第二十八話
まるで槌のようだ。
都市を守る城砦を打ち抜くための、槌。
それのようだと、クロッカス・アジャルタは自信の眼前を貫く腕を半ば感心しつつ眺める。
生憎攻城兵器というものをクロッカスは今までの人生で見たことはなかった。だが、もしも眼にするとしたらこれに似ているのだろう。そう思える程度に、その腕は、拳は。人間一人に振るうには余りにも過剰すぎる暴力を纏っていた。
踏み込み、放たれたそれを、クロッカスは身体を反ることによって紙一重で回避している。腹筋と背筋でその体勢を維持したまま、潜り込むように握った槍を空へと突き上げる。土人形の喉元を抉るように刃が向かうが、やはり、鈍い音と共に弾かれる。
このままなら、突いた拳がそのまま振り下ろされ、まるで虫を潰すかのように頭蓋を砕かれ脳漿を撒き散らすだろうが、それをさせぬとするのがザンツ・ストゥルマンであった。自慢の大斧を力任せに薙ぎ払い、断ち割るというよりも弾き飛ばすことを意識する。いかに土人形に世界魔力が満ち満ちていたとしても、それで「土の重さ」までは変わらない。変える魔術は存在するが、今はその行使が認められていない。この土人形を打ち壊せるかという問いには窮するが、人間大の土の塊、それを吹き飛ばせるか否かならば、ザンツ・ストゥルマンという力自慢にとっては容易いものだった。
打ち捨てるように、土人形に斧を叩きつける。鉄塊と土くれがぶつかり合い、不協和音が夜空に木霊する。弾き飛ばされた身体を空中で見事に統制し、土人形はやはり、何事もなかったかのように着地する。
狂っている。クロッカスはその様を幾度と無く目にして、そう呟いた。
術師自らがその土人形を動かしているはずだ。でなければそのような細かな動作を取れるわけがない。そしてその動作を取る為には、ザンツに弾き飛ばされ二転三転する視界を捉えていなければならない。果たしてそれが、魔術師に可能なものか。近接にて戦う戦士ならばそれも出来るだろう。だが戦士であるのならば土人形を組めるほどの世界魔力を操ることは出来ないだろう。
あれは、一体、なんだ。
化物のような魔術の才を有し、土人形を操る反応は一角の戦士足りうる。そのような存在が、あってたまるか。そのような存在が許されるのなら、フェイト・カーミラにも救いはあるはずだろうに。
あれは、人か。人が為せる業か。
それはまさに認めがたい事実。化物のような、ではない。真実化物なのだろう。その正体がたまさか人間であったとしても、最早ここまでの逸脱を見せるのなら、やはり人ではない。人として括ることは出来ない。これもまた、クロッカスは目にしたことがない。この場にいる人間で、それを目にしたことがあるのはフェイトだけなのだが、クロッカスがそのことを知る由もない。だから、こう言える、言ってしまう。
「諸侯と言われても信じちまうな」
勝てるのか。
誰もが、幾度となく自問して、自答する。その度に全て、頷き難い答えが返ってくる。自身で答えているはずなのに、自身にとって都合のいい言葉がもたらされない。
勝てない。だからきっと、死ぬ。死んでしまう。そんなもの、求めていない。死にたくはない。死ぬつもりはない。死ぬならば、前もって済ましておきたいことがある。
考えるのはよそう。考えたところで現実に変化は起きない。抗う、全力で。それをしてこそ始めて、未来に漣は立つのだから。
クロッカスは槍を握る。思い切り振りかぶって、叩きつけるように土人形にぶつける。砕けろ、砕けろ。そう言わんばかりに。
砕きたいのは、土だ。砕けそうなのは、槍だ。挫けそうなのは、心か。
だが、生きる。「まるでクソみたいな男」だとクロッカスは己を思うが、それでも生きたい理由がある。
反攻を続けるに、十二分な理由だった。
しかして、土人形は迫る槍を意に介した様子もなく、歯牙にも掛けず、その拳を振るう。
大きく振りかぶり、風を割る音と共に右拳が落ちてくる。落雷か、落石か。落ちる速度は前者に近く、抱く重さは後者に近い。受ければ死ぬ。ならばやはり、これもまた紙一重で避けるしかない。
ただ一つ、ただ一つこの土人形に瑕疵があるとすれば。そして、それこそが未だにクロッカスたちが生きている理由に他ならないのだが、それは多分、この攻撃自体の拙さが及ぼすものだろう。一撃一撃が大振りで、酷く単調。思い切り振りかぶり、「行くぞ、行くぞ」とこれ見よがしに溜めを作る。それがあっても回避が刹那に頼るのは、そこから飛んでくるスピードが尋常のものではないからだ。
極めて予測のつきやすい、前もって教えてくれている攻撃。人並み外れた魔力と、一端の戦士並の動体視力があって、拳闘の技術だけが足りていない。……果たしてそうか?
