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確約された不幸を手折って  作者: 山浪 遼
少年期。愛される者愛されぬ者
43/53

第二十三話

「答え合わせ、ね」

 白銀の世界において、男が言った。男が着込んだくすんだ黒の道衣(ローブ)は、その邪悪さを表するよりかは世俗に塗れうらぶれた精神性を指し示しているかのように見える。頭に被ったフードにはうっすらと雪が降り積もり、右手で握り締める木香色の杖に少しばかり体重を乗せて、上体が右に軽く歪むように立っていた。

「それをするしてはここには、些か(あけ)が足りない」

「ご心配なく。満ち足りる(あか)がすぐに現れますわ」

 肩を持ち上げて首を振る男を指差して、金糸の少女……クレア・ティスエルは薄く笑う。

「それが貴方のものか。それとも」

 突き出した人差し指以外の四指を広げ、彼女は自身の胸元にその掌を当てて言う。

(わたくし)のものか。それは定かではございませんが」

 男は視線を宙に漂わせ、頬を搔いた。寒さが引き起こした痒みではなく、半ば含まれているのは呆れにも似たものか。両の手のひらで一度拍手を叩き、講義するかのように男は言う。

「そも、君は何故僕を呼び出したのか。いくら公爵家のご令嬢とはいえ」

 男は懐を弄り、そこから一枚の手紙を出した。

「『これ』は流石にやりすぎでしょう。一体何時、家主の許可なく家に忍び込んで構わないということになったのかな?」

 紙切れをひらひらと振りながら、男は言葉に憮然とした表情を乗せた。

「書いていることも大問題だ。これは立派な……告発、あるいは脅迫……かな? この僕が、『連続殺人鬼である』などと」

「脅迫? おかしなことを言いますわね。私はそれ相応の確証を……教えてもらってからそれを記し、貴方にお贈り……贈る、というのも変な表現かしら。……置いていったのですから」

 その言いざまに、男はフードの陰に包まれた顔を落とし、深く深く溜め息を吐き出した。まるで世の不条理を嘆くかのように。

「だから、そもそも僕はその殺人鬼ではない、と……」

 しかして、紡ぐ言葉の勢いは尻すぼみに失われ、跳ねるように面を上げる。

「……教えて、もらった?」

 くつくつと、少女が笑う。その驚愕がさも面白いと言わんばかりに、愉悦と嗜虐が見え隠れする表情で、噛み殺しきれない笑声が喉元からせり上がる。

「……誰に、だい?」

「……ああ、おかしい。本当に、『あの人』の言う通りなんですわね、貴方。私も少なくない対価を支払った甲斐がありましたわ」

「……対価? あの人? ……っ! だからっ! 聞いているだろうが! 誰にだ! 誰に教えてもらった!」

 宵闇に、男の叫びが木霊する。

 クレアはその怒声に瞬間面を食らう。日頃(・・)の男からはとても想像がつかない、乱暴な言葉遣いに変貌したことに対してだ。

 そして、再度ゆっくり深い愉悦の表情を貼り直して、先ほど男がしたように彼女もまた自身の懐から一つの道具を晒した。違うことはその存在そのもの。男が取り出したのはクレアから宛てられた一枚の手紙だが、クレアが取り出したのはなんてことはない、何の変哲もない一枚の仮面(タラフ)だった。

 銀月に照らされたそれを、クレアは男に向けて柔らかく放り投げた。さくり、と、雪面に突き刺さる小気味よい音を立てて、仮面は男の足元へやってきた。男は縋るように地面に這い、その仮面を恭しくも奉るように触れさえしない。

「……あ、……あ、……ああ」

 か細い声が降る雪の刹那を潜り抜け、夜に染みていく。喉の奥から搾り出すように断続して響くその声は、慟哭の音色を帯びている。今この現在に、果てしない絶望が横たわる形で男の心を苛んでいるのが、クレアにも見てとれた。はたしてそれが同情を寄せるに値するものかとは、到底思えやしなかったが。

