第十四話
――この間の依頼で相当に懲りた、というか、些かの疲労が溜まっていてもおかしくはない。これから短い期間ではあるが、もう少し楽に稼げる仕事――その分実入りも多少落ちるが――をこつこつとやることになるのではないだろうか。
フェイトは剣と賢が取るであろう今後の予定を、授業を受けながら勘案していた。日付は丁度、クロッカスの槍を買いに行く約束を取り付けた当日になっている。
主な指針を決めるのはフェイトではなくアキレア・アルフィーナではあるが、あれで中々アキレアには現実主義な面がある。……先日に関してはこれまでの順風満帆さから多少の楽観が入り混じっていたのは否定できないが、今回の件で緩んでいた螺子は今一度固く引き絞られたことだろう。
事実、彼自身の剣もまた折られている。そんな随分と手痛い授業料を支払うことになったし、それは精神的な意味と共に、物質的な意味を内包していて。懐が寂しくなるのは万年金欠を嘆いているクロッカス・アジャルタだけではなくアキレアも同じになるはずだ。ならば石橋を叩き、収支を確実に黒で刻んでいく方向に舵を取るだろうことは容易に想像できた。
転じてフェイトからすれば幾許かの金銭的猶予がある。クロッカスの槍代を支払うにしてもそれはフェイト、アキレア、クロッカスによる三等分、そこそこの値は張るだろうが、想定を超える高額を支払うことにはならないだろう。
……金銭を要する何かしらの趣味もない。強いて挙げるとすれば書を読むことだろうが、それは何時からか「趣味」の範疇を超えてしまったように思える。……いや、範疇を超えたというよりは、「趣味」が「実学」に挿げ替えられてしまったのか。兎角、手前で本を買い、蒐集し、読むのは未だ印刷技術が発達していないこの時代において中々にお高い趣味であり、「貴族の遊興」と揶揄する人間もちらほら存在するのも確か。ただそこは天下のベラティフィラ中等魔術学校、自ら商会を訪れ、懐を痛めるということをしなくても、図書室へ向かえば数多くの書籍が待ち構えている恵まれた環境だ。事実、フェイト自身が金を払って買った本は「四英雄譚」ただ一冊。そういったことからも、フェイトが書物に対して多額の金銭を支払うという機会は今のところ存在しえず。
というよりも、だ。まず第一に本を買うことを「貴族の遊興」と罵ることの方がおかしいのだと、フェイトの思考はあらぬ方向に迷い込んだ。
文化を破壊された暗黒の時代、その存在を知らぬ人間の方が少ないだろうに、それを踏まえた上で「貴族の遊興」だとのたまうのならそいつは最早度し難い馬鹿ではないかと内心で悪罵する。
……黒の宰相を傍らに置いて、尽く他国を飲み干していった「戦王」、そして同時に「愚王」と後世の史家に評される今から六百年ほど過去に存在した王、ラクサ・ウルティマの存在を知っているのならば、書物というものが持つ価値の重大さを重々承知するはずだ。「史上最も多くの会戦で勝利し、そして史上最も多くの書を焚いた男」の愚行を経て、人類は今の歴史へと辿り着いているのだから。
閑話休題、まるで関係のないところに着地した自身の脳内をフェイトはリセットする。聞いただけで腹立たしいその所業を思い浮かべたせいか、自然自身の手には要らぬ力が入り、気付かぬ間に筆をへし折っている自分がいて思わず自己嫌悪をし、一瞬で冷静になった。
話を戻して、結局、フェイト自身は金銭的な苦境に立っているわけではない。既に述べたように特筆すべき趣味はなく、外に出ない限り三食は学校側が用意してくれる。二人部屋ではあるが寝るに困らない自室も寮にある。生活費に金が回らないのだから、ギルドから支払われた依頼料はほぼ全て貯蓄に回されている。……貯めて何になる、とも思わないでもないが、使いどころがないし、同じくらい使ってどうなる、という思いもある。別にあって困るものではないし、「将来」なにかしら必要になる可能性が無きにしも非ず。あるに越したことはないが……それを求めて身を滅ぼすのは最低の悪手だ。
そう、悪手。それだけはやってはいけないことだ。道半ばで意味もなく命を散らすこと。それだけは、やってはいけない、フェイトにとって、そのことだけは許されていない。……許される、はずがない。
