第二十五話
「それ、どうして知っている?」
男はその言葉と同時に、椅子に落ち着けていたはずの腰を僅かばかりに浮かせていた。
咄嗟に逃げ出すため、とも、あるいは腰に佩びた刀――海浪から流れてきた本場本物のそれ。男にとってはようやく手に入れた念願の――を抜くため、そのどちらとも取れる行動は紛れもない防衛としてのそれだった。事と場合によっては斬って捨てて逃げる。衆人環視の只中ではあるが、そうすることを辞さない。余りに明確な取捨選択の意志は翻ってその男の果断と思い切りの良さを示しているのかもしれない。
逆算すればそれだけ、自身の横に腰を落ち着けた存在から発せられたその言葉が衝撃的だったのかもしれない。それもそのはずだろう。男が知る限りは「その事」に居合わせた人間は随分と少ないはずだ。まかり間違っても両手を越えないだけの人数。そして内一人は既に死んでいる。だからこそ、冒頭の言葉に繋がる。「それ、どうして知っている?」。
分からないでもない、分からないでもなかった。確かにあの場にいた人間は数少ない。だがしかしそれを知識として持ち得ている人間の数は男からすれば検討がつかない。事態は単純、その一件がどれほどの人間に語られたかだ。秘して語らず、そういった内容のものではない。むしろ公に語られてしかるべきことだ。そしてそのようにして広がっていくことは男からすれば望ましいことではなかった。
男に語りかけた存在は、吟遊詩人だった。此処は酒場で、その詩人は先ほどまで酒場の片隅で朗々と唄っていたばかりだ。詩人は客から受け取った幾許かのおひねりを握ったまま、カウンターに座る男へと接触を持った。かすかに浮いた男の腰を抑えるよう詩人は両手を男の肩に起き、腰を落ち着けるよう促してから隣に座る。店主に二杯の酒を頼み、一杯は自身に、そして一杯は男に差し出した。
「毒でも盛ったかい」
男の口を吐いたのは冗句の色彩を纏った言葉だった。その躍るような口調とは裏腹に、真実差し出された酒に毒を盛られることを確かに懸念していた。
言葉を受けて、詩人はさも愉快そうに笑った。衒いのない、いっそ清々しい笑み。そのままその表情に従って、一思いにグラスの中身をかっ食らいたくなるような、そんな顔。だが生憎男はそこまでロマンチストでもなく、ただ器を被せるようにして持った手を揺らして、凪いだ湖面に緩やかな波を起こすだけに留まった。
笑みを浮かべたまま、詩人は紡ぐ。別に飲もうが飲まなかろうがそんなことは些細なこと。ただ、酒場にあって情報を知ろうとするのなら、一杯奢るのも当然だろうと切って捨てた後に、「知っている」その理由を。
「見ていた。……見ていた、ねえ。ふうん。……別に、なんでもない」
あの場に置いて何時から、何処から。見ていたというのか。口からの出任せであることは十分に考えられる。だがその真偽の程は男からすれば欠片ほどの興味もなく、看破すべきかは只一つ、この男が、この詩人が、「敵かそうでないか」。腰は確かに落ち着けている。長尺の刀は取り回しにくいかもれしれないが、そこまで憂慮するほどのものでもない。男は右足の爪先で床を強く噛んだ。誰に知れるでもなく、音も無く。
夢想する。軸は右の爪先。駒のようにそこから三百六十度転回。初動は腰から上その半身。佩いた刀と腕の間に距離を作る。顔が詩人を向いて、腰が正面のまま動じないその瞬間に刃を抜き放ち、首を落とす。ちりんと甲鳴る納刀と共に、再び今この状態に着地する。
「で? その見ていた人が一体何の用で?」
何時でも殺れる。絵図は描けた。確信もある。ならば幾許かの問答に応じる余地も残る。
「はあ? 知りたい? 知りたいって、あの夜についてかい?」
「見ていたんだろう? それに内実についてはもう色々と風説が流れている。吟遊詩人からすればそれで十分だろうよ。それとも詩のネタにするわけじゃないのかい?」
「……まあいいさ。語るだけなら文句もない。聞きたいなら聞かせてやるよ。あの晩について」
あの夜は、晩飯を食った後に店を変えて飲みなおしていたんだ。あの時期はいつもそうだが、あの日は特に寒かったからな。雪も降っていた。そうなると酒を幾らか引っ掛けて、身体を暖めたくなるのも道理ってもんだろう。……人数? ああ、その時は三人だ。そう、「剣と賢」の三人。よく知ってるな。よく調べてる、と褒めたほうがいいか? いらない? そいつは残念。にしても懐かしい響きだな。「剣と賢」。
