第二十七話
物言わぬ躯と化したサーチス・キネシスを無表情に見下ろしていた土人形は、フェイト・カーミラの瞬き一つの間に彼の視界から姿を消した。それと同時に、ぐぁん、と風を薙ぎ、ごぉん、と鉄がたわむ音が月下に響く。それが決戦、血戦……あるいはじゃれ合い、玩弄の始まり。一方からすればそう見えて、また一方からすればそう見えた。
振るわれたのは土人形の右腕。それを防いだのは、ザンツ・ストゥルマンの大斧。防いでやった、などとは到底言うことの出来ない偶然の産物。気がついたら目の前に土人形があって、反射的に斧を出したらたまたまそこに拳が当たっただけのこと。
不意を突かれた。違う。防ぎきった。違う。ならばなんだ。ザンツは言葉にすることが出来ない。そういう性根だった。負けを認めるに時間を要する、そういう堅物だった。
殴られた振動が身体中に波及して、ぐらりとバランスを崩してたたらを踏む。二度目だ。そうさせられたのは、この土人形に二度あって二度ともだ。瞬間、ザンツの頭が沸騰する。昇った血が一瞬で両腕に巡り、大木のような二の腕が隆起する。
「っらァ!」
後方に弾き飛ばされた大斧はそのまま跳ね返るようにして土人形に襲い掛かる。豪風を纏い薙ぎ払われるそれを、土人形は爆ぜるように後ろへ跳ねて回避した。始動に反して、終着は美しく。爆ぜた人形は音も無く着地して、ザンツのその一振りを褒め称えるように手で三つ、拍を打った。
「てめえ!!」
「ザンツ!!」
「わぁってるクソが!」
舐められている。そう取った――真実下に見ているのだろうが――ザンツが猪突猛進を始めようとする前に、アキレア・アルフィーナは気勢を殺いだ。一人突出しては各個撃破されて終わる。そもそもこの場にいる全員で一斉に掛かっても倒せるか怪しい相手だ。アキレアからすれば無為に頭数を減らすことだけは避けたかった。
兎角、今の一合で全員が気を取り戻した。呆気に取られていた剣と賢の面々も、呆けていたクレア・ティスエルもそうしている暇はないとようやく気付き、杖を、剣を、槍を構える。
「お嬢さん、悪いけど貴方にも手伝ってもらうことになる」
「……ええ、どうやらそうしなければならない様子ですわね」
視線を土人形から外すことなく、アキレアとクレアは言葉だけを交わす。未だ次の一手を打たない土人形はやはり、前回と同じように遊んでいるのだろうと予想がついた。
しかして、前回と違うのは場所と、人数と、そして土人形に注ぎ込まれた世界魔力の量だ。
前回は木々が乱立し地面が腐葉土とそれを覆う落ち葉の中戦った。今回はなんてことのない硬い土の上。その上にはうっすらと雪が積もり、そして魔術の名残である氷塊の山が数箇所に出来上がっている。
人数は前回の剣と賢に付随して純粋な魔術師一人。純粋な、とするのは不純であるフェイトという存在は一つ混ざっているから。
最後、これが一番の厄介事だ。今回の土人形は、前回よりもより強大な存在に変貌しているということ。……五百と五百が組み合わさって百を為す。まさに、その土人形が出来上がる工程はその通りであった。あの小さな身体の中に、前回とは比べ物にならないほどの魔力が込められている。前回はアキレアとクロッカス・アジャルタの「とっておき」を見せてどうにか打ち破った。フェイトとハスティア・ギーヴォの「搦め手」も用いた。手を二つ、詳らかにされている。その状態で、それよりも強大な相手を倒すことが。
出来るのか。アキレアは自問する。
出来るのか。フェイトは自問する。
勝てないだろうな。アキレアは自答した。
勝たなければならない。フェイトは自答した。
ならばどうするか。
