第二十話
キストゥス・アルビドゥスが王都に滞在する間、宿泊する宿は決して高いグレードものではない。雨露を凌げればそれでいい、といった安宿でこそないが大商人や高級貴族連中が好んで使う一流どころでもない。中の下、もっと細分化して言えば中の中の下、そんな程度の宿を彼は根城にしていた。冒険者としての格で言えば先に述べた一流の宿に泊まることも不可能ではない。財もある。彼一人で一般庶民ならば三世代に渡って遊んで暮らせるだけの金銭は稼いでいる。……齢九十を数える超々一流の冒険者が生涯に稼ぐ額だとして考えた場合、それが能力に見合ったものかどうかは判断に悩むところかもしれないが。
兎も角、馬鹿みたいな大金を払って高級宿に泊まらなくて今回ばかりは良かったのだと思える。キストゥス自身も当初は数ヶ月ものあいだ王都に滞在するつもりはなく、如何に財があるとはいえむやみやたらに滞在費に注ぎ込む、というのもどうかと思えた。
あるいは一言申し入れをすれば公爵家から滞在費用も渡されたかもしれない。だがその交渉の果てに、現在既にある報酬内容にまで手を加えられてはたまったものではない。「宿代を出すから、地図ではなく別のものを」。そう提案される可能性も、ゼロではないはず。ならば宿よりも地図だ。飯が不味いわけでもない床が固いわけでもないこの宿に一体何の不服あるだろうか。所詮そこまで、飯は不味くない程度、床は固くない程度、と言ってしまえばそれまででもある。
そしてその日、キストゥスの下に二つの便りが届いた。一つは、文として。もう一つは、使いとして人が一人。
文はキストゥスが所属する冒険者パーティーからのものだった。行商人の手を介して彼のところにやって来たその文の内容は当初の予定より随分と長く王都に滞在していることに対する愚痴というか追求というか、そのようなものだった。
文を読み終えて、ふん、と鼻で笑う。所属する、と言っても半ば形骸化したものだ。そのパーティーを自身が組織したことこそは確かだが、今となっては二月に一度二度顔を出す程度のもの。こんな年老いたジジイを何時までも当てにされては困る。
それからしばらくした後にキストゥスを尋ねたのは公爵家からの使いの人間。さて、全く犯人の尾を掴めぬ老骨を叱り飛ばすのかと、否定も出来ない自身の力不足にキストゥスは首を捻った。
王都を騒がせる連続殺人鬼。彼が現場に残していったものは果たして何か。
その問に対して明確な解を持ちうるのは二つ。一つは現場の捜査情報全てを把握している一定以上の力を持つ貴族たち。そしてもう一つは殺人鬼本人。……そして、残していったものの種類もまた、二つ。
前者に属するティスエル公爵家は殺人鬼が残したその二つのものから犯人の正体を掴もうとしている。一つは、魔力。つまりは殺害方法。魔術による殺人を行う以上、現場には必ず体内魔力が残る。生半可な魔術師ではそれを感知することなど出来ないが、それを可能とする在野の魔術師を一人、彼らは知っていて、そして雇い入れた。
しかしながら残滓としての体内魔力というのは儚いもので、一日二日も経てば、やがて世界魔力と同一化し使役者の面影など消え去ってしまう。ならば最初からかの魔術師を、キストゥス・アルビドゥスを控えさせていけばよいのだろうが。だが、それをするのは彼らにとって殺人鬼という存在は「軽すぎた」。彼らからすれば十把一絡げの魔術師が数人狩られることなどなんの痛痒もない。ティスエル家が動いたのは、派閥の家の魔術師を殺されたからだ。高級貴族に関係を持つ魔術師でないのならば幾ら死のうと貴族連中が本腰を入れることなどなかっただろう。……無論それにも限度というものはあるが。
ともあれ、ティスエルはその巨獣のような身体をゆっくりと殺人犯特定の為に揺り動かし始めている。なればもう一つ、犯人が残した体内魔力だけではなく、それとは違うもう一つの方からも捜査の手を伸ばすのが当然だろう。
そして、その日、ティスエル家付魔術師ファベル・ヌディクルが、彼の部下に命じた調査が一段落着いて、彼の下にその報告を提出してきた。
