第二十一話
その来客を、彼女は想定していなかった。
スケジュールにも刻まれていない、前もってのアポイントメントも取られていない。加えて今の彼と彼女は立場上は無関係。部下が此処まで通すのも意外だったのだが、やはり情というものもあるだろうし、それだけ彼が元同僚たちとの間に信頼というものを育んでいた証左なのだろう。それは彼女にとって関与するべきことでもないし、知る必要もないことだったが。
「それで?」
視線は男に向けず、決済を求められた書面を見つめたまま、彼女――魔術省大臣・ベラティフィラ宰相たるリジエラ――は男――ベラティフィラ魔術中等学校教員、シアナ・セントリウス――に問うた。
「伏して、お願いいたします」
腰から直角に、シアナは深々と頭を下げる。
「リジエラ閣下の『目』を、なにとぞお借りしたい」
その言葉に対してリジエラは、黙したまま視線をシアナに寄越すことはない。
「酒は、飲まれますかな?」
老人の下を尋ねた男は言う。手土産として持ってきた葡萄酒は最高級のものを持参した。この老人に対しては幾ら礼を費やしたところで赤字は出ないだろうと男――ノルビス・ラウラス――は踏んでいた。
「ひぇっひぇっ。これはこれは。分かっておるの、分かっておるのう。おお、おお、いい色合いじゃ」
深い紅を湛えた葡萄酒を転がすように揺らしながら、老人……キストゥス・アルビドゥスは微笑んだ。
二人が今いるのはキストゥスが借りている宿の一室。キストゥスの足元にはクゥルゥと名付けられた彼の飼い犬がその身を丸めて眼を閉じていた。その眼が開いたのはノルビスがキストゥスの部屋の扉を開けた一瞬のみ。片目を開いてちらりとこちらを伺い見るその姿はまるで人のような反応だった。
「まあ座るといい。ひぇっ。かように善き物を渡されては無碍に追い返しも出来なんだ」
傍らのテーブルに置かれていたワイングラスとオープナーを手に取り、早速きりきりとコルクを回しながら翁はそんなことをのたまう。ノルビスはその様子に苦笑を浮かべつつ、部屋の隅にあった椅子を運び、ベッドに腰掛けるキストゥスに向かい合うよう位置取った。
とぷとぷと音を立てて、赤い、血のように赤い酒がワイングラスを満たしていく。グラスの半分ほどを真紅に染め上げたところでキストゥスの注ぐ手が止まり、グラスを灯りに翳して波打つ真紅の宝石、そのきらめきを堪能していた。
「随分とベッドの近くに……」
グラスを置いていらっしゃる。
「んん? これか。寝酒じゃよ。お主もあと五、六十年ほど経てば分かる。年を食うと寝つきが悪くなってのぉ」
「成程、覚えておきます」
果たして自身が五十六十年後に生きているかはさておいて、とりあえずは愛想笑いを浮かべてノルビスは神妙そうに頷いた。
「さて、それで何用じゃったかのう。おお、そうそう。話を聞きたいとかなんとか。……それで? 一体何について尋ねたい? 大した面白い話はないと思うがの」
葡萄酒を滑らせるように口に入れて、口先の潤滑油代わりにしながらキストゥスは興味なさげに言う。
「いや真逆。貴方の口から面白い話が聞けないとなると、それこそ世の娯楽はこの国の宰相閣下の語りしかなくなってしまいますよ」
「はっ、あれの話は至極下らないものじゃと思うがの。あれよりは儂の方がましじゃろ、多分の」
「ほう、話を聞いたことがおありで?」
決め付けてかかるキストゥスに、ノルビスは誰もが当然思い浮かべる疑問を投げかけたが、返ってきたのは「ないが予想はつく」との答え。内心で鼻白みながらもノルビスは表情を何とか崩さないまま流すことが出来ていた。
「しかし、語ることがないのもまた事実さの。第一、儂が派手に暴れてた時は主の先代、いや先々代が詩っておるはずじゃろ?」
「ええ、それは存じております。先々代は貴殿について何篇かの詩を書き、無論私もそれを覚えています。……どうでしょう、一曲?」
そう言って背負ったリュートを取り出し足を組むノルビスをキストゥスは鼻で笑う。
「己が事を華美に虚飾した詩を喜び勇んで聴くほど厚顔ではないよ。謹んでお断りさせて頂こう」
「そうですか、それは残念」
