第十三話
二つの依頼をこなした剣と賢が王都に辿り着いたのは宵もとぷりと暮れた頃だった。それぞれ肉体的な疲労こそ少なかったが、精神面での徒労は目に見えていた。それも当たり前だ。討ち果たしたとはいえ、あの土人形と戦えばそれは誰だってそうなることだろう。……いや、果たしてあれを討ち果たしたと言っていいものか。根本的な所に疑問符が付く決着ではあったが、ともあれ全員が全員五体満足で帰ってこられたことには違いなかった。彼らの心中には深く「土人形に関する依頼は地雷だ」と刻み込まれたことだろう。
一同はいの一番にギルドを訪れ、依頼書と登録カードを受付に差し出した。閉業時間ギリギリに入ってきた冒険者に、受付の担当者は少しばかり眉を顰め、口調にはどこか棘があったが何時ものことだと気にはしないことにした。
「ああ……はい。『剣と賢』さんね。で、どうでしたか」
「とりあえずはもう二度とやりたくないね。周囲数十メートル以内には術者の姿は見受けられなかった。お陰でこっちは武器が二本駄目になっちまったよ」
代表して、アキレアが喋る。証拠代わりに砕け散った剣と槍を受付に見せて、割に合わなかったと全身で表している。憤懣やるかたなしと言わんばかりに。
「で、土人形の術師は風と土の二重属性の可能性が高い。それでこれが……」
アキレアは後方に控えていたフェイトからそれを受け取って、カウンターの上に放り投げた。木と木がぶつかり合い、軽い音が場に響く。
「依り代に使われていただろう仮面だ」
受付は一言も発さないまま、まじまじと突き出された仮面を見やって。
「はぁ、そいつはご苦労様でしたねぇ」
まるで労わりの篭もっていない、軽薄なねぎらいの言葉を投げかけた。
――ま、こんなもんだな。信じるはずもない。
アキレアは、一つ溜め息を吐いて。手のひらを突き出して依頼達成料の催促をした。一々この対応に目くじらを立てる必要はない。事前情報が少なかった時点で今回の土人形調査の一番槍を担ったことになるのだろうし、自分だってこの内容を他人から聞かされたら同じような反応を返すだろう。
土人形の術者が今回のことで姿を隠さずに、今後も度々その姿を晒し続けるのならば、後日、土人形の調査については再び依頼が掲示されるだろう。全く同じ依頼を全く別のチームが引き受ける。全く別の人間が全く同じ感想意見を持ってくる。そうして幾度かの試行を経て、情報の正確性、強度を確固たるものにしていくのだ。今日の剣と賢の立ち位置はその先鋒。ギルド側は平均値が分からないのだから提示した数字が正しいかどうかの判断がつかない。
受付にしたって金を払うに抵抗があるわけではない。依頼自体はどうやら違いなく達成したようだし、抽斗から硬貨を取り出して、突き出された手の上に乗せた。
アキレアは支払いにミスがないか右手に置かれた硬貨の枚数とその重みを確かめながら、最早用はないとギルド受付に背を向けた。
「ザンツは……って聞くまでもないか」
振り返ったその先には、ザンツ・ストゥルマン以外の剣と賢のメンバーが待っていた。
「何時ものようにそこで一杯引っ掛けていますよ」
フェイトが指差したのはギルドに併設された酒場の方向で。ザンツは案の定四人掛けのテーブルに座ってエールを勢いよく喉を鳴らしながら嚥下していた。ザンツは依頼達成時、毎度毎回受付に顔を出さない。受付に座る人間の対応が十中八九このように悪し様だからである。ザンツの性質上、対応が気に食わなければまず間違いなく食って掛かる。それを避ける為に自ら足を運ばないのを選択するのは賢い判断と呼ぶか、彼にしては配慮に満ちすぎているといぶかしむかは意見が分かれるところだった。
ともあれ、給金を五人で等分する為に何処かで腰を落ち着ける必要があったのも事実。ザンツが席を確保しておいたのは渡りに舟だとしてアキレア達はテーブルに着席した。一つ席が足りなかったためフェイトは立っていたが。
「さ、とりあえずは分配だな」
きっかり五等分にして、アキレアは各々に硬貨を差配する。そこに労役の軽重が介在する余地はなく、前衛後衛関わらず綺麗に等分、それが剣と賢におけるルールの一つだった。無論己の獲物を喪ったアキレアとクロッカスの二人に配慮されることもなく、それに待ったを掛ける声が上がることもなかった。……まあ今回は後日クロッカスへ武器の代金を三等分にするということによって幾許かの融通はなされるが。