だから、あの瞬間、あの一瞬。まるで為すべきことを全てやり終えたかのように肩の力を抜きさって、馬鹿みたいに間の抜けた面を晒していたフェイト・カーミラという人間は度し難かった、救いようがなかった。
立ち止まってはいけない、休んではいけない、怯んではいけない、逃げ出してはいけない。ただ粛々と、歩を進め続ける。心挫けそうになるその道程を、一人きりで、支えなく。
故にあの時も、剣と賢の中にあって、自分自身だけは集中を途切れさせてはいけなかったのだ。
思い返すのはあの土人形の感触。そこにあったのは慣れ親しんだ土の感触だ、土の冷たさだ。だが、覚えた感情はまるでその逆。人を支え、恵みを実らせる母なる抱擁ではなく、死出づる悪鬼羅刹のに射竦められたようなあの瞬間。あれは、そう、あれはだから、罰なのだ。一瞬でも気を抜いた己に与えられた、罰なのだ。
――あ、駄目だ。
フェイトの視界が黒く狭まる。思い返しただけで背中を冷や汗が伝い、頭から血の気がさあっと引いていくのが自分でも分かった。頭部の重さに意識が負けて、がくりと崩れ落ちそうになるのを机に立てた腕で支える。
――嗚呼。
思い出してしまった。想起してしまった。あの冷たい感触、絶望の淵に立たされていたあの感情。忘れよう忘れようとし続けて、事実風化していたあの感覚。目を逸らし、耳を塞いで、心の奥底に追いやって、偽装と欺瞞で蓋をしてそうしてようやく保っていた心の平静を、脳裏に思い描いた将来像を、あの土人形はいとも、いとも容易く。
――やめろ。
叶わないと分かっていた、いや、分かっているはずだ。そして、敵わないとも。だから、そう、だからこうなった。誰にも言えず、誰にも頼れず、誰しも道連れになど出来ず、何時しか前を向いて歩く意志は挫かれていて。
――うるさい。黙れ。黙って。
背中を押していたのは、確かに怒りだったのだろう。だが、それを引きずって歩いてみれば、何時しか地面に削られ磨り減り磨耗して、やがて出来上がったのは惰性で進む出来損ないのからくり人形。
――違う。
だから。
――違う。
だから。
――違う。
だから。
「……あ」
不意に叫び出したくなる衝動を無理矢理抑えつけて、フェイトは小さく声を零した。自身の右手を己が首に巻き付けて、喉を潰すようにして締め付ける。漏らさぬように、零さぬように、封をして。
授業終了を告げる鐘の音がやけに遠く聞こえた。靄が掛かったかのような視界を、頭を振ることによって平静を取り戻し、おぼつかない足取りながらもどうにか立ち上がった。
気分が悪い。機嫌も悪い。全くもって最悪のコンディションだった。
思い出したその感情の名を、フェイトは知っている。
襲い来るその感情の名を、フェイトはやはり知っていた。
しかし、その名を思い返すほどの余裕は今の彼にはなく、その名を反芻するほどの勇気もまた、今の彼には備わっていなかった。
フェイトが取り続けている行動の名は、「逃避」。そして、フェイトが逃げ出しているその根源の存在の名は、「恐怖」。
気付いているが、気付いていない。いや、正しくは気付かない振りをしている。見て見ぬ振りをし続けている。だからそう、彼自身、己の心が自身を偽ることをしているなど気付かぬままに、二度と心の表層に浮かび上がってこないよう、彼の本能はその深層心理に錨をつけて、心の奥底に深く深く沈みこませる。更にその上には「怒り」という名の薄い皮膜で覆い隠して、そしてようやく、彼の心は砕けぬまま無事にある。
だが、自分自身を騙し続けるその有り方は極めて歪で、やがて心に軋みを生じさせる。ゆっくりと圧を掛けられた鉄がやがて耐え切れなくなるように、じわりじわりと小さな悲鳴を上げ続けて、目に見えぬ罅が顕在化し、ぱきりと折れる日が来る。遅かれ早かれこのまま行けば、フェイト・カーミラという人間は壊れて終わる。
「……糞」
誰にも聞こえないように、細く小さな声でフェイトは吐き捨てた。おぼつかない足取りで廊下を歩く彼の周囲には大して人はおらず、日頃の彼をよく知る人間であれば耳を疑っただろう僅かな悪罵も空虚に消えるだけ。それは一体何に対しての悪態なのか。彼自身は、先ほどから寄せては返す頭痛に対してのそれだと思っている。眉間を顰めて、米神を揉み解すようにしているその様は、見る人に正しく「そうなのだろう」と納得させるだけの説得力があった。
だが、果たして本心は何処にある?