五人組だったろうって? そうだな。残りの二人は先に帰ったよ。いや、その内一人は後々戻ってきてたのかもしれない。……いや、それもどうかな。そもそもあの日あいつに変えた店を教えていたかどうか。それにあいつはいっつも素寒貧だったからな。飲む余裕があれば飲む日もあったが、まあ往々にして無駄金を使うのを拒んでいた。まあ結局、酒を飲むのとは別のようで戻ってきてたんだが。
店ではどれくらい飲んだか。少なくとも前後不覚になるほどは飲んではいないだろう。今まで生きてきて潰れるほど酒を飲んだ経験もないしな。まあそこそこ、だ。可もなく不可もなく、手前の許容量を越えない程度に、だ。適当に肴をつまみながらやってたから、時間はまあまあ経っていたんじゃないか? 雰囲気的にももう暫くしたら解散、て感じだったな。ああ、あの時にいた斧使いは別だ。あいつは相当なザルでな。飲んでも飲んでも潰れない。「らしい」男だったよ。良くも悪くもな。そいつだけは飲み足りない様子だった。馬鹿みたいなペースで空けてたんだがな、見てるこっちが「何故まだ飲める?」って疑問符浮かべるくらいだ。もう一人? あいつは……よく覚えてないな。飲んでいたような飲んでいなかったような。会ってみりゃ分かるけど結構な変わり者でね、付き合いは長いが何考えているのか俺も未だに分からんよ。あの時も多分、一人で変なことやってたんじゃないかな。
ともあれ、酣って奴だな。もう一杯二杯やったら解散、てな時分だった。あいつが血相変えて走りこんで来た。……そう、槍の。そう、素寒貧の。そいつのツラを見た途端にザル男が開口一番に喧嘩を売っていた。不仲だったからな。それにしたっていきなり喧嘩腰っていうのも余所から見れば随分なんだろうが、俺たちからすれば慣れたもんだった。あいつらなりの挨拶みたいなもんさ。当人に言ったら二人揃って否定するんだろうけど。そういう意味ではある意味仲が良かったのかもな。……で、喧嘩を売られた方は無視だな、完全に無視。意図して、というよりは余裕がなかったんだろうな、じゃれるだけの。
俺たちが座ってるテーブルに近づいて、一枚の紙を置いた。中身を見たら……ああ、なんて言ったらいいか。そうだな、「どっかの誰かが人殺しに喧嘩を売ってた」とでもしておこうか。穏当じゃないな。少なくとも酒場で阿呆と馬鹿がやるようなもんじゃなく、もっと血腥い奴。ご丁寧に何処其処で待つ、なんて書いてあるんだから、其処に行きゃ殺し合いが見物できるって寸法だ。
どういう流れでそんなもんが場末の酒場で管を巻く無名冒険者にまで巡ってきたかは知らないが、まあ予想はついた。それでどうする、行くか行かないかって話だ。俺としてはどっちでも良かったんだが、いや、あの当時としては「行くべき」だと思ったな。ああ、そうじゃなきゃあんたが今此処にいることもないだろうしな。逆に言えば今こうして俺が此処にいることもなかっただろうって話だ。どうでもいいか。
単純な儲けの話だよ。どうやらその「どっかの誰か」はどこぞのお偉いさんの親類縁者だったらしくてな。いや、実際そうなのか知らんがね。そういうことにしておいてくれ。「知らなかった」ってことに。言い訳だがね、まあしないよりはマシだろう。で、儲けの話だったな。俺たちは今も昔も冒険者って奴だった。稼ぐのは自分自身の腕っ節一本でね。それが無けりゃ食えないが、それさえあれば食っていける稼業だ。世間一般の商家だとか農家だとかと比べれば、しがらみってもんが少ないんだろう。商家は買う側がいれば売る側がある。農家もそうだ。農家に関しては土地もある。土地があるってこたあ良いことかもしれないが、同時にその場に縛られるってことだ。冒険者にはそれがない。行こうと思えば何処にだって行ける。実際に行けるかどうかは置いといて、だ。「そうだあそこに行こう」と思っても天災で道が寸断されてりゃどうしようもないしな。それに、あまりにもお偉いさんからお声掛けされたら、断ることも出来ない。断ったっていいんだが、自分より強大な相手から嫌われるってのは相当なリスクだろう? ああ、そう考えると冒険者ってもんもリスクの割に自由がないのかもしれんね。どうして俺たちは好き好んでそんな職に就いているのかね。ひょっとしたら、好んで就いている奴の方が少ないかもな。
