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確約された不幸を手折って  作者: 山浪 遼
少年期。愛される者愛されぬ者
36/53

第十六話

 夢のように心地の良い風景だった。

 小高い丘の上には一本の巨木のみがすんと静かに鎮座して、緑葉を思うが侭にのびのびと広げている。空を行く雲は九割の青空を僅かに彩る程度に躍り、抜けるような青空が白と水色の色彩を果てに描いてそこにある。芝生は柔らかく、青々とした色合いは瑞々しい生命力を湛えていて。丘の裾野には一面の森が鬱蒼と生い茂る。深緑は、凪いだ。

 そして、すぐさまに、これは「夢のような」風景ではなく、事実そのもの夢なのだと気付いた。

 明晰夢と呼ばれるものだろうと、自身の身体を適当に動かしたままフェイトは漠然と答えを思い浮かべていた。

 肩を一度、ぐるりと回す。

 今度は右腕を身体の前に持ってきて、左腕で右肘の部分を身体の前に近づける。

 左足の爪先を芝生の上に突き立てて、その足首をぐるぐるとほぐした。

「さて」

 第一声はなにがいいだろうか? 久しぶり? 元気かい? おはよう? こんにちは? こんばんは? どれも違うような気がした。

 浮き足立ってしまう自身の心を、フェイトは酷くおかしく感じてしまった。「彼」はきっと「彼」じゃない。分かりきった答えが示されているのに、それでも今はただ、懐かしい。

 少しだけ、言葉に詰まって。震える足で、一歩ずつ彼に近づいた。

「……やあ」

 色々と考えてはみたものの、結局最初の一言は至極平凡なものに落ち着いてしまう。それが「らしい」と思うのか、「つまらない」と取るのかは、判断が分かれるところだった。

「おう」

 彼はこちらを見向きもせず、大樹の陰に座ったまま、小高い丘から地平を見ていた。

「久しぶりだな」

「……ええ、本当に」

 久しい。本当に、久しぶりに顔を見た。忘れることなどありもしない顔を、随分と久しぶりに。だからこそ、これは玉響(たまゆら)の夢なのだと、一目で理解しえた。

「だけど……ええと、なんというべきか。……久しぶり、というのも違う気がして。……だって君は」

 もう死んでいるのだから。その一言をどうしても紡ぐことができなくて、フェイトは誤魔化すように首筋を擦って、大樹を仰ぎ見る。木漏れ日がちらちらと光輝いているその様は、まるでいつか人が辿り着く終点そのものを描いたかのようだった。

「もう、死んでいるから……か? それとも、『お前はお前じゃない』とかか? まぁ、間違っちゃいねえだろうよ。俺はお前だ。正確に言えば、『俺はお前が思い浮かべる俺』だ。テメエの頭の中でこうして在るんだから、そりゃそうなるんだろうよ。どっちにしたって、意味は同じだな。俺はもう死んでるから、お前が会うのはお前の思い描く俺しかいねえ。本物はもう、世界樹に還ってる」

 フェイトが言い淀んだその言葉を、彼はまるで何でもないような自然さでさらりと口にする。それに「君ならそう言うと思った」と考えるよりも先に、遣る瀬無さが勝った。

「ああ、やっぱ何時まで経っても面倒くせえなお前は。まるで変わらない。ちったあ変われ。……いいか? 絶対に糞迂遠になるだろうから先に言っとくぞ。『ここ』では『俺』を『俺』として扱え。いいな? そっちの方がお前にとっても気が楽になるぞ」

「……そうですかね。これでも随分と変わったと思うんですけれど」

 特に身長だとか、そう言いたいのかフェイトは自分の頭に右手を翳して、歳月により成長した身体を指した。

「変わってねえよ、俺からすれば。お前はあの時からずぅっと同じ場所で足踏みしっぱなしだ」

 返された言葉は耳に痛く、嚥下しようにも中々苦々しく、同時に刺々しいものだった。

 座れよ。そう言葉にする代わりに彼は自身の傍らを指差す。芝の上にゆっくりと腰を下ろして、フェイトと彼の視線の高さが並んだ。視線の先には、何処までも広がる森があった。際限なく青い空があった。それしかない、というよりは、それさえあれば十分だと思える光景だった。

