第十八話
小さいながらも、しっかりとした会場をクレア・ティスエルは手配していた。
来客も、出来うるだけ多く。学内の知人友人を動員して、ホールを満員にするだけの人数を用意するため奔走した。これはある個人を群集の中に紛れ込ませるためのものであり、今回クレアの講じた拙い策の片割れ。
物珍しさに、通行人も会場に入ってくれればいい。不特定多数の人間がいればいるほど、やりやすくなる。そのために扉は式が始まるまで開放したままで、入場するのにドレスコードも招待状も何一つ必要ない。
演劇、オーケストラコンサート、舞踏会等々、小さいながらも幅広い用途に対応する多目的ホールが今回用いられるイベントは、ベラティフィラ中等魔術学校の生徒の一人がティスエル公爵家から名誉貴族として認められる、その叙勲式であった。
壇上の傍らでは、その事態に巻き込まれた生徒が頭を落としてうなだれている。彼は、クレア・ティスエルが行おうとしていることを手に取るように分かっていた。
――まず間違いなく彼女は、私を撒き餌にするつもりだ。
いや、最早「つもり」ではなく、撒き餌にされ彼女の行動に巻き込まれているのだが。
「やられた。……そう言っていいな。これは」
ひょっとしたらこれは二人掛かりでの陥れ。そう邪推してしまうのは、自身の心の醜さだろうか。
この時期に何一つ勲功のない中等学校の生徒を、公爵家が直々に名誉貴族として取り立てる。
……さて、世が平穏ならば諸手を挙げて喜ぶべきことなのだろうが、しかし今の巷は少々事情が違う。言わずもがな、都市の影を跋扈する殺人鬼の存在がある。……では、それを踏まえてもう一度。
この時期に、何一つ勲功のない、中等学校の生徒を、公爵家が直々に、名誉貴族として、取り立てる。
この、危うさ。
例の殺人鬼は力量に似合わぬ地位を得た魔術師を選んでは殺している。力量に似合わぬ家格の家付、力量に似合わぬ魔術省の役人、力量に似合わぬ魔道具を扱う商家の奉公人など。
そこに新しく表れるのは力量に似合わぬ爵位を得た中等学校の生徒、だ。腹をすかせた虎の前に血の滴る新鮮な肉を落とすようが如くあからさまに、選ばれた生徒……フェイト・カーミラの立場は置かれていた。
――贄だろう。
「違うさ」
―これからも。そして、これまでも。
「違うよ」
フェイト以外に誰一人いない場所で、彼はここに存在しない誰かに言い聞かせるかのように、首を振って、二度、呟いた。
その日、クレアの心は浮き足立っていた。
思いつく限りの調査はあらかた終えた。考えられる限りの布石は打った。後は行動に移して、果汁で字を書いた紙を火で炙るように、ゆっくりと絵を浮かび上がらせるだけだ。
そして、今日がその初めの一日になるだろう。網を広く張り、少しずつ少しずつ萎めていく。釣り上げたい獲物は、二つだ。
父から送られた一つの封書を手にして、彼女は不敵に笑う。
手に持つそれがもたらすものは、彼に贈る、彼女からの、とっておきのプレゼント。
虫の知らせ、という言葉がある。
「今日はなんだかよくないことが起きる気がする」
そんなさしたる根拠のない予感を示す言葉だが、ディギトス・ガイラルディアからすればそんな現象なぞ自身にとっては眉唾物だと思っていた。未来予知めいた予感を否定するつもりもないが、そういう天啓を持ちうる存在はそれ相応に優れた人間がのたまうものだろうと。非才の身でありながら大言を為そうとする人間と同じ感覚を持ちえるなどという夢物語を肯定するほど。彼は根拠のない自信を抱いてはいなかった。
故にその日、ディギトスからすれば彼女の接触は青天の霹靂であったし、あるいは無事回避できたことから、最初から己に降りかかる不幸の前兆など存在しなかったのかもしれない。あの時に虫の知らせというものを覚える者は、まさに自分ではなくフェイト・カーミラの身に降りかかるのが正しいはずだ。
そしてその日、彼に向けて何かしら嫌な予感があったのか、という疑問は未だに投げかけてはいない。
――どの口が言うのか。
フェイトは声に出して決して言わないだろうけれど、そんな視線を向けられるのは分かりきっていることだ。
ディギトス・ガイラルディアは自分という人間は余りに愚かで、同時に情けない男だと知っていた。
「ディギトス・ガイラルディア」
背後から、名を、呼ばれた。
