第二十四話
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
そのような言葉がある。もしも彼にこの言葉を当てはめるとしたら、到底彼は賢者とは呼ぶことができない。彼はまず間違いなく愚者であり、それもとびきりのものだ。
人はまた、繰り返す。
特に彼はそうだった。繰り返し々て、それでやっと自身の身を刻む痛みを覚えて、痛みを知って、それでもなお彼は同じ過ちを繰り返す。それを愚者と呼ばずになんとする。痛くなければ覚えまい。痛さを知ってなおそれに手を伸ばし続けるのはなんとする。
だが、彼はそれでいいと頷いていた。賢者になろうとは思ってもいなかった。憧れはあったのかもしれない、憧憬を抱いていたのかもしれない。しかし、そこまでだ。自らが賢者などにはなれないという分かりきった答えに今更落胆することもなく、彼はただ愚直に手を伸ばし続ける。それに近づけば近づくほど肌は焼け爛れ、手のひらは切りつけられていくと知っていても、それでも彼は、信念をもって物事を為さんとする。
そも、愚者は果たして悪なのか。
そも、賢者は果たして善なのか。
最早善悪の彼岸など通り越した先にある道へ向けて歩くのに、そんなことは瑣末事にしか過ぎない。しかして、彼は確実に愚者であり、かくして、彼は真実形容しがたきなにものかであった。……なにものかに、なるつもりだった。
始まりは、あの夜。
では、この夜をなんとしよう。
名付けるとしたら、この言葉がいい。
――再開は、この夜――
かくて繰り返す夜は始まる。
「一つ、教授してあげよう」
男は言う。口調に愉悦も一切の澱みも含まず、ただ淡々と。それが自身のやるべきことだと理解しているが故に、義務感めいたものに突き動かされた口調は、余りにも白々しく彼女の耳に届いた。返す言葉はない。返す言葉は、出てこない。
「魔術師は如何に優越を得ようとも、決して近づいてはいけない。魔術師には魔術師の距離がある。それを越えて敵に近寄っていいのは、相手が確実に死んだと言える時だけだ。……例えば、此処」
男は自身の腹部を手のひらでなぞりながら言う。
「此処に風穴を空けた、だとかなら、近づいてもいいだろう。流石に、死んでいる。僕は今のところ、腹部に大穴を開けられて生きていた人間は見たことがないよ。……これは君からすればいらぬお世話だったかな?」
「……ええ、……っつぅ……全く。それは私に語るべきではありませんわね」
彼女……クレアは、身体中からのあちらこちらから投げかけられる痛みという名の悲鳴と陳情を必死に脳で捌きながらどうにか言葉を捻り出した。
鈍痛が、身を苛む。
屈辱が、喉元にせり上がる。
だが。だけれども。ここまでは想定していた苦痛にしか過ぎない。
咄嗟に、身を捩る。牧羊犬に追われる羊のように、必死さをむき出しに降りかかる氷からその身をかわす。最早、余裕など何処にもない。自慢の金髪も泥と汗に塗れ汚れ、黒の道衣も目立たないだけで汚れと水気を吸い込んでずしりと重く、皮膚に張り付いて熱を奪う。息も既に、切れ切れだ。
「随分と、ええ、陰湿な、攻め方をなさるのね」
「仕方ないじゃないか。これ以上強く撫でると君には最早致命傷だ。一応僕も聞きたいからね。どうやって此処まで辿り着いたのかをさ」
死者には喋る口がない。そんなことを匂わせて、男は杖を地面に突き刺して、身体をそれに寄せた。
「分かるよ。出来うるだけ時間を稼ぎたいのは。それは死ぬのを拒むことを意味している。布石でも打っておいたのかな? 来るのかな、誰かが。来るのかな? 誰かは」
「嫌になりますわね。そういう言葉はレディに使わないほうがよろしくてよ」
「それは失礼。……氷槍出づり、其を贄とし喰らえ」
再びクレアは己が身に鞭打ち、その場から身を翻す。後を追う様に、地面から図太い氷柱が幾重にも突き出してくる。一つ一つが人一人抉り殺すに十分な鋭さと厚さを持っていた。右に、一歩。眼前にせり出した三角錐の氷柱、それが纏った冷気に当てられて、思わず全身が底冷えする。
――まだ、来る。
左に、半歩。視界の端に先ほどと同じような氷柱が突き上げるのを見た。空気裂き天を貫かんとするそれだ。同時に、筋肉の収縮と緊張、それによって咄嗟の身動ぎが出来ない一瞬が彼女の身に宿る。後方で、ぱきり、と地面から罅が入った音がした。続いて、三度の風切り音。かくて三方を氷柱に囲われた。
思わず、男を見る。予断なく男は次の手に移っている。
「氷撃の、二。砲落」
空中に生み出された拳大の氷が、一直線にクレアに向かって撃ち放たれる。
――早い。
――右、氷柱。
――左、氷柱。
――後方、氷柱……!