 そのまま、男は雪を、土を、掻き毟る。杖を放りだし、爪先に土が入ろうとも、一切気にする素振りを見せず。ただ不乱に。やがて声は獣の唸りに似たものへ変わっていき、じゃりじゃりと浅く土を搔く音はがりがりと耳障りな物へと変化していった。

 異様、だった。ある程度の覚悟を抱き、確かな意志と意思でもってこの場に立っているクレアでさえ思わず一歩、引いてしまうような、狂人がごとき振る舞い。


 どれほどの長さ、男はその狂態を示していただろう。ただ声もなくそのさまを見つめるのは、空に浮かぶ満月と宙に浮かぶ宵闇と、天から降りる白雪と。兎角、そぐわぬものだった。このような美しい夜に、出来ることなら視界には収めたくない、心を不安に騒がせるものだった。

 やがて、唸りが静まり、土を……いや、最早石を搔いていたその指先が止まった。荒々しい呼気だけが場に響く。しかし最早それも、深い呼吸と共に正体をなくし、王都を出て少しの郊外には元と変わらぬ静寂が舞い降りる。

「彼女は」

 その声に、思わず心臓が一つ脈打ったのをクレアは内心で忌々しく思った。表情にこそ出さないが、羞恥の赤が心の頬に浮かぶ。

「なんと言っていましたか」

 男の声はそれまでと打って変わって平坦な声だった。感情が抜け落ちたかのような、あるいは感情を殺しきったかのような声音だった。

 クレアはたっぷりと時間を掛けて内心の動揺を落ち着かせてから、ゆっくりと喋りだす。

「……ふうん。……そうですわね。なんと、と言われましても。大して貴方について触れてもおらず。……ただ」

 そう、ただ。クレアが聞いた言葉と、眼前の醜態を見て合致する、男を抉るに最も適切な、鋭い言葉こそ預かっている。

「もう飽きた、と。そう言ってましたわね」

 土に、いや、雪に伏したままの男の肩がびくんと不気味に強く跳ねる。

「飽き、た」

「ええ、貴方にはもう、飽きた」

「……飽きた」

 男はしばらく、口を噤んだ。クレアはその様子を眺め、ただ男の心が挫かれるその時を待っていた。

「……ひ」

 やがて、小さく男はその音を零す。

 年甲斐もなく泣き出してしまうのだろうか。そう予想を描いたクレアの頬は、僅かばかりの嗜虐の悦びに乗じて、同じくらい微細に歪む。

「……ひっ、ひっ、ひひっ。くひっ、くひっ、くはっ、っははは。……はははははは」

 しかして、その絵図はまるで出鱈目な内容を描いている。

「はっは! ははっ! あはははははははははははははははははははは!!」

 笑う。男は笑う。背なを震わせて、さぞ可笑しかろうと腹の底から笑い声を上げる。

「そうさ! そうともさ! 僕なぞに気を配ることこそ間違っている! ああ、それでこそ、それでこそだ! それでこそ貴方だ! だから貴方だ!」

 土を睨んでいた男の(おもて)は月を贍仰するよう天を突き、フードはずりおち月光にその表情を晒していた。

 だが、クレアは男のその表情を形容する言葉がない。男は確かに狂っている。「何かに」向けて、狂おしいほどの感情を捧げている。少なくとも、素面ではない。何かに酔い、何かを想い、何かに捧げ、何かに狂っていた。だがやはり、クレアにはその男のその表情を表す言葉が出てこない。圧されている。それもある。だが何よりも、クレアは「このような男を見たことがない」。それは今までの人生に置いて、一度もだ。