ならばどうするか。
一人は容易く答えを導きだし、一人は思考が出口の無い迷宮の中に囚われた。
この場に置いての最大火力の持ち主は誰だろうか。当然、敵である土人形を除いて。答えは剣士アキレア・アルフィーナか魔術師ハスティア・ギーヴォの二人に絞られる。短時間での火力ならばアキレアの「断刀」が頭一つ抜け、真言詠唱の時間を与えられるのならハスティアの風魔術が飛び抜けた破壊を齎すだろう。クロッカスもまた、「技」を使えることが出来るが、体内魔力の運用においてアキレアを下回る。ザンツは基本的な身体能力、特に膂力に関して言えば目を見張るものがある。だが体内魔力を扱うのに不得手で、「技」を使うことは未だ出来ていない。
一人、この場の過半数がその実力を知らぬ存在……クレアがいるのだが、アキレアも、ザンツも、クロッカスも、彼女がハスティアの上を行く可能性を予想していない。そしてクレアの力量をこの中で唯一知るフェイトもこう考える。「クレア・ティスエルはハスティア・ギーヴォに及ばない」。
クレアはベラティフィラ魔術中等学校において入学以降学年首席の座を守り通してきた。彼女を示す言葉の一つに、陳腐だが確かに頷ける「天才」というものがある。それに間違いはないだろう。彼女が座るその椅子は、真実魔術国家ベラティフィラにおける頂点の椅子の一つではあった。……だが、しかし。その椅子にはこうも書いてある。「彼女と同世代において」と。
その席は毎年一人、誰かしらが座る席だ。それを数年間に及び譲らないということについては確かに白眉なのだろう。だが、分類を出来る限り広めてみたらどうだ。「全魔術師の中で彼女の階位はどの程度か」。
過去、フェイトが亡者の騎士に看過されたその事実。クレアは天才である。それに間違いはない。しかし、その冠に「不世出の」という文字を戴くことは出来ていなかった。そして、ハスティアはベラティフィラ魔術中等学校には入学しなかった。いや、出来なかった。二つ、三つ格の落ちる魔術学校に入学し、そして冒険者としての道を歩んだ。
ハスティアが、クレアと同年代ならば、クレアが上を行っただろう。しかし、それは有り得ることのない仮定の話。ハスティア・ギーヴォ。彼の才が花開いたのは教育課程の最中ではなく、在野に足を踏み入れてからのことだった。
ならば、こうするのが最も正しいだろう。アキレアは檄を飛ばす。最も火力を引き出せる二人を後衛に置いて、残りの四人で土人形の足を止める。為そうとすることは前回とあまり変わらない。違う点と言えば、クレアという魔術師が一人増えたことによって、前回のハスティアのポジションを彼女に回したことくらいだろう。翻って見れば、「それしか手の打ちようがない」ということだった。全員で掛かっていっての長期戦より、一点突破による短期決戦。前回の成功例と同じ戦法を取ることによって「勝ちの目がある」と思わせること。それが何よりも重要だった。
そしてその檄を全員が頷いた。クレアは一人声を上げかけたが、フェイトが横目で彼女を見ながら首を縦に振った時点で言葉を飲み込んだ。「私の方がそこの魔術師よりも上」などと言っている暇はなく、そして両者の実力を知っているフェイトがそれを是としたのだ。ならば従う他にない。それほどの状況だと理解していたし、素直になれるほどに土人形の内包する魔力に気圧されていた。
土人形は風も使う。クレアにそう伝えて、フェイトは駆け出した。憤怒の形相を浮かべたザンツも同じく。クロッカスは内心で「この短期間にもう一度槍が死ぬかもしれないのかよ」と要らぬ心配をしながら後を追う。アキレアとハスティアの二人だけが、後衛に下がる。そんな彼らを横目にして、クレアは今一度杖を強く握り直した。脳裏に一瞬過ぎった、「何故」という言葉を「惚けている場合か」と蹴り出して。