いや、実際に拳闘技術の有無はこの際関係ないだろう。例え素人であっても、こうも次々とかわされては余程の馬鹿でもなければ思い至る。小さく小さく、こつこつと、当てるだけでいい。クロッカスからすればそれだけでも脅威だ。そちらの方が脅威だ。硬く、速い土くれが、速射砲のように息吐く暇もなく飛んでくる。しかも、槍の間合いを潜り抜けて、懐からだ。一撃で致命に至るまいが、四つ、五つ、六つと連なってくれば、肉破り、骨砕き、五臓を破壊するに容易いだろう。
何故、それをしないのか。何故、そうしないのか。
――ああ、分かる。分かるよ。
土人形の表情は変わらない。笑みを作ったままに、殴りかかってくる。やはり振りかぶって、城塞を崩すかの如く全力で。常の如く、薄皮一枚で身を翻し、その必殺であるが必中ならざる一撃を虚空に落として。
――そっちの方がタノシイよな。お前は死ぬことはないしな。命を賭けない「運動」ってのはさ、良いモンだよなぁ。
振りかぶると同時に、土人形の頭も激しく上下動する。視界はそれはもう、愉快に動くだろう。身体を丸ごとぶつけてくるような一撃一撃には、爽快感が伴って見えるだろう。だからそれに飽きるまでは、クロッカスは遊ばれ続けるのだろう。
いいさ。それでいい。遊ばれてはいるが、腹立ちさえしない。助かるというのなら、土人形の足だって舐めてやる。……その場合、土人形に見目も相俟って、自分が単なる変質者に成り下がるなとクロッカスは考えて、笑えねえと真顔で思う。槍を再び、土人形の喉に突き立てた。
一歩、更に踏み込む。跳ね返るように、石突で米神を穿つ。肉ある人なら卒倒していたそれを受けて、土人形は僅かばかりによろめいて、それを反動代わりに右拳を薙いだ。槍の腹で受け止められるか。そうすると折れるか。瞬きしない間に取捨選択を迫られて、踏んだ一歩を更に大きく飛びずさる。風の圧を腹に受けて、ぶわりと冷や汗が全身に滲み出る。
ザンツが、首を刈らんと斧を腰溜めからかち上げる姿が見えた。若干の余裕を見出したクロッカスは、小さく沈み込むことによって体勢と反動をつけ、捻るように槍を突き出した。狙うは再度、首だ。火花が散って、丸みを帯びた首に沿って槍が流れる。それを膂力で強引に止めて、槍を掴んだ片腕一本を巻き込んで、脇で挟むようにして全体重を槍に掛ける。梃子の原理を用いて無理矢理に土人形を押し倒す。体勢を崩した土人形は手のひらを地面につけて、右足を伸ばしクロッカスの足元を掬わんとする。僅かに浮かせた足で踏みつけてそれを邀撃。クロッカスは薄く嘲笑った。
くるりと反転した槍は下から上へ。首から頭頂に至るまでを一直線に銀閃を通した。
がちん、と鈍い音を立てて土人形は力任せに空を仰がさせられる。彼女の視界に映るのは、冬の宵に瞬く星と、雪と、白月と。
そして、断頭台の処刑人さながら、大斧を振りかぶっている巨躯の男、その凄絶で獰猛な、笑み。獣が如きそれと、軋む奥歯の音に遅れて、嗚呼、降ってくる。鉄の、塊が。彼女の花顔に、容赦なく。
鉄塊と、男の膂力と、男の重さ。その全てが重力加速に従って、土人形の頭部に。
「割れろ」
彼女の「目」はきっとそこにある。人の成りをしているのだから、人間の目の位置にこそ「目」がなければ齟齬が生じる。曲芸めいたその動きを現実のものにするためには、視線の高さが合致していなければ困難極まるだろう。