 彼女の米神から、決して肉体的な遠因ではない汗が喉元へとつるりと落ちる。やけに渇く喉を擦って、発声が滞りなく上手くいくよう望みながら口を開いた。

「……既に、必要さえないかもしれませんが」

 左手に握った杖を差し向ける。「絢爛たる氷霊よ、来たれり」。その言葉と共に、杖を中心点に円を描くよう大小六つの氷塊が宙に浮かぶ。

「いくつ点数を頂けるのかしらね? 先生」

 クレアの言葉と共に、男は孤月描くその相貌、その口を、ようやく彼女へ向けた。

「解は……もういいか。……そうだね、大正解だ。僕が君が言うところの、世間が言うところの件の『連続殺人犯』に相違ないよ。さて、後は式があっているかだが……」

「それにつきましては、私を半死半生まで追い込んでいただければお話いたしますわ」

「成程。気になる所だからね。君を殺すにも気をつけなければいけないのかい? ……そうだな、とりあえず今のところは……半分。五十点を上げよう。さて、満点の解答例をクレア・ティスエル、是非君の口から聞きたいな」

 男もまた、同じように右手に持った杖をクレアに向ける。これで互いが持つ「剣」の切っ先が交差する形を取った。

「……どうしたんだい? 君が唱えたその魔術、さっさと僕に飛ばしたらどうかな」

「ご冗談を。以前にも言いましたでしょう? 私が此処に一人でいる理由にも繋がりますが」

「……さて、とんと思いつかない。何を言ったかな、君は」

 少女は、精一杯の虚勢を込めた満面の笑みを浮かべてこう言い放った。

「一度、横っ面を思い切り叩いて差し上げたいの。そうね、それも真正面から、正々堂々と」

 男はその言葉に、心底愉快そうに、笑みを返した。




 天地の狭間にて、氷塊がぶつかりあう鈍い音が響く。鉄器が衝突する音ともまた違う、例え難きものが耳朶を打って離さない。

 癪に障る。癇に障る。苛立ちがせめぎ立てる。

 クレアの犬歯が思わず歯鳴り立て、米神に血管が浮き出る原因となっているのはその音が正体ではない。

「っ! 尖鋭なる氷槍、貫き、穿ち、我道塞ぐ悪鬼を討滅せよ!」

「ええと、『尖鋭なる氷槍、貫き、穿ち、我道塞ぐ悪鬼を討滅せよ』……こんな感じかな?」

 これだ。この鸚鵡返し、これこそが彼女の精神をささくれ立たせる一番の要因だ。

 場には真言違わず空中に一本の氷塊――「槍」に相応しく、氷柱のような形をしていた――が二つ、相対するように現出し、それらが互いに一直線、唸りを上げて闇夜を貫く。そしてそれが男と女、二人の狭間でぶつかり砕けて煌びやかに光を散らせて地に落ちる。

「天空からの失墜! 塊なるを降らすは我が智慧! 圧し潰せ酷怜!」

「……『天空からの失墜、塊なるを降らすは我が智慧、圧し潰せ酷怜』」

 再び唱えられる真言から結ばれる魔術は空に二つの氷岩を生み出している。人間大よりもやや大きい、小さな氷の島は魔力の頚木から解き放たれると同時に、自重に従い両者の頭部にゆらりと墜落を始める。一人はそれを見もせずに、一人はそれを間が抜けたまま数瞬眺めてから「おぉっと」と裏返った声を上げてからその場から逃げ出した。一拍置いて、巨塊はずんと大地を揺らし、浅く降り積もった粉雪を舞い上げる。

「いやあ、成程成程。先の詠唱ではこのような意志を込めたわけだ。いや、流石はベラティフィラ魔術中等学校首席。中等学生離れした魔術の腕前」

 大地を転がるようにしてその魔術を避けた男が、道衣についた土の汚れを払いながらそうのたまう。水気を含んだ土と雪故に、不快な湿り気もあっただろうが意に介した様子もない。