「……夢、だからですね」

「……ああ」

「やはり」

「……なんだ」

「こう言うことにします。……久しぶり、アモル」

「……おう」

 彼の名はアモル。愚か者のアモル。夢の中で会う少年は、もう既にこの世にはいない彼だった。


 頬を一陣の風が撫でていった。感触はない。ただ草木が一斉に揺れだして、二人の後ろから前方に掛けて走っていったのだから、きっと涼やかな、しかし暖かい風が抜けていったのだろうと理解した。

「……ここは、いいところですね。……そう言ったら、自画自賛になる……んでしょうか」

「……あぁん? ……そいつは……答えに困るな。俺も、ここはいいところだと思えるんだが」

 酷い矛盾を内包するそのやり取りに、フェイトは笑みを浮かべることさえできず、曖昧な表情を浮かべた。臍を噛んだかのようなその表情に、アモルはとても愉快げに喉を鳴らした。

 これではまるで、鏡に向かって話しかけているようなものだとフェイトはげんなりする。それでも随分と懐かしいやり取りに、多少は心が浮ついてしまう自分がいて、腹立たしくもある。

「……それで、ええと、一体何の用で顔を出したんですか?」

 なんて無粋なことを尋ねるのか。アモルはそのような表情を見せて、やれやれと頭を振った。

「野暮だなぁ、お前は本当に野暮だ。変わってねえなぁそういうトコ」

「そういう君は大分……あぁ」

 変わった、とは言えなかった。

「気付いてるんだろうよ、お前自身が。……いや、気付いていないのかもな、ひょっとしたら。眼を逸らし続けていて、まァ、ちょいと前に無理矢理顎を掴まれて、見たくもないもんを見せられたから、そりゃあ俺も出てくる」

「なぁ、あそこ、見ろよ」

 アモルが指差したのは、森の広がる地平の果て。緑と青が交わるその向こう。

「あの先には一体どんな世界が広がっているんだろうな」

「……さあ」

「賭けようか? 俺は街があると見たね。とんでもねえでかさの奴。考えられないくらい大きくて、際限なく広い街。そこにはなんだって置いてあって、遍く全ての人間が交差するのさ。すれ違う人間は一瞬だけど、視界の端では必ず捉えている。だからあそこに行けば、この世の全ての人間と出会えるんだ。すげえだろ?」

「……嫌だな。君との賭けは何時だって私の方が負けてしまいそうに思える」

「おう、俺もお前と賭けをして負ける未来が想像できねえよ」

 笑うアモルに、フェイトは眩しそうに眼を細める。

 丘の大樹が、空白を埋めるようにざわめいた。鳥の声一つ、虫の声一つない虚空に、ただ葉同士が擦れ合う音が溶けて消える。数瞬の間、言葉を失った両者を思いやるようにして、木は物静かさで雄弁に語る。

 語る言葉が途切れがちなのは、語りたい言葉がありすぎるせいか、はたまたその逆か。語ったところで意味はないと諦めているのか、それとも既に自己完結しているせいか。だが、少なからず彼はこの場において「突きつける」役割を担わされていた。それがどうしてこのような形になったのかは分からないが。

「……夢」

 そしてぽつりと、アモルは呟く。

「こういう夢は、よく見るのか」

 視線はやはり、合わせようとはしない。ただ遠くを見ながら、言葉を紡ぐだけだった。

「こういう夢は」

 どうだったろうか。夢と言われていの一番に思い浮かぶのはあの悪夢だ。いつもいつもあの髑髏の騎兵が、蝋燭を吹き消すまでの残り日数を数えていく、あの悪夢。対して、こんな明晰夢は見たことがあるのだろうか。……見ていたとして、それが記憶に残っているものだろうか。

