第十五話
公爵家令嬢としてクレア・ティスエルが持ち得るコネクションは存外に広く、学内の生徒に関しては半数近くの人間に対して顔が利く。あるいはそれは「友人の友人」まで含むものかもしれないが、それでも、公爵家としての血統を持つ人間からの知己を好んで断とうとする変わり者はそうそういない。
学内において貴族階級の子弟とそれ以外、比率で言えば貴族の子弟の方が多くなる環境なのだからなおさらだ。いくらベラティフィラが魔術に関して最も平等な国だとは言え、それはあくまで実力に対して平等ということでしかない。子の教育に注ぐ金も、環境も、やはり貴族階級の人間の方が勝って当たり前。なれば必然優れた魔術師は貴族の子に多くなり、当然生徒の内訳も偏ることとなる。
貴族の中にあっても、公爵家と敵対する派閥に組する家もあるが、明確に敵対の意志を表している家は多くはない。貴族社会は腹芸の世界だ。表立って敵愾心をむき出しにする方が珍しいし、黒か白からの二極論の世界でもない。公爵寄りの黒もあれば公爵から離れた白もある。一つの事柄に対しては公爵家と同じ意見を持ち、それとは別の事柄に関しては互いに矛を向け合う、そのような関係だって当然存在する。どうしたって付き合いというものは必要だし、時にそれは御家を守る武器となり、己が身を守る防具にもなる。例えばクレアシンパの友人から「クレア様がこのことについて知りたがっているのだけれど、貴方は知らない?」と尋ねられたとする。そう言われて、解答を知っていてなお「知らない」と嘘を吐く人間は果たしているだろうか? 公爵令嬢とのコネクションに繋がる可能性を切り捨ててでも。
調べてきて、とも言われておらず、聞かれているのは知識の有無のみ。知っていれば答えるだけ、知らなければ知りません。大して時間を割くわけでもなく、答えをさらりと教えてやればひょっとすればクレアに名前を覚えてもらえるかもしれない。それはあって困るものでもないし、繋いで損の無い利害関係だ。
公爵家令嬢という立場に付随して、単純に当人の実力、性格の好悪についてもだ。クレアは決して、不当に人を下に見ない。そうすることの愚かさを知っているからだ。クレアは必要以上に人の自由を阻害しない。そうすることの不利益を学んだからだ。
貴族という種類は、一個の人格が外から見る際に二つに分けられる。良い人か、悪い人か。
それは貴族に限ったものではないのだが、しかしやはり貴族という分類で区切りたくなるほどには、その貴種の中には横暴と傲慢が我が物顔をして踊っているのだ。しかしてクレアという人間は、貴族の中にあって珍しいほどに真っ当な「良い人間」であった。
魔術の実力も言わずもがな。ベラティフィラ魔術中等学校において首席。人格も破綻せず成り立っている。なればクレアに敵愾心を抱く残された理由は、嫉妬か。
兎角、つらつらと書き並べたが、何が言いたいのかと問われれば。クレア・ティスエルという人間はこの中等学校内において幅広く顔が効き、あちらこちらに耳があり、紛れもなく女帝として君臨しているということ。
だからそう。その気になればこそこそと話しあい、秘匿しようと試みた会話さえ拾い上げることが出来る。比喩ではなく、学内の全ての人間が彼女の目であり耳であるとしても、過言に過ぎないのだから。
故に、クレアはその話を自身に侍る生徒から聞いたとき、思わずその口で弧月を描いた。
随分と長い間その姿を晦まし続けていた殺人鬼ではあるが、その正体一切が謎に包まれているというわけでは決してない。そもそも殺人鬼の方からある程度の情報を残しているのだ。殺害方法に、現場に残す仮面に、獲物を選出する際の条件。それだけ揃えば、候補は無限大の不特定多数から数千の中からの不特定多数に成り下がる。それでも決して少なくない人数ではあるが、王都に住む全ての人間が容疑者候補という状況に比べれば余程マシだ。