……ずれたな、話が。儲け、儲け、儲けの話だ。俺たちとしては二択だ。その場に行って助太刀、見なかったことにして解散。さてどうするってことになるんだが、そこで「お偉いさんの親類縁者」だってのが生きてくる。流石に幾ら世間知らずだろうとはいえ、好き好んで何人もの人間を殺してる頭がいかれた奴を相手に一対一で仕掛けているとは思わんが、万が一その親類縁者……ああ、面倒だな、お嬢さんでいいか、お嬢さんで。……そのお嬢さんが死に掛けていたらどうだ。俺たちが救ってやれば、少なくない謝礼は貰えそうだろう? 少なくとも刀の頭金くらいは。……そうだな、当時から俺はこの刀ってもんに懸想していてな。別にこれを握れば強くなれる、なんて馬鹿げたことは考えていなかったが、何時か手にしてみせようと思っていた。……目標叶っておめでとう? そりゃどうも。
とにかく、結構な謝礼が出る可能性があった。それで相手は一体なんだ、そりゃその当時巷を騒がせていた殺人鬼だ。さて、しかしてその殺人鬼、俺たちの、「剣と賢」の手に余るものか? 決してそうは言えないだろう。何処其処の誰彼が殺されたって話はよく聞いた。だけどそのどいつもこいつも一流の魔術師じゃない。いいとこ二流だ。そういう連中しか殺れない相手だ。話題になった原因はその連続性と影を踏ませない慎重さだ。その慎重さも、一介の学生に見破られたんだから大いに運が絡んでいたんだろうがな。さて、どうだ。相手は実力二流の殺人鬼、多分単独犯、多くとも二人、多分そんなもんだろうと踏んでいた。そしてこっちは冒険者少なくとも四人だ。見に行って先に到着してた奴が死んでいても、数の有利で勝ちは揺らがないだろう。
……数の利? そりゃあ重要さ。例えば魔術師一人に対して剣士一人魔術師一人で相対する。まず剣士が突っ込む、魔術師が詠唱する。さて敵の魔術師はどうする? 最初に剣士を倒す? ほら魔術が飛んでくるぞ。じゃあ先に魔術師を潰すか? はい剣士に距離を詰められて斬られる。単純な話だろう。あまり荒事に首を突っ込まない吟遊詩人には分かりにくいかもしれないが、徒党を組むってのは強烈なんだ。少数の敵に対しては一足す一は二じゃない。三にも四にもなる。だから格上の相手と一対一でやろうとするのは単なる自殺志願者だし、わざわざ敵が増えることを許容する奴は底抜けの間抜けだ。……遠回しの批判? いや、迂回したつもりはないよ。そのままの批判だ。行った先にいたのは自殺志願者と間抜けってことだ。
さて、俺たちが負けるはずはない。お嬢さんがまだ生きていりゃ謝礼も貰えるかもしれない。なら行った方がいいだろう。そのまま帰っても寝るだけだし、空振りに終わったとしても酔い覚ましに雪を見たってことにでもすりゃあいい。酒場での勘定を終えて、紙に書かれていた場所に走っていったわけだ。走ってる時の事はよく覚えているよ。なんてったって横っ腹が痛かったからな、飯を食い終えた後だからあれはキツかった。
長く喋ると、どうにも喉が渇く。それも、のたりと口の中がもたつくような渇きだ。目の前には手付かずのグラス。それでもやはり、これに口を付けるのはどうかと思う。
男は新たに酒を一杯自分で頼もうかとも考えた。だがそれも一瞬で否定する。手元にある酒を飲んでからにしろ、と店主に睨まれるかもしれないというのもあるが、それよりもだ。単純に河岸を変えた方がいい。河岸を変えたかった。もうこの店では注文する気にならない。
口腔内の粘り気は気になるが、致命的なものでもなく、語るに耐えぬものではない。人差し指が、グラスの一本足、その土台を小さく叩いた。
「それからは……そうだな。……行った、見た、斬った。それだけだ。特に面白くもない。そりゃあそうだ、たったそれだけの話だから」
話を切り上げるかのように男は口を噤んだ。しかして、詩人がそれを許すはずもなく、無論そのような真実味のないところで打ち切られるのは望む所ではないのだから。知りたいのは其処から先。何があり、何が起こり、何故その結果に至ったのか、その思考。