「で、飯はどうする」
早めの昼を取ったきり胃に物を納めていないクロッカスが腹をさすりながら言う。飢えと美食に対する意識を天秤に釣りあわせれば、可及的速やかに胃へ物を放り込みたい欲求が勝る程度には空腹に襲われているため、大して美味くはないと評判のこの酒場で食ってもいいのだが、店主を見れば迷惑そうな目線をこちらに寄越している。酒の一杯を提供する程度ならば文句はないが、まさかこの時間に飯を求めてくれるなよ、とでも言いたげな表情だ。実際に店仕舞いも間近。外に出てもこの時間まで開いている店を探すのは多少手間が掛かるだろう。
「適当なとこ見つけて済ますしかないだろう。おら、一人でのんびり酒飲んでるんじゃないよ」
「ってえな」
アキレアに後頭部をぱしりと軽く叩かれて、ザンツはじろりと眼光鋭く睨んだが、それ以上不満を漏らす様子はなく、グラスに残った僅かなエールを一口に流し込み、席を立った。
ぞろぞろとギルドを後にする一団の後方にフェイトはいて、「あの」、と他の四人に話しかけた。
「私は先に帰ることにします。時間も時間なんで、早いところ寮に帰らないと貰う小言が増えてしまう」
「飯はどうするんだ」
「学食も開いていないでしょうし、今日の晩は抜くことになりますね」
「駄目だぜそいつぁ、食わなきゃでかくなれねえぞ」
「ほっとけそのガキは。食ったところで育ちゃしねえよ」
「お前は頭ん中がもっと育てば良かったのになぁ。あんだけガバガバ飲み食いしてんのに脳みそは違う意味でガバガバってのは悲しいよなぁ」
「あぁん?」
ギルドを出てすぐの往来で、いつもの事ながら人目憚らず互いに角を突き合わせ始めたクロッカスとザンツは放置して、フェイトは改めてアキレアに語りかけた。
「正直今日はくたびれました。食い気より眠気が勝っているので、お先に失礼しますね」
「分かった。それじゃあな……ってちょっと待てフェイト。忘れてた。あの馬鹿の槍を買いに行くの、何時にするかだけ決めよう」
宵闇に消えていこうとしたその背中に、アキレアはスケジュールの決定を求めて足を止めさせた。振り返ったフェイトは逡巡もなく答える。
「何時でも構いませんよ。クロッカスさんとアキレアさんの都合さえつけば」
「そうか? なら、そうだな……あまり遠すぎてもあれだしな……三日後、くらいでいいか。夕刻前に、ギルドで集まろう」
「分かりました……けどクロッカスさんは」
それでいいんですか? と問うはずの答えは、執拗に腹部を交互に一発ずつ殴りあう二人の姿を見て溶けて消えてしまった。同じく後ろを振り返り、クロッカスとザンツを見たアキレアは溜め息を吐いて。ついでに言うとハスティアはそんな二人を止める気配は一切なく、地面にへたりと座り込んで、夜空を仰ぎ見ていた。
「構わないだろ。あの馬鹿には後で俺が言っておくから気にするな。有無は言わせないから安心しろ。どうせあいつにも大した予定はない」
「……了解しました」
それではお先に、という言葉と共にひらりと一度手を振って、フェイトは彼らに背中を向ける。後ろからはクロッカスとザンツを仲裁するアキレアの声が響いてきた。
寮の前に辿り着いて、閉ざされた門を前にしてフェイトはふむ、と腕を組む。少しばかり遅かったか、と。
鍵は閉まっている。先ほど門に手をやって確認済みだ。引いても押してもうんともすんとも言わなかった。さて、どうすべきか、と優等生ぶって考えてみようとするものの、既にやることなど決まっている。門を乗り越えるのみだ。
荷物を先に門の向こうへ放り投げて、身軽になったフェイトは門の上部に手を掛けて、掛け声と共に大地を蹴り上げる。不恰好ではあるが特に気にすることもなく、よじ登るようにして門を跨げば、今度は一息に跳躍して無事潜入成功。有り体に言ってしまえば門限破りによる侵入行動なのだが、やっている最中、当人に秘匿する意志が見られず、随分とドタバタと物音を立てていた。
どうせ寮の鍵も掛かっていることだろうが、自室に回って小石を拾い、窓に当てて合図を送れば中にいるルームメイト、ディギトス・ガイラルディアが窓を開けてくれるだろうと楽観視している。……事実、その楽観に間違いはないのだが、今回はわざわざ自室を目指して寮の横手に回る必要はなくなった。
