第十九話
「皆、馬鹿」
「そう言ってやるな。神経が人並みに細けりゃああもなる」
悲鳴の渦、その只中にあって微動だにしない二人の男がいる。
客は一目散に出入り口に殺到して、こぞって先に逃げ出そうと激流が出来上がっていた。二人はそんな流れの最中にあって、揺らぐことのない巌のように、濁流を真っ二つに断ち割っている。
「……悠々、逃げ出せる」
「……違いない、が、計算済みなんだろうさ。そこのところも」
魔術師姿の一方が囁いたその言葉に、軽装の剣士姿の男も同意する。爵位を授けられた何の勲功もない中等学校の生徒。……成程、不足している。これほどないほどに、欠如している。それは当然、狙われるだろう。件の殺人鬼に。
フェイト・カーミラの命を狙った魔術の行使、そして、その前提条件。十中八九、今宵この場を訪れたあの客たちの中に、いる。……けれども、あの混乱の中に紛れこんでしまえば、離脱も容易。故に、この二人は混沌とする出入り口を冷ややかな視線で見つめて、そこに集る間抜けどもを一瞥し、唾棄した。
「それにしても、まあ、これでようやく分かった」
「……ん」
数日前、フェイトはこの二人……正確にはこの場にいない連中も含めて、都合四人にとある「依頼」を提案していた。内容は単純な護衛依頼、護衛対象は……「フェイト・カーミラ」。
当初はそれに疑問を覚えたが、こうして実際に目の当たりにしてしまえば容易に分かる。フェイトが何故その依頼を彼らに提示し、一体何を危惧していたのか。これ以上ないほど明確な答えが、眼前に記されている。
フェイトは今現在の絵図を予知、とまでは言わないが十分可能性として有り得るとして布石を打とうとしたのだろう。だが、如何にフェイトでも、まさか叙勲式当日、壇上での凶行にまでは予測が足りなかった。
「彼は」
「ああ」
「死にたがり」
「……そっちかー。確かにその通りなんだけど、……そっちかー」
捻くれているというか天然というか。相棒が何を考えているのか大概分からないが、どうやら今この瞬間も二人の間に大きなすれ違いが生じていることに剣士は気付いた。
「そっちもあるけどさ、アイツがどうして俺たちに護衛依頼なんてものを出してきたのか、その答えが此処にあると思うんだが」
「それは当然、分かってる」
「……さいですか」
分かりきったことを言うな、とでも言わんばかりの態度に、剣士は魔術師が小さな怒気を覚えたことに気付く。こういう場合はさっさと折れた方が早いのを経験則として持ち得ている彼は、追及をやめて好きなようにさせた。
「もっと不思議なのはそれよりも、どうして護衛なんて求めたのか」
「……いや、だからそれは殺人鬼に狙われる可能性が十分に存在したからだろう? 現にこうして、フェイトは狙われた」
「それが言いたいんじゃない。言いたいのは、『死にたがりのくせにどうして生きようとするの?』……ということ」
それは、間違いのない、真理だ。矛盾という名の、真理だった。
「後衛より前衛の方が死にやすい。強いより弱い方が死にやすい。今だってそう。勲功爵を賜った方が死にやすい。殺人鬼に狙われる確率が高くなるから。つまりフェイトは死にたがり」
なのに。
「なのにどうして護衛が必要? 死にたいんじゃないの? じゃあ死ねばいいのに。死にたいのに、死にたくもない。そんなのきっと」
――壊れてる。
目の前でそう謳う術師に、剣士は全身がぶるりと震えて総毛立つのを感じた。
無表情のまま、まくし立てるように喋る舌先は無感動で、彼はあくまで言葉と事実の羅列に過ぎないそれを、冷徹なまでに「ただの言葉」として放つことが出来る。
――だからこそ、だからこその「剣と賢」だ。
剣士、アキレア・アルフィーナは、魔術師、ハスティア・ギーヴォの変わらぬ表情を見たまま、言い知れぬ充足感を覚えた。
「……死にたがってるのなら、別にいいだろ? それで俺たちに困るものではないし。むしろ、使いやすくなるだけだ」
「それでいいなら、それでいい」
やがて、逃げ出そうとしていた人々の姿もなくなり、小さなイベントホールに残されたのは四人だけになる。
壇上のクレア・ティスエル、フェイト・カーミラ。客席のアキレア・アルフィーナ、ハスティア・ギーヴォ。
