第十七話
廊下を歩く。
カツカツと甲高い音を立てて、威風堂々ここにあれとばかりに肩で風を切り歩く。
道を妨げる者など誰もいない。私は誰だ、私の名前を言ってみろ。名を知って歩みを妨げるのならば、それは敵対の意を示すぞ。
それは傲慢でも驕慢でもなく、彼女自身が持ちえる自負。努力と研鑽と天稟によって自らの力で手にした、誇るべき尊厳。彼女がこの場において振りかざすのは、生まれの優劣でもなく、美醜の上下でもなく、ただ己が培ってきた能力のみ。
……そう、思っていた。
かつり、と、声高に唱和していた歩みが止まった。
「……あら」
金糸の髪をかき上げて、額に入れて飾りたくなるような立ち振る舞いで、彼女は小さく首を傾げた。
「何か御用かしら? 先生」
「……クレア・ティスエル嬢」
相対するように彼女の前に姿を現したのは、一人の男。顔からは感情の色彩が感じ取れず、髪色と同じダークグレーの瞳にはただ無感動と冷厳さのみが宿っている。
歩みを止められた彼女……クレアは内心で溜め息を吐く。「また貴方か」と。毎日毎日、よくもまあ飽きもせず止めにくるものだと。
担任のサーチス・キネシスはクレアの説得を既に諦めた。都合四度呼び出され、その尽くを蹴り飛ばしてやれば、最終的にうらぶれた表情を浮かべながらサーチスから懇願された。
『なあ、分かるだろう? 僕ぁ主任から君のその無謀にして危険極まりない行動をやめさせろと言われているんだ。これが失敗したらどうなると思う? 評価がね、ガタ落ちするんだよ? そうするとどうなると思う? ……給与にね? 響くんだよ? 分かっておくれよクレアさん』
なんとも情けない言葉を投げつけられたものだ。そして内容が余りに利己的すぎる。……それまで理で問い詰めても駄目だったため、最終的に内心を吐露するしかなかったのだろうが。結局、それに対してクレアが返した言葉は一言。
『え、知りませんわよそんなこと。私に言われても』
そう言った瞬間のサーチスの表情と来たら。それはもう愚かしいほどに眉を下げて、悲嘆に暮れた様相だった。それこそ、一刀両断したクレアでさえ「悪いことをしたのかも」と刹那内省してしまう程度には。だからといって意志を翻すわけもないが。
兎角、サーチスはクレアの説得を諦めた。結果として、彼女は未だにこうして殺人犯の正体を探し続けているのだが、新たな刺客は意外なところから姿を見せた。それが今クレアの前に立っている男、シアナ・セントリウスだった。
今年度、魔術省からベラティフィラ魔術中等学校の教員として遣わされた男。一部事情通からは「愛し子」の目付け役だと公然と噂され、クレアとは直接関わりあいのない新入生たちの担任を勤めている人物。彼とクレアが繋がる点を強いて挙げるとすれば、それは互いに氷術を操るという点くらいだろうか。生憎、四年の実践魔術の授業でシアナが教鞭を振るったことは今のところないが。
ともあれ、両者の関係性が希薄も希薄であることに相違ない。同じ学校に属する教師と生徒、それ以上でも以下でもなく、それ以外の何物でもなかった。
「今日もまた、殺人犯について調べるつもりか」
だというのに、彼はこうしてクレアの下へ足繁く通い、止めようとする。担任であるサーチスが匙を投げたというのに、彼はほぼ初対面であるクレアに対して、何度も何回も静止の言葉を述べ続ける。
クレアもこう毎日のように来られるとうんざりしてくる。耳にタコができそうだ。まるで……そうまるで、自身が何処かの誰かに真っ当な魔術を扱うように言うかのような頻度で。脳裏に浮かんだ自身の考えに、クレアは思わず苦笑する。それと似たようなことをしているのだと思い返せば、稚気がかすかに湧いてくる。二人とも間違った方向に歩んでいることが共犯者のような感覚をもたらしていて。ほのかに甘い、背徳の雫がクレアの喉を甘露に潤した。
「ええ、そのつもりでして」
腰に手を当てて、やましいことなど何もないと言わんばかりに堂々と、てらいのない表情でクレアは頷いた。
「止めなさい」