「随分遅い帰りだったね、フェイトくん」
横合いから掛けられた声に、フェイトはびくりと肩を跳ねさせた。が、ただそれだけ。声を聞き分ければ誰何も判別できるし、その声の主が慮外者だというわけでもない。第一、フェイトは「不良学生」として通っているのだ。今更、教職からお叱りの言葉の一つや二つ頂いたところで、それで反省の念が心に根ざすというわけではない。無論、本質としては真人間であるが故にある程度自分自身を省みる部分はあるが。
「依頼が予想以上に手間取ってしまいまして。……キネシス先生こそ、何故此処に?」
暗闇に紛れてフェイトの不意をついて話掛けたのは、その担任であるところのサーチス・キネシス教諭であった。
「あんな物音を立てていれば、そりゃあ気付くさ。君自身は別に見つかろうが見つかるまいがどちらでも良かったんだろうけど」
ベラティフィラ中等魔術学校の教員は、その仕事の一部に寮の宿直を任される。数十人からなる教職員の人数であるため、一人頭で割れば月に数度の業務だが、本日それを担当していたのが学年主任とこのサーチスである。朝の外出する生徒たちの荷物検査から始まって、こうして寮が閉まる時間を越えてから忍び込もうとする不審者、不良生徒への対応。主にやるべきことはそんなものだが。
「見つかったのが主任じゃなくて僕でよかったね。主任に比べて僕はそこまで口うるさくはないから」
まあある程度は成績表に反映するけどね。肩を竦めながらサーチスは笑った。
「少なくとも説教はしないからマシってものだろう? それに君の場合、言っても右から左……というよりは十分規則を理解した上で『まあこのくらいだったら構わないか』と破っているようだけれど」
寧ろそちらの方が性質が悪そうにも思えたが、実際その通りなのだから仕方がない。そしてそれを分かっているのなら口酸っぱく説教したところで暖簾に腕押しというものだろう。あるいは教育者としての熱意が足りない、と誹られる可能性が大きいが、少しでも早くベッドに入りたいフェイトにとっては熱意溢れる教育者よりは程々に肩の力が抜けている眼前の存在の方が有難かった。
「夜も遅いし、注意については明日にでも回そう。……いや、僕が明日フェイトくんを本当に叱るのかどうかは分からないけれど」
言いながら寮の扉を開けて、サーチスはフェイトに中へ入るよう促した。
一礼して後に続いたフェイトはサーチスから自室の鍵を受け取って、此処に来てどっと疲れが溢れ出してきたのを実感しつつ欠伸を噛み殺す。幾つかの燭台により仄かに照らされた廊下を歩き階段を上り、自室に辿り着いて部屋の鍵を開けて。中に入れば枕元の蝋燭を点けたままベッドに横になっているルームメイトの姿があった。
「おう、今日は珍しく遅かったな」
「起こしましたか?」
「寝てなかっただけだ。気にすんな」
ひらひらと手を振って、気に病むなと言うディギトスは特に眠気に侵されているわけでもなく、ただ宵闇が世界を支配したが故に床についただけという風情で。ごそごそと道衣を脱ぎはじめたフェイトを横目に眺めていた。
「随分お疲れのご様子だなおい」
「ええ、今日は本当に疲れました。今はただ泥のように眠りたい」
「そいつは失敬。話しかけんのはよしとくわ」
フェイトは部屋着姿になって、ぎしりとベッドに音を立てて横になる。
瞼を閉じて、二の腕をその上に置いて、外界からの光を遮断する。視界の端でちらつく蝋燭をディギトスはまだ消す素振りを見せていなかったがそれに構うことはしなかった。
精神は眠りを欲している。ただ、未だ残る耳元をくすぐるあの声が脳内に反響して睡魔を追いやっていた。
――また会いましょう。
土人形が残した声は女性のものだった。……風術を用いて声を生み出した可能性も捨てることができないため、それで術者が女であるとは言い切れないが、兎角その声は鈴を転がしたような美麗なものであったのに間違いはない。
詮無き事だが、面倒事に好かれる星の下に生まれてきたのか。生まれついての自身の星回りに内心で嘆息して、フェイトは目を閉じたままあの仮面について思いを馳せる。あの仮面の表情は、確かに何処かで見た覚えがある。それは何処だったかが問題なのだが。