「見ろよハスティア。あれは中々にスキャンダラスな場面じゃないか?」
アキレアが指差したのは、壇上にて重なり合う二人の姿。倒れこんだフェイトの上に、覆い被さるようにして抱き着いている公爵家令嬢のクレア。この場面だけを切り取れば、三流の劇作家が好んで書きそうな貴賎格差の恋物語、そのクライマックスのように見える。貴族のご令嬢が、一般庶民に恋慕した結果、のような体勢だった。
「……聞こえてますよ」
「ああ、聞こえるように言ったからな」
そしてようやく、当人がもぞりと動き出した。此度の主役にして、多分一番の被害者であるフェイトは、クレアに抱き着かれたまま、為すすべなく声だけで抗議の意思を表した。
氷の槍が、フェイトの身体を貫かんとした刹那。それは応ずるに難い、完全な虚を突かれた形となった。
金縛りにあったように動けない。目の前に迫る事象と、数寸の後に自身の身に訪れる災禍、その二つが明確に映り、思い描けるのに、脳から下が寸断されたかのように言うことをきかない。
迎え撃つ炎なぞ繰めるはずもなく。あるいは思うよりも先に身体が動く、という状態まで己を鍛え上げた練達の戦士ならば、抜刀一閃斬って捨てることもできたかもしれないが、フェイトは決してそれではない。
死ぬ、というよりも、死んだ。過去形で綴ってしまう程度には、向けられたその切っ先は鋭かった。
やがてくる、衝撃。
それは死神の鎌ではなく、不本意ながらも、死との逆しまを表すのならば、女神の抱擁という名で呼ぶことになってしまうのだろう。
フェイトは、クレアに、ぶつかるようにして押し倒された。そして、同時に、一瞬前までフェイトが位置していた空間を喰らい突き抜ける氷槍。漆喰を破砕する音が、響いた。その槍の鋭利な尖端が、舞台の壁を穿つ音だった。
押し倒されたフェイトは身体を強かに床へ打ちつける。冷たく硬い床が後背にぶつかり、肩と背骨がずきりと痛んだ。対して身体の前面は、熱と柔らかさを持った、彼女の身体に覆われる。首元に落ちた金糸の髪がくすぐりこそばゆい。
視界は必然、天井に。光点はただ一つ、先ほどまで自身が立っていた場所を照らすもののみ。極めて狭い範囲だけが光り、残りは闇に塗れている。
そして、舞台下からは悲鳴が上がり、騒然となった。
我先にと逃げ出す群衆の叫び声も、何処か遠いところから聞こえるような気さえする。心臓の鼓動がやけに耳に近く、額にはじわりと汗が浮かび始めていた。意識は、当てのない大海を彷徨うかのように朧気で頼りなく、正体を取り戻してはいなかった。
「……一応」
小さく、囁くように話しかける。語りかけたい相手は、すぐそばにいるのだから、それでも十分聞きとれるはずだった。
「助けられた、ということでいいんでしょうか」
「……ええ、そう……なりますわね」
彼我の間に距離はない。互いの間にあったのは衣服の数枚だけで、ともすればお互いの心臓の鼓動さえも伺えるような、そんな距離。
「見ろよハスティア。あれは中々にスキャンダラスな場面じゃないか?」
聞き覚えのある声で揶揄するような言葉を受けて、そこでようやくフェイトは自分たちがどのような体勢に置かれているのかに気付いた。
「……聞こえてますよ」
「ああ、聞こえるように言ったからな」
心臓を、精神を落ち着かせるように一つ深く息を吸って、吐いた。取り敢えずは起き上がろうと考えて、何時までも自分の身体に覆いかぶさっているクレアに声を掛けた。
「……すいませんが、そろそろ退いてもらっても……」
「……え、ええ。そうですわね」
もぞりと彼女は動きだして、ゆっくりとフェイトの上から退いた。謝意を示す一礼をしながら、フェイトは自由になったその身体でのそりと立ち上がる。ごほりごほりと二つほど息を整える咳払いをして、都合四人が残った小さめの施設の中を一瞥した。
「……つまりは」
その言葉はアキレアとハスティアに向けてのものだったが、どうにも繋げる良い言葉が出てこない。口をぱくぱくと開閉しながら、結局フェイトはありのままをありのままに言う。
「……こういうことです」
要領を得ない言葉が、万の文言よりも雄弁に語る。そういう時が希にあるのだとしたら、今この瞬間こそがその「希」のひと時なのだろう。これ以上ないほど分かりにくく、そして分かりやすいその言葉に、アキレアは頷いた。