心底無念そうにノルビスはリュートを椅子の横に立てかける。お聴きしたくなったら何時でも構わない、そう言わんばかりにこれみよがしに。
「ですが、アルビドゥス殿の武勇伝を書いたのは確かに先々代。ですから幾許かの空白がございます。その間に何かしら貴殿の身に詩うべきことはないかと思いまして」
「ないよ」
それは極めて淡白に。そして呆気なく返された。
「ない、ない。語るべきことなどなにもない。第一、先々代もそうじゃったが、あれは勝手に儂の周囲をうろつき調べて、勝手に書き上げていた。主もそうしてくれた方がこちらとしては有難いのじゃがの」
「これは痛いところを突かれました。ええ、全くその通りだと思います、私も」
「では、そうしろ。それをしろ」
余計な手を煩わせるな。言外にそう含んで、野良犬を追い払うかのようにしっしと手を振った。
「そうしたいのは山々なんですが……どうにも時間が経ちすぎていまして。やはりご本人から話を伺ってから裏を取るのが手っ取り早い場合かと」
「それじゃ」
空になったグラスをテーブルに戻して、キストゥスは詩人を指差しながら言った。
「お主らは確認を取る。先々代が儂に直接聞きにこなかったのもそれじゃろ? 当人の口からでは如何様にでも嘯ける。儂が武勇伝として十五人を一度に相手取り倒した、と語っても事実は十人だったのかもしれぬ。特に儂ら冒険者という職はそうじゃ。盛る、兎角功績を盛る。己の名声を高めることに躍起になる。それが箔になり、やがて金になる。しかして、詩人どももそれで良い。その方が良いはずじゃ。歌うのなら派手な方が良い、聴衆を沸かせるようより耳障りの良いものを求める。だというのに、主らは、『ラウラス』は事実を調べ上げる。その結果として詩の内容が小さく纏まることが往々にしてある。……不可解極まる。何故そうする?」
「いやいや、やはり、歌うのならば真実が良い。ただそれだけのことです。特に、私達のように一族が連綿と詩歌いなぞをやっていますと、小さな嘘がやがて大きな心のしこりになるということを理解しているのですよ」
二人の視線が、交差する。
一人は軽薄そうな瞳を弧月に曲げて、一人は猛禽のような鋭い視線を射殺すばかりに差し向けて。
「……ふん。ま、その心意気には同意するところもある。……儂も事実を知りたいと思うことがあるからの」
「おや、それは一体何事で?」
「かっ、言うと思うたか。……それで? 話はそれだけか?」
「……一つばかり、お願いがあるのですが」
「聞くだけは聞こう。なんじゃ」
「貴殿の『鼻』を、お借りしたく」
老人はそれに薄く笑い。
「……不可思議な童よ」
小さくそう、呟いた。
その人が普段やらないことをすると、余人はそれを揶揄して夏であるというのに「明日は雪が降る」などと言う。普段起こりえないことを、超常的な現象さえ信じてしまうような奇異な行動。例えばフェイト・カーミラが真っ当な魔術師としての道を歩もうとすれば、彼の友人であるところのディギトス・ガイラルディアはそう皮肉に笑うだろうし、ディギトスが真面目に勉学へ打ち込み始めたら今度はフェイトがそう言うだろう。
「鬼の霍乱だよ。やべえな明日からは。槍が降るぜ槍が」
だからディギトスがその日そうのたまったことを誰が否定するでもなく、ただ霞みがごとく立ち消えていったことは無言ながらも全面的な肯定であることの証左なのだろう。
クレア・ティスエルは「ベラティフィラ魔術中等学校完全制覇」を掲げている。一体何を持ってして「完全制覇」なのかは第三者からすれば杳として知れないが、兎も角それを旗印にして、数多くの講義をどんどんと履修している。同時に、「完全」であるのだから必要以上の穴を開けてはならないはずだ。
無論、クレア自身も中等学校の生徒であると共に、駆け出しの冒険者という二足の草鞋を履いて過ごす日々を送っているのだからどうしても避けきれないアクシデントによって欠席することもあるはずだ。……確かにそれ自体珍しいことなのは間違いないのだが。だがしかし、誰一人として欠席の理由に思い至らぬことは今回が初めてだった。女子寮の隣室に住む生徒を掴まえて話を聞いても、「今日は彼女を一度も見ていない」と返されるだけだし、何か行き先について言伝を頼まれた生徒もいない。