声の主は振り返らずとも分かる。聞き慣れたソプラノボイス、耳ざわりのいいその美声は、彼女を崇拝する連中からすれば天上からもたらされる福音に近しいのだろう。
「なんだ、クレア・ティスエル」
だが、彼からしてみればどうか。至上の美声も、捉える立場が変わればその色彩も変わる。ディギトスがクレアの声を聞いて如何様な感情を抱くのか。それはディギトス自身の心の裡にのみ答えが記されている。
振り返り、ディギトスはクレアの姿を認める。表情も、声色も、弾むような喜色が滲んでいる。……跳ねる前のバネ仕掛けが、張力を溜めている最中だと、クレアのことをそう評したのは間違いなくディギトス自信だったのだが、果たして言霊という奴なのか、どうやらその瞬間が来てしまったようだとディギトスは心で冷や汗を搔いた。しかし、こうして目の前でうれしそうに綻んだ笑みを浮かべるクレアを目にすると、バネなどという可愛いものではないのだと実感する。まるで導火線に火が点いた爆薬だ。例えるのならそちらの方が的を得ている。
バチバチと音を立てて爆ぜようとするその様は苛烈で、そして同時に美しい。彼女の在り方をそのままに写していた。
「貴方にとって、悪くはない話を用意したのですけれど」
「悪くない、話……ねぇ。それは耳にした時点で後戻り出来ない類の話じゃないだろうな」
「いいえ。ですけれど、是非、受けてもらいたいお話ですわ。……それに、言ったでしょう? 『悪くはない話』だと。貴方に損はありませんわよ」
――嗚呼、うさんくせえ。
そんな想いが顔に出ていたのか、ディギトスの表情を見据えていたクレアの眉がピクリと歪んだ。
いけね。
ディギトスは左手で顎を擦るふりをして、言うことをきかない素直な表情筋を揉み解す。
「……で、内容は」
「あら、潔い」
「聞かねえと離れないつもりだろう端から」
「ご明察」
ふふん、と胸を張るクレアに、ディギトスは「けっ」と忌々しく吐き出して。
「……爵位をあげますわ。貴方に」
「……」
数秒の、間。
何故。どうして。俺に。爵位を? 何も為していない。功績はない。学生の身分。親しくない家同士。不釣合い。不相応。理由。時期。行動。……殺人鬼探し? ……不釣合い! 生贄。撒き餌か。頷くとでも? ……違う。最初から俺が頷くと思っていない。頷かれては困るんだ!
だが、その数秒の間に、ディギトスの脳内は目まぐるしく働き、問題の本質である「何故」を理解しえた。そして、お互いが最も希求し、そしてこの場においての最適である回答も。成程、それはきっと自身にとって「悪くない話」に違いない。
「……ハッ。そいつはいいや。確かに悪くはない話だ。……今、このタイミングじゃなけりゃあな」
我が意を得たり。そんな笑みを浮かべたのはこの場において一人……いや、二人。
「それは一体どういうこと?」
「白々しいったらないな。ティスエル傘下、クレア配下じゃない俺にやるより、お前を担ぎ上げている連中に下賜してやればいい。泣いて喜ぶはずだろう? 普通なら。そこに何ら他意がなけりゃあ」
「……」
「いいさ、回答は変わらない。お断りしとくよ。俺はまだ、死にたくない」
そう、ディギトス・ガイラルディアは死にたくない。そして、クレア・ティスエルはどうにかして巻き込みたい。願望は違えど、向いている方向は同じ。ならばこの瞬間において、この二人は同盟足りえた。
クレアも、ディギトスも、互いに場を持たせるために意味のない問答を幾つか重ねていた。幾つか進んだ未来から、この滑稽な時間を振り返ったとしても、お互いに何を話していたのかよく覚えていないだろう。それだけ形骸化したやり取りであったし、内に込める想いよりも、如何に外見をらしく見せるかの方が重要であったのだから仕方がない。
ともあれ、その二人の問答は何も知らぬ周囲からすれば本当に真に迫ったものだったのは確かだ。元からこの二人は反りが合わないということはこの学年の生徒ならば全員が知るところであったし、舌鋒が激しく鋭くなるにつれ、周りにいた級友達も少しずつ距離を取り始めていた。この二人の舌戦に、無遠慮に踏み込める存在の到着を求めて。
二人の声は、かすかにではあるが教室の外にまで漏れ聞こえていた。扉の前に立てば、その声が聞こえる程度には。だから、彼が扉に手を掛ける直前に何時もの二人の喧騒に気付いて、開口一番にこう言ったのも不思議はない。