それを知っているのは、フェイト自身のことで、それを一番分かっていないのもまた、フェイト自身であった。
時計の針を幾許か進めてやれば、フェイトは校舎内ではなく白磁の教会の前にいた。抜けるような白。静謐、清廉、潔白を表すその外観。樹教と掲げるその名前には些か不釣合いのようにも思えたが、これこそが人の求める、あるいは押し付けているあるべき姿形なのだと理解すれば違和感なく心の裡にすとんと入り込む色合いだと理解出来る。
優にフェイト二人分以上の高さを誇る扉は黒檀製だろうか。重々しいそれに右手を置き、ゆっくりと開けば色鮮やかなステンドグラスにより色付けされた陽光がフェイトの瞳を照らした。教会内の最奥、そして扉から真正面には壮大な世界樹の彫刻が施されており、それを支えるようにしてその両脇に今日フェイトの目当てである彫像が二体置かれていた。
彫刻にしても彫像にしても、史書に残るような名のある某が仕立てあげたらしいのだが、美術に対してさしたる興味の無いフェイトの脳内にはその名が残されていなかった。この教会で仕えている神父にでも尋ねれば答えが返ってくるのだろうが、そうする意味も見出せなかったため、フェイトはただその二つの像を見やりながら椅子に座った。
教会内には幾人かの人が訪れている。世界樹の彫刻の前で祈るように目を瞑っているのが一人、井戸端会議でもしているのだろうか、中年女性が数人、椅子に座りながら一所に固まって小声で何かしら囁いている。少なくとも王都にあるこの教会は、憩いの場としての側面も持ち合わせており、そのように小声で話し合う程度のことならば許されていたし、出入りが厳しく制限されているわけでもない。無論、祭事が行われている時の私語は厳禁ではあるが。
フェイトがこの教会を訪れるのは二度目だ。一度目は中等魔術学校に入学してから数ヶ月経った後のこと。その時にあの美しい彫像を目にしたからこそ、先日の土人形がそれに似ていると気付けたのだ。
物言わぬ像を見て、フェイトはごちゃごちゃと煩雑に絡み合った内心を何とか咀嚼しようと試みる。
フェイトは像をじっと見つめる。見つめる瞳こそ穏やかだが、その視線には何処か剣呑さが隠されており、まるで意味の無い敵意が見え隠れしていた。見つめて、見つめて、見つめ続けて。物言わぬ無機物に敵意をぶつけたところで、暖簾に腕押し糠に釘、塵一つほどの価値もないことだと自身に言い聞かせてからようやくフェイトの視線から鋭さが抜けた。動くはずが無い。何故ならこの場にその彫像を繰ろうとする術者など存在しないのだから。故に、眼前の彫像は敵ではない。恐怖すべきものではない。
それは一種の関連付けだ。よく似ており、そして害を及ぼさないそれを眺め続けて、心の奥底に根付いたトラウマを緩和する。あれは危険なものではないのだと、少しでも己が弱みを隠せるように。
それにしても、だ。似ている、やはり、土人形によく似ている。世界樹を支える二つの像は、俗に「天使」と謳われているそれだ。天が表すものはここでは世界樹を指し、その使いがこの像のモチーフだと言われている。
しかし、造形の美しさで言えばこの二体の天使像よりも土人形の方が勝ってはいないだろうか。素人目ではあるがフェイトはそう思えた。あるいは土人形に抱きしめられた刹那が強く、そして鮮烈に脳裏に焼き付いているせいなのかもしれなかったが、どうにもフェイトは自身の審美眼が正しいように思えてならなかった。
もしもフェイトの審美眼が普遍的であるのならば、土人形を生み出した術者はよほどの……芸術家とでも言うべきか、それとも其処までの美術品を用いて意味不明の用途に使う変わり者とでも言うべきか。兎角判断に迷うところではあった。ともあれ、それは芸術家として希代の才能の持ち主だ。もしも術者の正体が判明すれば、何処かの貴族に召抱えられてもおかしくはない。……いや、ひょっとしたら既に召抱えられていても不思議はない。
ぼうっと天使像を眺めていると、何時の間にやら周囲の人がいなくなっていることに気付いた。フェイト自身はさほど時間が経っていないように感じていたが、実際は割と時が過ぎていたのかもしれない。先ほどから続く身体の不調のせいもあるのかと考えながら、彼も同じように教会を後にすることに決めた。