ザンツが大斧を振るう。クロッカスがその間隙を縫うように槍の穂先を奔らせる。フェイトは既に見せた手の内とはいえ、目晦ましに杖に炎を灯らせる。時折クレアが生み出した巨大な氷塊が唸りを上げて宙を舞い、土人形を抉らんと迫る。
大斧を滑るように避け、刺突を躍るようにかわす。闇を切り裂く閃光は見飽きたもの、「目」を腕で隠し、潰されぬよう対処する。氷塊はそのまま、殴りつけて破砕した。土人形は邀撃に移ることなく、戯れるようにそれら全てをあやし、いなす。フェイトたちを「敵」とさえ見做していないその振る舞いに立てる腹もなく、ただそれを僥倖だと捉える。倒す必要はない。自分たちで倒せるとも考えていない。悲観でも、卑屈でも、悲嘆でもない。それは単なる事実。化物と定義していい相手と戦って……いや、戦いにさえなっていないのかもしれない。ただ土人形の気紛れに付き合っているだけで。だが、それでもいい。それしかない。フェイトも、クロッカスも、ザンツも、クレアも、此処で命を落とすつもりは毛頭なかった。死ぬつもりはない、ならば答えは一つ、勝つしかない。ならばどれほど薄い勝ちの目であっても、それに賭けるしかなかった。
遊ばれている。有難いことだ。今この時において金よりも貴重な時間を稼げる。
反攻に転じない。得難いことだ。瞬きした瞬間に死ぬ確率が減る。
彼らが今すべきこと。その答えは「飽きさせないこと」。虚飾のない言葉で言うのなら、そうなってしまう。土人形の術師が飽きる。するとどうなる。答えは二択だ。一つは術師が魔力を掃い、土人形を文字通り「土に還す」。それならばフェイトたちは万々歳だ。誰にも被害は出ない。素晴らしい結末だ。もう一つは単純に「鏖殺」。殴り、蹴り、絞められ。撲殺、絞殺、圧死……ああ、もう、どうでもいい。如何な死に様だろうが、死に変わりはなく、多分、誰にとっても迎えたくない決着だろう。
そして残酷なことに、この二択の内後者の確率が誰がどう考えても高いということが分かりきっている。それもその筈だ。土人形の術師は明白に殺人鬼サーチス・キネシスと何らかの関わりがある。その事実をこの場にいる全員が知っている。そんな繋がりを知っている人物を、生かしておく酔狂なヒトが何処にいる? 万に一つ、術師とサーチスが単なる知り合いという可能性……ああ、語るに落ちる。それだけで済むはず、有り得ない。だからそう、殺す。確実に、殺される。
――じゃあ何故遊ぶ必要がある?
全神経を土人形に向けながらも、フェイトの脳裏にそんな疑問が浮かんだ。
――知らない。誰一人として逃さない自信があるのだろう。だから、弄ぶ。そうするだけの余裕と力の差があるだけのこと。
きっとそうだ。ザンツを襲った開幕の一撃。あれに至るまで速力を鑑みれば、逃げ出そうとしてもそれに一息に追いついて、首を捻り取るだけの自負も実力もあるのだろう。
要らぬ考えをさっさと切り捨てて、脳の全域を目標に集中させる。杖に灯す伽藍の炎の数を二つに増やしてみて、より重く圧し掛かる負担を甘んじて許容する。
「若火、重!」
闇夜に迸る暴力的な光りが連なる。手練手管は常に変容させ続けなければならない。前述したように、全ては術師を飽きさせず、愉しませるために。まるで道化だ、と嘲る。道化そのものなんだよ、と哂う。これまでもそうしてきたのだから、今更だろう? と囁く。嗚呼、答えは、返ってこない。
体内魔力は巡る。世界魔力は揺れる。