「ディギトス、やけに五月蝿いのですけれど、どうしたんですか」
――釣れた。
そんな笑みを浮かべたのは、クレアとディギトスのお互いで。そしてその笑みに気付いたのもその両者しかいないほど刹那的なもので。交錯する二人の視線がどちらとも言わずにこう語っていた。「これからが本番」だと。
――アレは、フェイトはいい奴だ。少なくとも、人となりを捕まえてそう思える。
ディギトスは雑踏を嫌って会場の壁に陣取りながら、此度の主役……いや、主演と言った方がいいか。その友人のことを思い描く。
出会った時から子供らしくない子供だと思えた。その当時十二、三歳だった自分が言うのも生意気かもしれないが、一目見れば万人が彼のことをそう評するだろうという確信があった。
厭世か、人を疎んじているのか、それとも自身を儚んでいるのか……。その瞳には隠し切れない否定の色が滲んでいる、それまでディギトスが見たことのない人間だった。あるいは、その色を名付けるのなら、もっと根源的な絶望、恐怖という名が相応しいのかもしれないが、当時のディギトスはそこまで彼について詳しくはなかったし、たとえ付き合いが長くなったとしても彼自身がその正体を気取られるような振る舞いを見せるとも思えなかった。第一、彼自身が胸の奥に昏く掠れるその情動の名を知らなかったし、どうしようもなく持て余していたのに相違なかった。
自身でさえ飼い慣らすことの出来ないその瞳の影を、どうして他人であるディギトスが見抜けるだろうか。その影は、一体どんな果てのない黒い炎で炙られれば焼き付くものだろうか。
ディギトスが彼の才能に嫉妬を覚えることなく、健やかなる関係を結べたのは、彼の表層というヴェールからおぼろげに垣間見えるそんな暗闇を知ったからかもしれない。
……ディギトス・ガイラルディアという男は貴族の家に生まれた子の例に漏れず、揺り篭から墓場までのある程度のレールが用意されていた。
貴族の「三男坊」という立場は、場合によっては危ういもので、家を継ぐ長子、その代用として控える次子までは将来の展望が開けているかもしれないが、三つ目、ともなると家によっては必要とされない場合もある。幸か不幸か、ガイラルディア家は家格が低い、あるいは財政面で困窮しているという問題を抱えることもなく、ディギトスまで面倒を見る余裕があった。結果として、彼に用意されたポストが「家付魔術師」という立場。
己のことを非才と嘆くディギトスではあったが、必ずしもそうではない。少なくとも、二年の雌伏を経て、魔術国家ベラティフィラにおける最難関の中等学校に入学できたのだから、一定以上の才はあったはずだ。だが、同時に、彼は其処に入学してしまったからこそ、自身の才の限界をいち早く見抜き、見切りをつけてしまったのかもしれない。……そういう意味では、聡いと言うか、あるいは人はその諦めを愚かと呼ぶのか。
ガイラルディアの家としては、ディギトスに家付の椅子を与えるのに問題はなかった。長兄よりも、次兄よりも魔術の才に秀でていたのだから、多少実力が足りなくともそこは血が埋めればいいと考えていた。しかし、最低限の格というものも、御家は求めていた。ベラティフィラにおいては、その成り立ち、国力の長短から魔術を重要視するのもまた事実。そこでディギトスの父親が勘案した越えるべきハードルが、「ベラティフィラ魔術中等学校」だった。
王都にある同じく国名を戴く高等学校は、無理だ。
ディギトスの父は息子の才を見て冷酷にその可能性を切り捨てた。そこに登りつめるほどの才能を自身の子が秘めているとは思えなかった。王都ではなく、地方の高等学校ならば入学できるかもしれない。だがそちらに向かうと珍しくもなにもない。経歴は凡百に埋もれてしまう。それに、万が一、高等学校に行ってしまって、化けの皮が剥がれてしまうかもしれない。狙うべきは、ベラティフィラ魔術中等学校。地方地方に存在するものでは駄目だ。あくまで「ベラティフィラ」に拘り、高等学校も同じく拘ったが、そこは高い壁に跳ね除けられてしまった、という「体裁」がいいだろう。それに、中等学校ならば歳月を掛ければ越えられるはずだ。教育に金は惜しまない。入ってしまえば、そして出てしまえばそれでいい。兎角その箔が必要で、そしてそこまでならば行けるだろうと、父は計算した。