立ち上がり、像から目線を切って入り口に振り返ったとき、不意に気付いたことがあった。「そういえば」と。そういえば、この天使像は誰かの面影があるような、土人形以外に誰か明白な個人に似ている、そんな気がすると。振り返り、今一度天使像の相貌を眺めた。
涼やかな目元、蠱惑的な口元、芙蓉の顔。
「ああ」
答えに辿り着いた。彼女には宰相閣下の面影があった。一目見てすぐに等号で結べなかったのは、それがあくまで面影であって、決してリジエラそのものではないということと、天使像の耳、それがエルフの血が混じったリジエラと違い、ニンゲンと同じく丸い耳だったからだろう。
ひょっとしたら、この像を彫った彫刻師はリジエラの姿形を参考にしたのかもしれない。彼女はある意味ベラティフィラにおいて美の極点とも言われている存在。永年を変わらぬ姿で生き続けるのだから、過去彼女の中に天使を見出した彫刻家がこの像を彫ったのかもしれない。
それならば、納得が行く。彼女は確かに美しい。数代前の国王が彼女を求めたという根も葉もない噂話もあるくらいだ。宝石に例えられるリジエラの姿を基礎として、天からの使者たるに相応しい美貌を作りあげたのなら得心が行く。彼女は確かに、人が想像出来る美しさの頂点なのだから。……何故なら、彼女以上に美しい外見の持ち主をベラティフィラ国民は知らないのだから。それ以上のものを夢想するにも、人間には想像力の限界というものがある。どこをどう弄ればリジエラよりも美しい存在が出来上がるのか、それを為すには飛びぬけた感性が必要になるだろう。
――ではそれよりも美しいと思えるあの土人形を作った存在は一体なんだ?
薄ら寒い思考がフェイトの脊髄をなぞり上げた。まるでその正体が人あらざる者であるように思えてきて、暗雲立ち込める脳裏を振り払うかのようにしてフェイトは教会を後にした。
「三等分とは言え俺もお前の槍買った後に自分の剣買わなきゃならないんだからな。懐に余裕があるわけでもないってことは分かってるんだろうな?」
「ああ、分かってるよ。幾ら三等分してくれるっつったってそこらへんの配慮ってもんは俺だって弁えてるって……さて、親父」
「この店で一番高い槍出してくれ」
「ぶっ飛ばすぞお前」
武器屋に入って、ある意味お約束とも言えるやり取りをするアキレアとクロッカスは、そのやり取りに入ってこないもう一人に対して不審な視線を送っていた。
教会を後にして、適当に時間を潰し約束の刻限にギルド前でその二人と合流したフェイトもまた、武器屋の店内にいた……のだが。
「……おい、フェイト? お決まりのやり取りだとは思うんだがどうしてお前は入ってこないんだ? そこまでノリ悪かったっけ?」
無理矢理に肩を組んできたクロッカスに対して、ようやくその存在に気付いたとでも言わんばかりにフェイトは「ああ」と気の抜けた返事を返した。
「すいません、どうにも調子が」
悪くて、とも、狂っていて、とも言わずにフェイトは曖昧な笑みを浮かべる。「大丈夫かぁ?」と顔を覗き込んできたクロッカスだったが、特に外見に変調が見受けられることもなく、ただ何処か上の空であるフェイトに対して、「ま、そういう日もあるか」と肩に回していた腕を外して解放する。
「俺としては一番たっけえの買ってくれるに越したことはねえんだがなぁ」
やり取りを眺めていた店主がそう零した。
「この店で最高額は式典やら儀礼やらの実用性皆無の奴じゃねえか親父、勘弁してくれよ」
「そうだ店主、どうせなら海楼の『刀』かドワーフの『蜘蛛印』は置いてないのか?」
クロッカスの的を得た言葉に店主は「まあそうだな」と笑い、アキレアの言葉を受けて顔を思い切り顰めた。冒険者上がりの武器屋だけに、顔を歪めると頬に残った刀瘡がくしゃりと歪んで貫禄がある。いたいけな子供が見れば素足で逃げ出すだろう凶相だ。生憎店を訪れる人間の中にそこまで繊細な精神の持ち主は存在し得なかったが。
「どっちもねえよ。置いてあったとして買えんのかお前」
「買えない」
「即答すんな阿呆」
軽口を叩き合う二人から離れ、クロッカスは早速自身の新たな獲物の物色を始めていた。アキレアはそんなクロッカスを眺めつつ、カウンターに身を預けて店主と話を続ける。