ならば、頭を潰す。あるいは頭を身体から切り離す。
酷薄な声が、轟音にかき消された。
大地に罅が入り、積もった粉雪が派手に舞い上がった。
土人形の頭蓋が、大地に埋もれる。
土が、土に還った。
「なんだか、まあ」
クロッカスは埃を払うかのように槍を回して、肩に担ぐ。
「意外とやってやれないことはねえな、俺って男も」
「馬鹿かテメエ。やったのは俺だろうが」
ザンツが犬歯を剥き出しに、その言葉に食ってかかる。言われて、クロッカスは笑った。
「やっぱりお前は馬鹿だなぁザンツ・ストゥルマン」
「あァ?」
「俺が言ってるのはよ、思っているよりよく動けてるってことだよ。それ以上でも以下でもねえ」
「正直、此処まで動けると俺は俺自身で思っていなかった。ああ、やれるんだなって、そう思ったんだ。悪くない、悪くない感触だった」
担いだ槍を空打つ。
虚空を切る風音だけが空っぽに鳴る。
「それだけだ。それだけだよザンツ。第一馬鹿みたいだろ、俺たち二人だけでやれただなんてよ」
ぴしりと音がした。土が割れる音だ。
「逃げてったあいつら二人が、道化じゃねえか、そんなんじゃ」
ぱらぱらと、土砂が落ちる音が続く。
「だから、やれるんだなって。悪くない日だなって。これがよぉ、明日に続いたら、もっと良いんだけどなぁ」
彼女は変わらぬ笑みを浮かべたまま、玉顔に疵一つつけることなく、立ち上がった。
「続いて欲しいよなぁ。お前はどう思うよ、ザンツ」
クロッカスは、ザンツの肩を二度叩いた。犬歯を剥き出しに、粗野を前面に押し出したその男の笑みは、土人形が如く凍り付いていた。
……果たして、その固まった二つの笑みに内包する感情は、まるで逆しまなものであるはずだった。
動けない。
彼女は、クレア・ティスエルは目まぐるしく移り変わる攻防を目の当たりにして、微動だに出来なかった。その場に縫い付けられたかのように、足も、手も、指先さえ、動かせなかった。
魔術師たる自身の役割は、前衛たる戦士たちが文字通りの血肉を削って稼がれた時を無為にしないとこだ。だが、それが出来なかった。……横槍を、入れられなかった。
足りているのは、才能だが、足りていない経験があった。肉薄しての戦闘、それも肉体同士が交錯するようなそれに、彼女は手出しが出来なかった。即席で合わせろ。あるいは、そのことが最も大きな障害だったのかもしれないが。しかし、加速する現実についていけなかったのは確かだ。
何故だ。先ほどまでは上手くいっていたのに。何故か、ここに来て狂いが生じている。分からない。男達は速くなっている、それは確かだ。だけれど、私は、クレア・ティスエルは、そんなことで崩れてしまうほど情けない者だったのだろうか。
者、だったのだろう。だから今こうなっている。
馬鹿みたいだ。くらりと頭が重くなる。
何がしたいのか、何がしたかったのか。様々な人を巻き込んで、自分が思い描く絵図に近づけたと思ったら、これだ。
動けない理由、動かない理由。嗚呼、そんなの私だって分かっている。何故動けないのか。何故、動かないのか。私だって知っている。……ただ、それを直視することが出来なかっただけ。ただ、視界に入っていたはずのそれに気付いていなかっただけ!