「……そうですね、こういう夢は、子供のころによく見ていた……ような気がする。……覚えてはいませんけど、ただ、漠然と。そう思える」

「……そうか」

 彼はようやく、立ち上がった。腿のあたりをぱんぱんと手で払って、付くはずのない土を落とす。

「必要なら、その夢も何時か思い出す。だから、その夢は忘れるな」

 そして、自分(アモル)は、初めてフェイトとその眼を向かい合わせて、こう言った。

「行き着く先は行き止まりだ。今すぐ、お前は階段を下りて、壁に立ち向かえ」

「分かってるだろう? 俺だって分かってる。俺はお前だから。ここはお前の夢の中で、お前が作り出した世界で、お前が作り出した俺だから」

 ――(アモル)お前(フェイト)だから。

「もう眠たいことは言うんじゃねえ、やるんじゃねえ。寝過ぎだお前は。……いい加減、起きろ」

 射抜く視線はどこまでも真摯で、真っ直ぐで。茶化すことも嘲ることも許されない、ただ己が己を想う形。他者から見ればエゴイスティックに思える、傲慢で、しかしこれ以上ないほどに正しい在り方を彼は自分自身に突き立てる。

「……ああ、クソッ。本当に、このガキは……。俺のなりでくだらねえこと二度と言わせるなよ、馬鹿」

 頭を掻き毟り、彼はフェイトの頭を小突いた。そして最期に快活な笑みを浮かべて。

「じゃあな、フェイト。出会えるなら、次はそっちで会おうぜ。またな」

 綿毛が風に舞うような軽やかさで、フェイトの目の前から消え去った。

 広大な丘に残されたのはフェイトただ一人。……いや、最初から最期までこの世界にいたのは「一人」だったのだけれど。こみ上げてくるのは一握の寂寥感と一抹の満足感、そして多大な……多大な自己嫌悪。

 ゆっくりと、芝の上に倒れこんだ。感触はない、夢なのだから。木漏れ日が瞳に刺さる。しかし眩くはない。夢、なのだから。

 世界に黒い緞帳が降りていく。ああ、これで終わりなのだな、と実感する。胡蝶の夢、美しくも醜い世界、そんな言葉とは遠く離れた、どうしようもない夢の世界。

 やがて彼は、目を覚ます。




「君よりは幾つか年上になったんだけれどな……」

 見慣れた天井を見つめながら、フェイトはそう、一人ごちた。

 歩を進めようとする者と、永遠にその時を止めてしまった者。お互いの間に横たわる溝は、埋め難い現実だ。

 半身をベッドから持ち上げて、一つ伸びをした。ゆっくりと立ち上がり窓の外を眺めれば、未だ冬の寒さが抜けきらないいつもの庭園がフェイトを迎え入れてくれる。

 チチ、と小鳥の囀る音が聞こえる。風が過ぎ、ようやく新芽を膨らませ始めた木々は裸の枝をざざんとしならせて合唱する。窓を開けたい。そう思った。

 外は、未だ蒼い。ルームメイトのことを考えて、窓にやった手が止まる。流石に部屋の中に寒気を招き入れるのは悪い。寝ているのなら尚更だ。視線をついとルームメイトのディギトス・ガイラルディアへ向けると、ベッドの中でもぞりと動いていた。数拍置いて、「ううん」と起動する声がする。這い出すようにベッドから出てきて、寝ぼけ眼を擦りながらこちらを向く。

「おう、はよう」

「ええ、おはようございます」

 欠伸を噛み殺しながらの挨拶を受け取って、再度外を見る。

「どした」

「窓、開けてもいいですか」

「うェえ。……寒いだろ。……別に構わないけど。気付けにも丁度いい……ふぁあ」

 隠すことなく大口を開けるディギトスに苦笑しながら、了承を得たフェイトは窓を開いた。寒々とした空気が室内に流れ込み、ぞくりと身震いをする。

「……にしても、お前、あれだな」

「はい?」

「なんかいい事でもあったのか。雰囲気がいつもと違うような気がする。気のせいか?」

 中々に鋭いその指摘は、ディギトスの感性を褒めるべきか、それともフェイトが纏う雰囲気が、あまりにも分かりやすく変質していたのか。答えはその中間なのだろう、きっと。ディギトスはそこまで機微に疎くはないし、フェイトもそこまで見え透いた人間ではない。互いが互いに特筆すべきことがあって、ようやく分かる程度のものだ。ともあれ、そのことを指摘されたのはフェイトにとってそこそこには意外なことで、僅かの間なんと返すべきか逡巡する。