「この間信じられないほど堅固な土人形を斬って……いや、割ってさ。俺もクロッカスもそれで武器を駄目にしたんだが」
「それで刀か蜘蛛印が欲しいってか? お前自身も分かってんだろ? そりゃ獲物の問題じゃなくてテメエの腕の問題だって」
「耳が痛いな。……まあ分かってるさ、こっちもな。斬れてないんだから」
「割ったんだろ? 土人形くれえ斬れねえと駄目だ。そんな腕で買ったところで宝の持ち腐れって奴だ」
フェイトからすればよく分からない理論の応酬だが、剣使いとしてそこは譲れないところらしい。以前アキレア自身からそう聞いたことがある。「割る」ということは剣を剣として扱えていないということらしい。ただ鉄の塊として石だとか鉄だとかを叩き割っているだけで、「剣」としての本質を十全に引き出せていないという何よりの証左……だそうだ。その使い方では刃もへったくれもないのだから、そういう扱いをすると剣はすぐに潰れる折れる。「斬る」ことが出来る存在は幾ら鉄を斬ったところで刃毀れ一つ残さない。それが技術としての「斬鉄」なのだと、アキレアは言っていた。そして自分は未だその領域に達していないとも。
「今回は今まで振るってたのより少しだけいい物にするに留めとくよ。馬鹿高い物を買ったところで技量が追いついてないと意味がない」
「まあ出せっつわれても無いモンは無いんだがな。ここらで仕入れてんのは中心市街の高級店くらいだろ。それにしたって貴族の道楽として買われていくわけだが」
折角の業物も使ってもらえないなら持ち腐れだな、と店主は吐き捨てるように言った。
海楼の「刀」にしても、帝国のドワーフが鍛えたものの証とされる「蜘蛛印」にしても、両者ともに優れた刀剣であることに間違いはない。それは機能美として、そして同時に、造形美も兼ね備えている。でなければ幾つもの国を跨いでその名声が広まるはずがない。優れた鍛冶師が打ったものは必然その二つを両立している。していなければならない。
だがそのお陰で普段剣を握らない貴族の好事家にも芸術品の一種として人気が出てしまっている。ただ観賞用として刀剣を買い漁るその姿は、アキレアのような中流階級からすればどうにも歯がゆいものとして映るだろう。……結局、貴族の横槍があろうとなかろうと、幾つかの国を通ってベラティフィラに入ってくるのだから、一国を通るたびに関税が掛けられて、辿り着く頃には目玉が飛び出るような高額になっているのに変わりはないのだが。
貴族連中が買うことを止めたところで、アキレアのような冒険者がそれらを買いやすくなるということはなく、ベラティフィラ国内における需要が下がり、輸入される刀剣の本数が減ってしまうだけだ。
物理的に距離が離れている海楼と、隣接する国家であるクリフォト。前者に関しては税や輸送費が嵩むのは理解しやすいだろうが、後者に関しては国家間のいざこざを知らぬ人には不思議に思われるかもしれない。だが答えはなんてこと無い、ただベラティフィラとクリフォトで国交が断絶しかかっているだけの話。また、仮想敵国に自国の優れた武器を定価で卸す国も有り得ないというだけのこと。
侵略主義のクリフォトと、それに隣接するベラティフィラ。その二国の仲が良かろうはずもなく、しかし今こうして両国間に大きな紛争が生じていない原因はただ一つ、「諸侯」の存在が大きい。
ベラティフィラは国の南に「夜を駆る者」騎士公アルゴルと「獄の魔道」公爵ケイネロンが存在し、クリフォトでは西から東進を続ける「亜龍」男爵ボートスが猛威を奮っている。いくら侵略主義の帝国と言えど、二方向から同時に戦端を切るような愚かな真似は出来ない。またクリフォトは西と南だけではなく、北方にも潜在的な敵を抱えているため、その巨大な国力も自由気ままに動かすことが出来ない立場だ。
ベラティフィラにしても状況は似たようなものだ。ケイネロン、アルゴル共にボートスと比べれば好戦的な諸侯ではなく、ケイネロンについてはほぼ音沙汰もないままで、侵略行動に出てくることはまず無いがそれでも南の森林にその身を隠していることは確実視されている。あるいは既に死んでいるのかもしれないが、どっちにしたって生死不明。ならば生きているものとして考えるのは国防上正しいのだろう。アルゴルも数十年、あるいは十数年に一度と攻勢に出る頻度こそ少ないが、しかし敵対していないわけではなく。この二者を無視してクリフォトを攻めるのは後顧の憂いが残り続けることとなる。兵を南から北に引き上げたその瞬間に二大勢力が牙を向く可能性は捨て切れない。ベラティフィラもクリフォトもまずは隣接する諸侯を討ち果たさなければ動くことが出来ない状況にある。