「……ああ、ああ。そうだな。生きてた。三人が三人ともだ。そこは確かに、俺も不思議には思っていた。俺はてっきりその場には死体が転がっていると思っていたから。だってそうだろう? 順序的にはこうだ。まず最初にお嬢さんが件の殺人鬼と接触する。次にあの阿呆だ。そして最後に来るのが俺たちって寸法。順当に行けば、俺たちより前の二人は二対一ってわけじゃないだろ? 一対一が二回続くんだ。数的有利があったわけじゃない」
言葉を切る。
「じゃあ、殺れるだろう。全うな頭の持ち主だったら、さっさと殺すだろう。来た順に、速やかに、単なる作業だとしても。少なくとも、俺なら殺す。殺人鬼と同じ立場になったとしたらな」
生憎、其処まで各所に喧嘩を売ったつもりはないが。そう言って皮肉な笑みを浮かべ、詩人に向ける男の視線は、胡乱なものだ。喋る自身でさえ信じられない言葉を、人は欺瞞とする。
「だが、殺らなかった。殺れなかった? どっちでもいいな。何故そうしたのか? 理解の及ばないところだ」
ああそうだ、全くもって理解出来ない。だが、理解こそ出来ないが……。
「理由は分かる。簡単だ、『俺が死ぬわけがない』と高を括っていたのか、『死んでも構わない』と思っていたのか、『格好良く死んでやる』とでも思っていたのか、『いっそ死にたい』と悲観していたのか……。この四つのどれかだ。……まあどれにしても」
「愚か者の考え方だ」
「人間は皆死ぬ。死なない人間はいない。死なない人間は最早人間じゃあない、化物だ。人間じゃなくなった結果が、『夜を駆る者』だ。あれが顛末だ、あの化物が、結末だ。誰も彼も死にたくはないはずだ。死にたかろうはずがないはずだ。生きていられるならその方がずっといい。だけど決して、ああもなりたくないはずだ」
それは、一体誰に向けた言葉だろうか。それは、果たしてどんな色彩を帯びた言葉だろうか。
「殺される前に、殺す。殺されるくらいなら、逃げる。それが当然だ。人としてそれこそが全うだ。だからそう、自ら好んで死地に入り、死地を生み出していたあの三人は……」
全うではない。「全」ではない。ならばそれは人として。
「欠けている」
若さ故か、狂気故か、誇り故か。それもまた個々人の哲学による箇所が大きいのかもしれない。だが、只中にあってぶれることのない真実はただ一つ、「人は皆、死にたかろうはずがない」。
「一人はわざわざ殺せる機会を逸している。二人はわざわざ死地に赴いている。俺だったら殺せる機会がある敵なら殺す。敵うことの無い相手だとしたら……」
男は僅かに言葉が詰まった。だが、やがて何かを諦めたかのように深く息を吐いて、呟く。
「逃げるね。何よりもこの身が大事だ。当たり前だろう? きっとあんただってそうだろう? なあ」
詩人は笑った。それはとても朗らかに。
嫌な日になった。男は思う。一日の最後に、これ以上ないほどのケチがついたと嘆息する。
酒場を出た。満天の星空が頭上に瞬く。光り輝くそれらの我が物顔が、憎たらしいほど清々しい。
「で、だ」
夜空を仰いだままに、男は語りかける。
「あんたは何時まで着いてくるつもりなんだ? もう大分話したろ? 俺の言いたいことも言いたくないことも全部ひっくるめて」
今更だよ、今更だがな。そう男は自嘲する。言いたくないと銘打ってもその程度は「あまり口にしたくない」だけの話だ。未だ癒えぬ傷のように心の中にどうしようもない瑕疵が存在しているわけでもあるまいし、むしろそう思う方が過ちである。それを理解していた。その選択に詫言の一つや二つ述べてもいいが、しかし同時に後悔もなかった。きっと男はあの時を百度繰り返したとしてその百回全てを同じ行動を取っていただろう。そういう人間だと男は自認していたし、それこそが正しいと男は考えている。
「詩人のあんたは面白可笑しく脚色して歌うんだろう。別段俺がそのことにケチをつけることもあるまいさ。ならもういいだろう? 言いたくはないが、そろそろ目障りだ」
男の後ろにいるだろう、詩人に向けて辛い言葉を投げつける。多分に、剥き出しの感情だった。
「いやさ、俺は別にここでやってもいいんだが。お前の言うところの詩人野郎からやめてくれと言われていてな」
後ろからの声。……誰の?