それに、今まで尻尾を捕まえさせなかったとはいえ、一つ一つの凶行は神ならざる人の手によるものだ。これまで完璧であっても今後完璧である理由はない。たとえ天空から吊るされた一本の蜘蛛の糸であろうと、それを見つけ手繰り寄せていけばやがて必ず犯人に繋がる。壊れることがないと思っていた壁だからこそ、一度罅が入れば脆いものとなる。防波堤の決壊と同じだ。一所に穴が開けば、それまで堰き止められていた濁流が一息に全てを飲み込み野晒しに変える。
「……調べ物が、出来たましたわね」
クレアは己が学友の齎した情報から更に精査なものを精錬するため、幾つかの情報収集をすることにした。
亜妖、を自称する魔術師がいた。
人は誰一人として彼をそう呼ぶものはいない。ただ彼自身だけが頑なに己のことをそう名乗り続けている。
国の中枢にハーフエルフが存在するベラティフィラにおいて、幾ら自称とはいえ、そして、何故そう名乗り続けるのか真意が分からぬとはいえ、「エルフ」という単語を冠するのに「亜」という言葉はあまりに不適切だと捉える人間が大半だった。故に、彼自身を除いて彼をそう呼ぶ人間は存在しない。
「亜」が持つ意味は、「主たるものに次ぐ、次位」。そしてもう一つが、「程度の低い」。
まさか、後者の意味で使っているはずはないだろう。何故ならこの国は王国ベラティフィラ。かの国を治める重鎮にして、建国の祖の一人であるのは「ハーフエルフ」リジエラ。この場合、「エルフにこそ及ばぬがそれに次ぐ魔術の腕を持っている」と自賛していると捉えるのが自然のはずだ。エルフという存在を一つ上において、己をそれ以下としながらも、人の身からは外れてるということを言外に示し、自身の魔術の腕前を誇っている。それが普通だ。皆が皆、そう考えている。
だがそれでも、それであってもなお彼のことを「亜妖」と呼ぶ人間はいない。人の意識がそれを上回ってなお余りあるのだ。不遜であると。
誰一人として亜妖と呼ばぬ彼。曲げることなく亜妖を自称し続ける彼。
そんな彼は今、公爵家の客室に招かれ、かの家に付いた魔術師と膝を突き合わせ紅茶を飲んでいた。
決して他者から亜妖と呼ばれぬ彼は、今この瞬間においても、常日頃と変わらず……。
「キストゥス殿」
そう、呼ばれていた。
茶褐色の三角帽子、茶褐色の道衣、巨大な紅玉があしらわれた杖。傍らには大きな犬が傅いている。
齢は……自分では覚えていなかった。七十の半ばまでは数えていたが、いい加減馬鹿らしくなって止めた。九十は超えただろうが、未だ大台には達してないような気がする。が、それも定かではない。あるいは何時の間にやら百を数える歳になっているやもしれない。同時に、だからどうした、と考える。どうでもいいものだと感じたから数えることを止めたのだ。キストゥス・アルビドゥスという一個の人間が胸に秘めるささやかな哲学がそうだった。重ねた年輪に意味はない。何よりも重要なのは、今、己がどうあるか。
「お会いできて光栄です」
そう言ってキストゥスに右手を差し出したのは、ティスエル家付の魔術師、ファベル・ヌディクル。……国内きっての万能魔術師として知られる彼でさえ、キストゥスと向かい合えば敬意を示さずにはいられない。キストゥスという魔術師は、それほどの人間だ。在野にあって尚明星がごとくその勇名は光輝く。冒険者たちに「ベラティフィラという国において随一の魔術師と言えば誰何」と尋ねて、最も多くの者が彼の名を挙げるだけのことはある。彼の魔術の力はまず間違いなく大陸に住むニンゲンの中で五本の指に入り、火術に関して言えば、キストゥスよりも優れた魔術師の存在は許されていないだろう。
そして同時に、それだけの実力を持ちながら、名だたる名家からの家付への就任を断り続けている偏屈者としても知られていた。
「殿、などと堅苦しいものはつけずとも構わんともさ。こちらこそ会えて光栄じゃよ。ファベル殿」
同じように右手を差し出して、固い握手を交わす二人。「そちらは……?」とファベルが控え目に声を上げ目線をやったのはキストゥスの傍らに伏せる毛並みの良い一匹の犬。「なに、気にせんどくれ。飼い犬じゃよ」とキストゥスが朗らかに笑みを浮かべて答えた。