その図面を父が描いたのは、ディギトスが、まだ七歳の頃の話だった。
つまり、ディギトス・ガイラルディアという少年は、一番上の兄よりも二番目の兄よりも上手くやれると自信を持っていた分野で、父親から早々に「見切りをつけられた」。お前の才はここが限界で、この障害を飛び越えさえすれば、後はこちらが舗装された道を用意する。その道は平坦だ。その道は真っ直ぐだ。歩くに何の苦役もない、万全の道だ。だから、そこを行きなさい。だから、そこで生きなさい。お前にとって、それが最も楽な道なのだから。
……それは、子を想う親の愛情だった。それに間違いはない。
そして知った。己が父から掛けられている期待が、「所詮其処まで」なのだと、わずか七歳のディギトスは知ってしまった。
それからの彼は父の言いつけ通りに、二年の足踏みを経てベラティフィラ魔術中等学校に入学した。それも、よくなかったのかもしれない。父の予想を超えてストレートに、あるいは一年の猶予のみで入学することが出来れば父の予想をいい意味で裏切って、その将来性に夢を抱けたのかもしれない。父と子が、お互いに。
だが、二年。それは父の想定を上回ることなく、極めて「順当」な道筋だった。父が描く絵図の通りに物事は推移した。あるいはそれがディギトスの才が示す限界点だったのかもしれない。幾ら努力を重ねても、「才がある」と言われてみても、偏差値五十と比べて五つ六つ高いくらいでは、遥か高見から見下ろす存在に遠く及ばない。
二年で、その差を埋めて、ディギトスは入学した。……入学した後に待ち受けていたのは、紛うことなき「有才」たちの集団だった。クレア・ティスエルを筆頭に、ストレートで入学してきた傑物たち。……ディギトスと同い年の生徒も少なくない人数がいた。だが、その集団からクレアたちを見ようとすれば、必然上を仰ぐこととなった。眩いばかりに輝く太陽を恨めしく睨むように、何時までも空を望むのは、どうしようもなく疲れてしまう。
劣等と嫉妬は、あるいは人が持つ感情の中で最も醜いものなのかもしれない。だから人は、それに気付かない。気付こうとしない。もしくは、そう思ってしまうことを「しょうがないじゃないか」と言い訳をする。でないと、己が持つ汚さに、人は耐え切れないから。……ディギトスという人間が選んだ対処は、前者だった。胸の奥底に確かに溜まり行くどす黒い澱み。彼はそれに気付かない。
フェイト・カーミラという人間もまた、ディギトスたちからすれば才に溢れた人間だった。ディギトスとフェイト、二人の関係、その始まりは担任であるサーチス・キネシスが「間違っている」と称したあの日、つまり一年時最初の魔術教練の時になる。
魔術師の本懐であるはずの遠距離からの高火力、それとは対極にある近距離での即応性。にも関わらず、その炎の鋭さはその場にいた学生たちの誰よりも勝っている。それを見せたフェイトを、ディギトスは当初「麻疹にやられた奇人」の類だと考えた。人それぞれ、形やベクトルはどうあれ無駄に道に迷う、あるいは意味のない足踏みをするその期間にすぎないのだと。いずれ彼も魔術師としてあるべき姿に戻り、悠々と自身の上限を鼻歌混じりで越えて行くのだろうと。……そして、それが大きな間違いだと気付いた時、ディギトス・ガイラルディアは自分自身でさえ気付かない仄暗い感情を知る。
その過ちを指摘されても、フェイトは歩みを止めない。その愚かさを彼自身が知りながらもそれしか道はないのだと、道無き道を進むそのさまは、溢れる才を投げ捨てる行為だと誹られるものだ。ではそれを見て非才の身である者たちはどう考える。お前が必要としないその才を、己はどれほど希求したかと嘆くか、はたまたダイヤのように光り輝く才能を泥に塗れさせ、自分たちと同じ階梯にまで降りてくる行為を暗い悦楽と共に招き入れるか。
……ディギトスは、後者だった。あくまで近接戦闘に拘るフェイトの姿を眺めて、ディギトスは、心の奥底、自分自身さえ辿り着けない深海のような場所で、嘲弄する笑みを浮かべていた。
ディギトスは、フェイトと友になれると感じた。
それはどうして。
ディギトスは、フェイトをいい奴だと思った。
それは何故。
ディギトスは、フェイトとなら長く付き合えると見た。