嗚呼、嗚呼!
だってそうでしょう!
誰だってそうでしょう!
きっと皆が、誰もが、そう思うでしょう!?
まさか自分が死ぬだなんて! そんなこと、考えはしても我が身に降りかかるなんて! そんなこと!
馬鹿みたいだわ。馬鹿みたいね。きっと馬鹿なんだわ。皆がそう。必ず誰もがそのはずだから。きっと皆、馬鹿なんだわ! そうじゃなきゃ、生きていけないもの!
人は皆、自分自身が物語の主人公のように捉えていて、彼女もまたその分に漏れずに、己の中から己を鑑みるその姿は、何時か何処かで誰かが言った、「随分能動的な白馬の王子様を信じている姫君」として映っていた。それもまた、主役としてあるべき形。……いや、そもそも、どのような形が「主役」足り得るかなぞ、その人によって異なるのだろうが。
だが、当たり前だ。当然のことだ。人は己の人生を歩む。他者の視界なぞ窺い知ることは出来ない。両手で掴めるのは、自身の先にあるものだけ。両足で踏みしめるのは自身の下にある大地だけ。病める果てまで歩を進めて、何時か自身がどこまでも凡庸な人間だと気付いて、それでも人は一縷の望みを掛けて主役足りうる天命が我が身に降りかかると妄信して。
それは、怠惰か。いや違う、希望だ。希望とは、灯りだ。暗闇を照らす、灯り。道を指し示す灯火。決して触れることのできない篝火。希望がなければ人は生きていくことは出来ない。絶望を直視して尚、この道を行けば黒々とした闇を湛える深淵に墜ちると知っていて尚、歩みを進める人間は最早壊れている。
そう、壊れている。
直視出来ぬ絶望とは、何か。万人に齎される、不可避の破滅とは、何か。やはりそれは、死しかあるまい。
ヒトは何れ、死ぬ。自然の摂理だ。当然の理だ。だが、ヒトは気付かない。やがて己にも死神の鎌が当てられると、気付けない。当たり前だ。気付いたらどうなる。気付いたから何になる。避けることが出来ぬそれが、何時か自身の首元に迫ると知って、何をすることが出来る。この一歩一歩が断頭台へ至る道だと理解して、何になる。歩みは止められない止まらない。
もしも。仮定の話。死なぞそこら中に転がっている。特に、このような世界ならば尚更。王都にあっても、スラム街を練り歩けば老若関わらず道端で野垂れ死んでいる躯に出会える。
少し街から離れたら、そこに命ごと根こそぎ奪っていく野盗がおらぬと誰が言える。
ならばどうするか。外界との接触を立って、一人庵にでも引きこもるか。そうして餓えはどう凌ぐ。天災が訪れてしまえば一切合財を薙ぎ払っていく。どう足掻こうと、生はやがて消費され、終着としての死へ辿り着く。それを避ける方法など、存在しない。
どうしようもないのだ。こればかりは。だから、ヒトは皆、それを見ようとしない。見るだけ無駄だ。見た所で恐怖に駆られるだけだから。死を見つめている人間は、それこそ自身の死の匂いを感じ取るようになった老人か、あるいは現世において根治不可能な病に冒された人間か。そうして初めて、彼らは死を視界に捉えて、その質感否が応にも分からせわれるのだ。
だが、それも「彼」に比べれば短い時だろう。
いっそ壊れてしまいたかった。
故に、故に、だ。己も何時か死ぬという実感がないからこそ、全ての賽が出目として六を出すとまでは言わないが、「どうせ最終的にはそう悪く転ばないだろう」と考えて、彼女は今此処にいる。
何が欲しかったのか。何を求めていたのか。自由か、自己の発露か、愛か、願いか、希望か。そのどれでもなく、そしてそのどれらにも当てはまるものを得ようとして、彼女は一人、殺人鬼を捕らえようと動いた。
認めて欲しかった。誰に。誰だろう。親だろうか。それも違う気がした。