 対して、泥汚れ一つない少女、クレア・ティスエルはどうだ。土に転がる、などといった無作法な避け方をしていない、余裕のある立ち居振る舞いだったはずだ。だというのに、彼女の浮かべる表情は悪鬼もかくやと言わんばかりの怒気を浮かべている。もしもこの場にフェイト・カーミラ、あるいはディギトス・ガイラルディアの存在があれば、触らぬ神にとばかりにそそくさと立ち去っていたはずだ。

 自身でも分かるその苛立ちを何とか沈める為に、クレアは手のひらで顔を覆うようにして米神を揉み解す。無論、指の隙間から敵の姿を伺いながら。

 凝り固まり、針のように鋭く凝固していた視線をどうにか緩めさせ、一つ息を大きく吐いて、クレアは自身でも出したことがないような低い箇所から声を出した。

「貴方、ふざけているの」

「いやあ、ふざけているつもりは毛頭ないんだけどね」

「そうですか。……まだふざけている方が幾分救いもありましたわ」

「救いがあった方が良かったのかもしれないね。お互いに」

「……本っ当っに、貴方という人は」

 人の神経を逆撫でしてくれる。

 これはもう、無理だと、クレアは感情を自身の制御化に置くことを諦めた。

 元々、クレア・ティスエルという人間は周囲から気性の激しい性格だと認められていた。それは特に、彼女に近くあればあるほどの人間がそう思っている。遠すぎる相手からすれば、淑やかな公爵家令嬢の一面しか見ることがないからだ。成程、それは確かに、認めよう。クレア自身もその評に首肯する。だが、彼女は気性が激しくとも、決して荒くはなかった。幾ら感情の波が唸りを上げようと、その上に浮かぶ理性という名の舟は一度たりとも彼女の操舵から外れたことがないからだ。檄しようとも沈み込もうとも、その浮沈全てがあくまでも彼女の支配化にあるうねりに過ぎない。

 フェイト・カーミラに落胆する。ディギトス・ガイラルディアに怒る。父、ディモル・ティスエルを前にして沈む。側付のメイド、ルシルと共に笑う。それら全てが彼女の管制下にあり、感情を弄んだことが一度もなかった。

 そう、初めての経験だ。初めての経験だった。眼前の男にこれほどの屈辱を覚え、溶岩が如く心の奥底から止むことのない憤怒がふつふつと吹き出し続けるのは。

 止まらない。止めようと思って手を差し出せば火傷してしまう。戸惑うほどの熱量が、まさか自分の中にこれほどまで埋蔵していたのかと心の何処かで呆気に取られるほどだ。こぽりと音を立てて湧き上がる熱に突き出されるように喉奥から声が出る。それは抱え込んだ熱と反比例して寒々とした氷の刃を生み出す呼び水だった。

「折れず、溶けず、朽ちず! 永久(とこしえ)の極寒、その最果てから来たれり!」

 そして、再び、男は繰り返す。

「……『折れず、溶けず、朽ちず。永久の極寒、その最果てから来たれり』」

冬への階(ニブルヘイム)!!』

 声が、微かに重なりあい、クレアの詠唱を追うように男の詠唱が縋りついた。

 空に浮かぶのは幾重にも重なりあう氷の飛礫。数えることさえ億劫になる量のそれが寸分違わず同時に打ち放たれ、互いの丁度中ほど……いや、少しばかりクレア側に寄っているか。そこでまず一つがぶつかりあう。

 がしゃん。

 それが始まりの一音。口火を切った最初の飛礫から音の波紋が広がるように。

 がしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃん。

 (さざなみ)がやがて波濤(はとう)へ育つように、小さな音はやがて騒ぎ立てるものへ変わり。

 がしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃん。

 分厚い硝子、それを何枚も何枚も何枚も何枚も。何回も何回も何回も何回も。高所から、低所から、叩きつけるように、手を滑らせるように、鈍器で叩き割るように、利器で穿つように。ぶつかる、砕ける、割れる、罅いる、落ちる。

 がしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃんがしゃん!