それは……それは……。
彼自身、本当の理由に気付かない。いや、気付きたくない。気付くことを拒んでいる。
「ああ、そろそろか」
ディギトスは登壇した此度の催しの仕掛け人、クレアの姿を認めて小さく呟いた。会場には大勢の人が入り込んでおり、すし詰め、とまでは言わないが中々に手狭な状態にはなっている。
やがて灯りは壇上を残して消え去って、スポットライトを一身に浴びるクレアを見て「手の込んだことをする」と呆れ半分感心半分の視線をやった。暗闇でまるで見えない、とまでは言わないが、灯りは壇上の物のみで客一人一人の顔が判別しづらくなっている。「名誉貴族」という然程大きな勲でもない物で客の視線を強引に釣るためには良い策かもしれない。あるいは単純にクレア自身が注目を浴びる為のみ、という理由である可能性もディギトスは捨て切れなかったが。
「……さて! 長々としたご説明は野暮といたしましょう! 何故なら今回の主役は私に非ず。ご登壇願いますは私の学友にして皆々様がお集まり頂いたその理由、フェイト・カーミラ様!」
――来るか。
クレアの口上を聞き流しながらも、ディギトスは己が友人の登場に向けて、その場にいる誰よりも大きな拍手で迎い入れる。
――それにしても。
ディギトスは内心で独白する。
――金ぴかのお嬢さんは分かっててやってるのかね。家に力を見せ付けたいとしている行動こそ、御家の力に頼っている自縄自縛に。
己の心に巣食う瑕疵に気付かぬまま、彼は他人の瑕疵を目聡く見つけだしていた。
名を、呼ばれた。
――誰に?
現実の話さ。キミじゃない。
舞台袖からは金糸の髪を躍らせて、声高に名を呼ぶクレアの姿が見える。彼女は光を一身に集めて、きらきらと太陽のように光輝いている。光もまた、彼女のような人間の下に集まりたくなるのだろうなと、フェイトは益体のない考えを思い浮かべた。
――何故、此処にいるのだろう。
哲学めいたフェイトの疑問は、過去と現在の時間軸を跨って向けられた疑問符だった。自分が頷いて、自分で歩いた道程なのだから、其処には必ず答えが存在するはずだ。例えそれが支離滅裂で、破綻したものだとしても、それを決着として認めたのは他ならぬ自分自身なのだから、その理由は知っているはず。でなければおかしい。……それは分かる。そうじゃなければ、おかしい。
だがこの時、この瞬間において、フェイトは何故自分が此処にいることを選んだのか、自身でも理解が及ばなかった。こうしたくなかったのに、気付けばそうしていた。熱に浮かされて空想と夢想の狭間を漂い歩いたかのような、森の深奥で意地の悪い妖狐にふわふわとした幻を追わされたかのような、まるで自分が自分ではなくなったかのような意識。間違いなく、自分は自分だというのに。
名を、呼ばれている。
――彼女に。
行かなきゃならない。
だけど、いきたくないな。
年端も行かぬ子供のような我儘に、眩暈がするほど惑わされる。自分自身が一番自分の言うことを聞いてくれない。フェイト・カーミラという人間が初めて感じた齟齬だった。
可能性は潰して進まなければならない。
人並みよりは少しばかり臆病になった自身の性質からして、クレアが照らされるあの場所には行くべきではない。……それは、分かっている。だけれど、行かなければならない場所まで進んでしまった。それは何故か。
つまるところそれは、そのことを指して人はそれを。
――ああ。
自暴自棄、と呼ぶのだろう。
一向に足を運ぶ気配のないフェイトに対して怪訝な視線を見せるクレア。そうしてようやく彼は逃げ場などないことに気付いて、壇上へ向かうため立ち上がった。
眩いな、と、フェイトは思った。ともすれば目が潰れてしまうような眩さだと思った。それは天井から差す人工の光の眩さか、それともクレア・ティスエルという一個人が放つ活力がもたらすものなのか。……どちらだろうが、関係のないことか。意味のない二択を切って捨てて、顔には出さずにフェイトは悪態を覚える。ただただ、この光が煩わしいと。