ファベルがキストゥスを呼んだのは、そういうこと。当初はもう一つについて……つまり、仮面についてキストゥスに情報を提示するつもりはなかったのだが、遅々として進まぬ現状に、少しばかり業を煮やした結果が今日へと繋がっている。
キストゥスへ対して仮面の情報の開示。この場はキストゥスの尻を叩くというよりも、その情報の共有を念頭に置いた会合だった。
「キストゥス殿は、仮面について知っていますかな?」
ティスエル家屋敷を訪ね、応接室にてファベルと顔を突き合わせ、その開口一番にキストゥスが問われたのはそのような言葉だった。
ふむ、と白く蓄えた顎鬚を擦って、その質問の意図を考えつつ、口を開いた。
「仮面、と言われましてもな。ひぇっ。……ふぅむ、……まあ、人並み程度の知識、とだけしか答えられぬよ」
「左様ですか。では、仮面舞踏祭について何かしらご存知のことは?」
「仮面舞踏祭。仮面舞踏祭……あの」
「ええ、あの。商業国家シェフレラで行われている、奇祭の」
「……名は、聞いたことがある。見た、ことはない。知っておるかもしれんが、儂は一時期『迷宮』に潜っておったこともある。確かにかの『迷宮都市』とシェフレラはそう遠く離れているわけではないが、当時はそういった文化的芸術的なものに興味があったわけでもなくての。そんなものを物見遊山に訪れるよりかは、『迷宮』に潜っておった方が遥かに有益だと思えたわ」
「なるほど。そして多分、多くの国民が貴殿と同じようなものでしょう。仮面舞踏祭という祭りの名は知っていても、それを実際にその目で見たものは少ない。いかんせん、ベラティフィラからは遠すぎる。国境も随分と越えなければなりませんし、気軽に訪れることが出来るものでもないでしょう」
「まあ、そうじゃろうな。……それで? 一体何故仮面が、その仮面舞踏祭がどうして儂を呼ぶことに繋がるのかの? 単なる世間話というわけでもあるまい」
すっと、細められたキストゥスの瞳は真っ直ぐにファベルの目を捉えて離さない。対してファベルも臆することなく、ただ淡々と事実のみを告げていく。
「仮面、その仮面が問題なのです。……いえ、解決の糸筋と言った方が正しいか。キストゥス殿には言っておりませんでしたが、件の殺人犯が現場に残していったもの、それは体内魔力と殺し方といった魔術的側面だけではなく」
「成程、仮面」
「ええ、その通り」
キストゥスにはその情報を伏せられていたことへの疑念は何一つない。冒険者ならば大体の人間が同じ思考回路を持つことになるのだが、依頼者は必要最低限の、時と場合によってはそれ以下の情報しか与えてこない場合もままある。依頼の裏に潜んだ悪意や真意は冒険者が自らの手で白日の下に晒すか、あるいはその逆で一切目線を向けないかの二択が普通だ。第一、今回命じられたのは魔術的側面からの捜査であって、それ以外の一切はキストゥスの埒外となる。情報があれば楽になるかもしれないが、無くても構わない。キストゥスにとっては所詮そのような程度だった。
むしろこの場面に置いてはキストゥスよりもファベル、つまるところティスエル家が情報を開示する必要に迫られたということだろう。
「……それで、その仮面が一体?」
「そうですね……先に見て貰った方が早い。……こちらを」
そう言ってファベルは卓上に一枚の羊皮紙を広げた。描かれているのは六枚の仮面の写し。
「ふむ。……そういうことか」
「こちらは犯人が現場に残していった仮面の写しです。部外秘ですのでくれぐれも内密に。一応は王都とその周辺にある民芸店を調べましたが扱っているところは一件もありませんでした」
「そりゃあそうじゃろうのぉ。絵でしかないが、一目見て分かる。職人が拵えたものではない。一つ一つが稚拙じゃ」
それともこれを描いた絵師の腕が酷いのかのぉ、と諧謔味を帯びた笑みを浮かべるキストゥスにファベルは苦笑を浮かべて首を振る。