逃げ道をまず塞いだのか! クレアは刹那舌を鳴らす。身体による回避行動は不可。ならば残された道はただ一つ。
「凍崖!」
杖を持たぬ手を勢い良く振り下ろして、自身の眼前に氷の壁を生み出した。紡いだ真言はたった一つ。十全に体内魔力を編めたとは思ってもいないし、十分に世界魔力を収束できたとも思っていない。ただ力任せに縫い上げただけの代物だ。解れは目立ち、縫い目は揃わぬ不恰好なものだろう。
だが、決死のものだった。その一言に今自身が生み出せるだけのありったけを叩き込んで、装丁だけは整えた。……だけ、か? 果たしてそんな単純な言葉で括っていいのか? これには一切の衒いがなかった。瀬戸際に追い込まれての、純然たる「彼女」が込められているはずのものだった。幾ら魔術師の在りように背く、彼女の矜持に悖る、たった一工程での詠唱とはいえ、それには彼女の必死さが詰まっているはずだ。ならばこの魔術、礫一つごとき跳ね返してしかるべきだ。
クレアの世界がのたりと鈍くなる。どこまでも頼りない、しかし寄る辺がこれしかない薄氷一枚に、それを隔てた向こう側には蛞蝓が這うような速度で迫る氷の礫。男の表情は勝ちを確信しているとも、防がれることを考えているとも取れない、ただつまらなそうな面だけがあった。
ゆっくりと、ゆっくりと、礫が壁に突き刺さる。ぱしり、と音を立てて、壁に小さく罅が入った。歪む。壁一面が、衝撃を受けて撓んだ。クレアはその時氷の壁に反射した己が表情を窺い知ることが出来た。口元は犬歯は剥き出しに笑みを浮かべ、目は爛々と光り瞳孔は猫科の肉食獣のように縦に割れていた。凄絶な笑みが、其処にはあった。
何処まで行っても現状は崖っぷちだ。この一撃だけを防いだとて、そこから勝利に繋がる妙手が繰り出せる保証もない。どん詰まりがこれからも肩を組んで親しげに語りかけてくる。だが、この一瞬だけは、敗れる気がしない。破れる気がしない。ならば今はそれだけで十分だと思えた。一瞬の勝利を勝ち取れるのなら、後はそれを連続し続ければいい。絹糸一本で霊峰の上を綱渡りするようなものだったが、不思議と絶望は湧いてこなかった。
みしり、と、氷壁が音を立てる。めきめきと罅割れる音がする。しゅるりしゅるりと回転する氷の礫、その運動をその場に留めんと脆くも逞しく未だ打ち破れていない。
――落ちて。落ちる。落ちろ。
願望はやがて命令に転じ、そしてそれはやがて。
――落ちたっ!
氷壁は礫に勝る。男の魔術はクレアの身に届く前に力尽き、勢いを失って氷壁に半ば埋もれるようにしてその役割を終えていた。……自重に従い、氷壁からその礫がゆっくりと、ゆっくりと。
落ちる。墜ちる。堕ちる。はずだ。それに間違いはない。たった一つの拳大の氷は終点へと辿り着けず、
一つ、教授してあげよう。
声が聴こえた。男とも女ともつかぬ声だ。そもそも、それが実際に何者かが喋ったかどうかさえ判断のつかない声だった。だがその語り口調は少なからず件の男のもので、そしてやはりそのものについての語りだった。
聴けるのなら真言は正確に聴いた方がよろしい。其処には魔術の形が詰まっている。
ああ、そうだろう。そうだろうとも。彼女は静止した世界で一人頷いた。男は、「二」と言った。その二は次いで、という意味ではなかった。個数としての二つだった。氷柱で囲むのを一として、それを氷塊で捉える二ではなかった。ただ単純に、それは、「二つの氷」を指し示す言葉だった。
割れる。罅割れる。くしゃりと歪んで粉々に。
クレアが壁をもって受けとめた氷の礫、その真後ろにもう一つ。止める礫より一回り小さい礫が隠れていた。……勢いは、余りある。一撃を止めて、全く同じ箇所場所にもう一撃。それは最早、耐え切れるものではなく、クレアの笑みが浮かんだ鏡は音を立てて崩れ落ちる。