十全に、十全に、十全に。
足るだけを、足るだけを、足るだけを。
戦場を眺めながら、アキレアは己が魔力を思うがままに操る高揚感に酔い痴れていた。焦る必要はない。焦りは要らぬが、速さは要する。その二つは似ているようで別物だ。焦りから生まれる速さは其処に雑念が混じる。そういうものを許容できるほど、今回の試練は甘いものではないことくらい分かっていた。
視界では、土人形と「仲間」たちが踊る。閃光が瞬き、氷は宙を舞い、戦斧は乱れ、槍牙は突き立つ。荒々しくも瑞々しい、暴の嵐が極所的に巻き起こっていた。生半な実力の持ち主ならば、その空間に立ち入った瞬間木っ端微塵に粉砕されるだけの圧を伴ったその死地にて、土人形は戯れるかの如く台風の目に立ち続ける。言葉で評すに容易いが、行うにこれほど難いものはない。驚嘆するよりは最早呆れるほどに、その土人形は隔絶していた。
――まだか。
横に立つ相棒を横目で見る。既にアキレア自身の体内魔力は満ち満ちている。何時でも行ける。後はハスティアの世界魔力がどれ程編み込めているかが問題だ。
ハスティアは目を閉じたまま、杖を構え真言を小さく呟いている。ああ、当然だ。そうするのが正しい。顔には出さず、アキレアは内心で頷いた。……やがてハスティアの閉ざされていた瞳は見開かれ、彼もまた、横に立つ相棒を見て。
こくりと、頷いた。
――じゃあ、行くか。
視線が促す。それを合図に、ハスティアは幻想をこの世に現出させる。
「……風よ」
「まだかよ!」
獲物を振るいながら、クロッカスは叫んだ。無論その相手は後方に控える二人に対して。幾ら叫んだところで魔力の操作が早くなるわけでもないが、それでも叫ばずにはいられなかった。
ジリ貧だ。ジリ貧とは、成程これか。その言葉が俺の経済状況以外にも当てはまる機会が訪れようとは。
「笑えねえ!」
唸る。槍もまた、唸る。土人形に穂先がぶつかる度に、がいん、と鈍い音と感触が手元に返って痺れを及ぼす。近いうち、限界が来る。腕か、槍か、どちらが先に力尽きるかは分からないが、どちらかは確実に、保たない。
――くそうが。土ごときが鉄に勝とうとしてんじゃねえよ。
クロッカスが選ぶ槍は、安くも無いが、高くも無い。極普通の、鉄製の槍だ。それを土に突き刺して、何れ崩壊するは鉄が先立つという矛盾。それは単純に、魔力という非現実が土の脆さを補って余りあるだけのこと。歯が、牙が、立たない通らない。
だから、乾坤一擲を後ろの二人に任せた。魔力によって高められた硬度は、同じく魔力によって高められた威力によって討つ。それしかないだろう。
――ああ、それしかない。間違っていない。
だが、なんだ。この言い知れぬ悪寒は。
――間違っていない。そうだ。間違っていない。だってそうだろう。前回も「そう」して砕いた。土人形を。
成功例があるのだから、正しい。「前回は引っ掛かる部分があった、だが上手くいった」のだから。
――待て。
そも、何故剣使いたるアキレアがハスティアと並んで最後尾にいる? そこから土人形まで、何足で行ける? その間に体内魔力は減衰するだろう。結果としてそれは「最善の一」を放つに相応しくない。
前回のようにハスティアが土人形を吹き飛ばすのか? まさか。それは既に見せた「搦め手」の一つだ。当然警戒もされる。それに、あれは咄嗟に紡ぎ上げた魔術だろう? ならばハスティアとクレア・ティスエルの立ち位置は「逆」だ。吹き飛ばすだけならば其処にいる意味が、価値が、存在しない。
――ああ、前回もそうだった。「前衛に立つべき剣士が後衛にある」。その不都合を、どうして俺は無視していた?