公爵家客室で初の邂逅を済ませた希代の魔術師二人はそのまま備え付けられていた豪奢なソファに深々とその身を沈ませ、テーブルを挟み向かいあった。メイドが運んできた芳しい匂いと暖かな湯気を立てる紅茶が両者の前に音もなく滑るように置かれ、白と黒のモノトーンで彩られたスカートを翻し、一礼した後そのメイドが客室を後にする。
カップを持ち、紅茶を一口含んでゆっくりと味わい、やがてキストゥスはその相好を崩した。
「流石は公爵家。この一杯だけでも足を運んだ甲斐があったというものよ」
「それは重畳。ですがキストゥス殿、その一杯だけで帰られてしまっては、私も主に対して面目がつきません」
「なに、安心召されよファベル殿。如何様に不快な話であっても、既に口にした分は話を聞きましょうぞ」
互い互いが曖昧な笑みを浮かべ、場の始まりは一応和やかな雰囲気のまま進行していくことになる。
「とは言っても、卿らがこの老骨に求むることはとうに聞き及んでおる。その時は特段悪い仕事でもないと思うたが、こうして呼び出されるということは、さて、なんぞ仕事内容に変更でもあったのかの?」
そんなことなど露とも考えていないだろう様子でキストゥスは飄々と言う。何について話があるのか理解している癖に、それをおくびにも出さない。「長く生きると誰も彼も少なからず面倒になるのだろうな」とファベルは脳裏に七面倒な老害貴族どもの顔を幾人か思い浮かべ、反して表情は至極穏やかに、そして緩やかに頭を振った。
「当然依頼内容の変更、という話ではありません。……迂遠な問答はなしとしましょう。……お尋ねしたいのは貴殿が欲する報酬について」
それまで口をつけていなかった紅茶を、ファベルはここで初めて口にして、僅かながらにその唇を湿らせた。
「国の地図、とは如何様な故があって求められているので?」
自然、険しくなる己が視線を隠すことなく、ファベルは剣呑な瞳をキストゥスに向けた。
しかして、幾つもの死線を潜り抜けてきたキストゥスもまた、尋常ならざる胆力の持ち主。「ふむ」と一つ頷いて、かさかさに枯れて、張りを失った自身の右手で細く衰えた己が顎を擦った。
「さて、『如何様な故』と言われても。『ただ儂の心が求めるが故に』としか返すことはできんがの」
「では何故貴殿の心はそれを求めていらっしゃる?」
「……そうさの」
一度、キストゥスはファベルのその鋭い視線を真っ直ぐに受け止めていた瞳を伏せてから、再び顔を上げた。その時のキストゥスの瞳は先ほどよりも随分と光の輝きが爛と増し、得も言われぬ不安感を掻き立てる怪しげな色彩を帯びていた。老体はテーブルの上に身を乗り出し、主人の勘気に当てられたのか伏せていた犬も何時の間にやら四足で立ち上がり、獣に似合わぬ理知的な眼をファベルに向けていた。常ならば賢そうな犬ではないかとおべっかの一つでも言いたくなるその瞳の輝きが、今はただ薄ら寒いものに感じられる。
「なにも国内全域の地図を寄越せと言うわけではないのよ。一部でよい。ほんの一部を渡してもらえれば、速やかに今回の依頼を拝領し、達成すると約束しよう」
「……たかが殺人犯一人に、一部とは言え国の地図を寄越せとおっしゃるか。貴殿は」
言葉を受けて、キストゥスの表情はおかしく歪んだ。
「『たかが殺人犯』! それは聞く者によっては問題視されても言い訳の立たない発言じゃな。ファベル殿? 儂は左様な些事に構うほど愚かでもないが。気をつけた方がよろしいぞ?」
「……貴殿がそう答えることくらいは分かるからこそ、胸襟を開いて言葉を飾らなかったのですよ、キストゥス殿」
――分からぬ。この御仁が考えていることが分からぬ。
口にした言葉を反してみれば、ファベルはキストゥス・アルビドゥスについて、それくらいのことしか分からなかった。心の奥底では、眼前の老獪の真実を厘ほども分からぬまま困惑が浮かんでいた。一体何を希求し、何を見据えているのか。眼前に座る化生の脳裏を思い描こうとすればするほど、果てのない闇を泳いでいるような、いや、その闇に溺れ、沈んでいくような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