誰かの声が聞こえていた。遠い耳鳴りのように、わんわんと彼女の耳元で鳴っていた。極限まで圧縮された時間の中で、その狭間に意味を持った言語を埋めることなど不可能だった。だけれど確かに、声が聴こえていた。
ならばそれは目前の男の声ではなく、看破したのは彼女自身であるということ。その声の誰かは笑っていた。まるで愚かさを嘲笑うようだと穿った捉え方をしてしまいそうだったがしかし、クレアはくすくすと笑うその声を、愚鈍にも喜びと共に分かち合っていた。
盾は砕け、四方は囲まれ、最早そこに活路は無く、為す術のない死地があった。いっそ笑ってしまいそうな、死地があった。
鈍痛。そして知る。鈍い痛みも行き過ぎればそれはこの上ない鋭利な角度を持って痛覚を抉るのだと、彼女は知った。
足元から力が抜ける。正確に言えば、膝からすとんと力が抜けていく感じだった。それも百から零へ減衰していくのではない。百が唐突に零になる感覚だ。立っていられない。耐え切れるはずがない。両の膝が降り積もった雪に突き刺さる。ぐるりと視界が急転する。地平から地に向けて、己が意志とは反して、ただ頭を垂れるかのように地面に向かって頭が落ちていく。初めての体験だった。それだけに、愉快だった。
だけど生憎、笑おうと思っても笑えなかった。
呪いというものは、確かに存在する。それは実像を持つものではない。万象に影響を及ぼすほど絶大でもない。しかし、人一人の心を侵食し、絶望に侵すにこの上ない性質のものだった。
ならば、この光景はなんだ。
ならば、その再現はなんだ。
少年は走っていた。少年は走っていた。心臓は既にはちきれそうだった。呼吸は最早形をなさず、血のような味が喉元からせり上がってきていた。それでも少年は、走っていた。走って走って、走り続けて。そしてようやく辿り着いたのがこの光景だというのか。
それはやはり、世界を呪うに相応しい風景だった。
白銀の月は憎らしいほど美しく。
漆黒の闇は何処までも澄んだ空気と共にあって。
地平に広がる白い雪は、その純潔性をこれほどかと誇示していて。
そして、少女が一人、地に伏していた。
そして、男が一人、支配者然として睥睨していた。
まるで空から亡者の騎士が降ってきそうな、そんな夜だった。
まるで空から亡者の騎士が降ってきたような、そんな夜だった。
少年の口から、声なき声が零れ出ていた。唸りにも似た、同時に悲鳴にも似ている、ただただ遣る瀬無さが込められた、悲痛な呻きだった。
それに応じて、空中に幾つもの炎が浮かび上がる。一つ、二つ、三つ。浮かび上がった端からその炎は光を帯びて睥睨する男へ向かい飛びかかる。一つは、そうしようとしてすぐに消えた。二つは、少年と男の中ほどで立ち消えた。三つは、男の目前で力尽きた。届かない、届かない、届かない。それでも少年から生み出される炎に終わりはない。届かないのなら、より強く。至るまで、限りなく。
また一つ、また一つ、また一つ。炎が生まれ、炎が消え、炎が生まれ、炎が消え、炎が生まれ、炎が消え。届かず、至らず、届かず、至らず、届かず、至らず、届かず、至らず。そして。
届く。
男は心底うっとおしそうにその炎を振り払って、つぎに心底嬉しそうな笑みを浮かべて、少年の到着を見届けていた。
「安心するといい」
男は言った。地面に倒れこんだ少女を庇うようにして立つ少年を前にして、臆することなく。……いや、それも当然だろう。これは彼が「待ち望んだ結末」だ。「最後に描く絵図」に到達する為に必要な手順だった。ならばそれを望みこそすれ、拒む必要なぞない。
「生きているよ。彼女は」
「……ええ。勝手に殺さないでくださる? ……フェイト・カーミラ」
目の前の男と、背中から同時に掛けられた少女の声に、少年、フェイト・カーミラは一瞬の安堵に伴い腰が抜けるようにしてその場にへたり込んだ。