「……悪夢を、見たんです」

 彼の中で、それを名付けるのなら、そうだった。

「悪夢? にしては調子も良さそうじゃんか。どうなのよ、そこんところ」

「ええ、ですからきっと、それはいい悪夢だったんでしょうね」

「……意味わっかんねえ」

「ですよね。かなり不親切な言葉だと思います」

 だが、これ以上に最適な言葉をフェイトは持ち得ていない。理解も納得も得られない対称的な組み合わせではあるが、フェイトにとってあれはまず間違いなく「いい悪夢」だった。

 真面目に喋るつもりがない、それともさしたる興味こそなかったのか、ディギトスはついと興味を失った顔を浮かべて、「そーだな」と気のない返事を返した。

「……とりあえず、顔でも洗いに行くか? 平々凡々な一日が今日も始まる、ってな」

 寒気から逃れようと考えたのか、ディギトスは最後に大きな欠伸を一つ見せて、廊下を指差した。




 剣と賢(ナイツアンドワイズ)土人形(ゴーレム)と邂逅した日から、一月以上が経っていた。

 今日までにギルドから請けた仕事はその日の糊口を凌ぐ程度の内容が中心で、特に大物、目立った依頼を受けていたわけではなく、フェイト個人としても穏やかな学園生活を送っていた。市井についても、殺人事件についての旬は過ぎ去りつつあり、また新たに被害者が現れない限りは話の俎上にのることはあまりないだろう。今の時期、大多数の国民の関心事といえば、近づいてきた建国祭についてだ。それ以外に何か変わり映えする話題といえば……近頃犬の鳴き声が多い、ということくらいだろう。それにしたって下世話な話で、「そういう時期を向かえたのだろう」と酒場の下品な冗句にしかならない。

 ディギトスの言う「平々凡々な一日」というのがかっちり当てはまるような安穏さ。あんな夢を見たのは、その反動なのかもしれないと、フェイトは少しだけ考えた。

 そういった大多数が何事もない日常を送る傍ら、やけにドタバタと慌だたしい様子なのは、クレア・ティスエルの陣営だった。……彼女たちは未だ殺人鬼の行方を追っているそうだ。

 クレアの当初の思い付きそのままに、有志を募り夜の街を警邏するなどといった自警団紛いのことこそしてはいないが、あちらこちらから人を呼び、話を聞き、なにやら街を歩いては調べ物をしているらしい。全てディギトスからの伝聞だが、どうやらそこに齟齬はなく真実そのままのようだ。

 フェイトからすれば彼女が自身にちょっかいを掛ける暇もなく、忙しなく動いているからこそ平穏な毎日を送っているのだが。……むしろ此処最近は常よりも穏やかな生活なのかもしれない。この学校に入学してから、周辺が騒がしくなるのは二割が自身によって、三割がディギトスによって、そして残りの五割がクレアによるものと記して過大ではない。半数を占める騒動の火種が、どうやら風下に向かって火の粉を飛ばしてくれているのだからある意味有難くもある。

「好事魔多し、って言うぜ? この反動がそのうち一気に来るな。今はあれだ。バネが反発力を溜めてる最中」

 穏やかな日々を過ごすフェイトに向けて、何時かのディギトスが言ったそんな言葉には薄く笑いを返したが、何処となく真に迫るものがあって、どうにも嫌な予感はしているのだが。……どうでもいいことだが自身の預かり知らぬところで「魔」扱いをされているとクレアが知ったらどう思うだろうか。烈火のごとく怒るのは間違いないはずだ。

 ――バレないようにしておこう。

 少なくとも、知人の為に。

 内心でディギトスの身を案じながら教室の扉に手を掛けたフェイトは、その先にいる件の人物を脳裏に思い浮かべながら扉を開いた。


 教室の扉が開く音に反応して、彼女は一瞬、視線をそちらに向けた。入ってくるのは見慣れた二人組。なにかしら話すことがあるのならば彼女……クレアも歩み寄るが、今はそれどころではない。やっておきたいことが山積しているのだ。会話なんて、その全てが終わってから何時でもできる。