そうしてこの二国は国交こそ断絶しかかっているが、大規模な武力衝突こそ起こりえない状況が出来上がっている。しかして、物資や人間の往来は不可能というわけではなく、迷宮国家連合を通じて王国、帝国間を移動することができる。王国と帝国から見て吹けば飛ぶような小国が未だに生き永らえているのは、国家連合として小さな国々が一つの巨大な意思として、大国に伍する程度の纏まった武力を備え、同時に貿易の中継拠点を担うというそういった経緯があってこそだ。
そうなると先ほども述べたように帝国から王国、海楼から王国へ物資を輸入する際には迷宮国家連合に属する国を幾つか通らなければならなくなる。一国を通る度に関税が課せられていくので、王都に辿り着くころにはべらぼうな金額まで膨れ上がるという仕組みだ。その逆、つまり王国から帝国、王国から海楼への輸出の際もしかり。
「ちょいといいのを幾つか見繕ってもらえるか、店主」
兎角今言えることは、この店には海楼の「刀」も「蜘蛛印」も置いていない、ということだ。店の格は並、中堅の冒険者、騎士を中心に幅広い層へ向けて商売をやっている、というのは店主の言。
「予算は?」
「あれが幾らの獲物を買うかにもよる」
店内を物色するクロッカスを指差して、皮肉げに口角を歪めるアキレア。
「ま、以前買ったのよりは少しばかり値が張ってもいい」
「今腰にぶら下げてるそいつよりもか。……分かった、ちょっと待ってろ」
頷いて、店主は店の奥に入っていった。
店の中で一人手持ち無沙汰なのはフェイトだ。アキレアもクロッカスも適当に店内を物色していて時間を潰せるのだろうけど、剣槍持たぬフェイトからすれば無用の長物専門の範囲外。杖やら道衣やら宝石やらの魔術師御用達のものは魔具店での取り扱いなので店の中には一切ない。此処に来てやるべきことと言えばクロッカスが選んだ槍の代金の三分の一を提供することだけだ。……冷静に考えだすと途端に今こうして大人しく待っていることが間抜けに思えてきてならないが、仕方のないことだ。そちらに深く思考を取られてしまうと存在理由だとか自己同一性だとかが危機に陥ってしまいそうだとして視線を逸らした。
そんなフェイトの煩悶を知ってか知らずか、いや、十中八九知らないのだろうが、クロッカスは手隙にしているフェイトを捕まえて、数本の槍を目の前に広げた。
「お前はどれがいいと思うよ」
「……」
どれ、と言われましても。
門外漢に過ぎる自身に尋ねられても理屈立った返答を述べられるわけもなく。餅は餅屋という有難い先達の言葉も存在するというのに。
とりあえずフェイトは槍一本一本を矯めつ眇めつ眺めると、何一つ良し悪しが分からぬままなんとなく一度深く頷いて。
「ではこの中で一番安いので」
「そりゃそうなるわなー」
一部金額を負担する者として至極当然な答えを返した。
「ま、いいか。正直大々的に新調するつもりもないし、今まで使ってたのと似たようなモンに端からするつもりだった」
広げた槍から一本を選んで、クロッカスは何事もなかったかのように言う。ならば聞かなければいいのに、というフェイトの脳裏を置き去りにして。
「さっきまで店の中をうろうろしていたのは何だったんですか」
「特別気に入ったものがあれば話は別だったんだが、見る限りなくてな」
「そいつぁすまなかったな。品揃え悪くてよ」
言葉尻に怒気を滲ませながら、店の奥から数本の剣を抱えた店主が戻って来ていた。
「気にすんなよ親父。俺の懐が寒々しいのも影響してっから」
「けっ、そいつぁ有難いことだね。有難すぎて泣けてくらあこの上客めが。……で、そいつにすんのかい」
「おう、これをくれ。値段も手ごろだ、いいだろ?」
フェイトとアキレアに槍の値段を提示して、法外な価格のものではなく至極真っ当な……三等分するということに甘えず、成程クロッカスならばこれを選ぶのだろうな、と納得できるような価格帯のものだった。