成功例があるのだから、正しい。クロッカスの頭の中に、再びその言葉が鳴り響いた。「成功例」「前回正しかったのだから今回もまた正しい」。
――違う。
これは。
――正しくない。
「……風よ」
声が聴こえる。小さく、仄めくようにして紡がれるその言葉。何時もなら多大な信頼を持って寄るべきその声に。
「荒れ狂う空よ」
何故だろう、クロッカスの背筋には言い様のない焦燥感が募っている。
「いざや、逆巻け。いざや、天突け」
既に、手の施しようのないところまで行き着いてしまったような。
「遍く全てを薙ぎ払い、遍く条理を吹き飛ばせ」
まさに、奈落へ繋がる崖を転がり落ちている最中にあるような。
「万物万象、虚空に戻れ。……さあ、乱れろ。暴風乱!」
ふわりと、彼らの足元にある砂粒が一つ、宙に翻った。
浅く積もった粉雪が舞い上げられる。未だ空中を漂う氷雪が落ちてくる。白く、白く、白く染まる、世界。
視界が奪われる。風が白を集める。風が雪を求める。一寸先に待つは白、視界は無。耳元に唸る風は吹きすさび、声さえ聴こえない。頬を裂く冷風は乾燥を伴って、擦過傷のような傷を男たちに与えた。
どれほどの間、視界は奪われていたのだろう。数秒、数分、あるいは数十分。超局所的に、人為によって終点と結び付けられた風の行き場は既に空気を求めることさえ困難になりつつあり。平地において、水もなく溺れるという矛盾が形を成そうとさえしている。
ハスティア・ギーヴォ。彼が紡ぎ上げた魔術の粋は、やはりその才に相応しいほどの持続力をもって彼らを翻弄した。その場における「目」があるものを敵味方関係なく白き異界へと叩き込む。
だが、だがしかし。やはりだと、クロッカスは考える。酸素を吸うことさえ危うい風雪の中にただあって、彼は考える。「これはなんだ」と。
分かる。この魔術の有用性は目に見えず分かる。いや、見えているのか。この白の世界は。どちらでも良い。言葉遊びにしか過ぎない。見えぬことこそハスティアとアキレアが思い描いた絵図に最も必要なのだろうと今なら分かる。土人形の術師もまた、飛ばしていた「目」が潰されているだろう。これはフェイトが刹那の閃光にて晦ませるものとは質が違う。あれは眼球の働きを奪うものであって、これは俺たちが見ている世界そのものを真白に染め上げるそれだ。
……で、どうする。敵味方の区別なく視界を奪って、それで、どうする? アキレアが土人形を斬り倒すか? この目前さえ定かではない白い闇の中駆け抜けて? 無茶を言うな。それが出来るなら俺たちだってやっている。第一、この魔術自体に脅威がない。人の視界を奪い去って、足止めするだけの魔術だ。前衛が後衛に求めていた魔術はこんなものじゃない。もっと単純な、暴力、それを望んでいた。……そう、前衛は。
視界は風雪に埋まり、クロッカスは後衛にいるはずの二人の姿を捉えることが出来ない。ただし、脊髄を焦がして止まない「気付いてしまった最悪のケース」は予測出来た。
やがて、風は止まり、舞う粉雪も再び地に落ち着く。空間は白から黒に巻き戻り、ただ逆巻くことが出来ないのは時間だけ。
「……ああ」
クロッカスは思わず声を漏らした。出来ることなら外れて欲しかった自身の予測がまさに正鵠であり、思い描いた「最悪」が此処にあることへの……諦観。
そう、諦観だった。絶望だとか、悲嘆だとか、憤怒だとか。そういう火山の爆発のような感情の激流ではなくて、「だろうな」とか、「仕方が無い」といった、一種の諦め、あるいは認知。
「ついでにあれも連れて行ってくれればよかったのになぁ」
小さく呟いた。そうだ、せめてそれくらいしてくれれば良かった。彼女が死んだら、きっとあいつも悲しむだろうから。
苦笑を浮かべながらクロッカスは獲物を握り直して、今一度土人形に振り向いた。
彼らは「剣と賢」であった。彼らは、「剣と賢」であった。彼らこそが、「剣と賢」であった。