ぽっかりと、クレアという人間一人が学内から抜け落ちたかのように、その日彼女は学内の誰の前にも姿を見せることはなかった。
「……」
右手の爪先が、机を細かく叩いていた。とととん、とととん、と、リズミカルに。密やかな音を立てて。思案に耽っているのか、それとも無意識下での抑圧された精神がそれをさせているのか。窓から外を眺めながら指先を躍らせているフェイト・カーミラのその姿は、周囲には前者の想像しか余地を与えなかった。
「……あ、あの、さ」
フェイトの席の前に陣取ったアルレフトが、おどおどとフェイトに声を掛けていた。顔色を伺う、何処か媚びた視線を覗かせて。
「な、なに、か、あ、あった?」
「ないよ。なにも」
ぴしゃりと即断で切って返す。雷に打たれたかのようにびくんと一切の身動ぎを止めたアルレフトと、未だに指先で机を打つのを止めないフェイト。互いの間に幾許かの間ができて、「これではまるで『なにか』があったようではないか」と気付いたフェイトは深々と溜め息を一つ吐き出した。
「……うん、本当にないですよ。何も」
自分の中で何時からか得体の知れない「何か」が渦巻いているのを確かにフェイトは感じている。今のところそれが一体何のことなのか「想像もつかない」し、人がそれを「何と呼ぶのかさえ分かっていない」。
ならばやはりそれらは何事でもなく、ただ内心に燻る混沌に過ぎないのだろう。混沌は同時に、虚無だ。そういうものだった。だから何もない。それ以外に他人に述べる言葉をフェイトは持っていない。
「け、どさ……ほ、ほら。い、何時もは、ディギ、トスとい、一緒に、いるでしょ?」
「……そうですね。それは……私がどうのこうの、と言うよりかは」
まるで意図して距離を取っているかのごとく、フェイトとの対角線上に座している知人の方をちらりと一瞥して、フェイトは硝子のような透明さで答える。
「あちらに、距離を取りたい理由があるんじゃないですかね。『知りませんけれど』」
そっと、距離を取るような口調だった。勢いよく、どん、と胸を突き放されるものではなく、愛想笑いを浮かべたまま一歩静かに後ずさる。そんな意思が見え隠れしているものだった。
――その一歩は誰に向けたもの?
アルレフトは息が詰まるような想いだった。その隔意を向けられている矛先が自分自身だと思いたくはなかった。……深く踏み込みすぎたか、と後悔さえ覚えた。元来、アルレフトと言う個は臆病で、鈍間で、弱虫な存在だった。中等学校に来てようやくそれらの人間的な脆さを克服しつつあるが、それでも、柔いところを突かれれば……いや、そもそもフェイト自身にそのような弱みに付け込む意思がなかっただろう。ならばこれはただ単に自身が弱いだけ。結局の所、そんな簡単なところに帰結する。
――僕も、一歩引こう。
踏み込んではいけないものもある。アルレフトは人と比べてそう感じてしまう距離は随分と広い。他者の顔色を伺って生きているようなものだった。だが、それを悪いことだとは思えない。思わない。そうしていなければ今現在のアルレフトは存在しないだろうし、ひょっとしたら、何処かの路地裏で食うに困って野垂れ死んでいたかもしれない。容易に想像のつくことだった。
「……そ、そっか。う、う、うん」
「……あ、あ。そ、そうい、いえば、さ。ま、祭りが、ちか、近いよね」
建国祭。今年で二百……何年、何十年だっただろうか。ベラティフィラという国が相成った日を記念して、毎年この季節に祭りが行われている。アルレフトとしては単純な話の転換にしか過ぎなかったのだが、どうにもフェイトからすれば些か微妙な内容だったようで、思わず眉を顰めていた。
「祭り、祭り……好きですか? お祭りは」
私はどうにも、とでも言いたげな表情で、フェイトは問い返す。
「う、うん。す、好きだ、けど」
「私は……どうにも。あまりいい思い出がない、と言いますか。あれは祭りの前夜だったので関係ないとも言えますが……ああ」