能面のように表情一つ変えず、シアナはクレアを咎めたてた。言葉は平坦で、余りにも熱の篭もっていない無味乾燥なそれは、心に漣を立てるというより、ぽかりと穴を穿つかのようなもの。怒するよりも、沈着に対応できるような、空白の羅列。
「お断りいたしますわ」
幾度も繰り返した応答は滑らかに。右足の爪先を廊下に一度打ち付けて、それを反動代わりにシアナの横合いを通り抜ける。それがいつもの、この二人のやり取り。
「……あら」
の、はずだった。
クレアの眼前に差し出されたのはシアナの左腕。妨げるように伸ばされたその腕は、事実その為に広げられている。
きょとりと、目を丸くした。
これまでにない彼の行動。彼がこのようにするとは思っていなかった自身の思考。その両方が右と左、上と下から押し寄せて、彼女の足を止めさせた。
「……先生? この手は、一体なんなのかしら?」
「分からないか。これは、是が非でも止めるという意思表示だ」
なるほど、とクレアは思った。そうかそうか、そうだろうとも。この手がそれ以外に異なる意思を以て差し出されたのだとしたら、その内実を詳しく知りたくなってしまう。
「へえ……」
思わず、犬歯を立てた獰猛な笑みを浮かべたくなる。口角をつり上げるのは喜楽の感情ではなく、怒の色合いが大きい。ひくついた表情筋はまず間違いなく愉快なものではなかった。
「……それにしても、分かりませんわね。私と貴方、貴方と私。まるで無関係、赤の他人、無縁の人。だというのに、どうしてそこまで一人の生徒に執着出来るのかしら」
僅かに揺れた滾る感情を咀嚼して、どうにかクレアは真っ当な疑問を投げつけた。これは今まで引きずっていたことでもある。担任であるところのサーチスでさえ諦めるほどの頑固者だというのに、ほぼ接点のないシアナが何故こうも足繁く自身の下に通うのか。前々から気になっていたところだ。
「……決まっている」
人形のように空虚な瞳のまま、シアナはゆっくりと答える。
「私が教師で、君が生徒だからだ」
「…………」
「…………はぁ?」
クレアは自身が想定するより斜め上の回答を返された結果、たっぷりと間を空けて、自身が想定するより斜め下のリアクションを見せた。クレア・ティスエルとしては酷く不本意で、他の誰にも見せたくはない間の抜けた、自身の矜持が許さない素っ頓狂な声。此処にいるのがシアナと自分自身だけで良かった。空白に塗り潰された脳裏で漠然とそんなことを考える。取り巻きか、あるいはフェイト・カーミラがこの場にいて、今の醜態を目撃されていたら、きっとクレアはそいつの舌を引っこ抜かずにはいられなかっただろうから。
「……えぇと、今のは、ジョーク、かしら?」
「冗句? 私は、至極、真面目だ」
憤る様子もなく、ただ淡々と述べるシアナからは、それが未だに続くジョークの一節なのかさえ読み取れない。ただ、それが本当に冗談の一つであるのならば、酷く下手糞で、そして同時にこれ以上ないほど意表を突いた上出来なものであった。
なるほど、当然だ、当たり前だ。教師が生徒の身を慮るのは余りあって正しい。
「あは」
正しすぎて、涙が出てくるほどに。
「あはははははははははははははははは!」
笑声が、クレアの肺からこんこんと湧き出てくる。流石に失礼だろうと、蛇口を絞ろうと絞ろうと努力しても、イカれたようにとめどなく。
「何故、嗤う。クレア嬢」
「あは、あははははははは! ごめ、ごめんなさい。あま、余りにも、素敵すぎる答えで」
正しいのだろう。シアナの言葉は教育者として完璧な回答のはずだ。そんな完璧な回答が、目の前のに西洋人形めいた男の口から出たことが、そして、人間はそんな眩いばかりの「正しさ」を何の後ろめたさもなく振りかざせるほど潔白ではないと知っているからこそ、クレアは笑いが止められなかった。
実際の担任であるはずのサーチスでさえ! 早々に断念したというのに! あろうことかまったき他人であるシアナ・セントリウスが聖職者めいたことを言う! 愛し子の目付けに過ぎない彼が、教職めいたことを振りかざす!
