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確約された不幸を手折って  作者: 山浪 遼
少年期。愛される者愛されぬ者
28/53

第八話

「よろしかったのですか」

 クレアが後にしたダイニングに、一拍遅れて姿を現した男が、開口一番ディモルにそんなことを言う。

「何がだい? ファベル」

 ディモルがファベルと呼んだ男は赤褐色のローブを身に纏い、くすんだ銀髪、鳶色の瞳を持っていた。双眸は鋭く、眼下には深い隈が出来ている。見た所の齢は三十前半から半ばほど。別段若く見える、というわけでもなく、極端に老いて見える、というわけでもない。外見年齢と実年齢に過不足なく天秤が釣り合った男だ。

「お嬢様のことです。行動に及ぶ理由こそ旦那様が潰しはしましたが、あのお人は中々に責任感がお強い。既に学友たちを煽動した後です。意志は無くとも動き出した四肢は止まりますまい。そうなれば、お嬢様も結末を見届けるまでは船から降りることはないでしょう」

「承知している。その上で行動自体に横槍を入れるほどではないと考えている。……ファベル。今一度今回の連続殺人、それについて浚ってみようか」

 席を外しましょうか? 気を利かせたアッツェラがディモルにそう言えば、ディモルは「すまない。そうしてくれると助かる」と返して。アッツェラは夫の頬に親愛を示す口づけを一度落としてから、寝室に向かった。

 扉を開き、部屋を後にするアッツェラの姿が見えなくなるのを見届けてから、ファベルは改めて自身の主人と向かい合い、先ほどと変わらぬ口調で話し始める。

「それでは、現時点で分かっていることについてお答えいたします。ティスエル家付魔術師、ファベル・ヌディクル。世界樹に誓いこれより語ることは全て真実」

「いいだろう。話をしてくれ」

 ティスエル家付魔術師ファベル・ヌディクル。主とする魔術は土。現在主であるディモル・ティスエルから与えられている仕事は、魔術師連続殺人事件捜査の統括、である。


「まずこの事件の発端は二年前。一人の魔術師が殺されたことから始まります。それからつい先日の六人目まで全て手口が同じ。身体の一部におよそ尋常の獲物を持ってしては不可能なほどの大きな風穴を開けられ、そして現場には必ず仮面(タラフ)が残されています」

「犯人は相当に用意周到な性格」

「だと思われます。六件もの殺人を犯していながら決定的な証拠を残していない。現場も時刻も特に人通りの少ない場所時間を選んで犯行に及んでいます。住人数人から怪しげな物音や人の姿を見た、という報告こそ上がっていますが、正体を掴むには余りにおぼろげで、少なすぎる」

「このことから分かるように一連の殺人は計画的なもの。標的を見つけ、その行動パターン人間関係を洗い出し、最もやりやすい場所時間を待ち続け、実行。二年で六人という数は一旦の騒動を落ち着かせる潜伏期間であると同時に次の犯行の下準備を整えているからだと考えられます」

「故に旦那様はお嬢様が取った今回の行動をさほど重要視していない。殺人を犯した直後だ。犯人はほとぼりがひとまず冷めるのをじっと待っている頃合。巷がかくも騒がしくあっては、慎重な性格である犯人はまず間違いなく動きはしない」

「さて、どうだろう」

 己の眼を真っ直ぐ見据えるファベルに対し、ディモルは薄く笑う。

「……失礼。関係のないことでした。続けます。今まで殺されたのは魔術省に勤めていた魔術師が二人、家付が三人、魔道具の販売を中心としていた商家に勤めていた魔術師が一人。どれもこれもあまり腕前は……褒められたものではない。実力と立場が不釣り合い。雇用が結ばれる途中、純粋な魔術師としての力量以外の『何か』が、動いていたのは間違いない。そう言われていた人物です」

 ディモルは少しばかり顔を顰めて「耳が痛いな」と嘆息する。それも仕方がないことだろう。家付や商家は兎も角、力量足らずで魔術省に入省したということについては、魔術省大臣がリジエラである限り有り得ないはず。つまりそこにはリジエラ以外の何者かの介入が存在したことの何よりの証左。つまりそれを為すのは。リジエラの牙城たる魔術省を気に入らず、そこに埋伏の毒を仕込もうと動くのは。

「『政治』をした結果、いらぬ被害を出してしまったということ。我が陣営の者ではなかったのが不幸中の幸いだが、まったく、自身の行いを鑑みるには手痛い忠言だな」

「省に勤める友人から聞いた話ですが、職員が殺された後に行われたリジエラの訓辞は相当に厳しかったようです。曰く」

 ――殺されたことよりも返り討てなかったことこそ何よりの失態。

「失言としてあげつられてもおかしくはない言葉でしたが、あの時、それに噛み付けるほど愚かで意気高揚を保っていた敵対勢力は存在していませんでした」

「上手い揶揄だ。言外に『返り討つ実力のない者がいた』と言っているのか。それにしてもいいようにしてやられた形だね。彼女からして見れば自身の領土に勧告もなしで踏み込まれたようなものなのだから、その程度で溜飲を下げてくれたことを感謝すべきだろう」