数瞬の、間。後に、男の背なにじわりと滲む、数滴の汗。
詩人の声ではない。では一体、誰の声? そしてそれは、何時から俺の背後にいた……?
知れず、喉が鳴る。小さく、鯉口を切った。
振り向くか? いや、それは悪手だろう。それよりも、距離を取りたい。このまま一歩、二歩、酒場から離れる。意識をそちらから散らす為に、言葉で繋いで。
「……『やってもいい』。随分と剣呑な言葉に聞こえるんだが、どうかな。ええと……」
「犬童。犬童隆景。ああ、こっちだとタカカゲ・インドウってなるんだっけか」
男の足が止まる。見開かれた目と、口元には苛烈な笑みが浮かんだ。背中に浮かんだ汗が引き、代わりにふつふつと闘志がみなぎる。
「……参ったね、それこそ海楼の人間から恨みを買った覚えはないんだが」
「気にすんなよ。俺もあんたに個人的な恨み辛みがあるわけじゃねえ。第一、初対面だよ、ええと……」
ちらり、隆景を名乗る男が傍らにいた詩人を見やる。その意図を受けて、詩人もまた口を開いた。
「麒麟児の三歩手前」
「そう、それだ。随分変わった異名を名乗ってんね、あんた」
「若気の至りだ。気にしないでくれ」
男は振り返り、その海楼出身の名を持つ男の姿を認めた。黒髪に黒目、「楼装」と呼ばれる海楼独自の着物を身に纏ったその男。腰には大小の刀を一振りずつ。顔立ちは若い。青年とも取れるし、未だ若年のようにも見える。海楼の人間が持つ独特の――おおよそ実年齢より若く見られる――「年齢不詳」感があった。
「で? そのインドウさんが一体何の用で? 恨み辛みはないんだろう?」
なら無駄な諍いはやりたくないんだがね。男は肩を竦めて心底面倒くさそうに嘆息する。
「そう言うなよ、つれねえな。恨みはなくとも用事はある。だからちょっと話を聞いてくれねえかな。三歩手前サンよ」
言いながら、男――隆景―は、腰に佩びた刀に右手の甲を当てた。
「なあに、そう長いこと掛からねえから。大丈夫、たった一合で終わる」
だから付き合えよ。つべこべ言わずに。
突き刺すように男を射抜くその殺気は、獣……いや、「鬼」のそれ。
「海楼には鬼が棲む」。彼の国の戦士たちの勇猛さ、あるいは獰猛さを指して大陸ではその様な言葉が広まっていた。大言か、はたまた壮語か。遠く離れた島国から伝わってくる武威列伝は往々にして信憑性の高いものではない。……しかし。少なくとも。この犬童隆景なる男が纏う覇気はその言葉に相応しいだけの圧が伴っている。
ならば、その内実は。質実剛健たる鞘を持つのは分かった。ならば、本身の刃は如何なるものか。……抜けば分かる。抜けば分かる、が。
「此度は、逃げられますまいよ」
詩人が謳う。朗々と。
「自己紹介が遅れました。これなる詩人はノルビス・ラウラスと申す者。手前味噌ではございますが、卑しくも商家であるところのラウラスに連なる小童でございまして」
右手を、左胸に。足は交差させ、頭頂を軽く下げて。交差させた足、その爪先で地面を一つ叩いてから、両手を広げる。
「ご存知かもしれませんが、この一商家、馬鹿にしたものでもございません。その手は人よりも少しばかり長く伸びて、その耳は人よりも僅かばかり遠くの物音を拾い上げる」
まるで、世界を抱くかのように。
「此方様がいずれの三界に紛れましても、我が一族はぜひぜひと息を切らせながら、どうにかこうにかその裾尾を摘むでしょう。……是々非々、記憶の片隅にでも留めておいて頂ければこれ幸い」
慇懃無礼とはこのことだろう。謙った言葉と態度を示してこそいるが、しかして、詩人が浮かべるその表情に一切の媚はなく。傍らに立つ鬼に似た、凄烈なる笑みを浮かべていた。