 心をざわつかせるほどの騒音。不安に陥れる雑音。耳を塞いでその場にしゃがみこみたくなる衝動に襲われる破壊音。地に墜ちた氷塊が粉雪を巻き上げ、もうもうと視界が白く染まる。

 しかしながらその二人が生み出す魔術の結末は、その余りにも終末的過ぎる音と反して、まさに戯曲に歌われるような幻想的な世界を作り出していた。

 氷は砕け細やかな粒子へと変わり、闇夜に揺蕩う僅かな光りをその身に精一杯浴びて、己が存在を高らかに示さんと乱反射させる。空中には冷涼なる煌きが所狭しと闊歩して、大なる形を保ったまま墜落した氷もまた、その舞台を飾り立てる装置と化した。氷の礫が地面一杯に広がって、緩やかな高低を描くその様は少なくともベラティフィラという国では生ずることのない自然現象。それが人の手を借りてこの場に現出する。

 もしもこの場に魔術に関して何も知らぬ無知なる者が観客としているのならば、これは「四英雄譚」をも凌ぐ一種のスペクタクルだ。アトラクションだ。無から有を産み出して、それを解き放ち、時には身をさらりとかわし、一対一でぶつかりあう。朗々たるソプラノが暗闇に伸び行き、軽率なテナーがそれを追う。それが魔術師同士での戦いでは殆ど有り得ることのないことだと知らないから、ただ純粋に心躍らせることが出来るのだろう。

 ならば、既知であれば。この一瞬をどう見るか。ある魔術師は深く笑うか。あるいは酷く苛立つか。……どちらにしても、正の方向に向けられた感情ではない。そう、今の彼女(クレア)のように。

 そも、魔術師という人種は一対一での戦闘を想定しない。基本的には詠唱時間を稼ぐ盾役を伴うか、数十人からなる編隊を為し、一斉に魔術を放つ戦略的扱いをされるのが専らだ。前者は冒険者たちが当てはまり、後者は国家間の戦争において魔術師が使用される場合。魔術師と魔術師が向かい合って魔術を打ち合うことなど、余程の好き者である権力者が見世物にするくらいでしか目にする機会がないだろう。そして、魔術師同士での戦闘において、実力が伯仲し戦況が拮抗するということもまた珍しい。必ずどちらかに天秤が偏りじわりじわりと圧力に負けていくか、分銅を乗せた瞬間に片側が跳ね飛んでいくかの二つが大多数だ。偶然にも両者の実力が一致していた、などということはほぼ有り得ない。

 では、今この状況は、拮抗する事態という矛盾は何故か。そんなもの、理由なぞ決まりきっている。上位者が意図して、下位の者と同じ階梯まで降りてきた。それだけのこと。……「それだけのこと」が内包する質量は、言葉の軽さと反比例してなお余りあるが。

 やがて、煌きも、白い視界も、重力と淡い風に引きずられ舞台袖へ下がっていった。

 再びその姿を互いに認めることが出来る男と女は、対照的な笑みを浮かべている。




 少年は走る。駆ける義理なぞ存在しないはずなのに、自身さえ思いつかない「何か」に突き動かされるように、必死で走っていた。

 王都の通りは泥に塗れていた。一歩強く踏み出すごとにばしゃりと音を立てて泥水が跳ね、容赦なく彼の道衣の裾を汚す。向かいから歩いてきた男とすれ違う時、少年、フェイト・カーミラから泥を飛ばされた男は罵声をぶつけてきた。止まれ、とも言われたような気がする。だけど今は、そんなことどうでも良かった。止まれと言われて素直に足を止めるほどの余裕はなかった。脇目もふらず、一直線に少年は、フェイトは、駆ける。

 先ほどディギトス・ガイラルディアの手を介して渡された手紙は、クレアからフェイトに向けられたものではなかった。クレアから「誰か」に向けられたものだった。そしてそれを、多分その「誰か」に向けて書かれた内容をそっくりそのまま、一言一句違わずに複写したものを、クレアはフェイトに差し出したのだ。