「……はぁ。……嗚呼、おかしい。……先生、貴方は私が思っていたよりも随分と……」
彼を指してなんと言おう。純真か、狂っているのか、愚かなのか。
「ええ、ええ。そうね、どれも違うのかもしれない。……ああ、久しぶりに大笑いしてしまいしたわ」
最早足を止められたことに対する怒りなどクレアの中には微塵もなくなっていた。心の中にあるのは、目の前のこの愉快な存在にどう対応するか。無論、引くつもりはなかったが、同時に相手も引き下がる気は一切ないだろうことを理解した。
顎に手を当てて、幾許か思案する。……ならばいっそ、この面白い御仁をついでに巻き込んでやるのはどうか。それに、「彼は目に付く場所に置いておくのも悪くはない」。
脳裏の絵図に、幾つかの修正を加えて、そして己の身体をベットにして賭けに出る。悪くはない、悪くはない高揚感だ。
思考が一本化され、明確な道筋が閃いた。同時に、拍手を一つ打つ。
「よろしい。ならばこういたしましょう、先生」
人差し指をピンと立てて、さも愉快な提案を思いついたと語気が弾む。
「私の捜査に貴方も付き合って下さいまし。互いに折れるつもりがないのなら、折衷案が必要でしょう?」
自室からコートを一枚羽織り、クレアは軽やかに駆け出した。寮を抜け、校門を抜け、中心市街に向かって舞うように。
「あら失礼」
途中、一人の老人とぶつかりそうになるのをひらりとステップでかわして、勢いは止まることを知らず、未だ寒さ抜け切れぬ晩冬に、白い息を吐きながら風の如く。
彼女の目的地は、一つの商家。大陸を跨いで店を出し、財界の覇者として名を馳せるラウラス家である。
「ラウラス家とは違います」
ラウラス家に到着して開口一番、クレアは商家の店主からそんな言葉を授かった。
「ええ、ベラティフィラにあるのは『一応』サンザルス家ということにはなっておりますわね」
王都ベラティフィラ、サンザルス商会本店。クレアが足を運んだ場所の名は正しくはそれ。間違ってもラウラス商会という名では、ない。
「名目上は」
そう、名目上は。
「色々と面倒な慣例、習慣、対立軸が存在しているのは私も存じておりますが、結局のところラウラスはラウラスでしょう?」
「……はあ、間違ってはおりませんけれども、あまり大声で吹聴されるのは私共としては歓迎したくないところでもありまして」
大陸全土に店を出す、と一言で言うのは簡単だが、視界一杯にどこまでも広がる地平には、厳然とした「壁」が存在するのもまた確か。その壁を人は「国境」と呼び、ただ一歩踏み出して、僅か数十センチ進むのにも時には多大な労力を費やさねばならないこともしばしばある。特に、王国と帝国の両方に店を構えようと考えたら。
税や、国との折衝や、流通経路やら、解決すべき問題は多くある。それを少しでも円満に解決するために、ラウラスは「ラウラス商会」としてではなく、「サンザルス商会」としてベラティフィラに店を構えている。サンザルス家はラウラス家の分家。まず間違いなくラウラス家の一部ではあるのだが、建前として名を変える必要もあった。関係性を言葉で表すのなら子会社のようなものだろうか。財界に明るい者ならば公然の事実ではあるのだが、あまりおおっぴらに言いふらすこともあるまい。ラウラス商会自体の本店は迷宮国家連合の一国にあるのだから。ベラティフィラの一般庶民には、「おらが村の商会」として考えてもらった方が色々と便利だ。
つまるところ、看板は「サンザルス商会」。そしてその内実は「ラウラス商会」。故にクレアは彼らのことを「ラウラス」と呼ぶ。
「ま、そんな些細なことはどうでもよいじゃありませんか」
「……私共としては些細とも言い切れませんのですが」
「私も外ではきちんとサンザルス商会、と言っていますわ。あまり気にしないでくださいまし」
「ならばよいのですが……」
今二人が顔を突き合わせているのはサンザルス商会内にある応接室だ。壁も扉も相応に厚く、聞き耳を立てようにも外部へは一切音が漏れない作りになっている。普段は大口の取引が行われる際などに使われるが、今回のクレアとの会談は純粋な取引ではなく、調べ物をして欲しいという願いを商会側が聞き届けたことにより作られた機会であった。