フェイトは懐から財布を取り出して、自身が払うべき金額分をクロッカスに渡した。アキレアも同じようにして、クロッカスから店主へと槍代が渡された。
「あいよ毎度あり。で、こっちの方はどうする」
カウンターに並べた剣を叩いて、店主はアキレアに問う。「まあ見せてくれよ」と一本一本アキレアは検分して、一回ずつその場で素振りした。
「こいつを貰おうか」
随分あっさりと己の相棒を選択した。
「早いものでしたね」
武器屋を出て、武具を新調した二人の後姿を眺めながらフェイトがそう零した。
「あそこの店主は信頼が置ける。出してきた剣は大体俺が求めたものに相応しいものだったと思う。あとはもう個人的な好悪さ。そんなもの、大体一度握って振れば分かる」
「俺はお前ほど迷い無く選べないけどねぇ」
「お前は懐との相談時間が長いんだろうよ」
「否定はできない」
夕日に染まった街並みを、軽口叩き合いながらあてどなく歩いていく。時刻はどうにも中途半端な頃になってしまって、宙に浮いてしまった。
晩を取るには早すぎて、遠出をするには遅すぎる。さてでは適当に時間でも潰そうかと目的もなくアキレアとクロッカスは街を歩く。フェイトは寮に戻って晩を取るつもりなのだから、二人に少しばかり付き合って、頃合を見計らって良い時に帰路に着くつもりだった。
今日の夕焼けはやけに赤く、鮮烈に輝いていた。あまりに鮮やかなその色合いは美しく人の心を掻き立てるものだったが、見る人が見れば、内心にえもいわれぬ不安を呼び起こすものでもあった。まるで鮮血のようなその夕日に、フェイトは一瞬だけ目が眩んだ。
「……そう言えば」
クロッカスが、小さく呟いた。
「ここら辺だったか。殺しがあったのは」
何についての、とは言わずとも分かった。最も――時間軸として――近くに起きた、殺人事件についてだ。市井を騒がせるその事件は風化するには些か時が足りず、未だ世情にふわふわと漂っている。
無軌道に市街を歩いていて、特に意識するでもなくその場所に近づいてしまった。だからどうした、ということもないのだが。
「見てくか?」
何気ない提案を向けられて、フェイトは同意も否定も出来ずにただそこにいた。
視線は必然、その現場へ辿る道へと向けられた。通りを一本外れた裏路地の途中。フェルギナ・アマンドという一人の家付魔術師は人気の少ないそんな所で、路傍の石のように無惨にも打ち捨てられていた。
行こうが、行くまいが、フェイトにとってさしたる問題ではない。どっちにしたって気取るものではなく、同時に肩肘張って向かう場所でもない。だからそう、どっちを選んだところで構わないはずだ。
「そんな所に」
――喜んで行くわけがない。
――喜んで行くともさ。
どちらでも良かった。
だからそう、だからこの日のフェイトが選択した行動に理由付けをする必要があるのなら、それはこの一言で十二分に足りるはずだ。
「だってその日は夕日がやけに紅かったから」
その路地裏は、薄汚れた暗いところだった。
血臭は、残っていない。しかしその代わりに、派手に撒き散らされた血痕は石畳の道にまざまざと残されていた。
遺骸はとっくの昔に回収され、肉親縁者の下に送られたのだろう。がらんとした空間に、影と闇だけが取り残されいてる。
唯一残る血痕は、殺害現場において珍しいものではなかった。現場保全の必要性は、血痕にまで当てはまる。ここ数日の好天もあって、血は乾ききって染みとなり道にこびりついたのだろう。殺人があったという忌々しい記憶とその残滓を拭おうにも、ここまで来れば最早敷き詰められた煉瓦を外して、真新しいものと入れ替える必要がある。此処が主要通りと同じくらい人通りがあるか、あるいは周囲に住む人間がそのためだけに私財を投じる程度の金銭的余裕と景観に対しての意識があれば、の話だが。
国にしても周囲に住む庶民にしても、こんなうらぶれた路地にまで手を掛ける必要も意志もないのだから、残されたこの血痕はただ歳月を重ね風景の一部として馴染むのを待つだけだ。
それに、血痕が広がった箇所はやけに広い。まるでバケツの水をひっくり返したかのようだった。これだけの範囲の煉瓦を浚うのには相応の金が掛かるはずだ。
「……多い。……広い」