「これも一応公爵閣下のお抱えが描いたものですので、見たままでよろしいかと。……つまるところ、全て自分で用意したのでしょう。見ただけでそれと分かる素人の手彫り。それも当然かもしれません。店で買えば足がつく。店主が買った相手の顔を覚えていれば簡単に顔が割れてしまいます」
「……ふむ。しかし、何故、仮面? 何かしらの意味があるはず。『仮面を残す』ということ自体に必要性がないのだから、そこに何かしらの意味を見出しているのは確かじゃろう」
「その前に、こちらの三つをご覧頂きたい」
そう言って、ファベルが指差したのは三つの仮面。
「最初の三件に残されたのが、この三つ。そして」
指はそのままつぅっとファベルから見て右にスライドしていって。
「こちらの三つが四件目から六件目に残されたもの。……どうでしょう。違いませんか? 意匠が」
キストゥスの視線が指を追う。示されたそれらは確かに差異が生じているように見える。それは単純に幾つかの仮面を手彫りして熟れたというよりも。
「何らかの見本に沿って、明確な解答を用意して、それに寄せた結果……かの」
「同意見です。何かしらの仮面を手本として、それを彫ろうとした結果。私はそう読みました。……そして」
「無論、そちらの線でも調査を進めたわけじゃの」
無言で、ただ、頷く。
「ですが先ほどにも述べたようにこれらと似たものは王都近辺では見つかりませんでした。加えて仮面というものを体系化し、ある程度の種類分けをしている国はシェフレラくらいしか存在しない。商業の繁栄と同時に芸術文化も花開いた都らしいと言えば、らしいのでしょうが。……ならば実際にシェフレラを訪れた人間なのか? それならば一気に範囲が狭まる……のですが、その実数は定かではありません。ベラティフィラから国家連合に正規の手段で出入りしたとしても、入出国の情報は隣国のみ。国を幾つも跨れては足跡も追えません」
「……なればもう一つ。国にいながら仮面の情報を手にしたという線から探る」
「……書物か。ふむ、なるほどのう」
「ご明察。一応は個々人での書籍収集家も当たりましたが、そちらはやはりどうしたって足がつきやすい。……こんな言葉がありますな。『木を隠すなら森の中』。……では本を隠すのならば?」
そこまでヒントを提示され、キストゥスの脳裏につい先日のことが閃く。思わず腰を浮かしかけるが、それを顕にするにはまだ少々確信が足りない。表情は微動だにせず、瞬間のみの身動ぎが行われていた。
「あぁー……。確か王都にあたっては、魔術中等、高等学校、それから魔術省の図書塔。初等学校は……」
指折り数えるキストゥスを見て、ファベルもまた「我が意を得たり」と薄く笑う。
「前の三つと比べて規模が小さいが、あります。『図書室』が。……さて、ここまで来ればもうお分かりでしょうが」
「調べたのじゃろう? くまなく、余すことなく、その全てを」
「ええ、時間の掛かることでしたが」
「その仕事を回された方はたまったものではないな。目が回るほどの冊数じゃったろう。……そうでもないかの。つまるところ『仮面』について書かれているものさえ調べれば良いのだから」
そして、見つけたのだろう。現場に残された仮面、その手本が描かれている書物を。しかし、キストゥスからすればここでもう一つの疑問が残る。それは「何故その情報をこちらにも与えるのか?」だ。
当然、目処をつけて集中的に調べた方が効率は上がるのだろう。だがキストゥスが任されているのは魔術的側面からのアプローチだ。余計な先入観は時に害を及ぼすこともある。全く独立した二つの方向から調査した方が実りある結果を残す時もある。
しかし此処に来てその情報は詳らかにされた。それが求めるところとしては、「可及的速やかにこの可能性の正否を問いたい」ということではないだろうか。この推測が当たっているにしろ間違っているにしろ、なるたけ早く、その真実を知る必要が出来た。……それはどうして? キストゥスが脳裏に幾つもの推論を浮かべ、一つの仮説に辿り着いた。
「……その書物が見つかったのは」
「……中等学校……かのう?」
覗き込むようにして見据えるキストゥスの瞳には、苦虫を噛み潰したようなファベルの表情が映っていた。
