第二十九話
退け。
退け。
退け。
フェイト・カーミラの脳内に反響し続けるその言葉。怨々と鳴る、延々と為るその言葉に、絡まれ、囚われ、やがてそうしたくなる、それに至りたくなる、極めて蠱惑的な誘いの文句。
理性か、本能か。フェイトの脳裏を焦がし蕩かすその声音は、鉄の意志によるものか滾る情動によるものか。
正か負か。善か悪か。全か無か。定かではなく、定かではなく。
従いたくなる、艶があった。
従ってはならぬという、媚があった。
正しくもなく、そして同時に正しくもある。
分からない、分からない、分からない。
退いて何になる。退かねばならぬ。どちらもそうだ。ああ、どちらの理屈も分かる。退くべき理由がある。退いてはならない訳もある。
だからもう、二進も三進も、どうにもこうにもならないのだろうと、フェイトはただ立っていた。依るべき標をなくしたかのように。孤高の荒野に一人立ち尽くしやがて果てるように。
一人。
独り。
孤り。
――だから。
――きっと。
――それは。
ひとり。
『ほうら、見ろよ』
ひとり。
『もうどうしようもねえなこりゃ。だと思わねえか』
うしろに。
『いや、思ってるから俺がいるんだよな。分かる。分かるぜ。なんたって俺は、そう』
立って。
『お前だから』
いた。
木々がざわめく、音がする。
幻聴だ。幻聴だった。
『彼』が出づると、いつもそうだ。いつも木陰さんざめく音を伴う。そういう人だ。そういうものだった。
振り向かない。振り向けない。
フェイトは思う。フェイトは留まる。時間軸が「今」に固定されたかのようだから。見せる顔が未だない、そう考えてもいるから。だから動けない。動かない。許されていないし、許しもしていない。
だから視界は、ただ前だけを見つめている。
『あァ……』
『彼』はきっと、七割ほど馬鹿にしたような表情で、ただ、残りの三割はこちらを慮るような色を隠して、右手で頭でも搔いているのだろう。きっと、そうだ。必ず、そうだ。
『まあ、いいや。今更だな』
そしてきっと、全て面倒になって、不都合な都合を、矛盾した矛盾を、幾重にも絡まるゴルディオスの結び目を、ただ一刀に断ち切らんとするだけだろう。
『ほら、此処だよ。こっちだよ。退け、退け。こっちだこっち』
ぱん、ぱんと、拍手が鳴る音がする。鬼さんこちら、手の鳴る方へ。童がそうするような、子供の手遊びめいた軽さでもって。
「退けるわけ、ないでしょう」
フェイトは言う。言葉にならぬが、言う。そして通じる。そういうものだ。そういう狭間だ。今、この時は。きっとそういうものだ。
「退いて、何になりますか。退いて、永らえますか。この状況で。クロッカスさんも、ザンツさんも斃れている。逃げて、追われて、縋られて、終わる。……もう、そういうところだ。既に、そこまで行き着いた」
『いや、そりゃそうだろ。馬鹿にしてんのか。あァ? 一目見りゃ俺だって分かるわバァカ。誰にだって分かるわバァカ』
嘲笑う。……いや、怒りの表情なのだろうか。「彼」の語調は。
『死ぬわけだよ、今から、まさに、きっとな。終わり、おしまい、閉幕、終焉。なんだっていい。好きな言葉を選べよ。どうせ中身は変わらない』
『だから、最後の最期に、こうして俺が出てきたワケ。今から俺は』
ああ、きっと「彼」は。きっと「彼」ならば。この時に。
『お前の矛盾を、逸らし続けていたものを、お前という人間の本質を』
首を掻き切る仕草を見せて、言うのだろうなと。フェイトは思い。
『覚悟しとけよ』
そしてその通りに、「彼」はフェイトの視界に入らない場所にありながらも、首を掻き切るジェスチャーを交えながら、その有様をフェイトの頭蓋に叩き込んだ。
紛れもなく、背後には「彼」がいる。「自分」が。「願望」が。
かくてこれよりしばしの「独り語り」。語るも一人、聴くも一人。語る人も、聴く人も同じ。一人が語り、一人が聴く。己が語り、己が聴く。
まるで意味の無い道化の芝居。
三文にさえ劣る、無銭の芝居。
語るに落ちるとはまさにこのこと。いやさ果たして既に落ちていたのやも。そこから引き上がるためだけに、この夜が用意されていたとしたら?