日頃は一個人から寄せられた調査など捨て置くのだが、依頼主が公爵家令嬢であるのならば話は別だ。少しの手間で今後数十年に繋がるコネを為せるのなら業務外の労働も利益に繋がる。商人であり続けたいのなら、一銭でも黒字になると判断したならどのような仕事でも請けるべきだ、と、サンザルス商会店主は教育されてきた。故に、クレアからの依頼を肯定したのだ。
「では、こちらが当店で扱った過去五年間の書籍一覧になります。それと仮面の取り扱いについてですが、ここ数年で仮面のみを取り寄せたということはございませんね。あの手のものはそこらにある民芸店なり自身で彫るなりで済んでしまいますから」
渡された紙の束に目を落とし、一枚一枚上から下まで見落とすことなく書き連ねられた文字を浚っていく。書かれているのは、サンザルス商会が取り扱った書籍の題名と、それを何処の誰に売ったか、人名、あるいは店名。
「やはり、個人で購入する方はさほど多くはありませんわね。貸本屋と……学校の図書室。それと図書塔、ですか」
「大口はやはりそうですね。それと、お探しの仮面について書かれた本ですが、個人でそのような本を買う数寄者な方はどうやらいらっしゃらないご様子」
「……こちらは持ち帰っても?」
「申し訳ありませんが、それはご遠慮いただきたい。こちらで書き写して行かれるのなら構いません」
「分かりました。何か書くものを頂けるかしら」
「只今お持ちいたします」
店主が部屋を後にした。その後姿にもクレアはさしたる興味を見せず、ただ扉が開閉する音のみを聞いてそのことを知る。視線は一筋に、紙面へ注がれたまま。
「仮面、仮面、仮面、仮面……」
ぶつぶつと一人小さく呟きながら、クレアは一心に呟く言葉と関連性のありそうな題名を探し続けていた。
「またのご来店をお待ちしています。出来れば今度は、何かしらのお買い物をしていただければ幸いです」
「ええ、そうするとしましょう。今回はご迷惑をお掛けしましたわね。埋め合わせは、いずれ必ず」
商会を後にするクレアを見送り、サンザルス商会店主は一息吐いた。彼女が一体何をしたいのかは分からないが、いや、分かってはいるのだが分からないフリをすると決め込んだのだから、彼にとっては関わりのないことだ。触らぬ神に祟りなし、虎の尾を踏まぬように細心の注意を払って世を歩けば、なべてこともなく泰平が続く。
店内に戻り、さて経理作業でもするかと振り返ると、そこには一人の楽士が立っていた。
「や」
挨拶のつもりなのか右手をひらりと上げる彼は、背中からリュートと荷袋一つぶら下げる。青い鍔広の帽子の頂点には極彩色の鳥の羽が飾り付けられており、着ている服装はフリルがあしらわれた明るい黄緑色。腰には護身用の刺突剣を帯びていた。
帽子からは赤褐色の前髪が跳ねており、軽薄そうな笑みを浮かべた顔は二枚目。二枚目なのは確かだが、女性には好意的に見られるだろうが、同姓からは嫌われるようなタイプの顔立ちだった。
「来ていたのかノルビス!」
「ああ、そろそろ建国祭が近いだろう? 何時ものようにサンザルス主催の歌劇『四英雄譚』の前口上をしにね。……ところで、今君が見送っていた素敵なレディは誰だい?」
ノルビスと名を呼ばれた楽士姿の男は鼻につくような気障ったらしさを隠そうともせず、いっそわざとらしささえ感じるほど誇張した口調で喋る。対する店主は、やはり顔見知りであるが故にそんな彼の話し方にも動じることなく応じた。
「毎年毎年遠路はるばる申し訳ないな。……彼女はティスエル公爵家のご令嬢だよ。クレア・ティスエル様」
「何、こればかりは仕方がない。ベラティフィラの者が逃げ出さなかったら俺も楽なんだが……しかし、成程、ご令嬢かい。今回は素敵な出会いがありそうじゃないか。是々非々、彼女も招待したいね。俺の素敵な口上を見てもらいたい」
「全く、ラウラスに連なる者としての自覚がなかったのさ、アレは。……フン、雲隠れした奴のことを何時まで言ってもしょうがないか。それと、ノルビス? 言っておくが公爵家には毎年招待状を送っているからね?」
「送っているのかい? それで、足を運んでいただいているのかな?」
「少なくとも、数回はね。彼女も既に君の前向上は聞き及んでいるだろうさ。それで、ノルビス? 何時かの公演後に君は見目麗しいレディからお声掛けいただけたかな?」