キストゥスの下を訪れたティスエル家の使いは、そのままの足でもう一件、用命された場所を訪れようとしていた。その場を訪れると、幾人もの商人や客が喧騒と活気を生み出し、まさに王都随一の巨大さを誇る商家に相応しいエネルギーに満ち満ちている。
使いが訪れたのは、サンザルス商会本店。手隙にしていた一人の店子が使いの男に目聡く気付き、話しかけてくる。
「これはこれは、本日はどのようなご用命で?」
「ティスエル公爵家の使いだ。こちらにノルビス・ラウラス殿が滞在しておられると聞いて尋ねた。……今おられるか」
「ラウラス、でございますか。暫くお待ちを」
一礼して、店子は店の奥へと小走りに駆けていく。
これから数分の後、使いの男はしっかとノルビスを公爵家へと無事連れて行くことができた。
「こちらでしばしお寛ぎを」
ノルビスがティスエル家のメイドに通された客室の内装は中々に洒脱で、この部屋を見ただけで感性を鈍らせ無駄に飾り付ければ権威と財を誇示できるだろうと考える凡百の貴族とは一線を画していることが分かった。
敷かれたマットも、備え付けられた椅子や机も、そして壁も、どれも落ち着いた色合いのものを選んでいて、しかしその重厚な色合いには確かな華麗さが薫っている。吟遊詩人ではあるが、実家が世界一と言っても過言ではない商家に生まれたノルビスは幼少の頃から鑑定眼を叩き込まれていたので、物の価値というものを痛いほど理解している。その御眼鏡に叶うのだから、ティスエル家の栄華もまた、推して知るべしといったところだろう。
――これらの家財や装飾品を買い揃えたのにサンザルスを利用しているのならもっといい。
財は力である。そのことを正しく理解しているノルビスは、今現在仮宿としている分家のことを想いつつ内心で願いを告げた。無論、表情にはおくびも出さずに。
背負ったリュートを三人掛けの椅子の端に置き、自身は中央に座る。常ならば腰に佩びている刺突剣はティスエル家に上がりこむ時点で門番に預けてあり此処にはない。長剣などに比べれば軽いものだが、その僅かなバランスの違いが不安を掻き立てる。
もしもこの場で襲われでもしたら。
万が一にしか有り得ない仮定を想像して、いらぬ冷や汗を浮かべる自身を嘲笑う。徒手空拳の心得も少なからず要しているが、焼け石に水だろう。……と考えたところでノルビスは額に手を当てた。本当に「万が一」しかないことを思い浮かべて何になる、と。
そんなどうでもいいことを頭から振り払って、部屋の扉の横に立つ、この客間まで案内してくれたメイドに視線を移した。中々の美貌であった。流石公爵家に仕える者は違うな、と云々頷いて。
「……何か」
ノルビスの視線を不審に感じたのか、メイドはその怜悧な視線を彼に寄越した。
「いや、実にお美しい人だと思いまして。どうですマドモアゼル、この後お時間があれば何処かでお食事でも」
「大変申し訳ありません。時間がありません」
「……ですか」
ぴしゃりと、跳ね除けるように言われては二の句が継げない。居心地の悪い無言の場に、尻の座りを悪くしていると、その空気を打ち破るかのように扉が小さくノックされ、跳ね除けたそのメイドが扉を開けて応対する。
家令か単なる使用人か、兎も角壮年の男と小さく話を交わして二度三度頷いている。男が扉を閉めると、メイドはこちらを振り返り一礼。
「お待たせ致しました。家付のファベルがお呼びです」
扉を開き、こちらへ、と指し示すメイド。ノルビスは何の躊躇いもなく彼女が導くままに従った。
「失礼いたします」
客間から次は応接室へ。目の前のメイドが扉を叩いて一声掛ける。中から「通せ」と返ってきた。男の声だ。ならば必然、この声がファベル・ヌディクルの声なのだろう。
「どうぞ」
メイドが開いた扉はそのまま閉じられぬよう傍らで押さえられ、ノルビスは何の障害もなく応接室へと足を踏み入れた。中にいたのは男が二人。てっきりファベルだけだと考えていたノルビスは背中を向けて座るその老人を不思議そうに眺める。服装は褐色の茶。首筋は枯れ木のように細く、容易に手折れそうだがしかし、纏う気配は貧弱というよりその真逆。一目見ただけで、数多の修羅場を潜り抜けてきた一流どころだと理解しうる雰囲気があった。