なればそれこそ定めと言えよう。
故にこの夜を今一度、こう括ろう。
――再開は、この夜――
『さて、まず何から始めようかな』
『……そうだな。そもそも論から始めるとするか』
少年は自身に指をさす。
『そもそもだ。フェイト。そもそも、お前は、何故、此処にいる?』
何故って……。
『だってそうだろう? 別にお前はこんな死地にいなくていいはずだ』
……いや、そんなはずはない。
『いいや、そんなはずあるね。普通に考えたらそうだろう? こんな殺人鬼騒動、お前からすれば蚊帳の外の話だ』
『お前の立場を考えてみろ。ベラティフィラ中等魔術学校生徒の落ちこぼれ、あるいは変わり者。才能は……まあそこそこはあるんだろうけど、自ら意図してそれに水をやらずに腐らせようとしている愚か者。将来の進路は? 当然、在野に下って冒険者。何か相違点は?』
……ない。
『なぁ? そうだろ? 今のお前を言葉で区切ればただの間抜けだ。中々いない馬鹿。ぶっちゃけどうでもいい存在だわ。芥にもならねえ。……おう、そんなお前が、どうして殺人鬼と関わることになる? お前みたいな馬鹿、分不相応な身分を手にするわけでもなく、どっか人っこ一人いねえ辺境で適当に野垂れ死ぬのが精々だ』
『到底お偉くなんてなんねえよな。なれねえよな。栄達とは真逆の人生だ。そうそういないが、同時に何処にでも居る阿呆だ。両立しなさそうで両立できる、捻じ曲がった馬鹿だ。まかり間違っても、分不相応な魔術師を狙う殺人鬼、ってのと関わりを持つ道程じゃあない』
……ええ、かも、しれない。だけど! だけど! ある! 狙われる理由が! 君が言うところの、「分不相応な身分」が! 確かに! 私には!
『なんでだ?』
……な、んで、って。
『なんでそんなもん貰った。お前が言うところの分不相応。勲功爵だろ? どうして、お前が、それを、受け取る、必要が、あった』
『いらねえだろ。余計な重荷だ。首からぶら下げてるとタチの悪い狐に首ごと持ってイかれるって分かりきってたモンだろう』
そ、れ、は。
『逸らすなよ。目を。俺は今からお前を徹底的に……なんだ。徹底的に、何しようってんだろうな。……そうだな。ああ』
『直してやろうって思ってんだから』
『まず、矛盾の一つだ。お前が今まで見て見ぬふりしてたとんでもねえ矛盾。大穴。よく目の前にこんなもんこしらえて今まで無視出来てたな。脳みそ腐ってんじゃねえかなって思うよ』
『アルゴル。あいつに殺されるまで死んではならないお前が、自ら死に近づくという矛盾』
息が、詰まる。
『さて、次行こうか。こっちは随分簡単だな。』
『お前、アルゴルを殺す気、ないだろ?』
……。
『いや、そもそも殺せるとも思ってないよな。まあ、分かる。分かるぜ。文字通りの化物だからな。俺はそれを実感する前に殺されちまったわけだけど』
『こう、サクっと。サクっとな』
……やめて。
『腹のど真ん中に風穴空けてよ。いっそ人じゃなくなるくらいの穴空けて、随分風通りが良くなってたもんな。まさに、あの時、あの瞬間、人じゃなくなったんだもんな、俺は。人から、死人だ。転げ落ちるってのは、多分、ああいうのを言うんだろうな』
聞きたく、ないから、やめて。
『あの瞬間にはお前の頭にかっと血が昇ってさ、いっそ清々しいほど無謀な行動に出たなぁ。今振り返っても、どうかしてた。……これに関しては、人のこと言えたもんでも、ない、か』
『そう、どうかしてたんだよな。お前も。息巻いて殺してやる殺してやるって、あの時なら都合良く、調子良く言えるけどよ。さぁっと血の気が頭から引いて。自分自身を取り戻して。それからあの夜を、あの死神を、あの化物を、あの冷酷を、あの絶望を、あの、死の、気配って奴を』
『思い出しちまったら、もう、たまらない』
『勝てるか? あれに。勝てるわけないだろう、あれに。だけどさ、それに気付いちまったら、もうお仕舞いだろ? つまりはこういうこと』
『お前は、二十年後、無惨に、無様に、何も出来ず、何も為せず、何も成さず、無益に死ぬ。殺される。ただそれを待て。一日一日、一分一秒ずつ、それを待ち続けろ』
……ああ。
『……ああ』
……それは。
『なんて』
地獄
『地獄』
笑ってしまうような。
『狂ってしまうような』
滑稽な。
『最悪な』
『地獄だ。まさに』
『そりゃあ、目も逸らすよな。最初から諦めてるだなんて。生を既に捨てているなんて。そんなこと、言えるはずもない。精一杯、戦っているんだって取り繕って。それで騙す相手は誰でもない』