跳ねるように駆けた。飛ぶように移ろう。こいつは馬か何かかな、とハスティアはアキレアの肩に担がれながら思った。
体内魔力は全て脚に回した。一足、二足、三足と進むごとに魔力は減衰していく。だが猶予は十二分にあった。ただ前だけを見据えて走るアキレアの代わりに、ハスティアが後方を確認する。そこには自身が生み出した白い世界が未だ顕現している。暗闇に立ち昇る、白い空間。悪い夢のようだな、と考える。悪い夢であって欲しいのだろうな、とも思う。
「なあ」
脚を止めぬまま、アキレアが語りかけた。
「これからどうするよ。帝国に行くか、連合に行くか」
もうこの国には居られないことを理解した上で、アキレアはハスティアに二択を問う。
「……連合」
「その心は?」
「出入りがあるし、国を幾つか跨げるし」
「……そうだな、聞くまでもなかったかな」
ハスティアを担ぎ直しながら、アキレアは薄く笑う。
「名前も変えた方がいいかな。どう思う?」
「……『剣と賢』は使えない。名前に関しては……」
好きにしろ。ハスティアは肩を竦めた。
「……あそこにいた女は一体何処の誰だったと思う?」
「……さあ。知らない」
「だろうな、だろうね」
言葉もやがて尽きる。アキレアはただ前だけを見据えて走り続ける。やがて王都を越えて、国の境を跨ぎ、何時かは迷宮国家連合のいずこかに流れ着く。
もう、この国では冒険者稼業はやれない。流石にやりすぎた。だからパーティーの名も変えて、必要ならばいっそ「アキレア・アルフィーナ」という名さえ捨てる覚悟で、こうして賭けている。
……一体そこまでのものを捨てる覚悟までして、何をしているのか。
言葉で表すのは簡単だ。
遁走、逃避行、撤退、逃亡。
どれでもいい、好きなものを選べばいいように当てはまる。つまりはそういうこと。そういうことを、この二人はしていた。
「どういうこったよこれは!!」
同刻、異なる場所。ザンツ・ストゥルマンはクロッカス・アジャルタよりも一拍遅れて事の真相に気付いた。そして、激発した。
「なんでいねえ! あの二人が、どうしていねえ!!」
宵をつんざく、男の怒声。それに答える者はなく、ただ際限なく広がる闇に飲まれて消えて行く。
「……っ! あいつらが! 決めるんだろうが! なんで! なんでいねえ!」
「うるせえな、ザンツ・ストゥルマン」
ようやく反応を示したのは、クロッカス。
「ぎゃんぎゃん喚くな。喧しい」
「てめえ!」
ザンツはクロッカスに詰め寄って、勢いのまま彼の首元を掴んだ。そのまま当たり散らそうと口を開いたザンツは、クロッカスの表情をそこで初めて伺い知って、息を飲むように言葉が途切れた。
「簡単なこったよザンツ・ストゥルマン。あの二人は俺たちを時間稼ぎに使って逃げ出しただけの話だ。そうだな、そうだよ。なんでそんな考えが及びもつかなかったのかね。いやあ我ながら笑える」
嘲笑。それは一体誰に向けられたものか。
離せよ。言葉にはせずとも、クロッカスは力を込めた左手でザンツの手を払った。そのまま首元を叩いて、服の皺を直す。
「『剣と賢』だったんだよ俺たちは。はは、そういうこった。『剣と賢』だったのさ。それ以外は付属品だ。間違っちゃねえよ。その通りさ」
「許せよ、フェイト」
顔はザンツを向いたまま、クロッカスはそう言った。
「俺は『このまま行けば近いうちフェイト・カーミラという人間は切り捨てられる』と考えていたんだ。まあ、仕方ねえよな。お前、弱いから。真っ当な魔術師やってればそうはならなかったんだろうけど、お前はそうなりそうにもなかったから」
言って、またクロッカスは嘲る。
「結局、あいつらは頭と心臓以外丸々切り落としていったわけだけど」
「……んな、馬鹿なことがっ!」
未だ叫ぶザンツを手で制して、クロッカスは淡々と、ただ事実だけを並べていく。