愛して欲しかった。誰に。誰だろう。彼だろうか。やはりそれも違う気がした。
ただ試したかった。かもしれない。だけどそれも、ずれている感じがする。
ああでもない、こうでもない。応えは浮かぶが答えは見つからない。
探した。殺人鬼を。
頬を張ってやろうと思った。殺人鬼の。
だが、勝てるとは思わなかった。殺人鬼に。
だから、彼を呼び寄せようと思った。
その為に、あいつと、ディギトス・ガイラルディアと、口裏を合わせた。前もって準備していたわけではない。「こう」言えば「こう」思い「こう」返すだろうことぐらいはあいつの人間性さえ頭にあれば容易に導き出せる答えだったから。
思えばあいつも、ディギトスという人間も酷いものだと嘲笑う。ディギトスが中等学校を卒業した後、実家の家付魔術師になったとしても、殺人鬼サーチス・キネシスに狙われるとは必ずしも限らない。だが、その可能性を除外したかった。だから、ディギトス・ガイラルディアはクレア・ティスエルが用意した台本に乗っかった。あれを演じれば、フェイト・カーミラという人間は必ず近づいてくる。そのことをディギトスもクレアも予想していた。
そう、フェイトが勲功爵を戴くことになったあの時。クレアはまず最初にディギトスに与えようとしていた。クレアがディギトスの思考を読み、ディギトスもまたクレアの思考を読んで、この二人は一人の人間を、フェイト・カーミラという人間を釣り上げる為に。何の栄誉も持たぬ一学生に勲功爵を渡すというあからさまな挑発を殺人鬼に向けて。
それによってクレアはフェイトを舞台に引き摺り上げた。今日こうして、己を救いに来てくれるということまで勘案して。それによってディギトスは目晦ましと勝手に殺人鬼と相対してくれる友人を手に入れた。フェイト・カーミラという人間ならそうしてくれると理解していて。
果たしてそれを友というのだろうか。友という言葉の概念を、「その人をどれほど深く理解出来ているか」という物差しに沿って決めるのだとしたら、紛れもなく「友」なのだろうけど。ああ、だがやはり、「友」なのだろう。フェイトもまた、それを否定しない。フェイトとディギトスは、まず間違いなく友だった。どうしようもなく友だった。
いずれにしても、彼は、彼女は、死ぬつもりはなかった。死ぬかもしれないが、それは避け得る事象だと思っていた。なぜなら、そう、彼らにとって、彼らこそがどうしようもなく物語の主人公なのだから。
クレア・ティスエルはそれでも一応は布石を打った。一対一で殺人鬼と戦って、少しは保つかはしれないが、勝てるとは考えていなかった。上手くいけば、とは思っていたが、そこまで外れた馬鹿でもなかった。故に、文を預けた。フェイト・カーミラに渡すよう、文を。
聡い彼のことならば、きっと一人では来るまいと読んで。結局彼は自身が所属する「剣と賢」を引き連れてやってきたのだから、その読みは正しかったのだろうけど。……結末には、些かの影が差している。
そうだ。影だ。影が差している。影とはなんだ。影とは何に至る。濃い影は、闇に通じる。闇は、何に変容する。闇はやがて、そこにあるものを正体を閉ざし、そこに深淵を作り出でる。
ああ、だからそうか。きっとそうだ。故に彼女は動けなかった。故に彼女は気付かなかった。
あの土人形、それに見据えられるということが示唆する、避け難い闇の想起。幾ら言葉を飾っても、幾つ言葉を繕っても、結局は其処に辿り着く。気付かないまま呆けていても、鼻腔を擽る不安の薫りは心胆を寒からせる。背筋を這い回る、形容し難い悪寒。
ああそうだああそうだああそうだ。
ああ、
そうだ。