揶揄するようなその言葉に、男は軽く肩を竦めて。
「残念ながら、彼女のお眼鏡には叶わなかったわけか。……だが、それは去年までの俺だろう? 今年の俺を見て、彼女が惚れる可能性だって無いわけじゃあ、ない」
胸を張って、何処までも自意識過剰に宣言する伊達男に対して、店主は苦笑を浮かべる。
「懲りない男だ」
「懲りない男さ。知っているだろう? 懲りるような男ならば、ラウラスではないと」
「それはそうだ。一本取られたな」
互いに笑いあって、店主は「さて」と店の奥を指差した。
「建国祭まで泊まっていくんだろう? 何時もの部屋が開いているよ」
「ああ、今年も同じ部屋かい? ……去年も聞いたが、その部屋には女性を連れ込んでも構わないのだろうね? いや、これは中々重要なことだよ? 一年のうちに事情が変わって連れ込めなくなったとしたら、目も当てられない事態になってしまうからね」
「『去年も』、ではないだろう。毎度毎年それを聞かれている。なぁに、安心していい。一人でも、二人でも、いっそ百人だろうが連れ込んでもらって構わない。あぁ、流石に百ともなると、手狭かな」
「うむうむ、それを聞いて安心した。さて、今年の吟遊詩人、ノルビス・ラウラスは一味違う。『四英雄譚』の前口上をしとやかに、そして艶やかに! ……歌い上げて、王都の麗しい華たちを胸一杯に抱きしめることにしよう」
「それは楽しみだ」
背中のリュートを取り出して、かき鳴らしながらノルビスはのたまう。そんな彼を店の奥に先導しながら、サンザルス商会店主は思う。これまでも、そして今年も、彼に貸し与える部屋に入る女性の数に増加はないだろうと。
つまるところ、ゼロの連鎖。気障な口調に二枚目の顔立ち、職は諸国を漫遊する吟遊詩人。であるけれども、彼が女性と浮ついた関係になったことは、ただの一度もなかった。
くぅん、と、老人の傍らにいる犬が心配そうに鳴いた。
「ひぇっひぇっ。なぁに、大丈夫じゃよ、クゥルゥ。お嬢ちゃんは綺麗に避けてくれおった」
落ち着かせるように、その犬の首筋を撫でる手は枯れ木のように罅割れかさついていて、否が応にも老いともにひたひたと音を立てて近寄る死神の気配を感じさせた。しかしそれでもクゥルゥと呼ばれた犬は主人のその骨のような手で触れられるのが堪らなく心地よいのか、喉を鳴らしながら目を細めていた。
「童は御転婆な方がいい。先ほどのお嬢ちゃんは少々持て余しすぎているかもしれんがの。あれじゃあ親が淑やかさを願うのなら頭を抱えてしまうじゃろうて」
おお、冷える冷える。そう小さく呟いて、老人……キストゥス・アルビドゥスは白い呼気を道中の残滓としながら暮冬の王都を歩む。
「春が近くとも、まだ寒い。老骨には些か堪えるのう」
腐っても火の魔術師、何もない空中に手を翳して、小さな灯火でも生み出して暖を取ろうかと思い立つが、天下の往来で魔術を行使するのも躊躇われる。結局翳した手は手持ち無沙汰に、クゥルゥの頭に置くことで決着を見る。
ともあれ、一月と幾らかが過ぎ去った。キストゥスがティスエル公爵家から依頼を受けてから、それほどの時間が経ったわけだが、経過は当初思っていたよりも捗っていない。キストゥスも「目」……いや、彼が行使するものについては「鼻」と言った方がいいか。それを王都中に満遍なく飛ばしてみせた。彼はまず間違いなくヒトとして最高峰の魔術師の一人で、特に「鼻」については紛れもなく大陸随一であることに間違いはなかった。
しかし。
「……不謹慎かもしれんが、儂がおる時にもう一人二人殺られてしまえば滞りなく終わったろうにの。……いや全く、人のことを言えんの」
そう放言してしまうほどには、現場に残された「残り香」は微かだった。
――キストゥス・アルビドゥスは鼻が利く。
巷で囁かれる言葉はそのもの真実で、彼が嗅ぎ取るのは、魔術を行使した後に大気中に残る体内魔力だ。人一倍優れた感知能力は、個人個人が持つ体内魔力一つ一つ、その微細な差を嗅ぎわけて区別する。つまり犯行現場に残された体内魔力を記憶しておけば、この王都の何処かで犯人が魔術を行使すれば現場に残されたものと同一の体内魔力が其処に残る……はずだ。