「いや、息も絶え絶えといった様子だね、フェイトくん。それも仕方ないか。王都から此処までずぅっと走ってきたんだろう? そりゃあ、満身創痍にもなるとも。ともすれば、クレアさんより君のほうが死にそうに見えるね」
男は心底愉快そうに言う。
「いや、無理に喋ろうとしなくてもいいよ、フェイトくん。おおよそ君の言いたいことは分かるとも。『どうして彼女に止めを刺していないのか』だろう? なるほど、確かに。遠目で見ればこの惨状は『既に事をを終えた後』にも見える。……だけど、まあ彼女がまだ生きている要因は幾つかある。そしてそれは賢しくも彼女自身が幾重にも張り巡らせた布石の賜物なんだろうけど……」
男はそこでしばしの間考え込む素振りを見せて、やがて快活に笑った。それはフェイトも、クレアも今までその男から見たこともないほど明るい笑顔だった。
「いやあ、まったくもって最悪な女性だね。彼女は!」
「それにしてもだ。我ながら自身の迂闊さにはほとほと呆れるよフェイトくん。知っているかい? 僕が彼女にその影を捉えられたのは君との会話が原因なんだそうだよ。確かにあれは我ながら呆れるほど間抜けだったね。覚えているかい。僕と君が図書館で話したあの日さ。あるいは僕の間抜けさよりも驚嘆すべきはクレアさんの顔の広さかな? 文字通り学内は彼女の領域だったんだねぇ」
そこでようやく、息を整えたフェイトが皮肉気な笑みを浮かべて初めて口を開いた。
「ええ。私もまさか、貴方が殺人鬼だとは思ってもいませんでしたよ。てっきり、シアナ・セントリウス、その人が犯人だとばかり」
「成程! やはり君も彼も怪しく見えていたのか! クレアさんも僕と彼のどちらかだと考えていたそうだからねえ。しかし、聞いてくれるかフェイトくん。僕が彼女に『もしも間違っていたらどうするつもりだったんだい?』と尋ねたら彼女はなんと言ったと思う? 『ごめんなさいと謝ればいいのでしょう?』ときたものだ! 確かに間違ってはいないんだが、それはそれでどうかとも思うねぇ。極めて貴族的な発想だとは思わないかい? 罪は償われるべきさ! 相応にね!」
「……では貴方の罪もまた、償うべきではないのでしょうか?」
「……ああ、その通りだね。ただし、僕の場合は償うというよりは、贖うべき、なのかもしれないけれど」
「ならば、今すぐに法の下裁かれるべきでは? その杖を下ろし、法曹の庭にて貴方自身の罪を」
「……残念だが、それは出来ない。フェイトくん」
「……何故」
「どっちみち結末は変わらないからさ! 僕もまた、裁かれるべき、つまりは誰かに殺されるべきなんだ! 君と彼女を僕の最後の仕事とするとどうなる? 公爵家がいよいよもって本気で僕を殺しにかかるだろう。そしてその未来はそう遠くない。既に彼女が僕の影を踏んだ! いいや、それどころの話じゃない。僕を、表舞台に引きずり出したんだ! 近いうちにもっと大勢の人間が僕を知る。もっと大勢の人間が僕を追う! 殺そうと、害そうと、僕が今までにしてきたように、今度は僕がそうされる! ならば! 僕は抗おう! 誰かのギロチンがこの首に掛かるその寸前まで! 抗って抗って抗って!」
男は、叫ぶように月を仰ぐ。そして、あまりにも綺麗な笑みを浮かべて、その決着を語った。
「最後に笑って、死んでいこう」
その様を見て、少女は、クレア・ティスエルは、余りにも身勝手な言い分だと思った。この男は、徹頭徹尾、己が人生を全うしようとさえしている。数多の罪無き人の命を理不尽に奪い去っておきながら、そのくせ自分自身はその生き様に満足して、振り絞るかのようにして果てようと言うのだ。
有り得ない。怪物じみた利己主義者。
「……参ったな。そんなに怖い顔をしないでおくれよ。これでも教職なんだから、教え子からそんな顔を見せられると、落ち込んでしまう」
――何を今更!