「こういうことだな」
フェイトが「剣と賢」に依頼した護衛というのは、一体何から、どういった理由で狙われることになるのか、何から守ればいいのか。明確な回答が、この場面だ。相手は、姿形の分からぬ殺人犯。最も狙われやすく危ういのは、一人で出歩く時だろう。それはフェイトの一日において、寮とギルドの間を往来するひと時。ならばその間その時だけを誰かに守って貰えればいい。例の殺人鬼は随分と用意周到で、必ず一人の時に目標を襲う。ならば数の有利を常時作っておけば、安全性は格段に上がるはず。
――この時、脳裏に違和感が去来したのは場において三人――
それならば、フェイトが「剣と賢」に依頼するのは即したものとなる。彼らへ護衛を願うのならば、その内容は言ってしまえば単なる送迎でしかない。確かに手間ではあるが、一手間程度に収まるものだろう。名も知らぬ相手にたったそれだけのことを依頼するのも面倒だし、余りに簡単すぎる内容は受けてさえ貰えないかもしれない。あくまで日常の延長線上で行える面々だからこそ頷いてくれる内容だった。
それに、鬼札が存在しているのも、大きい。その存在を知っているのは二人だけだったが、本当にどうしようもなくなった場合は、それを切ってしまえばよかった。
並べて、殺人鬼一人からフェイトの身を守るという仕事内容は、小さな手間で十分にこなせる内容だとアキレアは判断した。フェイトから提示された依頼料も中々に悪くはない。寧ろそこそこの大金だ。ギルドの仲介を通さず、直接頼み事という形のため中抜きがない、というのもあるが、それ以上に、今回の叙勲に伴って頂いた金子を護衛料に回したのだろうとアキレアはクレアという大貴族の娘を横目で見た。
「安心しろ。多対一で、その一が魔術師ならばまず負けることはないさ」
視線をフェイトに戻して、アキレアは言い聞かせるように言う。
それはまず紛れもない真実で。魔術師という人種は一人ではその力を十全に発揮することはまずない。彼らは大砲だ。一撃で戦況を打ち破る火力を持つが、それ故に小回りは効かず、一つの榴弾を撃つのにそれ相応の時間が必要。それを稼ぐのが、アキレアやザンツ、クロッカスと言った前衛の戦士達の仕事。その法則を打ち破れる魔術師がこの世に存在するとしたら、それは最早人ではなく、化物に分類されるだろう。
殺人鬼がたった一人で数多の魔術師を殺せたのも、相手が一人でいるところを狙ったからだ。魔術師対魔術師の勝負なら、その勝敗は単純に実力が勝る方か、あるいは不意を付いた側に天秤が傾くだろう。犯人は前もって自身より力量が下の相手を選んで、そして不意を討っている。ならば当然、負けるはずもない。
しかし今日からはフェイトの周辺には必ず「剣と賢」の誰かが一人付いて回ることになる。そこに掣肘を入れるというのは、これまで多くの人々を殺し、嘲笑うかのようにその身を隠し続けてきた賢い犯人からは考えにくいことだろう。
「そうですか。良かった。私もまだ、死にたくはありませんので」
そう言って笑うフェイトを見て、アキレアとハスティアは互いに顔を見合わせ、一方は鼻で笑い、一方は不思議そうな表情を浮かべていた。
世間において、その夜を定義するとしたら次の一文に終始することだろう。それは一人の中等学校生徒が身の丈に合わぬ階級を手にした一夜、ではなく、連続殺人鬼が初めて人を殺せなかった一夜。
その出来事は市井の人々の間をさながら一陣の突風のように吹き抜けていった。常日頃から娯楽や物珍しいイベントごとを求めている一般庶民にとって、これ以上ないほど手頃な話題になり得ていた。何故、殺せなかったのか。何故、彼を狙ったのか。何故、あの夜だったのか。
目撃者は多くいる。一人が二人にその夜のことを得意気に披露し、二人が四人にさも自身が体験したことのように語った。
「ティスエル家のお嬢様が身を挺して守ったらしい」「まあ」「殺人鬼は中背小太りの男だそうだ。怪しい奴を見たとその場にいた友人が言っていた」「年齢は?」「四十は越えていたそうだ」「俺が聞いたのでは二十代くらいのまだ若い男だったな」「全然違うじゃないか」「待て待て、そいつも中背小太りだと言っていた」「狙われた生徒はなんでも『愛し子』だそうじゃないか」「妖精の? だから公爵家が囲い込もうとしたのかしら」「聞いた所によると成績優秀な生徒で、将来的には魔術省入省も見込める生徒らしい」「ご令嬢と親しい仲らしいぜ」「男? 女じゃないのか狙われたのは」