それに、教会の天使、女神像に似た造形美を誇る土人形自体。一度フェイトは教会を訪れて実物を見たことがあるが、確かにそれに似ていた。いや、寧ろ希代の彫刻家が刻んだと説明されていたそれよりも繊細で、飛びぬけて美しかったようにさえ思える。術者自身は、よほど美に対しての執着があるのだろうか。だとしたらそれは妄執染みてさえ感じられるほどの美的感覚の持ち主だ。
「……仮面」
「うん? 何か言ったか」
呟いた声はどうやらディギトスの耳に届いたようで、疑問符を浮かべた彼が問い掛けてくる。
「仮面を見た覚えはありませんか。何処かで見たような気がするんです。そうだな……此処の図書室、だとかで」
「……仮面?」
「仮面」
ディギトスが返した言葉は単純な聞き返しというには随分と訝しげな色を纏っていて。不審に思ったフェイトは目を開き、瞼の上に置いていた二の腕を避けて彼の方へ顔を向けた。
「……誰から聞いた? ……いや、俺以外からだと十中八九クレア・ティスエルからか」
……要領を、得なかった。しかし、どうやらフェイト・カーミラ、ディギトス・ガイラルディア。この二人の間で互いが語る仮面についての大きな齟齬が存在し、釦を掛け違えていることだけは、フェイトは理解した。そして同時に、ディギトスが日頃見せない酷く真面目な表情を目にして、「ああ、これは要らぬ藪を突いたな」と自身の迂闊さを呪った。それはどうにも避け難い地雷であったのだから、と己を慰めて。
調べなくてもいいことだ。触れる必要のないものだ。
フェイト自身今回の案件については「そういうもの」だと重々承知していたし、自分がこれ以上何かしらの重荷になりそうなものを背負うつもりは毛頭なかった。
しかし、先方はどうやらそうでもないらしい。何時だってトラブルというものはこちらの都合を無視してやってくるからこそ「トラブル」と呼ばれるのだ。
「今ご都合はよろしいでしょうか?」
そうやって一声掛けて、こちらがノーと跳ねつければすごすごと帰ってくれる。そういうものは普通トラブルとは言わない。
ならば戸をノックされても無視してやり過ごせばいいのだろうが、相手は無理矢理玄関を開けて土足で踏み入ってくる。そういうものだ。ならば最低限の対策は必要だろう。それが現状の行動に反映するのだが、その対策自体が災いを招くことに繋がっている場合もあるので、手の施しようがない。……まあそれ以上の確率で、何も起きない可能性が高いのだから一々何をするにも臆病になる理由もない。
あるいはその全てが単なる理論武装に過ぎなかったのかもしれないが、結論としてフェイトは翌日学校の図書室を訪れた。
学外に運び出し、馬車に揺れている間に読了した「リビングデッドの恐ろしさ十の法則」はまるで実利に繋がる気配はなく。ともあれ読み終えたことには変わりないので司書へと返却し新たな本を探すため読書家垂涎の場へ足を踏み入れた。
改めてベラティフィラ中等魔術学校の図書室について考えれば、その蔵書量には目を見張るものがある。「王国一の中等魔術学校」に相応しく、これを上回る蔵書の数はベラティフィラ高等魔術学校、もしくは魔術省管轄の「図書塔」くらいなものだろう。将来の王国を背負って立つ、エリートの卵たちに用意する最高の環境が此処にはある。
極論を述べてしまうとこの図書室に無い書籍は王国の流通を辿ったところで見つかりはしない。そう言っても過言ではない書籍を此処はその胃に収めている。この場にない、そんな希少本を蒐集するのはよほどの猟書家か変質者かの二択だろう。そしてそんな連中がわざわざ買い求める類の本は往々にして真っ当な学生が目にするべきものではない。
そしてフェイトは此処にある数多くの蔵書、その一部をくまなく読み進めた。永らくこの学校に勤めてきた教師が言うには歴々の在学生の中でもその読書量は一、二を争うだろうと言われている。しかし、その多くがフェイトにとっては役に立たぬもので、波に浚われる砂の楼閣のように、さながら賽の河原で小石を積み上げる童のごとくただただ無益な時へと変容していくのだ。
