視線は一切土人形から外していない。外せるはずもない。玩弄され続けている今現在の押し付けられた拮抗は、フェイトが全霊を持って立ち向かい続けるという一方的な傲慢に応え続けて初めて成り立つものであって。其処に他方へ向ける一切の余力は無く、当然後方を、王都へ続く道を望むべくもない。
だがそれでも分かる。分かった。後ろから刻一刻と近づいてくる、おぞましいほど整然と渦を巻く世界魔力の列。一切の無駄がなく、乱れもない。命ぜられるがままに世界魔力は形を為し、その何者かの意のままに世界魔力を暴を成すのだろうことが、人一倍魔力感知に優るフェイトは六感で感知した。
眼前の土人形が混沌から生づる力ならば、後方より至る何者は理から紡がれる力だ。どっちにしたって、今のフェイトも、クレアにしても、その二つに挟まれて、暴力をぶつけられて、無事でいられるのはあり得ない。
土人形も、気付いてはいるはずだ。再び起きた第三者の介入に。フェイトと向き合っているのだから、視界の中にはどうしたって入るはず。だというのに、まるで頓着した様子を見せないのは……。
ああ、いや。見せるはずもないか。土人形の表情は変わらない。ただ突き抜けた美をかざしたまま、心胆震え上がらせる微笑を湛えるだけだ。嗚呼、彼女からすれば、ソレが敵であろうと味方であろうと大した問題にはならないということか。
しかし、出来るならば、願うならば、やがて来る何者かが、少なくともクレアだけでも逃がす手助けをしてくれれば良いのだろうけど。
今にも倒れそうな無酸素の中、フェイトは純粋にそれだけを願い、果たしてそれは。
「大地よ。凍れ」
紛うことなき現実として、姿を現した。
声と同時に、肩を一度叩かれた。
少女、クレア・ティスエルは悲鳴こそ漏らさなかったものの、びくんと全身を強く震わせ、その犯人へ振り向く。
空虚な眼、木工人形のような無反応なその表情。常日頃見ていたものと変わらぬそれが少女の頭一つ二つ分上にある。
最後の一枚だ。
クレア・ティスエルが場に伏せていた、最後の鬼札がそこにはあった。この鬼札が生きるかどうか、意味を持つかどうか、半々の賭けではあったが、クレアはその、賭けに勝った。
ばきん。
割れるような、爆ぜるような音が響いた。
思わず耳を塞ぎたくなるような破壊音。それが齎すのは、それを齎すのは、鬼札が唱えた真言そのものの発動。
そう、文字通りに。
大地は、凍った。
土人形を巻き込んで。
土人形だけを巻き込んで。
「言いたいことは、幾つかある」
土人形の足が凍る。
「特に、クレア・ティスエル。君には」
――いけない。
侵食してくる氷から逃れるように、土人形は抗う。
「だが、後にしよう」
ぼきり。
……いや、ぼごり? 自身の前で鈍く響く音を、どう言語化しよう。呆気に取られるフェイトは頭の中で、そんなことを考えていた。
響く音の源は、土人形の、足からだ。
「全てはあれを封じてから」
土人形は、凍る大地に巻き込まれていた。地につけていた足からだ。それに彼女は抗おうとした。逆らおうとした。力任せに足を持ち上げようとした。
音の正体は、それだ。
氷に囚われた両の足を、その束縛から解き放つため持ち上げる。ただ、それだけだ。至極真っ当なこととして、そうした。そして、至極真っ当な結果として。
土人形の両足が、へし折れた。
墜落していく。あれほど頑強であった土人形が、ことも無く墜落していく。僅か一メートルと少しの転落。距離にすれば他愛のないそれは同時に天と獄を分け断って余りある距離。これ以上ないほど明確に彼女の敗北を示す証となる。
地に伏した。
魔人めいた暴威を振るっていた土人形が、いとも容易く、地を舐める。
「成程、強いのだろう」
感情の乗らぬ声に、どの口が言うか、とフェイトはやりどころのない遣る瀬無さを抱く。
余りにあっけない、簡略に過ぎるこの結末。今この瞬間も、土人形は積み重なっていく氷にその身を虜囚と窶していて。
「だが、君は余りに遠すぎて、私は十分に遠かった。……もしも、彼我の距離が逆しまだったのなら、結末もまた、そうなっていただろう」
最早、足掻くことさえなくなった土人形は、まるで標本箱の蝶のように大地に貼り付けにされていて。
「……退きなさい」
その言葉は、土人形その術者ではなく、己に向けられていると気付いたフェイトは異常と捉え、天を仰ぐ。