 内容はなんてことのない告発文。……果たして「なんてことのない」それが存在するのかという疑問を投じる余地はあるが、まあ兎も角そんな内容だった。「貴方が昨今巷を騒がせている殺人鬼ですね」「決定的な証拠を見つけました」「以下の刻限、場所にて待ちます」……。無駄な修飾やクレアが好みそうな遠回しな罵倒を取っ払ってしまえば、残るのは単純な文言。そして単純であると同時に、甚く鋭利な、心抉る凶器染みた事実。

 一体、何時、彼女は真実を知り、そして立ち向かうことに決めたのか。足の回転に伴い荒ぐ呼吸を無視しながら、フェイトは頭の中でそのことを考える。

 フェイトが知る大きな違和感と疑問は都合二つある。一つは、「仮面(タラフ)」。そしてもう一つは、「叙勲式」だ。

 王都にて現場に仮面を残す殺人事件が連続して発生している。そしてその仮面を残していく、という情報は……ディギトス曰く、情報統制によって限られた範囲にしか開示されていない。同時期にフェイトは仮面を依代にした土人形の存在と相対した。果たしてこの二つの事象に一切の関係性がなく、ただの偶然だと言い切ることができるだろうか。否、それにしては、あまりに出来過ぎている。この二つを純粋な等号では結べないが、しかし何らかの関係性を疑ってしかるべきだ。

 火と氷を操る殺人鬼、土と風を操る魔術師。これが同一人物だとしたら、一人で都合四つの魔術属性を操ることになる。そうなると最早その才は大多数の人間には御することの出来ない規模になる。犯人を捕らえることなど夢のまた夢……とまでは言わないが、兎も角、不都合であることに違いない。希望的観測と、現実的視点から鑑みて、これが一人の人間が為すことができるとは到底思えない。またそれにより、別個の存在ならば可能とも言える。。

 殺人鬼と魔術師、どちらが上でどちらが下か、あるいは対等であるか、共犯関係であるか、一方的に知っているのか黙認しているのか。可能性は未だ多岐に渡るが無関係ということはないだろう。

 そして次。フェイトがクレアから勲功爵(シュヴァリエ)の地位を賜ったあの日、あの叙勲式。

 果たしてあの場でフェイトの命を奪おうとした存在は「本当に殺人鬼だった」のか? あの場で本当に「フェイトの命を奪おう」としていたのか?

 件の殺人鬼は、一件一件の殺人を起こすのに入念は下準備を施しているはずだ。これまでその正体の影さえ踏ませずにいたことと、一つ一つの犯行を終えてからしばらくの間姿形を見せなくなることがその証左。数ヶ月の間表立っての行動を止め、その期間に次のターゲットを見定め、目標の行動を分析し、綿密な計画を立てて事を行っているはず。しかして、フェイトを狙ったあの時あの瞬間だけはあまりに拙策すぎる。

 ならば、それは一体どういう意味を持っているのか。一つは、既に「フェイト・カーミラ」という存在のことを調べ上げていた。……その可能性を広い上げたとしても、あのような衆人環視の中で実行に移すことへの疑問は潰えないが。そしてもう一つは、あの一夜は全て殺人鬼とはまた別の人間が仕組んだ一種の「狂言」であった可能性。

 そもそもだ。思考の死角から飛来した魔術を咄嗟に、フェイト・カーミラを庇いながら回避することが果たして現実味を帯びたものだろうか。あらかじめ時、場所、状況を打ち合わせしておいて、そちらに意識を向けながらならまだしも。……逆説的に、クレア・ティスエルは知っていたことになる。あの晩にフェイトが狙われ、「初めて殺人鬼が失態を見せる」ということも。