……連ねた言葉は、あるいは言い訳なのかもしれない。フェイト・カーミラという人間の本心は、目を逸らし続けている心の奥底では、答えが出ない問題の解答を探し続けるのに疲れきっている。……いや、それは正しくはない。正しくは「既に答えが出ている」のに、それを何とか覆せないかと足掻き続けているのだ。そして秒針が一秒一秒進むごとに、彼の双肩には途方もない重さの無常が圧し掛かる。
だからこれは、一種の逃避行動だったのかもしれない。
フェイトが本の背表紙をなぞる。それは見る人が見れば、妙に艶を帯びた指先だった。
魔術書、魔術理論書、樹教学、帝王学、歴史書、文化体系、軍学書エトセトラエトセトラ。分野ごとに整頓された本の一覧を、フェイトの視線が滑るように流れていく。違う、違う、これじゃない、これでもない。図書室の隅から隅、端から端まで、隙間なく塗り潰すように歩を進め、やがて一冊の本を前にしてようやく彼の歩みが止まった。
本と棚の隙間に人差し指を差し込んで、その第一関節を立てて僅かに本を斜めにしてから、その本の角を人差し指と中指で摘んで抜き出す。
その本の表題にはこう書いてあった。
「仮面舞踏祭について」
迷宮国家連合に属する一国、「商業国家シェフレラ」。その国では年に一度仮面舞踏祭が開かれる。世界四大奇祭の一つとして数えられ、道行く住人、観光客、冒険者、身分の貴賎、男女、老若問わず遍く人々がシェフレラの伝統工芸である仮面を被り、歌い、喰らい、飲み、そして踊る。
仮面は種々様々なデザインがあり、脈々と伝わる古典的なものから、新進気鋭の彫り師が新たに意匠を凝らすものもある。掘る人間の数だけ仮面の数があり、この世に同じものは何一つ存在しない、というのが触れ込みではある。……であるのだが、デザインの下敷きとなるものはやはり存在する。外してはいけない決まりというものは存在する。特に過去から伝わる代表的な古典作はそれだ。そういったデザインの仮面は世に広く知られており、新しい意匠よりも伝統的な仮面を求める顧客も多くいるため彫り師が一つの型を量産している。総じて手彫りであるため、確かに「全く同一のもの」は存在しないだろうけれど。
兎角、広く知られる意匠のものはこうして本にもその形が描かれている。
――ああ、「どこか」で見たと記憶野をくすぐられたのは「ここ」だった。
フェイトは表紙に描かれている仮面の絵を指先でなぞり、象牙で作られたような白く滑らかな依り代の仮面を脳裏に思い浮かべた。
「……なにかお探しですか?」
肩を指先でつんと突つかれ、耳元で小さく呟かれたその言葉にフェイトは肩をぴくりと震わせて、驚いた様子で後ろを振り返った。
「やぁ、珍しいものを読んでいるね、フェイトくん。……こうして出会ってしまったわけだけど、昨日しなかったお説教を今からしてもいいかい? ……冗談。こんな場所だしそんな柄じゃないから安心してくれたまえよ」
「……教師が図書室でそんなに喋っていいんですか?」
「なに、声は抑えているだろう? 五月蝿くならない程度なら構わない……んじゃないかな」
「曖昧ですね、キネシス先生」
フェイトの肩を叩いたのはサーチスその人で、どうにもこの人は自分の不意を突くのが好きなんじゃなかろうかと考えてしまう程度には唐突な出現に、フェイトは要らぬ不信感を抱いた。
「二日続けて唐突に来られると、心臓に悪いですよ」
近くにあった椅子に腰掛けて、フェイトは苦笑を浮かべた。サーチスもまた、同じように苦笑を浮かべていた。
「それは失礼。以後気をつけることにしよう。……ん? どうして僕のほうが責められているんだろうね?」
「さて、どうしてでしょうか」
机を挟んで自身の向かい側に座るサーチスの姿を見て、これから面談でも始まりそうな配置だな、とフェイトはぼんやりと思い浮かべる。
「それにしても、本当に珍しいものを読んでいるね。君にしては」
サーチスの視線がフェイトの持つ本の表紙に向けられる。そう言われて、フェイト自身は反意を示したいのか「はて」と首を傾げて本を軽く持ち上げた。
「そうでしょうか。別にこれは希少本にも見えませんけど」
「本が、ではなくて、君が読むものとしては、だよ。言ってはなんだけれど、君が日頃持ち歩く本の中にそういった……言葉は悪いかもしれないが、非実用的なものは少ないんじゃないかな?」