 今は未だ、種を蒔く時期。幾つかの「種」は既に手に入れて植え終えたと考えていいが、手元にまだ来ていない「種」もある。……しかしそれも時間の問題。もう一息で全ての種を手に入れて、植えることができる。そうすれば後はもう実りを収穫するだけだ。その際には一切合財全て纏めて、クレア・ティスエルという人間のこの手のひらの上に載せることができる。

 ……打てる手は、思いつく限り全て打っておきたい。これはクレア・ティスエル最後にして一世一代の悪足掻き。足掻いて足掻いて足掻ききって、それで沈んでしまうのなら……最早、諦めもつく。

 それに、もう、「殺人鬼の影は踏んでいる」。残りは僅かばかり手を伸ばして、その存在の背中を捉えるだけだ。

 クレアは握り締めていた自身の手をゆっくりと開き、じんわりと汗ばんでいるのを認めた上で、顔を伏せほくそ笑む。

 ああ、まさに。あれはまさに不意打ちだったはずだ。だから思わず素が出てしまった。咄嗟に取り繕ったのだろうけれど、出来得る限りで裏を調べた。……結論として、極めて黒に近いグレー。

 何処まで突き詰めても、やはり所詮は人の為すこと。やがてボロが出るのも当然で、そしてその殺人鬼にとっての致命的なミスを犯す日があの時だったのだろう。

「……何はともあれ」

 今は兎に角、種を。焦らずともよい。時が経てば自然自身の元に転がりこんでくる。……ただ、少しばかり気になるのは、殺人鬼の行動に多少の違和感がある。まるで、そこには、犯人以外の何者かの意思が介在しているような、そんな違和。

 それがどうにも、よくない臭いを運んでいる。見えない何者かが、殺人鬼にとって、自身にとって、あるいはその両方に、致命的な欠損を齎してしまうような、そんな予感。

 臭いが燻るのは、種の一つだ。殺人鬼に繋がるであろう種の内の一つから、どうしようもないほどのきな臭さが立ち込めている。その臭いさえなければ、もっともっと、犯人に繋がるまで時間が掛かったであろうに。

 どうしようもない違和を生じさせているその種の名は……。




「ギルドから、仮面(タラフ)を押収いたしました」

「……そう」

 ――やはり、ぴくりとも表情は動かさない。

 魔術省大臣執務室。いつものようにその部屋の主に市井についての報告へ向かった補佐官は、眉尻一つ動かさないリジエラの姿を見て、表情にこそ出しはしないが、内心でなんとも形容しがたい感情を持て余していた。

 仮面が現場に残されてる殺人事件が続く最中、仮面を用いた悪戯が為されている。……時期が違えば独立した案件だと片付けることも出来るが、いかんせん今回は近すぎる。何かしらの関連性があると睨むのも当然のことだろう。

 しかし、連続殺人の証拠の一つとされる仮面、それを使った悪戯が政治の中枢部に辿り着くまで一月以上の間が空いたのは、「仮面が現場に残されている」という情報を管制し、一般市民の耳に入らないよう努めた結果。それが無事に働いているということの証左であるのだが、同時に不審物に関しても見過ごしてしまう可能性が高いということでもあるのだと、両立しない二つの必要性に、補佐官の男は難しいものだと眉を曇らせた。情報を知らぬ人間は、不審物を不審物だと気付かないのだ。

 ともあれ、今回見つかった仮面は、土人形の依り代に使われたもの。その土人形の作り手こそ件の連続殺人事件に何らかの関わりを持っていると考えられる……のだが。

「仮面は今現在省内にて調査されています。……ええと、それに付随して一つ、気になる点が、あーと、ありまして」

 こうして言葉を濁すのは、男自身の性根としても立場としてもあまり褒められたものではないのだが。それでも絹が滑るようにするりと淀みなく口にするに難しい話題だった。しかし、此処まで言っておきながら「なんでもありません」では通らない。男の役割はリジエラにありとあらゆる情報を包み隠さず提示することだ。その仕事には少なからず矜持を持って接していたし、これからも己のプライドに悖る行動をするつもりはない。