……自分、だ。
『立派な矛盾だ。騙し絵みたいな矛盾だ。なあ? 一体どんな想いなんだ? 頭の中では殺そう殺そうと一応は考えて、その実上っ面に過ぎない文句が上滑りしてるってのは。それに必死に気付かないふりを決め込んで、無理矢理にでも抑え込んで』
『死ぬぜ』
そうだね。
『死ぬぜ』
きっとね。
『殺されるぜ』
確実にね。
……だけど、唯一反論があるとしたら。これが一番角が立たないことだってことを忘れないで欲しい。
死ぬなら一人でいいじゃないか。
私一人が粛々とその泥を飲み込んで、あの髑髏に殺されてしまえば。少なくとも祖父たちは救われる。
……贄。そうだね。その言葉に間違いはない。生贄なんだろう、私は。それ以上でもなく、それ以下でもなく。ただあの騎士公に頂かれるだけの供物。認めよう。認めて生きていけば。救われる。
『違うね』
……。
……いや、違わないだろう。それは。
『いいや。違うね。今のお前は生贄なんだろう。それは確かに、正しい。だけど、違うのはさ』
『認めて死んでいけば、救われぬ』
誰、が。
『無論、俺が』
果たして自分は、一体何がしたかったのだろうか。足元が闇に呑まれていくかのような感覚を覚えながら、フェイトは自身の頭上で考える。思考だけがまるで自意識から切り離されて俯瞰で視る感覚。
死にたかったのだろうか。生きたかったのだろうか。殺したかったのだろうか。殺されたかったのだろうか。許されたかったのだろうか。許したくなかったのだろうか。怒りたかったのだろうか。悲しみたかったのだろうか。救いたかったのだろうか。救われたかったのだろうか。
……それらは全て、どちらかを立てればどちらかが立たぬものなのだろうか。
『死にたい?』
まさか。
『生きたい』
出来れば。
『殺したい?』
この先は。
『殺されたい』
あの時は。
『許されたい?』
多分。
『許したい』
望むなら。
『怒りたい?』
ああ。
『悲しみたい』
……ああ。
『救いたい?』
救えるのなら。
『救われたい』
叶うなら。
そう。救えるのならば、救いたい。叶うのならば、救われたい。
嗚呼。なんだ。簡単だ。たったそれだけのことだった。たったそれだけのことを直視出来ずに、フェイト・カーミラは此処まで辿り着いてしまった。
『……ひょっとして。これが俺の思い上がりじゃないのだとしたら。お前がそう、救いたいと思うことは、もしかして俺のせいなんじゃないかって、そう、笑っても、いいか?』
……それは全く。とんだ。
『とんだ?』
思いあがりだよ。アモル。
愚か者の、アモル。
『……はっは。そうかい。そうかよ。思いあがりのフェイト』
誰だってそうさ。余程の悪徳ではない限り、人を救うに惑うことはない。それが知人友人なら尚更だ。身を削ることがどれほど出来るか、それそのものには個人差はあるだろうけれど。
『だとしたら、お前の身体はよく削れるのかもしれない』
かもしれない。そうだといいね。そうだといいさ。それでもいいよ。
ああ、すっきりした。本当に凄く久しぶりに、なんだか肩の荷が下りたというか、頭の中の靄が晴れたというか。
……でも、どうしようか、アモル。救いたいし、救われたい。生きたいし、死にたくない。こんな業の深い人間がどうやってこの二つを成し遂げればいいのか。皆目見当がつかない。
『なんてことはねえな』
そうかな。
『そうだよ』
じゃあ、どうすればいい。
『簡単だ』
簡単か。
『足掻け』
足掻く。
『足掻いて足掻いて足掻き続けて、お前の思う最善を行い続けて。そうしていたらちったあ楽になる。少なくとも、今よりは』
……それは凄く、疲れそうな方法だ。
『だけど、マシだろ。こっちの方が』
そうだ。そうだね。随分と、マシだ。
『前を見ろ』
其処に何がある。
『お前を守ろうとする背中だ』
私のこれからの行く先だ。
『さあどうする』
救いたい。出来るなら共に。私も、彼女も。お互いに。この窮地から脱することが出来るならこれ以上ない。
『出来るか?』
どうだろう。難しいと思う。
『そうだな。だけど』
ああ、だけど。いや、だからこそ。足掻こうと思えるよ。ひょっとしたら、此処が最後になるかもしれない。「夜の騎士」には悪いけど、今日で終えるかもしれない。約束を守れずに。……別に、そんなこと、どうでもいいか。
『はっは! いや、良くはねえだろう。だが、どうしようもないのも事実だ。出来ること言ったら、それこそ』