「これはこれは」
そしてノルビスはそんな老人に一人だけ心当たりがあった。実際に目にしたことはない、だがその数多くの武勇伝を耳にしたことはある。その老人はそれまでに聞いた無数の逸話にぴたりと当てはまるように感じられる。思い描く正体に、まず間違いはないだろう。
「ファベル・ヌディクル殿。……更には」
「キストゥス・アルビドゥス殿までおられるとは。私のような馬の骨が立ち入ってよいものか。些か躊躇ってしまいます」
自身の名を呼ばれた老人はゆっくりと振り向いた。刻まれた皺は不思議そうに歪んで。
「……さて、何処かでお会いしたかの」
「いえいえ、こちらが一方的に存じているだけでございます。貴方様が『迷宮』で残していった数多くの逸話、しっかとお聞きしております」
「……そちらは?」
「これは失礼。紹介が遅れました。私、しがない吟遊詩人をやらせて頂いております、ノルビス・ラウラスと申す者。……以後、お見知りおきを」
右手を胸に当てて、足は交差させ優雅に一礼。芝居がかったその動きを、キストゥスは愉快そうに、ファベルは薄く笑って見つめていた。
「ラウラス殿は私がお呼びたていたした。……ラウラス殿、ご足労を」
「滅相もございません。ヌディクル殿にご用向きされることなど誉れに相違なく」
ファベルが着席を促して、ノルビスもそれに従って椅子に座る。
「ラウラス……とは、『あの』。成程、なれば儂のことを知っておっても不思議はないか。……つまる所、確認のため、ということかの? ファベル殿。……それにしても、その為だけにラウラス本家の血筋の者を呼び出すとは、贅沢なものよ。……確かに、これ以上の適任もないがの」
キストゥスの言葉に苦笑を浮かべて、ファベルがノルビスに真っ直ぐ向かい合った。
「キストゥス殿の言うとおり、あまり大した用ではないのでこうして足を運んで頂くのも心苦しいところではありましたが……。とりあえずは、簡単な用です。数分も掛かりません。お手を煩わせることはない」
「何をおっしゃります。私は如何様な用件でもヌディクル殿からのお声掛けであれば、例え海楼にあっても飛んで参りましょう」
公爵家付の魔術師と、家業を継ぐわけではないが、世界一の大商家本家の血筋をその身に宿す男。互いが互いにへりくだる、面倒な会話が繰り広げられている。
「七面倒なやり取りは止めにして、ささっと終わらせるべきじゃろ。時間は有限よ。少なくとも儂のような老いぼれにとってはの」
そしてそんなものは知ったことかと実力主義の社会で生きてきた魔術世界の化生が言う。その言葉に理を悟り、ようやく二人が本題に入った。
「こちらをご覧頂きたい」
ファベルが指差すのは机の上に広げられたままだった仮面の写しであった。それを見てノルビスは目を細めて深く頷いた。
「……顔、ですね。……いやこれは失敬、冗談です。……仮面ですね。……あー、少なくとも、売り物にはならない程度の」
これが何か? とは尋ねない。それは求められていることではないし、語る必要もないとノルビスは理解している。
「その通り。ノルビス殿、こちらの仮面に何かしら見覚えは?」
「見覚え。……見覚え。……ううん、ある、と言えばあるのですが……。しかし、稚拙で」
「構いません。どうぞおっしゃってください」
「……では。こちらの三つ、『無貌』と呼ばれる種類のものに似ています。……ですが下手で、実際にそれを彫ろうとしたのかは……多分、そうだと思うのですが」
「『無貌』、それはどのような仮面で?」
「白の仮面で、一目見ただけでは単純なものなのですが、陰影や見る角度によって喜怒哀楽が映し出される玄妙なもので、彫れるものは本国……シェフレラでも限られたものしかおりません」
「それはシェフレラだけにしかないのでしょうか」
「似たようなものは他国に幾らでも。しかし感情の色彩全てを内包する『無貌』はシェフレラにしかないでしょう。……それにこれは『ありがち』なのです」