「その、土人形は、風の術を行使した、という話もございまして……」

「……」

 意を決して述べた口上にも、リジエラはまるで無反応で。せめて一言でもあれば、男としては救われる心地だったのだが、無惨にも執務室の中には静寂のみが漂っていた。

 気まずい。ただただ気まずい。このような事ならば言い淀むことなく一息に告げてしまえばよかったのだと、男は内心で後悔する。……自身の中で握りつぶして報告しない、という考えを持ち得ないあたり、この補佐官の男も中々に職務に対して忠実な男であるとも思えるが。

 ……仮面の持ち主が、連続殺人と「何らかの関わり」がある、と書いたが、そこから公平性や客観性というものを取り払い、個人の感情として扱ってしまえばそれは、「最も犯人像に近しい人物」であるということ。ようやく掴みかけた尻尾なのだ。そう捉えても仕方がない。疑わしきは罰せず、が法の原則であるのならば、感情の根底はその逆、疑わしいのなら罰せよ、となってしまう。

 繋げて、それらが何を示すのか。淀む言葉、曖昧な表情、リジエラの返事を待つ男の姿。……そして、風と土の魔術。

 ……もし、もしもギルドに届けられたその仮面の持ち主が例の連続殺人犯ならば、扱う魔術属性は都合四つ。二重どころの話ではなく、三重を飛び越えて、四重属性の持ち主。もしもそんな類希な魔術素養の持ち主がこの世に存在するのならば、魔術省勤めであるこの補佐官である男が知らぬはずもない。ここは大陸一の魔術国家ベラティフィラにして、その頂点である魔術省。人材の発掘に掛けても、在野の人物の把握に掛けても、随一を誇る場所だ。二重属性ならまだしも、四重属性は隠し通せるはずはなく、そして同時に、そんな稀有な人間の存在を、男は認めていなかった。


 ……眼前の宰相閣下リジエラを除いて。


 喉で言葉が絡むのは、口元で言葉が淀むのは、こうして返事を待ち続けるのは、無言の問いかけだ。「これは、貴方ではないのですよね?」……。いや、問いかけでさえなく、それは縋るような願いに近いものだった。

 懇願のように、否定を望む。

「まさか」

 嘲るような口調でもいい。

「違う」

 心底侮蔑したような色を佩びていてもいい。

「有り得ない」

 至極当然のはずであるそんな言葉を投げつけてくれてもかまわない。

 否定する一言さえ聞くことができるのなら、このような疚しい感情を抱いた補佐官の首なぞどうとでもしてくれて構わない。男は、そう決心して、今日この場を訪れていた。

 彼にとって、この静寂は身に突き刺さる針のようだった。刻一刻と、皮膚に突き立てられていく幾千もの剣山。じわりじわりと血が滲み、じくりじくりと心が痛む。早く、一刻も迅く、この痛みからの解放を。

 ……だというのに、彼の願いを踏みにじるかのように、リジエラは微動だにしない、身動ぎ一つ取らない。宝石と評されるその瞳は、ただ虚空を茫洋と見つめていた。

 ――ああ、この人は。この人以外の何者でもない。

「それで」

 数瞬の間を置いて、彼女の口から零れ出た言葉は、酷く無味無臭なものだった。

「話はもう、おしまいかしら」

「……はっ」

 男は深々と一礼し、目を伏した。

 答えは得られなかった。だが、それでいい。リジエラに答えを求めるなど、この身ではおこがましいだけだ。ただ、信ずる。どこまでも愚直に、己が蒙昧さのみを呪い、疑うことをやめてしまえ。それでいい、それだけが正しいと妄信する。

 この補佐官の男もまた、危ういところで歪んでいた。

「それと、その仮面」

「はっ」

「調査が終わってからで構わない。……一目見ておきたいわ」

「……承知いたしました」

 しっかと拝領して、補佐官は踵を返す。

 足取りに迷いはなく、見据える視線に怯えもない。男は今、解き放たれた心地だった。

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