男は歪に、その表情を崩していた。
「ああ、俺には一人、連れがいるんだが、そちらはどうしたのかな」
「ご安心を、お連れ様にもパートナーをご用意しています」
「……成程」
――逝ったか、ハスティア。
脳裏を過ぎるは当然の帰結。だが、その酸鼻なる血塗れの結末が訪れていたとしても、男に一切の逡巡はなく、思考を巡らせるは今ここにおいての最適解。
海楼の侍は「一合」で十分だと言った。それには男も同意するところだ。視線を隆景から外さずに、男はゆっくりと歩を進める。乗ってくるか? 乗ってくるだろう。その自信がなければわざわざ目の前に姿を晒すはずが無い。この隆景という男はラウラスが現時点で用意するに至上かあるいはそれに順ずる程度の実力の持ち主だと仮定する。不意を討たずとも自身に勝てる。強烈な自負が存在するのか、それとも男の力量をつぶさに測った結果か。後者ならばどうしようもない。
では、敵を背にして逃げるか。悪くは無いが、良くもない。何処までラウラスの手が伸びているか分からない。町を封鎖されているかもしれないし、そも、眼前の侍から逃げ切れるかどうかも分からない。
なれば、まず一太刀。全力でもって斬り抜ける。如何に相手が海楼の侍とはいえ、男にもこれまで積み上げてきた自尊と自負があった。それで飯が食えるわけでもないと知っていたが、だがこの場において確実に生きたまま突破出来る手段を持ち得ていないのもまた事実だった。
鬼札はあの詩人。真実この詩人にラウラスの血が流れているのなら、人質に取るのが一番いい。それならばやはり、この侍が邪魔だ。
ゆっくりと酒場から離れるように歩いていた男を追う様に、侍も歩み続ける。互い互いが街道を跨ぐようにして睨みあい、次いで、遠ざかる足と追う足は、近寄る足と立ち止まる足に変わる。
一歩、男はにじり寄る。動じず、侍は、大刀の柄を握る。二歩、男もまた柄を握る。動かず、侍はただ黙す。三歩、男が足を止める。不動、侍はただ時を待つ。
臥待月が、互いの鯉口から微かに見える二刀を照らす。
不意に、
男が、
嗤う。
――断刀
海鳴――
生涯において、そして多分、将来において。ただこのひと時が、男にとっての最盛期であった。
若さが齎す荒さもなく、老いが齎す衰えもない。十全に満ち満ちた肉体。万全に整った精神。技量は未だ磨けるだろう、だが肉体はこれより落ちていく。肉体は今よりも遡れば良い時があっただろう、だが技量は今に及ばない。拮抗である。これ以上ないほどに両輪が等しく合致したのが、今この瞬間であった。
ならば、この一刀は、まさに侍が語ったように「たった一合」で十分であるものだ。相対する尽くを上と下に分かつ、「断つ刀」に相違ない。例えそれが人ならぬ鬼であったとしても、この一撃は「鬼をも殺せる」。その証拠に、侍はまるで雷に打たれたかのように動かない。いいや、動けない! 男はそう確信して。
「陰し剣」
侍う者の、口が動いた。
その時間があれば、既に男の剣先は侍の脇腹を斬り裂き腸を抉り骨を削り取っていただろうはずなのに、時間がまるで固定したかのように、進まない。
男の目は見開く。握った刀が遅々として進まない。風は凪ぎ、蹴り上げた砂埃は空中に貼り付けられている。空間が、静止している。その中で、唯一時間を取り戻している存在が、一個。
「宇迦之御雷」
――嗚呼。
男は悟る。
――動けないのは、お前じゃなくて。
すらりと、侍の刃が動く。
――俺、か。
男の刃は、ぴくりとも動かない。
――畜生、鬼めが。
しぬ。
――はやすぎる。
ああ、しんだ。