為すべきを為す。それだけだ。
賽を振ろう。六を祈り賽を振ろう。六以外の数字は敗北へ直結しているとしても、出目が出るまで分からない。出目は振らないと分からない。だからただ我武者羅に。
――足掻け――
彼女は笑い続ける。笑みを絶やさず、それ以外を知らずに。
その様はあまりにおぞましく、おぞましい。言葉は他に見つからず、語られず。
美しくある。美しくあれ。そう願われてでもいたのだろうか。だが、その美は余人に慈しみを及ぼすものではなく、苛烈にして酷薄なる有様を呈している。……そう、思う。
少女はただ、そう、思う。
背筋が粟立つ。二の腕に鳥肌が立つ。彼女の前に一人であるだけで、全身の拒絶反応が止むことはなく、脅威に、恐怖に、心身が侵されていくのが分かる。
それでも少女は、クレア・ティスエルは前を向く。引き攣った笑みを浮かべて、精一杯の虚勢を張って。
これは、私がつけなければならない「けじめ」だと。気付くのが余りにも遅すぎたけれど、きっと手遅れになる寸前なのだとして。
せめて、彼だけは。自身が巻き込んだ人の中にあって、彼だけは死なせてはならないと、金糸の少女は杖を握る。
さくり。
音がする。土人形から視線を切らぬ少女の後ろから、新雪を踏みしめる音がする。
さくり。
また一つ。遠ざかる音。そうだ、それでいい。それがいい。
さくり。
三つ目の音。逃げろ。逃げて。生きて。貴方がそうするために、私は今こうしているのだから。
さく、さく、さく。
音が続く。歩みが速まる。止まらずに、そのまま一心不乱に、生きて。それが私の、最後の望み。最後の責任。
さあ、戦おう。勝ち目のない戦いに身を窶そう。さよなら、貴方。多分きっと、色々あるのでしょうけれど、結局一つも分からぬまま。
「そうだ」
「ああ、そうだ」
「この、距離だ」
「これくらいは必要だったはずだ」
「これが魔術師の距離だったはずだ」
声がする。真逆。何故。
誰何。そんなものは必要なかった。聞き馴染んだ声。よく通る音。
「随分と懐かしい気がする。……いや、本当に懐かしいんだ。的が遠くにある。世界が、こんなにも広い」
「何時か見た背中に似ている。だとしたら、御免だ。あの時のような想いは、二度と御免だ」
「何時か見た日。何時か見た火。時は巡る。己だけが杭に打ち付けられたようにずっと此処にいた」
言葉はやがて、詩に変わり。
「巡る。巡る。終の腕に灯火が点り、錆びた鋼を炉に焼べる」
宵を揺蕩い、奇跡を編む。
「英雄の剣」
少女の影が遠く伸びる。月光の白い光りとまた別に、橙の明かりが夜を照らした。
「……ェイト・カーミラ」
「本当に、笑ってしまうほどに、ちっぽけだ。あの時の方が、まだマシだった。こんなにも頼りない剣」
「フェイト! カーミラ!」
「血栓一つ一つが錆びている。例えるなら、それ。無理矢理に血を流して、澱みを一気に洗い流したような……ああ、いや、全然、流れてないな」
澱みっぱなしだ。そう自嘲する。
「今更に過ぎるわ! 逃げなさい! 逃げろ! 貴方を殺す為に私はこうしたわけじゃない!」
少女の叫びが響き渡る。紛うことなき真実を振りかざして。だけど、けれども。
「いいや、クレア・ティスエル。それこそ『今更に過ぎる』。逃げられるとでも? あの土人形から。……君を置いて」
同じだけの真実が、その刃を受け止める。
「それは無理だ。どうしたって無理だ。だからせめて、私はね、足掻くことにしたよ。無駄な足掻きかもしれないけれど」
そして。どうしても伝えたい言葉があったから。
「ありがとう。クレアさん。私は、君の背中に答えを見た。もう、迷わない。もう、止まらない」
足掻いて、足掻いて、息が切れるまで足掻き続けて。
「だから、救われてください。そして、同じ分だけ、私を、救ってください」
少女は振り向く。
焔で成した、十字架……いや、剣を背負った少年が、この死地にあって柔らかな、とけるような笑みを浮かべていて。
もしも、英雄というものが存在するのならば。きっと、こんな、笑みを、皆に、振りまくのだろうな、と、何処かぼやけた視界の中、クレアは思った。
彼は立っていた。彼は彼が立っていた場所に立っていた。
声がする。重なった彼の声がフェイトの身体の奥底から響いてくる。
――遅えよ、バァカ。
――ごめんよ、馬鹿。
声はもう、聴こえない。
あけましておめでとうございます。
今話は短いですが、余りにキリがいいので。