「ありがち?」
「……腕利きの彫り師以外が『無貌』を彫ろうとすると、どうしても歪なものになる。『全ての感情を内に秘める』という矛盾を閉じこめた仮面であると知っているからこそ、単なる白面ではなく、その表情はどこか歪に歪んでしまう。人の心をざわつかせる、丁度この写しのような、歪さを」
場を、静寂が包み込んだ。
ファベルは右手を口元にあてて、キストゥスはさも愉快そうに目尻を垂らして。
たっぷり一呼吸分、思考に没入したファベルは顔を上げてノルビスを見据えた。
「……そうですか。ありがとうございます」
「他には何か? 幾らでもお答えいたしますが」
「……では、一つだけ」
「なんでしょう」
「……貴方は、四英雄譚の前口上以外で王都に長期滞在していたことは?」
「……いえ、特に最近はありませんね。諸国を旅歩いているので、あまり一所に長く腰を据えるということは、あまり」
「分かりました。……本日はご足労頂きありがとうございました」
「もう、よろしいのですか?」
「ええ、本当に些細なことでお呼びして、申し訳ありません」
「いえ、このようなことでよいのなら、何時でも気軽にお声掛けください」
ファベルが扉の外に声を飛ばし、廊下で控えていたのだろうメイドが扉を開いた。
「それでは、失礼します」
「本日は助かりました。この御礼はいずれ」
ノルビスは立ち上がり、ファベルの礼を受けて応接室を後にする。……その直前に。
「ああ、そうだ。アルビドゥス殿、貴方様の武勇伝、近いうちお聞きしたいのですが。吟遊詩人として詩の題材になりそうなものがあれば、それを調べずにはいられない性質でして」
「構わんよ。ま、大して話すこともないと思うがの」
「ありがとうございます。……では」
そうして、ノルビスは辞去した。
応接室に残るのは、必然元からその場にいたニ人だけに戻る。
「……さてさて。答え合わせには十分じゃったの」
ひぇっ、ひぇっ。罅割れた声で笑うキストゥスに対して、ファベルは思わず頭を抱えたくなった。
「今現在王都にある仮面関連の書籍、更にその中から『無貌』というものが挿絵を伴って載っているもの。ひぇっ。題名を何と言ったかの。確か……」
「『仮面舞踏祭について』」
搾り出すような声が、ファベルの喉から漏れ出した。
「そうそう、それじゃそれじゃ。……それにしても、少々大げさではないか。今のところ最も怪しいと考えられる存在が魔術中等学校にいる。それだけの話じゃろう? ……ふむ、もう少し絞れるか。如何に魔術国家ベラティフィラ最高峰とはいえ、童では、腐っても家付をそう易々と害せるとは思えん。故に、教諭。中等学校の、教諭。……一気に容疑者の範囲が狭まったの。目出度い、目出度い」
「なに、公爵家の娘が生徒として在籍していようが、問題はなかろう? 目立つ真似さえせねばのう」
疑う余地のない揶揄。それは万事を理解して言っているのだろう。何時から気付いていたのかは定かではない。ないが、予測はつく。わざわざ情報を提供しようとするこの場を設けた時点で、ファベル側には「急ぐ必要がある」と自供しているようなものだ。その必要性の中で、最も確率の高そうなものを選択し、この場で提示しただけの話。……ファベルとしても、隠す必要性はなかった。ないのだが、これは確実な弱みでもある。公爵ディモル・ティスエルはクレア・ティスエルの行動を黙認している。もしもクレア自身に殺人鬼の毒牙が剥けば、彼はまず確実に「自業自得」と処理するだろう。好んで死地に足を踏み入れたのは娘であり、父はそれを止めたのだ。その忠告を無視してなお足を進める者に対して、ディモルは寛容さを持っていなかった。
しかし、クレアという存在を喪うことは公爵家にとって痛手であるのに違いはない。他家と婚姻を結び、その勢力を拡大するには必要な存在だ。だからこそディモルの忠実な部下であるファベルはそれを避ける努力が必要だった。故に、弱み。そして弱みを握られるということは、今回の依頼の重要性が増すということ。それを交渉のテーブルに持ち出して依頼達成料の上乗せを目論むのは当然のことであり、そのことを誹るほどファベルは能天気ではない。