誰も彼も私も彼も女も男も老いも若いも獣も人も。
全て。
全て全て全て。
遍く全てが森羅万象尽くが生きとし生けるもの果てなく。
「それ」を、恐怖している。
――にたかろうはずがない。
――にたくて――ぬ者などいるはずがない。
――を許容など出来るはずがない。人は皆、生きたいのだ。
――に至ろうとする者も、出来うることならば生きていたいのだ。
――に辿り着く者は、どうしようもなくなってしまったから其処に落ちていくのだ。
嗚呼、そうだ。
私は。
生ある者は。
――死にたくなど、なかったのだ――
矛先を、土人形に向ける。
それによって、土人形が、この恐ろしい怪物が、私を、クレア・ティスエルを「邪魔だ」と思ったら我が身はどうなるだろう。
一歩、二歩、三歩、四歩。弾けるように駆ける、土くれで作られた怪物。見も毛もよだつ、美しい怪物が、一直線にその眼を向けて。怖気がするほど秀麗にして醜悪なその笑みを崩さぬまま、私に。そう、私、に。
そんな、恐怖。そんな、終幕。そんな、未来。
だから、か。そうだ。だからだ。だから私は、ただ呆然と、彼らが戦う様を眺めることしか出来なかったのだ。
死にたく、ないから。まだ生きて、いたいから。
ざり、と、クレアは自身の足元から土を踏む音が聞こえた。
何の音だと疑問に思う。動いていないはずだ。自分は一歩も、身動ぎをしていないはずだ。見たくない。確かめたくない。視線を落としたくはない。
視線をそちらに向ける必要はないはずだ。だって彼女は動いてさえいないのだから。動いていない、動いていない動いていない、動いていない動いていない動いていない! 退いてなんて……ない!
だが、少女の想いに反して、彼女の瞳はゆっくりと地に墜ちていく。それは後ろめたさという重しを頭から吊るされたような、ただ眼前の男達に赦しを乞うかのように、額を下げさせられているような。
少女が立つその足場は雪の白と土の黒がまるで境界線のように引かれていて。彼女の右足は、どうしようもなく、白い雪から闇に包まれた黒土に尾を引いていた。
くらりとそのまま地面に倒れてしまいそうだった。だが、それさえも出来そうになかった。ただ全身から力を抜いて、重力に従ったまま地に伏せばいいだけの話なのに、それでも彼女の身体はまるで全身が鉄になってしまったかのように動かない。
だけど、だけれども。こんなの、しようがないじゃないと、彼女の心の奥底から滲み出る染み。
だってそうでしょう。誰だってそうでしょう。あの人たちがおかしいのよ。あの人たちは一体なんなのよ。どうして、戦えるの。敵わぬだろう相手を前にして、どうして戦えるの。
――知っているから。その男達は知っているから。戦わなければ生きてはいけないと。そういう状況に今はあると、ただ彼らは知っていたから、そうしているだけ。
それを知らぬ彼女を誹るのは酷なのかもしれない。知らずとも生きていける立場だったから。知らずとも不思議はない年頃だったから。齢十と四、たったそれだけを数えて、目前に迫る「死」というものを目の当たりにして平静でいられることの方が珍しい。不意の事故でもなく、唐突な災害でもなく、ただ明確な暴力が其処に在る、その現実感。それは余に重過ぎて、嚥下するには硬く刺々しい。
男達は矛を振るう。意地か、矜持か、自己犠牲か。腕に込める力の源を、その正体を彼女は知る由がない。
いっそ美しいと思える刺突が土人形の顎先を射抜く。煌く銀閃はいっそ鮮烈に光り放ち、例えるならそれは誰かに捧ぐような一槍で。ただ想いを、万感の想いをその一突き一突きには込められていて。