 クレアは、一匹の蜂を探している。巣は数多く存在し、一体どのコロニーにその特定の蜂が潜んでいるか分からない。だが、その晩の時点である程度は絞ることができていたのではないか。あの叙勲式の夜は、まさに「巣を突つく」行為だった。それは潜んでいた蜂を炙り出す意味と共に、クレアから殺人鬼に向けた宣戦布告だったのではないか。「私は貴様の影を既に踏んでいる」。言外に彼女はそう言っていたのではないか。


 フェイトの脳はぐるぐると回る。それは回転を続ける足と同じ速度で、目まぐるしく風景が流れていくように、次々に海馬から引きずり出す記憶もまた変遷していく。だが幾ら頭を働かせようがフェイト一人で件の殺人鬼を特定するのは情報が足りなさすぎる。……だが、それでもだ。それでも一人だけ、ありえないと分かりきっているのだが一人だけ、脳裏をちりちりと焦燥に燃やす人の名が浮かぶ。

 その人はディギトスが言うには叙勲式当日、その会場を訪れていたらしい。同時にその人は「知っていた」。……何を? それはそう、未だ会ったこともなかったフェイト自身の名とディギトスの名を。

 もしも、フェイトがクレアに巻き込まれず勲功爵を受けとることがなかったら、そもそもフェイトは殺人鬼の目標対象になることはなかった。分不相応な立場をフェイトは求めていなかったし、そんなものを狙いに行くほどの暇はないのだから。……だが、もしも将来、分不相応な地位を手に入れることが確定的な人間が近くにいたら? それはひょっとしたら、標的となる人間かもしれない。少なくとも彼自身にはその自覚があった。将来このままでは殺人鬼に狙われてもおかしくないと。そしてそんな人間の周囲にいる存在まで調べていてもおかしくはない。その時に巻き込まれるかのようにフェイト・カーミラという個人が知られていたのかもしれない。

 ……無論、確証はない。万が一にも有り得ないと思う。単なる想像でしかなく、随分と低い確率だ。

 まさか、前年まで魔術省に勤めていた人間が人殺しであるなぞ、隕石でも降ってくる可能性のほうがまだ議論の余地がある。

 ――しかして、ハーフエルフ・リジエラを頂点に置く魔術省には根源的な魔術至上主義が蔓延っているのもまた事実――

 では、なんだ。土人形の魔術師は、国の柱たるリジエラであるとでも言うのか。あの土人形はそれほどに(・・・・)化物じみていた(・・・・・・・)とはいえ、それこそまさか。

 笑えない笑い話だ、とフェイトは頭を振った。宰相閣下が国を、その臣民を、害することなど、それは政体そのものに疑問符を投げかけるに似ている。ともすれば国王よりも尊崇の念をその身に浴びる存在へ疑いの眼差しを向ける理由など、今のフェイトには持ち得ていない。

 なんてことはない、夢想だ。フェイトは結局行き着くことのない答えの模索を放り投げて、ただ走り続けることだけを考えた。今はそれが一番、楽だったから。




 針のように鋭い尖端を描く氷の礫が、クレアの頬を掠める。薄皮一枚浅く過ぎったそれは、自身の足跡を残すかのように彼女の頬へ一筋の紅を浮かばせる。

 そこから垂れる赤い雫が口元へ落ちる。紅にするよりも早く、クレアの舌先が艶かしく一滴を掬いとって、口中僅かに鉄の味を知覚させた。

 クレアの苛立ちは、頂点に近かった。概ね自身の予想通りに事物が推移しているとはいえ、こと此処に至るまでが彼女にとって愉快なものではなかったからだ。見たくないものから視線を逸らして虚勢こそ張っていたが、最早その化けの皮も剥がれつつある。……いや、自ずから剥がしたがっている。この苛立ちの原因の過半数は、目の前の男がもたらすものではない。自らの不甲斐なさ、行き詰まり、そして何処までも冷徹にこちらを見据える「現実」という化物のせいだ。直視したくなかった醜い事実を、彼女はようやく頬の痛みと共に消化を終えた。