其処には。
「氷槌よ」
標本の蝶を飾るに欠けた最後の一つとして。
「砕け」
ピン代わりの、特大の氷塊がそこにある。
重力に沿って、氷が風を切り、風が唸る。一歩、二歩、三歩。フェイトは圧されて、後ずさる。
この日一番の音が、響いた。
シアナ・セントリウス。
男は決して化物ではなく、異才ではなく。
しかし、ただこの一言だけで彼を表すに足りる。
リジエラより命ぜられるより前、つい先日まで彼は。「魔術省職員」であった。
眩暈がする。くらくらと。
原因は考えたくない。一種の現実逃避だ。これまでしていたものと似て非なる、現実逃避というやつだった。
フェイトは全身から力を抜き、その場にへたりと座り込んだ。道衣越しに尻が雪でひやりと冷えたが、知ったことかと投げ打った。
解き放たれたと言っていいものか。新たに荷物を背負い込んだとしていいものか。よく分からない感情と感傷を抱いていたが、気分としては中々どうして悪くは無い。
月を仰ぐ。ぬるりとした感触が鼻の下を伸びていく。右手の甲で擦ると、べとりと赤黒い血が絵の具のようにこびりついた。
何時か鼻をやられたかと思い返すが、どうやらその記憶はない。単なる鼻血だ。無理をしたものなぁと自分自身でも我が身に呆れる。
ぱん。
乾いた音がする。これまでのものと比べれば随分と穏当なものだし、大方の予想はつくから無視しても良かったが、なんとはなしにフェイトは音がする方へ振り返る。
金糸の少女の頬がやたらに赤い。霜焼けというには熟れすぎた赤だ。
そしてもう一度、音が響く。これで両頬とも仲良く熟れた赤。……クレアは二度、頬を叩かれた。叩いた相手は言うまでもなく、「教師」だ。
クレアはじっと、シアナを見る。
睨んでもいない。恨んでもいない。怒ってもいない。その瞳はただその叱責を受けいれている。
そうだろうなと、フェイトはそれを何処か遠くから眺めていた。それは、そうだ。今回のクレアの行いは、あまりにも他者を巻き込みすぎていて、そして同時に無謀がすぎた。
分かっているからこそ、彼女はただ何もせず受け止めている。シアナは意志が灯るクレアのその碧眼を覗き込みながら、言った。
「反論は」
「ありませんわ。何一つ」
支払う代償にしては随分安いものだな、とは思ったけれど、それを言ったところで何になることでもない。その決着はクレア自身が手前で背負って手前で答えを見つけるべきものだろうと考えて、フェイトは肩を竦めた。
……ああ、それよりも、だ。それどころではない、のだ。数年ぶりに真っ当な魔術の行使。それがこれほどまで己の身を蝕むか。
思いがけぬ自身の貧弱さを呪いながら、フェイトはそのまま、気を失った。
彼女は視る。視ていた。氷蓋に包まれながら、その最期のひと時まで。
成程、この土くれは貧弱だった。こんなちっぽけな氷一つさえ弾けないなんて。だが、まあ、一応は褒めておこうと内心で二度拍手を打って、最後の男を視やる。
王都より此処まで、男は延々と魔術を編んできた。その結論が、今まさに粉々に砕けようとしている己が分身なのだろう。そこまで入念に編み上げられた網に捕らえられるのなら、やぶさかではない。
この氷は逃れようとその場から跳ねても無駄だったろうなと切り捨てた将来を予想する。空中に跳ねたところで、後を追う様に地面を覆う氷から幾重にも鋭い氷柱が生えるだろうことが理解できる。
術理というものを、彼女は生まれながらにして理解することが出来た。故に、辿り着き、思う。
視界が閉ざされる今際の時、彼女は自身が手を掛けた男を見る。まるで救いを得たかのような表情のまま、しかし白く濁った瞳だけは無念を表すその表情。
次いで、男を見る。能面のような顔をした男だ。およそ感情の機微というものを母の胎の中に忘れてきたような顔の男だ。男は金糸の少女の肩に手を置いている。
そして最後に、彼女は空を視る。
羽ばたく……いや、今はそれさえもしていない。風色の鳥が空に浮かんだまま小枝にて羽を休めているかのごとく浮いている。寄る辺もないはずなのに。ただ一羽、ふわふわと。
その小鳥を視て、彼女は笑う。
誰にも届かない言葉を口にする。
「ええ」
全くもって、想定の範疇に収まったのだけれど、それでもやはり、こう言わざるを得ない。
「所詮この程度ってわけね」
嘲る声が虚空を泳ぐ。
まるでそのさまは、彼女たちそのものを示してさえいて。