「……金は?」
「いらぬ。いると思うか? ないと思うか? この儂に?」
「……地位は?」
「求めぬ。余命幾許もないのじゃぞ? この身体には」
「……名誉は?」
「既に両手に抱えて零れるほど受けておる。この身に余るほど大きなものをな」
では、どうしろと言うのか。ファベルは答えに窮した。
……そうだ、断ってしまえばいい。「たかが殺人犯」相手に、支払う代価が余りにも大きすぎる。ティスエル家ならば捜査に本腰を入れれば遠くない将来必ず犯人を見つけ出すことが出来るはず。ならば分不相応な対価を代償に、眼前の化物を雇う必要もない。……不確定に過ぎる。この御仁は、自身の手で御せる確証が持てない。齢九十を過ぎ、最早その半身を棺桶に横たえているような老体から、ファベルは底知れぬ圧のようなものを感じ取っている。
「……であるならば」
依頼はできない。粘りついた口を開いて、声が震えぬよう必死に自身を奮い立たせて、跳ね除ければそれでよい。たった数文字、繋げればそれでよい。そう、あとたった数文字、それだけで終わる。
「依頼は」
「のうファベル殿」
背筋を撫でるような、生理的嫌悪感を伴った優しい声音。断ろうとするファベルの言葉を妨げるようにして……いや、妨げる意志を持って、キストゥスは言葉を放った。
「なにも地図を悪用するつもりなどこの爺には毛頭ない。今更この歳になって帝国に国を売ることなどないし、連合にもそうよ。先ほどから一部でいいと申しておろう? 国の北を寄越せ、と言うとるわけではないよ」
「……ならば、貴殿が求めているのは」
「南よ。この国のな」
……。
幾許かの、間隙。身を乗り出していたキストゥスは再びソファに深くその身を預けて、対してファベルはその真意を探っている。分かろうはずもないのに、探らずにはいられなかった。
「大したものではなかろう? 北に、帝国。やや北寄りの中心に、王都。南には、諸侯。……諸侯と面する場所の地図を帝国、連合に売れるだろうかね? 例え帝国が買ったとしても、それに実用性が生まれるのは王国帝国間の火蓋が切って落とされ、王国がその領土を南の際まで追いやられた時……かね。既にその頃には、王都は陥落しとるのぉ」
ひぇっひぇっと笑うキストゥスに反して、その王国に住まう人間ならばあまりにも笑えない想像図を示されたファベルは憮然とした表情を浮かべている。
「では南の諸侯に売ろうかの? さて、果たして売れるのかのぉ? 『騎士公』は金銀財宝を蓄えておるのかどうか、定かではないしの。それ以前にアレはその手のものを欲するのか? 『公爵』はどうかの? ……残念ながら儂も姿を見たことがない。本当に生きて、今現在も存在する『諸侯』なのかの、ケイネロンとやらは。……遠く離れるがそれならいっそ『迷宮王』と取引をするのは有り得るか。いやいや、あそこは使いの兎が好き勝手に盗んでいくから取引なぞ成りたたぬ。欲しいものがあれば兎が盗みにやってくる。……第一、先に言うたな。儂はもう、金も、地位も、名誉も、なにもいらぬと」
「……だからこそ。何も求めないからこそ、貴殿の考えていることが分からない。その地図をもってして、一体貴殿が何をなそうとするのかが」
キストゥスは、その問いに対して何の衒いもなく、朗らかに笑い答えた。
「特段隠すこともないがの。もういつ何時世界樹に還ってもおかしくはない身よ。なれば最後に、いっそ『諸侯』を相手どるには悪くはなかろう? キストゥス・アルビドゥスという物語に終止符を打つにはこれ以上ない終幕よ」
「……毎年、少なくない人数の冒険者がその言葉を嘯きます。『俺は諸侯を落とし、英雄として名を馳せるのだ』と。果たして、その内の何割が本気で言っているのか怪しい。そして、その本気で言っている内の何割に実が伴っているのかと、いつも訝しく思っておりました」
「ですが、貴方なら。いいえ、貴方こそその言葉を吐いていい実績があります。キストゥス殿」