掲げられた大斧が銀月を写す。唐断ちに落とすそれはいっそのこと清々しく、ただ己の存在を強烈に示すようで。「俺はある。此処にある」と万の声よりも声高に叫んでるように思えた。
そんな男達を、クロッカス・アジャルタを。ザンツ・ストゥルマンを。土人形は嘲笑うかのように。
めきり、と。音を立てて、土人形の拳がザンツの左脇腹を射抜いた。鉄製の鎧がぼこりと凹み、噛み締めた口元からは赤く濁った泡がぶくりと零れ落ちる。男は凄絶な、獣のような笑みを浮かべたまま黒目がぐるりと濁り、地面に突き立てた斧に身体を預けた形を取ったまま、やがて動かなくなった。
ぴしり、と。音を立てて。土人形の指先がクロッカスの胸元を抉った。翡翠色に輝く光を撒き散らして、男は吹き飛んだ。二転、三転、地面に身体を打ち付けて、それでも槍は離さずに、だが意識だけは途切れていて、ぐたりと地に四肢を投げ出して、眠るようにその場に伏した。
終わる。
そうして終わる。
この場に残った生ある者、全てがそうして終わるのだ。
少女はそれを、今分かった。
最早どうしようもないのだと、気付いた。
既に張る虚勢はなく、常日頃自信に満ち溢れた挑発的な笑みは消し飛んでいた。
もう、足だけではない。ただ振り返って、縺れる足のまま、必死に、不様に逃れるしかないのだ。逃れようのないものから、意味も無く逃れようとするしか。
だから、少女は振り返った。
故に、少女は、振り返り、彼を見た。
彼女と同じようにただ茫洋と立ち竦んでいた、彼を見た。
彼の表情を、見た。
いっそ、壊れてしまっていたらどれほど良かったのだろうか。
その少年を生き様を知れば、そう思う人がどれほどいるだろう。
いっそ壊れてしまっていれば、どれほど楽か。
いや、あるいは既に壊れているのかもしれない。だから、少年は今こんなにも歪な形をしてそこにある。
齢六で死を身近に感じた。齢六にして死神を目の前にした。齢六にして、死神から残る砂時計を勘定された。お前は死ぬ、やがて死ぬ、何時か死ぬ。何故なら殺すから。我が殺す。来なければ殺す。少年、君以外の者も殺す。応じ難いなら我を殺せ。生き続けたいなら我を殺せ。
死神は、夜を駆る騎士は、少年にそう言った。
ああ、そうだ。最初は、殺してやろうと思った。そうしてやると思った。死者を再び、殺し抜いてみせようと、少年は思った。何故なら、心をとてつもない焔で焦がす怒りがあったから。だが、だがしかし。死神は言った。死神は知っていた。
「時は怒りを風化させる。しかし、恐怖は絶えることなく人を追いかけ続ける」
死神は確かに、そう言った。
そしてそれはどうしようもなく否定することの出来ない、真理であり事実であった。
ああ、そうだ。その通りだ。怒りは、やがて鎮火する。そして少年の心に残ったのは途方もない「死への恐怖」だ。
夜眠り、朝起きる。誰もが行う行動一つ。少年からすれば、これほどまでにないほどに明白に、命の薄皮を一枚ずつ削られていく感覚があった。
眠り、起きて、眠り、起きて、眠り、起きて、眠り、起きる……。誰もが漠然と繰り返す日々一つ一つが、少年の爪先から削るような薄ら寒い幻影を見せる。
逃げ出したいと、少年は思った。
待ち構えるのは、決まりきった死だ。必ずお前を殺してみせると宣言し、それを行うに足りる「化物」が、「諸侯」が、「騎士公アルゴル」が、手ぐすね引いて待っている。
狂う。狂う。狂ってしまう。狂ってしまいたい。正気さえ失って、狂人が如く白痴に及んで、全てを忘れて白い無垢のまま、意識を途絶えさせてしまいたい。
だが、それも出来ない。少年の双肩には、少年以外の命が圧し掛かっている。そうして彼は自死する自由さえ奪われた。
残された選択肢は二つだ。死神を殺すか、死神に殺されるか。