「そうでもありませんよ、毒にも薬にもならなそうな本だってよく読みます。そのことは先生もご存知でしょう?」
「……そうだね、前言を撤回しようか」
「ただそれでも、僕が知る限り君が読む類の本とは一線を画している、そう見るに間違いは無いと思うんだが、どうかな?」
フェイトはゆっくりと、目を細めた。表情だけを汲み取れば、それは穏やかな微笑みだ。だがその視線が纏う鋭さに「楽」の感情は込められていない。そこにあるのは、拒絶を表す隔絶の色だ。しかし、それが浮かび上がったのも一瞬のこと。サーチスが瞬きを一度すれば、フェイトが描いた表情に相応しい温かみを持った視線に挿げ替えられていた。
「違いますよ。ただ、偶々です。……ディギトスから聞かなくていいことを無理矢理聞かされてしまいまして」
嘆息と共に、フェイトはまるで出来の悪い弟への愚痴を零すかのような口調で言った。
「……あれだろう? 市井を……あぁ、それと、まぁ……学内も、騒がしている殺人鬼の、アレ」
途中随分と言いにくそうにしながらも、サーチスは声のトーンを更に一つ二つ低くして、机の上に身を乗り出して囁いた。周囲に聞かれぬよう出来るだけの配慮をして。
「殺人現場には必ず仮面が残されている。……これについては模倣犯が出ないよう上層で止められているとディギトスは言っていましたが、先生もご存知でしたか」
「立場上、どうしてもね。良いことよりも嫌なことの方が耳に入ってくるものだよ全く」
特に最近は何処かの公爵家のお嬢様が好き勝手に暴れているため、その方面で耳にする機会もあったのだろうとフェイトは一人得心する。
「そう言えば仮面について何処かで見た覚えがあるな、と思い立ちまして。何処で見たのか、どうにもすっきりせずにいたので心当たりのある場所を当たってみたら……」
「当たったわけだ」
「有難いことに一発目で、でしたね。さて、此処から殺人犯に繋がる手がかりは、と」
歌うような気軽さでフェイトは本のページをペラペラとめくり、行き着いた先は本の最後、裏表紙。貼り付けられた貸出カードを抜き出して、サーチスに向ける。
「貸出履歴、ゼロ。……こんな所から足がつくくらい間の抜けた犯人だったら何年間も逃げおおせたりはしませんね」
「第一その本から犯人への手がかりが出てきてしまったら犯人はこの学内にいるということになってしまうね。……それは一教師として否定しておきたいところだよ」
「全くもってその通りです。学友の中に殺人鬼がいると考えるのはあまりにぞっとしない」
「……貸出がゼロということは学内に容疑者はいないということです。さて、喉に引っ掛かっていた棘は取れました。私は新しく借りる本を探してきます」
椅子から立ち上がったフェイトは本を元あった場所へ戻し、新たに借りる一冊を探しに図書室の中を再び彷徨いはじめた。
その背中を見送って、サーチスはしばしの間フェイトが元に戻した本の背表紙をじっと眺めていた。「仮面舞踏祭について」。
人差し指が、机を叩く。それは、フェイトの行動を訝しく思い、そのことについて思考を巡らせるためのスイッチだ。
立ち上がり、「仮面舞踏祭について」を抜き出した。裏表紙の中に貼り付けられた無記名の貸出カードを確認して、サーチスは思案する。これは「図書室外への持ち出し」の有無のみを示しているものだ。ならば当然、「図書室内で読むに限っては記名する必要性がない」ということになる。それに、司書の目を盗むことさえ出来れば記名の必要性もなくなる。短期間ならば無断持ち出しも十分に可能なはずだ。
つまり、「貸出がないのだから学内の人間は誰一人としてこれを読んでいない」という理論は成り立つはずがない。事実、フェイトは今さっきこの本を読んでいたのだ。中身を知っている。仮面の造形を知っている。それは殺人鬼であることを為す要因の一部となる。
フェイトは聡い子だと、サーチスは知っている。そのことは分かっているはずだ。その上でフェイトは「容疑者はゼロ」だと言う。何故そう言ったのか? 単に話を打ち切りたかったから? それとも、深く話を掘り下げたくなかったから?
何かしら不自然さが鼻につく。サーチスは本棚を眺めるフェイトの背中をじっと見据え、その原因を考えはじめた。