釣り合い、である。クレアが死ぬ可能性、そしてそれがもたらす想定しうる被害額。キストゥスがそのことを盾に要求するだろう代償。代償が軽いものならば、飲んでもいい。重ければ、蹴る。……蹴ったからと言って、それがクレアの死に直結するわけではない。クレアを歯牙にも掛けぬ可能性、それよりも先に犯人を排除する可能性、クレアが魔の手から逃れうる可能性……。生と死は未だに、揺らいでいる。
だが、クレア自身はその可能性を自らの手で大きく削り取っていた。
「……魔術中等学校は、……いえ、それに限らず、多くの教育施設は独自のコミュニティを保っています。部外者の立ち入りは禁じられ、求める書籍が図書室にあったとしても正面から堂々と取りに行くことは出来ない。我々も、持ち出すのには少々手間が掛かりました」
そう言って、ファベルは再びメイドを呼んだ。一つの令を与え、踵を返し小走りで部屋を出たメイドの帰りを数分待つ。帰ってきたメイドが胸に抱えていたのは、一冊の書籍。
受け取ったそれを示すように掲げ、ファベルはその表題を読み上げる。
「『仮面舞踏祭について』。中等魔術学校内にある、そのものです」
学外持ち出し厳禁ではあるが、裏道は幾らでもある。しかし学内に人を一人通し、忍び込ませて盗み出すというのは道義に悖る。故にこれは魔術学校内にいるティスエル派閥の貴族、その子供を通じてこの場にまで持ってきた。生徒ならば単純に借りて、外に持ってくればいい。
「困ったことに、お嬢様はこれを使って宣戦布告を行っています。我々よりも先を行くのは素晴らしいと褒め称えるべきか、近しいところにいたのだから必然と取るか。……何はともあれ、見て頂きましょう」
ファベルが本を開いた。開く箇所は、頁の最後。貸出履歴が載っているそこ。
書かれた名前は二人。一人はファベルがこの本を手に入れるため話を通した貴族の子。そしてもう一人の名は、必然。
「ひぇっひぇっひぇっ。ひぇっひぇっひぇっひぇっ」
キストゥスがその名を視線でなぞり、大笑した。
「そうさの、そうさの。そうなるともの。ひぇっひぇっひぇっ。これは愉快、そして痛快よ。良い、まっこと、良い! 気に入ったわこの童!」
クレア・ティスエルの名がそこにはあった。
「はてさて、一体どのようにして転ぶのか」
帰路、ノルビスは歌うように呟いた。心が躍る。焦がれるようだと自覚する。
あれはまず間違いなく、連続殺人鬼についての捜査だろう。前もってサンザルスからは事件の概要詳細は聞いていた。事件には関係のない外野であるに違いないのだが、サンザルス商会……つまるところのラウラス商会は、黙していても自然それらに関する情報が集まってきてしまうほど、ベラティフィラに根を伸ばしている。貴族王族の中にも、ラウラス家の関心を買いたい一心で機密を漏らす者も少なくない。
犯人こそ知らないが、あの場においては少なくともキストゥスよりかは事件について深い知識を持っていただろう。……流石に、仮面の写しはノルビスも初めて見たのだが。
そう、仮面。仮面だ。
数多ある仮面の中から「無貌」が選ばれたその理由。もしもそれが、ノルビスが考える可能性を正しくなぞるものだとしたら。それは、それはとても。
「面白くなりそうじゃないか」
彼が求めるは『真実』と『英雄』。あるいは、『真実の英雄』。
何はともあれ、その事件の決着を、どうにか自身の目で見届けたい。それが「語り紡ぐ者」としての役割であると彼の根源が訴えている。
「確か、アルビドゥス殿は鼻が効くのだったか。……一度お願いするべきかな」
今日はとても、好奇心がそそられる一日になる。
高揚する意識を持って、ノルビスはこのままどこかの酒場で「流し」でもやろうと足を向ける方向を変えた。高鳴る胸の律動はそのままに、しかし表情は何時もと変わらぬ虚無的な笑みを貼り付けて。すれ違う女が熱っぽい視線を送るのを尽く無視して。