結局の所、自身の弱さだろうな、と見切りをつけて。
「まあ……あれです。四英雄譚については一度で良いから見ておきたいとは思っています」
これにおいては何時もフェイトが肌身離さず持っている書籍のことではなく、毎年建国祭に王立劇場で行われる演劇「四英雄譚」のことについてだ。サンザルス商会が主催するそれは一流の演者、一流の奏者、一流の舞台を用意して、現代の演劇においてその頂点に近いと評されている。だがそれだけに。
「た、高、い、よ?」
「ですね。見たい……というよりは見ておくべきだ、とは思うんですが、こればかりはどうしようもない」
「な、なら、い、い、い、いっそ。ティス、エル、さんに、た、頼、んだ、ら?」
「それは……」
申し訳ない。高く付きそうだ。そんな仲でもあるまいし。
少なくとも一瞬でそんな断りの文言が三つ、脳裏に浮かんだ。どれもこれも適当ではあったが穏当ではなさそうだ。フェイトは日頃から貼り付けている曖昧な笑みを浮かべて首を振って答える。
「やめておきます。彼女からしたら安いものかもしれませんが、小市民な私がそんな所に何の理由もなく連れて行かれたら気苦労が凄そうだ」
「そ、そっか」
「……」
その会話で、ふと気付く。そういえば今日これまでに「彼女」の姿を一度も見ていないという事実に。
「……」
気付いたのはどちらか一方ということでもなく、フェイトとアルレフト互いが同時にその存在を思い出していた。無言の間と共に視線が交わって、アルレフトはその姿を探すように周囲をきょろきょろと見回して、フェイトは軽く息を吐いてから一度深く椅子に座り直した。
「いましたか?」
問いに、アルレフトは首を横に振るだけで答えた。
「取ってましたよね。この授業」
それには首を縦に振って。
「……それはまた、珍しい」
「め、ずら、しい、と、言うか。た、た、多分、はじ、初めてじゃ、ないかな」
休むのは。
この時に正確な答えを知っていたかどうかという点については、フェイトとアルレフトの興味の過多というよりかはその視野の狭さに起因するものだろう。一人は人並み程度には見えていて、もう一人は人並み以上に見えていない。それだけのこと。
「……ゆ、ゆ」
「……はい?」
「ゆ、雪。降るかもしれ、ないね」
唐突で、脈絡のないその言葉にフェイトは一瞬だけ取り繕うのも忘れて呆けたようか表情を見せた。稚気に溢れたアルレフトの笑みを数瞬だけ見つめた後、ようやくその言葉の意味を理解して咀嚼する。
外を見た。寒気が未だ残る空は灰色で、春と言うには半歩足りなくて、冬とするには遠すぎた。既に深々と白銀に覆われる季節は通り過ぎていて、成程確かにこれは。
「……そうですね。降るかもしれない。」
雪が。
その来客を――客?――それは予期していなかった。招かれざる客。招くはずのない客。ならばそれは最早「客」ではない別の何かだろう。
その「何か」の名は、クレア・ティスエルと言った。
クレアは木製の椅子に腰掛け足を組んだ。きちんと机に向けて置かれていたそれを持ち上げて、部屋の全体を俯瞰できるように百八十度転回させた。クレアの体重を受け止めた背もたれが微かに軋む音を立てる。
仔細に、部屋の間取り全てを、小物がどのように置かれているのか一つ一つをゆっくりと、そして確かに、脳内へ叩き込んでいく。
続いて、床を確認した。仄暗い屋内においては多少見にくかったが灯りを点けるべきではない。僅かに入り込む外界からの明かりだけを頼りに視線を燻らせる。……足跡は、残っていないはずだ。這入りこむ前に靴の泥も砂埃も懇切丁寧に払い落とした。指先で床をなぞる。埃が残っているわけでもない。その上を歩いて足跡が残っている、という状態にもならなそうだとクレアは安堵した。家主が不精ではなかったことに僅かばかりの感謝を込めて。……其処には人が普通含むべき「謝意」というものが存在していなかったのだが。
「さぁて」
口元だけで呟いた。腰に両手を当てて、睥睨するよう仁王立つ。
「家捜し、といきましょうか」
とても褒められたことではない単語を口にして、ティスエル公爵家令嬢は心底愉快そうに笑みを深めた。