「よせよせ、それは望外の言葉というもの。老いたる身には些か堪える」
しばしの間、ファベルは瞠目する。
キストゥスが求めていたのは最初から国の南の地図だった。そして、それを用いて国へ災禍を齎すのは中々難しい。北に面する帝国が欲するところではないし、騎士公アルゴルがそのような物を蒐集しているという話もない。アレが唯一執着するのは、強者と「骨」くらいなものだ。ケイネロンに関しては既に述べたように生死不明。惑いの森にその一派が隠れ住んでいるのに変わりないが、その首魁たるケイネロンの所在はとんと掴めていない。あるいは代替わりが行われた可能性も捨てきれない。だが結局所在の掴めぬ相手に商いが成立するかと問えば、難しいと言わざるをえない。……キストゥスが個人的にその行方を知っている、という可能性はあるが、極めて小さなものとして考えていいだろう。ファベルはその可能性を捨て置いた。
ともあれ王国が持つ最上級の魔術師がその生涯のフィナーレを飾るため、自ら諸侯の前に立ってくれるというのなら有難い話でもある。それが未だ働き盛りの年齢ならば多少留意もするが、もはや鶏肋と読んでもいい年嵩だ。床でゆるりと往生を迎えるよりかは、諸侯の軍勢を少しでも削りながら戦死してくれた方が国としては利が立つ。
無論、それだけではないだろう。それだけではないと仮定して進めるべきだ。……だが、この言を突き放すよりかは、先ほどまでの意思を翻して依頼を申し込んでも構わないだろう。今となっては、ファベルもそう思えることができた。
これ以上の駆け引きも難しいだろう。見たところ眼前の老人は「端から南の地図だけを求めていた」。最初に提示する条件には希望よりも幾許かの上積みをしておいて、交渉の場で譲歩するように見せかけるのは常套手段ではあるが、今回に限って言えば、二人が跨いでいる今この線こそが老人の一番の目的であり同時に最低限の目的であるように思えた。
「……地図に関してですが、騎士公と公爵、どちらのものがよろしいので?」
「騎士公。そちらの方が儂の眼には魅力的写るのう」
「……分かりました。では『騎士公アルゴルの軍勢に面した地図』を今回の報酬として、件の連続殺人鬼、その正体を調べることを貴殿に課す依頼とします。書面は後日改めて用意させましょう。お泊りの宿に使いの者をやります」
「善哉善哉。まっこと実のある話し合いでしたのぉ」
からから笑うキストゥスに対して、ようやく肩の荷が下りたのか、ファベルは深く溜め息を吐いた。
「現時点での犯人像についてですが」
しばしの他愛無い談笑を挟んだ後、ファベルは幾許かの情報をキストゥスに開示した。
「後天的な二重属性。そしてその内容は火と氷。その魔術師が下手人として一番可能性が高いと考えています」
「後天的、とはまた変わった者じゃが……火と、氷?」
「ええ。被害者の状況を見ればそうだろうと予想はつきます。……被害者全員の死因は身体に開けられた大きな風穴。突撃槍のようなもので穿たれたようなその傷痕は、切断、打擲が本分の風、水では難しい。傷口にはそれ以外不審な点が見当たらないので、火や雷といったもので焼き焦がし穴を開けるというのも考えにくい。衣服に焦げ後はあっても、肝心の傷口には、焼かれた跡がないのですから。残るは土か氷か、あるいは木か。まあ他にも属性自体は諸々ありますが、発現しやすい魔術属性で言えばそれくらいでしょう。穿つ槍を作りやすい属性、とも言えます」
ファベルの話を聞きながら、キストゥスは愉快そうに眼を細め、先を促した。
「被害者を殺したのは、氷か、土か、木の槍。そしてその中から更に絞り込むのは……犯人の残した犯行証明の存在が大きい。……焦げた服と、広範囲にわたって撒き散らされた血液です」
「氷で作った槍を、火の魔術で溶かした、と」
「その通り。衣服が焦げたのは、その時でしょう。血が広範囲に広がっているのは、溶けた氷と血が混ざりあって地面に落ちることによって、でしょう」