袖から壇上へは小上がりになっている。高さは僅か階段四つ分でしかないが、それを踏みしめながらフェイトは何時か見た夢の日を思い出す。曰く、彼はこう言っていた。「階段を下りろ」と。まさかこのことじゃないだろうな、と考えて、じゃないだろうな、と結論付ける。あの夢は、自分の行動を否定する夢だった。何故、自分がそんな夢を見たのかは分からない。他にどうしようもないと自分が一番分かっているのだから、それの否定なぞ出来ようもないはず。では残されたのは深層意識の発露。……それこそ、表層たるフェイトが否定したいところ。
とにかく、表も裏も浅瀬も深海も、どちらもこの階段は上りたくないと一致している。ならば夢が指し示したところはここではないのだろうと思い至る。そも、「階段」というものが文字通りのそれである可能性も半々、何かしらの比喩である可能性も捨て切れない。
現実逃避、だろう考えを浮かべながら、フェイトはクレアと同じ舞台にようやく立った。
集るのは、見知った顔からの、見知らぬ顔からの、視線、視線、視線、視線……。それぞれが好奇、興味、稚気、怒気、嫉妬、様々な感情に塗れている。フェイトは自身が見世物小屋の珍獣にでもなった気分に陥った。そしてそれは大体の人間が半ば物見遊山でこの場を訪れているのだから事実大差ないだろう。市井の人間も気付いている。このタイミングでの叙勲の真意に。だからこそこうやって足を運んだのだろう。娯楽の少ない時代なのだから、こういった悪趣味な見世物にも人が集まる。……悪趣味が故に、なのかもしれないが。
傍らでは此度の叙勲の理由をクレアが声高に喋っていた。……理由など、なにもないのに。なにもないからこその、叙勲だけれど。それでも建前としての字列を並べている。あまりに空虚なその言葉は、感動よりも嘲弄を呼び起こすものだ。流石に公爵家令嬢の熱を帯びた弁舌を妨げて鼻で笑うほどの剛胆はいなかったが。
「さあ! フェイト・カーミラ様! こちらへ!」
示されたのは、舞台の中央。そこで一枚の証書と徽章を受け取り、この滑稽な演劇は幕を閉じる。
端に立っていたフェイトが中央に向けて歩くたび、天井から舞台全体に降り注いでいた光量はじわじわと絞られていく。ただ人一人分を照らすだけの光の輪が出来上がり、そこにぽかりと浮かぶのが、フェイト・カーミラ。
最早舞台下に零れる光はなく、人々の表情を伺い見ることも出来なくなった。見えるものと言えば、満面の笑みを浮かべる金糸の令嬢の姿だけ。
――よくやる。……良いと悪いで、半分だけど。
良い、の半分は、一番滑稽なこの瞬間、他人の表情も視線もこちらからは見えないこと。悪い、の半分はスポットライトを一身に浴びて視線が集中しているだろうこと。どちらにしたって、座りが悪いのには違いない。
クレアはフェイトが中央に立ったことを確認した後、小さく喉を整えて一つ深く息を吸った。
「フェイト・カーミラ様、貴殿には此度の勲を称えティスエル公爵家から勲功爵の爵位を与えます」
勲などない。勲などないが、最早野暮。一歩、クレアはフェイトに歩み寄って。しかし彼が立つ光の真円には踏み込まない位置で留まって、証書を差し出した。
フェイトは恭しく、一礼し、それを両手で受け取った。
「首をお出しになって」
小さく囁いたクレアに従って、フェイトは胸を張るような形で首を差し出す。そこにするりと伸びるのは白魚のような細い指先。灰色の徽章が道衣の鎖骨辺りに取り着けられる。やけに慣れた手つきで行われるそれは、前もって何度も練習していたのだろうか。……それにしても、何となく、近い、気がする。パーソナルスペースを指先でくすぐるような、むず痒さを覚える距離で、クレアはフェイトの首元に顔を近づける。……フェイトの鼻腔を、甘い香りがそよぐ。
ほう、と客の誰かが溜め息を吐いた。声にこそ出さなかったが、絵になる二人だと、誰かが思った。
着け終えたクレアは、ゆっくりと、名残惜しむようにフェイトから半歩、身を引いて。
つい、と、舞台下の方を向いた。
つられて、フェイトも同じ方向を向く。
……暗闇の中、水晶のような煌きが瞬いた。
「……え?」
――今の光は、一体……。
脳裏が疑問を過ぎるよりも早く、その煌きはフェイトに近づいていた。
どすん、と、全身に奔る衝撃。
視界は地平から天空へ。
倒れ行く。倒れ行く。
――そういえば。
ゆっくりと流転する視界の中、フェイトは記憶の片隅から煌きの正体を思い出していた。
――ディギトスが言っていた。件の殺人鬼が用いる術の一つは、氷だって。
誰ともつかぬ悲鳴が、小さなホールに木霊した。