……勝てるのか。果たして人が、諸侯の一角に。
……立ち向かえるのか。果たして人が、諸侯の一角に。
少し考えれば。……いや、考える必要さえないのかもしれない。諸侯という規格外の存在を目の当たりにした人間からすれば。一目見れば、それは分かる。人一人で、勝てる存在ではない。諸侯という怪物は。
ならば、複数人で掛かれば。勝てる……のだろうか。いや、それでも足りない。足りるはずがない。
そんな相手と闘争することとなっているとして。
人は、他人に言えるだろうか。「私と共に戦って。私の為に戦って。きっと、それには勝てないけれど。必ず、それに出会えば殺されてしまうけど。それでも私の為に私と共に戦って」。だ、なんて。
少年は、言えなかった。言えるはずがなかった。そんな自我を。
だから、少年は、死ぬことに決めた。
フェイトは魔術師だった。その血を受け継いでこの世に生まれた。それを否定するつもりはなかった。それをしてしまえば、父と母から祝福された意味がないと思えたからだ。多分両親よりも先に立つのに、それ以上の不幸をすることは避けたかった。
だから、真っ当な魔術師が歩まぬ道を行く必要が生じた。彼は一人で死にに行くから。彼は一人で死神の下へ歩むから。仲間を必要とする戦い方は望まなかった。自分一人で死神の下へ辿り着くまでの火の粉を振り払う力は必要だと考えた。
それが、今の彼を形作った。出来損ないの魔術師。魔術をして、前衛として斬りかかる、不出来な人形。一人で戦う他ないから。死ぬのは自分だけでいいと思ったから。
何時か、彼の中の「彼」がそんな無様を指して耳元でこう告げた。
「まるで贄に選ばれた乙女だな」
フェイトはそれを、聴こえなかったふりをした。その通りだとも思ったけど、その通りだと理解もしたくなかった。ただ漠然と死に歩いているだなんて理性で理解したくなかったから、固く記憶に封をして、心の奥底に二度と浮かんでこないよう深く深く沈みこませた。
死に辿り着くまで、死ぬ訳にはいかなかったから。
矛盾だ。確約された一個の死にこそ抗っていないのに、その死を甘受するためにその道中にある死を拒絶する。死の為に、死を避ける。
フェイトはそうしてあの夜から、始まりのあの夜から生きてきた。
嗚呼、壊れているのかもしれない。
嗚呼、もう罅割れているのかもしれない。心が。感情が。刹那が。
罅割れて砕け散りそうで、もう、何かが漏れ出している。止め処なく、押さえきかず、奔流のように溢れて流れ出して止まらない。
それは悲痛な叫び。
それは悼まれぬ悲しみ。
それは空虚な絶望。
その全てに見て見ぬふりを決め込んで、その全てを振り払って、そうして今、彼は、フェイトは、フェイト・カーミラは。
その顔を、なんと捉えよう。
その相貌を、なんと表そう。
その決意を、誰が分かろう。
だが、胸を打った。
途方もなく、胸を打った。
故に少女は、その顔を見た少女は足を止め、今一度振り返り。
ただ強く、今一度強く、杖を握りしめた。
彼に死を齎す原因を作ったのは、私だ。
彼らに死を齎す原因を作ったのは、私だ。
気付いた。気付いてしまった。重く鋭く、身に突き刺さる咎の茨。
だが何故だろう、その痛みが今は心地よい。甘く痺れる痛みが身体を縛る。
救いとは何処にあろう。
少女は、そんな言葉を胸に描いた。
肩の力がふっと抜ける。
今なら何処にでも飛び立てるような気がした。
後で手直し……するかもしれませんし、しないかもしれません。
勢いのままに。
それと一度試験的に感想欄を改めて開いてみます。何かしら言葉を残したいという奇特な方がいらっしゃれば。いえ、いなくても構いはしませんが。