「……ふむ、一々面倒なことだが、そのようなことをわざわざやるというのは、自己顕示、そう取ってもよろしいかな?」
「自身が行ったのだという証明、でもあります。現場には更に仮面が残されています。殺害方法も、残されていた仮面も、ごく限られた範囲にしか情報を開示しておりません。故にその二つを知っているのは市井においては」
「殺人犯ただ一人、というわけか」
「しかり。当然そうなれば魔術省に登録している二重属性、三重属性をまず真っ先に当たりましたが」
「なるほど、出てこなかったと。それで『後天的』であると」
魔術属性の複数持ちは希少価値が高い。「愛し子」に対するものほどではないが、その所在、人数の把握には国も動いている。その一つとして、魔術省が多重属性持ちを広く探し、名簿に一人一人登録を義務付けている。登録者にはその証として国から指輪が渡されており、その指輪の有無一つで待遇にそこそこの差が生じる。希少価値が高いということは研究対象としての価値が高いということ。少しばかり魔術の腕が劣り、魔術省への入省には足りぬという人材も、多重属性ならばその差が埋まり入省することが出来るし、冒険者としても、同じ技量の単属性と多重属性ならば、複数の属性を等しく扱うことが出来る後者の方が汎用性に勝り、引く手が増える。余程の理由がない限り、隠す必要がないのだ。多重属性持ちという利点は。
生まれた直後から二重属性である者は、初等学校あるいは中等学校入学の際に発覚し、そのまま登録されるだろう。年のころは十歳前後だ。その頃から「将来殺人を行う時に向けて隠しておこう」という考えに至る人間は多くはないだろう。対して後天的に発覚、あるいは才が花開いた人間は何歳になるのか分からない。邪まな意志を持った人間がその才能を享受し、魔術省に登録せずに息を潜めているのならばその存在は秘匿されたままだ。
「世間一般に向けては、火か、氷の魔術師だと振舞っている人間。それが今回の犯人であると考えています。実力は、今まで殺されてきた人間よりは優れていると線引きして……」
勘案する途中で、気が滅入りそうになるのをファベルは自覚した。何度算盤を弾いても、変わらず疑うべき人間は多い。犯人を絞る要素はいくつかあるが、それは犯人側が意図して残していったものだ。決定的な証拠は未だない。しかし神ならざる身での犯行だ。何時か必ずボロは出すはず。ひょっとすればそれは明日かもしれない……し、数年先かも知れない。ならばそれは明日来るものだと信じるしかないだろう。
「……そういうわけで、貴殿の助力を仰ぐに至りました」
深く息を吐いて頭を振り、ファベルは言う。
「宰相閣下が動くのなら、このように長引くことはなかっただろうに」
小さく呟いた言葉は、まず間違いのないファベルの本音で、そして偽らざる真実であった。
動くことのない大山を相手にして、吐き掛ける唾は酷く情けのないものに思えたが、彼女がその気になれば最初の殺人が起きた時点で犯人を特定し引きずり出すことができていただろう。
敵対勢力にあって、その上主から命ぜられた任を前にしてあまりそのような言葉を吐くものではないとファベル自身分かっていたが、任を与えた人間に不満はなくとも与えられた任自体には不服があった。こんな極めてつまらない殺人犯探しなぞ、さっさと終わらせたいと常日頃から思っている。当然、そのような感情、主の前ではおくびにも出さないが
やりようのない愚痴が不意に零れ出てしまった形だったが、意外にも、その愚痴に老人は乗ってきた。
「アレはなぁ、動かんよ。動くようなタマではない」
返された言葉を、不思議に思う。この老人はあのハーフエルフに何かしら思うところがあるのだろうか。
「不思議そうな顔をしておるの。ひぇっひぇっ。分からんでもないぞ、その表情」
「長く生きるとの、知らんでもいいことを知ってしまう。考えんでいいことでも考えてしまう。時間が有り余っておるからの。……ふむ、これに関しては若い頃からそうであったか……」
昔を懐かしむような、慈しむような、憎むような。万感の想いを込めて、老人は目を瞑り、囁いた。