 だから、そう、これは八つ当たりにすぎないのだと彼女は言った。半ば自傷めいたそれなのだと彼女は分かりきっていた。どこまでも、どこまでも。

 作られた拮抗は既に緩やかに答えを明示しつつある。クレアが釘刺した「式の内容」を聞くつもりなのか、決して一撃での致命傷を与えるでもなく、ゆっくりと、薄皮を剃っていく凌遅刑のように。最初は、それでもいい。甘く噛んだ柔肌は背徳的な快楽を伴った痛みだ。だがやがてそれも看過できない激痛へと変わり、その身を苛むだろう。それに甘んじるつもりのない賢しさが、彼女にとって良いものだったのか悪いものだったのか。それは誰も知ることができないのだが。

 クレアが真言を述べる。男が追うようにして一言一句違わずに繰り返す。

 二人の背中に幾つもの氷が浮かんでは衝突を繰り返す。

 そもそも真言というものには明確な意思が内在している。行使者が「かくあれかし」と願った形を言葉にするのだから。当然それは自分で語る自分の言葉であることが大前提のはずだった。

 例えば、火。その一言を聞いて一体どのようなものを脳裏に描くか、それは人によってさまざまだろう。「火」という概念そのものから外れることはないが、焚き火のようなものを思い描くか、蝋燭に灯る小さな灯りを浮かべるか、はたまた万象尽くを灰燼に帰すような、地獄の業火を求めるか。答えは人によって違う。色はどうか。熱を感じさせる赤か、人の営みを支える橙か、突き放すような青か。

 魔術は空想を実現する力だ。思い描く事象を顕現する力だ。それを抽象を伴う真言を用いて行使するのだから、必然、最適なのは真言を唱えた本人の魔術となる。間違っても他人の綴った真言を追うなどして生み出す魔術は十全たる魔力を利用しているとは言えない。下手をすれば、同じ真言を唱えようが現れる魔術の形は全く異なる姿をしていてもおかしくはない。

 だが、ことこの場に限って言えば、その矛盾が存在していない。「女」が唱えた真言を「男」もまた唱えて、相似なる魔術を互いにぶつけあっている。……形は違うはずだ。威力はずれるはずだ。それを平らに均しているのは、「魔力の差」という荒々しいが疑いようの無い実力だ。

 男は体内魔力を無理矢理に注ぎ込んでクレアの魔術と同じ威力にまで引き上げて、更に世界魔力(マナ)の強引な収斂によって魔術の形を同値にしている。いっそ暴力的と言っていい魔導だった。……それも、後天的に(・・・・)覚えた属性(・・・・・)によって。

 そして男の体内魔力にはまだ十分な余裕があった。自身の紡ぐ真言ではなく、借り物のそれを使って力任せに唱え続ける。少しずつ注ぎ込む体内魔力を増やしていけば、それはやがて。

 ――クレアの魔術を打ち抜いた拳を一回り小さくしたような礫が、彼女の肩をしたたかに打ち据えた――

「はてさて」

 クレアは、歯を食いしばってその鈍痛を面に出さぬよう尽力する。男はそんな彼女を無感動に見つめながら、両手を広げて首を傾げた。

「答えが気になるところだ。一体何処から尾を掴んだのか。なんてことはない、あまりに間の抜けたミスを犯しているのかもしれない。……ああ、その可能性は凄く大きそうだ。こう見えて……じゃくて。見ての通り、僕はとてもありきたりで至極つまらない男だからね」

「と言っても、流石にまだそれくらいじゃあ教えてくれる気にはならないだろう? さて、次はもう少しだけ強くしよう」

 杖の先を、男はクレアに向けて。

「頼むから、つまらない意地を抱いたまま勝手に死んでくれるな。せめて何処が拙かったのか、教授してから死んでおくれ」

 でないと採点のしようがない。

 氷点下を下回る闇夜に、小さな風が擽るかのようにクレアの首筋をそっと通り抜けていったのは、死神の指先が彼女に触れた暗示だったのかもしれない。

  

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