そう、血痕の跡はかなり広範囲に渡っていた。人一人の血を此処まで派手にぶちまけるとなると、遺体の損壊は酷いものだったのだろうか。流石にそんな情報まではフェイトに回ってこない。詳細な状況を悪友に尋ねれば返ってくるのかもしれないが、そうする義理も義務もない。
「成程」
「こいつは中々」
酷いな、とアキレアとクロッカスも眉を顰める。しかしそれ以上に思うところもなく、言葉は悪いが物見遊山に近い気分で足を運んだのだから、他人事のような感想を覚えただけだ。事実それは他人事であって、そしてそれはフェイトもまた同じこと。二人を諌めるつもりもないし、どうせ同じ穴の狢。ただ義務的に三人は手を合わせ、祈りを捧げる行為を自己満足で行って、元の道へ戻る。ただそれだけだ。
何もフェイトたちだけがそうしているわけではない。日か時刻かを少しばかり変えてやれば、暇と好奇心にかまけた何処かの誰かが同じようなことをして去っていく。この路地裏は、そういうものだ。フェルギナ・アマンドという人間は、大多数にとって、それだけのものだ。
黙祷に幾許かの時間を捧げて、フェイトは来た道を振り返る。
「眩しいな」
石造りの家々の狭間を縫った真紅の夕日が光り輝いて、フェイトは思わず手を翳し目を細めた。
光に慣れて、細めていた目をゆっくりと開いていくと、一人の小さな人間が路地裏の入り口に立っていた。そしてそれに寄り添うようにして、一匹の大型の犬も、そこにあった。いや、それは果たして犬と言っていいのだろうか。尋常のそれよりも巨大なそれは、鋭い面立ちで三人をねめつけている。それは犬よりも狼に似た威風を纏っていて、しかし犬狼のような粗暴さがまるでない、理知的な瞳の輝きを持っていた。
飼い主だろうか、逆光に顔が隠れていてその人間の顔は瞬間判断がつかない。ただ姿形は小さく、茶褐色の三角帽子、それと同じ色の道衣、そして目を剥くような大きさの紅玉があしらわれた杖を持っていた。
古い、魔術師然とした姿だった。道衣と杖は兎も角、今の時分三角帽子まで身に着ける魔術師はそういない。
逆光で顔に影が差していたその魔術師……の服装を纏った人間が、フェイトたちに向かって一歩踏み出した。陽光が外れ、影で隠れていたその顔が詳らかにされる。
皺だった顔、意志強く爛と光る瞳、鉤鼻。
老人、だった。
フェイトよりも頭一つ小さな矮躯である理由は、その老いだろうか。しかし腰は曲がることなく真っ直ぐとしている。故にただ長く過ごした年月によって、重力に押し戻されていった結果のように捉えられる。
老人、であった。……だが、その実年齢は見ただけでは分からない。六十半ばと言われても納得できる意志の強さと、百を超えていると言われても頷いてしまう経験の年輪が顔に刻まれていた。
血と、炎の色の日輪を背負って、その老人は立っていた。寄り添うようにして、その犬は座っていた。
――死の匂いがする。
フェイトの脳裏に過ぎったその言葉は、それまでの経験則か、はたまた目の前の老人の老いから感じ取ったものなのか分からない。あるいはただの思い過ごし、不躾な空想。
ただ……ただ、その老人がその身に抑え切れぬ業火を宿していたのに間違いはなかった。火は言うなれば破壊と再生を司る。その天秤の片方をフェイトは本能で敏感に悟ったのかもしれない。
「ひぇっひぇっひぇっ」
やがて老人は、軽やかに笑った。
「そこのお若いの、道を開けてもらっても、よいかな?」
三人は黙したまま、道を譲った。ありがとう、と朗らかに言う老体を見つめ続けて、何か、心臓が昂ぶるのを理解した。
佇まいは凪の中にある古木のように見えた。触れれば容易にへし折れてしまいそうな、そんな姿。しかし、その姿は擬態だ。……いや違う、正しくはそうあるが故に、本質はそうではないのだ。古木であるが故に持ちえる力強さを、その老人は纏っているのだ。
フェイトは、その老人の姿に決して揺らぐことのない巨木を幻視する。
三人を横切った老人は、先ほどまでフェイトたちが眺めていた血痕の前で立ち止まる。
「……ああ、ついでに一つ、尋ねてもよいかな?」
「……はい、なんでしょうか」
「此処数日、王都で雨は降ったかい?」
「いえ、雨も雪も降らず、穏やかなものでした」
「そうかい。有難う」
そう言って、老人はまた、軽やかに笑う。