最早怒りを通り越して罵声も出てこない。クレアは声なき声を上げて男を睨んだ。
「もう、いいです、先生。聞きたくない。……これ以上はなにも。……最後に一つだけ、教えてください。どうして彼女を殺さなかったんですか?」
振り払うように、フェイトは首を振った。
男は、抗うと言っていた。最後の最後まで抗うと。ならばそれは「最善を尽くす」ということと同義であるとフェイトは思っていた。それならまず、決定的な好機があったクレアを仕留めておくべきはずだろう。それだけはやはり、腑に落ちなかった。
「それが最後でいいのかい? 君からすればなるたけ時間を引き延ばした方がいいのだと思うけれど……。ま、いいか。僕からすれば好都合」
フェイトは思わず小さく哂う。
「聞いておきたい話があったのと、フェイト君、君が来ると決めてかかっていたからだよ。クレアさんはどうにも君を巻き込みたがっていた。ならば今日も、きっとどうにかして君をこの場に引きずり出してくると思っていた。結局僕の考えは正しかったわけだ。このように、今こうして、君がここにいる」
男はフェイトを指差して、そう宣う。
「さて、僕は出来ることなら君を殺しておきたい。当初は殺す必要がなかったのだけれど、その必要性が出来た。ことこれに関しては恨むならその感情を僕じゃなくて君の後ろの彼女に向けてくれると嬉しいな。……兎も角、僕は君を殺しておきたい。ならば、どうすべきか。例えば僕が彼女を殺しておいたとしよう。そうすると君はどうする? クレアさんの生死を確認した後、一目散に逃げるだろう? この場合僕と君との一対一だ。形としては追う僕と追われる君。ううん、どうだろう。どちらがいいのだろうね?」
成程、とフェイトは深く息を吐いた。つくづく嫌になってくる。まるで手のひらの上で踊らされているかのようなこの現状。思わず頭を抱えて嘆きたくもなるが、それをするほどの余裕が許されているわけでもない。
「彼女が生きていれば、僕は逃げ出せないと踏んだ。つまり先生、貴方は二対一の形を取ることを選んだ。数的不利を背負い込む代わりに、私に無理矢理腰を据えさせた、と……」
深い息と共に、フェイトは男に向けて杖を向ける。それは彼にとって、彼らにとっての切っ先だ。
「呆れるべきか、賞賛すべきか。判断がつきかねます。それ以外にも色々と言いたいことはあるけれど、あまりにも多すぎて喉でつかえてしょうがない」
切っ先に、焔が舞う。
「ふふふ、だろうね。まだまだ君の疑問は山ほどあるだろうけど、きっと時間がそれを許してはくれない。僕も流石に、これ以上砂時計が落ちていくのを見守るつもりもないから」
それを見て、男は嗤う。
「さて、申し訳ありませんけれどクレア・ティスエル。手を貸してもらいます」
視線こそ男から外さずに、フェイトは語りかける。自身の背中に隠れている少女に向けて。三方を氷壁に囲まれた彼女に向けて。正しく彼女は満身創痍なのだろう。最早立つこともままならないのだろう。だが、それでも彼女は、魔術師は戦える。その身に体内魔力宿す限り、この世界の世界魔力尽きぬ限り、魔術師の牙は折れることがない。
「生憎私はここで死ぬつもりはありません。まだ、死ねません。けれど、私一人で戦って生き延びることは、きっと、出来ない。今の私達にあるのは単純な数の利のみ。ですがそれはこの場において……」
割れる音が、闇夜を劈いた。それはフェイトの言葉を遮る返事だ。粒子のように光り輝く氷の破片が今一度月光に反射する。首筋に、ひやりとした涼やかな空気が流れこんできた。
「……言うまでもありませんでしたね」
クレア・ティスエルを囲んでいた三つの氷柱が粉々に砕け散っていた。どうやったのかはわからない。だがしかしどうにかしたのだろう。そうするだけの時間はあった。十分な時間さえあれば即席の壁も打ち破れる程度の力を、彼女は持ち得ていた。
「言われなくとも、ですわよ。フェイト・カーミラ」
彼女の声は、驚くほど平静を保ち、いっそぞっとするくらいに普段どおりの声色だった。それはまるで、今まさにこの瞬間さえも想定内にあって彼女が描いた絵図の範疇から離れていないかのようで。
「精々守りなさいフェイト・カーミラ」
「ええ、精々守ってくださいよクレア・ティスエル」
切っ先に舞う炎が、形を成す。ゆっくりと伸びていくその姿は、やはり剣であった。
「……さて、準備はいいかな? 二人とも」
男が言う。空中には既に彼が生み出した氷の槍が鎮座している。その嚆矢は限界まで引き絞られていて、彼が一指でも力を抜けば解き放たれるものだった。
「フェイトくんはこんな僕に向けて未だに『先生』と呼んでくれたね。もう、いいよ。僕はそんなに偉い人間じゃない。人間じゃなくなった。僕が許す。僕が許そう。こう呼んでおくれよ……」
『殺人鬼、サーチス・キネシス』
フェイトと男の言葉が重なった。それと同時に、弾かれたように氷の槍が大気を穿ち、その槍の弾幕の中心を少年が駆け出した。
時計の砂は、零れ落ち続ける。