果たして、彼と彼女の間に何かしらの因縁ないし因果があるのか。ファベルは興味を覚えた。
「儂の夢想が正しいのならば、アレは滅多なことでは動かん。それこそ、この国が存亡の危急に相見えたとしても動かぬやもしれん。……いや」
誰に向けてでもない、ただ独り言つキストゥスの口はそこで止まった。
「……キストゥス殿、貴殿と宰相閣下の間にはどのようなことがあったのですか?」
投げかけられた問いに、枯れ木のような男が返した言葉はただ一言。
「無粋よな」
一方に富が集中するのに反して、他方ではその日喰らうにも困る状況に追いやられる人間もいる。……いや、この男に関しては、それほど食うに困っているわけでもなく、庶民一般よりは富む程度の稼ぎは手にしているのだから、そこまで極端な二元論に走る必要もなかった。
しかし、同じ冒険者としての枠組みで見れば、公爵家から金銭の報酬を断ったキストゥス・アルビドゥスという人間に比べてその稼ぎは砂塵の如く、吹けば飛んでしまうような雀の涙だ。……それはあまりにも比較対象が悪いのかもしれない。相手は国の頂点に立つ冒険者だ。中央のギルドに移って未だ一年の若造とは比べるべきもない。
常日頃一体何に金を使っているのか分からない、クロッカス・アジャルタに比べれば懐に余裕はあるが、彼、アキレア・アルフィーナには欲するものがあった。
彼が今歩いているのは王都の中心街。貴族、富裕層が住まうその区画に、一個の冒険者に過ぎない彼が足を踏み入れるのは少々場違いであり、先ほどから道行く人々――比べようもないほど身形が整ったお偉方――からはちらちらと不躾な視線を集めていた。
当の本人はその視線を鬱陶しく感じながらも、それが一体何するものぞ。ここは天下の往来であると開き直り、ずかずかと歩を進めていた。
アキレアの目的地は中心街にある武器屋。専らその客層の大半が貴族であるが故に、冒険者の彼の目から見れば装飾過多なものや華美な貴金属に彩られたものなど、実用に耐えぬものばかりを扱っている店ではあるが、そこに置かれている刀剣の中には少ないながらも例外があった。それこそが「海楼」の刀と「蜘蛛印」の剣。アキレアの目的はその二つのうち、前者だった。
勿論、買う金はない。一目見ようとしても、このような服装では門前払いされて現物を眼に入れることはできないだろう。そんなことは当人も自覚していた。……ただ、「ああ、あの店の中にあるのだ」と外から眺めるだけだ。それだけで良かった。今日はそれをしに来た。
彼は子供の頃、大陸の東、最果ての島国である海楼から流れてきた、侍と呼ばれる戦士を見た。そして一目で、その戦士が振るう刃に惚れてしまった。佇まいは泰然にして自若。跳ねる切っ先は流麗にして玲瓏。ああ、俺はああなるのだ、将来あのような形に行き着くのだ、と、アキレアは心奪われた。
だから必然、侍が持つ、海楼の刀にも憧れを持った。俺にもあのような相棒があれば。俺にもあのような愛刀が欲しい。未だ自身の技量は、名刀の一つとして数えられる海楼の刀に及ばないとは分かっている。それでもアキレアは時折こうして中心街の武器屋に通い、無聊の慰みにしている。
もし、もしも今手元に刀を買うだけの金があったのなら。たとえ今の俺には不釣合いな名刀であっても、あの武器屋の小憎たらしい店主の頬を大枚で叩いて、買い取ってやるのに。
何時か刀に見合うだけの実力を手にして、堂々とその手に柄を握り締めるまで、後生大事に抱えて寝る。今はただ、手元にあるだけで、それでいい。手元にあるだけで、その目標へ向かう推進力がまるで違うはずだ。
だが現実として、今の仕事の規模、ペースのままならば彼が刀を購入することができるほどの金銭を用意するのは、遠い未来のことだろう。それも理解している。仕方がないことだろうと納得している。
今はまだ、届かぬ夢で、目標だ。
だがいつかは。必ず、きっと。
アキレアが武器屋を眺める視線には熱を帯びており、まるで恋焦がれる相手に向けるような視線だった。