「無いわけじゃねえのを知ってるだろ、阿呆。どうしようもない状況に陥ったら、仲間の一人二人捨て石にして逃げる。こんな仕事やってんならそんな話を最低でも耳にしたことぐらいあんだろ単細胞。まあ流石に過半数をぶった斬って逃げ出したってなら、信用もガタ落ちで、二度とパーティーは組めねえだろうけど」
「ならやんねえだろ!」
「落ち着けよ馬鹿。『この国』での話だろうが。俺でさえそういう事態になるって分かってんだから、あの二人も承知のことだろ。さっさと王都を抜けて国を跨いで、余所の国に行っちまえばそれで終わりだ。『剣と賢』も捨てて、いっそアキレア・アルフィーナ、ハスティア・ギーヴォって名前さえ捨てちまえば誰も分からねえだろうよ」
「そもそも、切り捨てようと思ったのも多分、今回が初めてじゃねえな。ああそうだ。前回も実は逃げられるようにしていたはずだ」
その時はたまたま勝てたからそうしなかっただけで。あの二人はその時から既に「万が一」を考えていた。でなければ剣士アキレアが後衛に回る理由がない。
クロッカスは一つ、息を吐いた。
「まあ、仕方ねえよ。なっちまったもんはしょうがない。悪いね、土人形さん。こっちの都合で長々と待たせちまって」
槍を一度、振り直して。クロッカスは再度土人形に向き合って。そこで僅かに、眼を丸くした。
「……ああ、そりゃ傍から見てれば楽しいだろうね」
土人形を使役する魔術師は、一切そうする必要がない。魔力によって一定の形を整えたそれを、動かし操り敵を討つだけならば「そう」する必要がない。だけれども、魔術師は、どうしてもその感情を見せたかったのだろう伝えたかったのだろう。
色彩が、土人形の顔に宿る。
それは余りに美麗で、衒いなく、非の打ち所のない、笑みであった。
彼、あるいは彼女からすればこの有様はこの上ない喜劇で。どこまでも愉快で面白くて。笑いたかった。嗤いたかったのだろう。出来ることならクロッカスだって笑っていたかった。
――いや。
既に哂っていたか。口元を手でなぞって、彼は思う。
――勝てるかな。
――勝てねえだろうな。
――逃げられっかな。
――もう無理だろうな。
嗚呼、それはなんて痛快な喜劇。
だが不思議と、クロッカスからはそれ以上の恨み言が出てこなかった。認めているのだろう、内心では。あの二人はとても冷静に、至極真っ当に、この場に置いての最適解を導き出しただけだということを。
――勝てねえだろうな。だから逃げる。
「そりゃあそうするだろうなぁ。なんせ俺たちゃ冒険者。誇りも矜持も自分次第。生き死に賭かってる鉄火場で、そんなものは犬にでも食わせちまえって話だ」
「おら、ぼうっとしてんなよ阿呆」
突っ立ったままのザンツを槍で小突いて、クロッカスは構えを取る。
「もうこうなったらやるこたぁ一つしかねえだろう? 最期の最期まで足掻くだけだ」
ただそれでもたった一言、アキレア、ハスティアに伝える言葉があるとすれば。
――恨むぜ。
それだけでいい。
――恨めよ。
それだけを脳裏に浮かべて、アキレアは走り続ける。
他に述べる言葉はない。述べる言葉は陳腐になる。それだけでいい。それだけで。
駆け抜ける道中、アキレアとハスティアは一人の男を見た。暗闇に溶け込むような、薄気味の悪い男だった。
アキレアに一切の瑕疵がなかったのなら、一言くらい、「今はそっちに向かうのはよしといた方がいい」と告げてもよかった。だが状況がそれを許さない。
この時間、あの方角。ただの偶然だとは思わない。ならばその男の記憶に出来うるだけ浅く、最も良いのは記憶に残らないことだ。だからより深く体勢は沈みこみ、より早く駆ける足は円を描く。
男と交差するその一瞬、まるで硝子をその双眸に嵌め込んだような、出来の良い西洋人形のような男の眼球は、ただ一点を見据えたまま微動だにしなかった。