しかし、物事はそう簡単には進まない。どうしようもなく単純な話ではあるが、それは単純であるが故に避けがたい問題が付いてまわる。……体内魔力の残滓は、何時までも風化することなくその場に留まり続けるわけもなく、数日経てば残り香は九分九厘消え去ってしまう。そしてキストゥスが公爵家から召喚され、王都入りしたのは、殺人が起きてから既に一週間以上経過してからのことだった。……現場に残された体内魔力が消え去るのに、十分すぎるほどの時が既にその時点で経過していた。
だからこそ、キストゥスの先の言葉に繋がる。彼が王都に滞在している期間に、件の連続殺人犯が魔術を用いて誰かを手に掛ければ、今度こそキストゥスはその者の体内魔力の匂いを把握することが出来る。そうなれば、最早尻尾を掴んだも同然。そこから正体を捉えるのに大した時間は要さないだろう。
だが、そこまで浅慮であるのなら此処まで長い間捜査の手から逃れることは出来ない。王都に入って一月と幾らか。何一つ有益な情報をもたらすことが出来ずにいては、そろそろ尻を引っ叩かれても文句は言えない。
楽な仕事だと考えていたが、存外むつかしい。
鼻頭を擦りながら、甘く見ていた自身を戒める。数日前からキストゥスは実際にこうして街を歩くことにしていた。急く足を押し進めるのは、年甲斐もなく覚えている焦燥のせいか。
街中にある体内魔力の薫り燻る場所をぐるりと回り続けて。魔術初等学校、魔術高等学校、魔術省、そして最後。
「ここ、かの」
大きく両手を広げ、来客を招くようにそびえ立つ建造物を前にして、キストゥスは一度鼻を鳴らした。色とりどりの体内魔力が混在して、キストゥスの魔力感知を、彼の言うところの「嗅覚」を叩く。それは文字通りのそれではなく、彼が第六感として持ち得ているソレのこと。
王都において、日夜絶え間なく魔術の行使が行われているのは今日キストゥスが訪れた四箇所であるのに違いはない。魔術初等学校、魔術高等学校、魔術省、そして、今彼が仰ぎ見ている……。
「ベラティフィラ、中等魔術学校」
校門をくぐることはせず、ただ寒風吹きすさぶ中、学び舎と寮を一度に臨める場所に立ち、キストゥスは傍らに座るクゥルゥの首を撫でた。
魔術行使により残される体内魔力の残滓は、王都内にて思いのほか少ない。それは国家の首魁たる王族が住まう都市だからこそ、住民一人一人が無意識の内に己が国の規範である屏風であるという想いを抱いているが故か。兎角彼らは道端で魔術を行使するということもない。大規模な魔術を行使するにも、決められた場所、しかるべき時間という物が街中では存在するのだろう。それから逸脱した者こそが時の犯罪者であるのも正しかった。
王都にあって色濃く体内魔力が残る場所。キストゥスはそれらを回り、巡ってきた。それらの場所にあった体内魔力は大勢の魔術師のものが複雑に絡まり合い、個人を推測するには厳しいものがある。第一に、殺人犯個人の体内魔力の匂いも、余りに薄くしか嗅ぎ取れなかった。
だからこそ、これは絶対の自信に裏打ちされたものではなく、ただ地道な調査の一環に過ぎないのだが。
「……いや、まさかの」
仄かに燻る、記憶した薫り。
偶々、なのかもしれない。偶々、似た体内魔力の匂いの持ち主がいるだけなのかもしれない。
それに、先ほど述べたようにキストゥスが殺害現場で嗅いだ薫りは時風に晒されて、余りに薄く、不確かに揺蕩うものでしかなく。疑ってかかるには些か暴論。
だが、それは今まで彼が繋いできた確かな経験則による哲学が可能性を突きつける。
「有り得ぬ、ということこそ有り得ぬこと」
校舎を見据えるキストゥスの瞳が、険も鋭くさながら猟犬がごとく細められた。
「皮肉よな」
魔術師を育む場所にいる者が、魔術師を殺すというその矛盾。
しかしその矛盾こそが相克せずに答えを得る適解でもあるという事実に、老いた魔術師はその瞬間気付く。
「所詮、半妖が頂きに立つ国……」
いや、違う。むしろ逆。
「ひぇっひぇっ、そうか。そうさの。立つ国だからこそ、歪んだ病巣の一つや二つ、生まれ出づるのもさもありなん」
不敬が過ぎる言葉を残して、老人は中等学校を後にした。連れ添うように控える犬は、常と変わらぬ理知的な眼で己が主人の後姿を見る。
それはとても、楽しそうな背中だった。