無責任な、そして野放図な噂話が、次々に尾鰭背鰭がついて、この世のものとは思えない化物を描き出す。
だがしかし、錯綜する真偽の判断不可な四方山話の中にあっても、彼らの話の中に一つだけ、ピンと背筋を伸ばして一本だけ、疑うことのない真実が屹立している。それはただ一つ、「殺人鬼が仕留め損なった」という風聞。
肥大する話は勢いをそのままに、渦中の人物が在籍する中等学校内部にも浸透していた。
廊下を慌しく歩く音が聞こえる。足音を聞けば、その人物が焦っているのか、あるいは檄しているのか、そのどちらかに似た感情、またはその両方の感情を浮かべていることが容易に分かる。それでも騒がしく駆けていないのは、その人物が校内の規則を率先して守らねばいけない立場の人間であるが故か。……残念ながら駆けぬ理性は保っていても、教室の扉を静かに開ける、という方までは意識が回ることなく、がつん、と大きな音を立てて、室内にいた生徒たちから一身に視線を集めることとなる。
それらの視線に怯むことなく、いや、怯む以前に視線を集めていることにさえ気付いていないのだろう、かつかつかつと音を立てて足早に彼は一人の女生徒の前に立ち、彼女の机を右手で強く叩いた。
「どういうことか、説明してもらえるかな?」
「それはどちらについてでしょう? キネシス先生?」
詰め寄られるのは、クレア・ティスエル。
詰め寄っているのは、サーチス・キネシス。
日頃目立たぬ一教師が語気を強くして衆目を集める珍しさに、思わず生徒たちは二人のやりとりを注視する。
「……決まっている! 君はどうしてカーミラ君を巻き込んだのか、きちんと説明したまえ!」
「あら、巻き込んだ、というのは心外ですわね。私はただ純粋な善意で……」
そこまで告げて、クレアは視界の隅に映るフェイトの姿に気付く。刹那、にやりと猫のような笑みを浮かべて、すぐさまその表情を消した。
「……というのは無しにしましょうか。ええ、認めましょう、先生。私は彼を巻き込んだ。自分の意思で。私が求めるがままに」
「何故!」
「ええ、確固たる理由がありますわ。でも、それを先生、貴方に言ってどうなるの? 先生、貴方はそれを得たとして、どうするの?」
彼女が向ける視線は、彼をしっかりと見据えている。
「フェイト・カーミラは殺人鬼から逃れ得た。今ここにある真実はただそれのみ。……そうではなくて? セ、ン、セ、イ」
ああ、当然そんな言葉で納得の及ぶものでもない。未だ言い募ろうとするサーチスを指で制して、クレアはあどけなく片目を瞑った。
「ところで! 件の殺人鬼、一体どのような人物だとお思いになられまして?」
サーチスの言葉を拒むように、クレアは朗々と謳い上げた。それはただ彼一人に告げるだけのものではなく、その教室にいる全員に突きつけているかのような提示だった。
「私は、その人をこう思うのです」
一拍、衆目を集めるように呼吸を置く。そんな些細な所作さえ、彼女が上に立つ素質を持った人間なのだなと思わせる気風と、その場にいる全員の視線を奪う美貌があった。
「醜悪なお人だと」
果たして、口を吐いた言葉はその美に似合わぬ苛烈な文言。愛らしい子犬が見せる唸りのような裏切りを彼女は持っている。それは今に始まったことではなく、この場にいる全員が納得するところ。
「だってそうでしょう? 上に登る可能性を得ただろうに、それを使って行うのはしようのない嫌がらせ八つ当たり。『彼』が真実そうなのかは知りませんけれど、傍目から見ればそれは競争から不当に弾かれたことへの恨みつらみの発露。しかも、自分の手の届く範囲にしか挑まない、前もって周到に準備しての闇討ち不意討ち。人はそれを『賢俊』とは言いません。人はそれを」
「狡猾」と呼ぶのだと、彼女は切って捨てた。
「卑怯で、臆病で、そのくせ目立ちたがり。救いようのない、愚物。……私は彼を、そういう者だと断じますわ。そして、今日から皆もまた気付く。……彼がそういう存在だったのだと」
クレアの、音のある言葉は其処で途切れ、空白の、無音の言葉が彼女の口に映し出される。それを読み取れたのは、眼前に立つサーチスただ一人。ただ口を動かしただけの戯れのようなそれは、煮えた鉛のように彼の内腑に落ち込んで、焼け付くような圧を感じた。
思わず、たじろいでしまいそうになる。後ろめたいことなど何一つないのに、ただ彼女の目は、どこまでも澄んでいて、そして、射抜かれるこちらが焦げてしまいそうな熱量がある。
「……ご安心を」
いましめていた表情を崩して、はらりとした笑みを浮かべたクレアはそう言った。
「彼……フェイト・カーミラと殺人鬼を突き合わせるよりも先に、私はどうしてもやりたいことがありますの。ええ、当然それは私一人の力で成し遂げたいこと」
言外に、「ほら、あの時言った言葉を違えていないでしょう?」とでも言いたげで。
同時に、彼女は、するりと、手を伸ばして。
「一度、横っ面を思い切り叩いて差し上げたい」
サーチス・キネシスの頬にあてがった。
叩く? とんでもない。自身の頬に添えられたこの右手は、剣ほどの剣呑さを纏っている。
「……っ失礼する」
言い募る言葉は他にいくらでもあった。だが、サーチスはどうしようもなくクレアという存在の熱に晒されて、耐え切れなくなってしまった。逃げるような背中を晒して、それでもなおこの遁走が間違いではないと彼自身が深く理解して、教室を後にする。
扉の前で誰かとすれ違った気がしたが、それさえも目に入らないほど、サーチスは視野狭窄に陥っていた。
教室の中は、不思議な空気が漂っていた。
サーチスと入れ替わるようにしてそこに足を踏み入れた彼、シアナ・セントリウスは喩えようのない場の雰囲気に、日頃から貼り付けている鉄面皮の下で苦笑を浮かべた。何も彼はその心から感情というもの一切が抜け落ちてしまったというわけではない。周囲からはそう見られないし、他人のそれを波とするなら彼のものは漣程度のものではあるが、しっかりとした喜怒哀楽があったし、ただそれが表情筋と繋がっていないだけだと思っている。
死んだように静まり返っているわけでもない。圧倒的なカリスマに捲くし立てられたかのように狂騒の只中にあるわけでもない。ただ、心がどこか浮き足立っているというか、座り悪くどうにも腰が落ち着かないというような、そんな感じ。「実践魔術論」を履修している彼ら生徒の心中は、そのようなものだろうか。
それを一人で作りあげた彼女はいつもと変わらず最前列の机に陣取って、意外そうな表情を浮かべてこちらを見ている。来るべき人が来ていない。その疑問だ。
「あら、セントリウス先生。どうしてこちらへ?」
真っ当な疑問だと思った。四年の実践魔術論を受け持っている教師はシアナ自身ではない。今日はただその教師の代役。なんてことはない、季節の変わり目に体調を崩した教師がいただけのこと。
「ブラン殿は体調を崩された。本日は代わりに私が教鞭を振るうことになる」
「それは大変。お見舞いしませんと」
「……それには及ばないだろう。生徒に風邪を移すのも本意ではない」
改めて、見事な面の皮だと思う。自身の鉄面皮ではなく、ころころと色彩豊かに移り変わるクレアのものを指して、シアナは呆れ半分の感嘆を評する。
前日、あれだけの三味線を弾いて、それでなお何事もなかったかのように取り繕う。……いや、彼女にとって本当に何事でもなかったのかもしれない。日常と地続きになっていて、ただ平々凡々な一日が数珠繋ぎになっている。だから、動じない。だから、揺らがない。
――いや、それは自分も同じか。
彼女の片棒を担いでおいて、何食わぬ顔で日常を送る自分もまた同じ。
……後悔がないと言えば、嘘になる。だがその後悔は、禍根を絶つために必要だと思える経費だ。未来に襲い来るより大きな後悔から抜け出す為にどうしても必要だった出血だ。……そう思わねばやっていられない、という面もあるが。悪手だとも思うが、人は駒ではない。そんなこととうの昔に理解している。故にきっとこれが「最良の悪手」足りえると、そう信じて。
「では、授業を始めようか」
生徒は仮面のような彼の顔を伺いつつ、その言葉に頷いた。