「……続けましょう。これらのことから考えるに犯人は社会全体に対してメッセージを投げかけています。わざわざ殺害方法を同じくし、現場に仮面を残していくということから自己顕示欲も強いのかもしれません。『これは俺――あるいは私――が為したことだ』と。投げかけているメッセージは当然……」

「力に見合った正当な評価を。そこに不純物が混じるもの、混ぜ入れたものには報いを。そんな所か」

「ニュアンスの違いはあれど大多数の人間が読み解くのはそういったことになります。それから考えるに犯行の動機は、金や後ろ盾によって自身が座るべき場所を奪われた者の逆恨み」

 ファベルから告げられた結論にディモルは頷く。

「妥当なところだな。今までもその線を辿って犯人を捜していたのだから、本線はそれを中心に動いてくれ」

 しかし、ファベルはそれに対して同意することはなく、未だ剣呑な視線を佩びたままディモルをじっと見ている。

「……それ以外に何かある、と?」

「あまり声を大きくして話せることではありませんが、可能性の一つとして」

「……いいだろう。言ってみなさい」

「魔術師の力量に対して正当な評価を。それを謳うのは何も蹴落とされた連中だけではありません。……あまりに大きく、あまりに強大な為、皆が皆その存在を至極当然のように受け止めていますが」

 ファベルが言及しようとするものについて、ディモルは検討がつかずながらに、不穏な空気を嗅ぎ取った。

「……さて、そのような者が存在したか」

「存在します。いえ、あります。と言った方が正しいでしょうか。……『唯才』を標榜する、リジエラを頂点とする『魔術省』。そのものです」

 がたん、と椅子が倒れる音が場に響く。眼を見開いて椅子を倒しながら立ち上がったディモルはファベルの肩を両手で掴み、しかしすぐさまその両手を額に当てて思案する。

「まさか……。……いや、有り得ないことではない。有り得ないことではないがしかし……」

 ディモルに衝撃をもたらした一方、ファベルは平静を保ったまま二の句を告げる。

「あくまで可能性の一つです。犯人を見つけ出す為にはありとあらゆる可能性を模索しなければなりません。それに、リジエラ自身がそれに関与していると決まったわけではありません。あの実力、あの美貌。魔術省の中には、いえ、その外にさえ彼女のシンパも少なからず存在します。そういった連中の中で先鋭的な者がリジエラの意を勝手に解して独断で動いているのかもしれない」

「そうだな。だが……そちらの可能性を考慮するとなると人員は足りるのか?」

「今の所動員している人数では逆恨みの線にのみ注力して十全である、と言えるまでです。事細かな可能性を精査に調べるのならば、心許ないと言わざるをえないでしょう」


 ティスエルが今回の事件について動き始めるという噂。それは既に一部ではあるが耳ざとい市井の人々の知るところになっている。しかし、それは「動き始める」ということであって、それが何時、どのような規模で、どれくらいの規模でもって行われるのか知るものはいない。

 答えてしまおう。それは既に行われている。大々的に私兵を動かすでもなく、通りに看板を立て公に情報を求めるでもなく、あくまで隠密に、信のおける者によって密かに、そして確かに始められている。

 解決の目処も立たぬまま世間に対して行動を表明し、闇雲に動いたところでメリットはない。それで速やかに犯人を捕らえることが出来れば問題はないが、二年という長きに渡って尻尾を掴ませてはいない相手だ。長引かせれば長引かせるほどティスエル家としての面子が潰れていくし、結局見つからなかった、分からなかったで引き上げてしまえばそれは犯人に対してティスエル家が敗北したということになってしまう。

 煙のような噂を燻らせたのは、ティスエルの怒りを表している。子飼いの貴族、その家付が殺されたとあって何一つ反応を示さないのは許されない。そして動くからには川の流れのように滞りなく物事を納めなくてはならない。故に、ファベルはディモルからの命を受け暗躍している。獲物(はんにん)を見つけ、証拠を集め、逃げ道を塞いで、最早袋の鼠、逃げる場所も隠れる場所も残されていない。そんな状況にまで殺人鬼を追い詰めてから、大々的に兵を動かす。

 言っていまえば立ち昇る噂はティスエルからの宣戦布告だ。同時に、開戦に至るまでのキャスティングボードは全てティスエルが握っている。

「足りないか」

「ええ、やはり鼻が効く魔術師を一人融通していただきたく」

「鼻? 君のものでは駄目なのか?」

 ディモルがファベルを指差して意外そうに尋ねた。それも当然であろう。ディモルが家付としてファベル・ヌディクルという魔術師を招いた際、そこには一切の外的要因が存在していなかった。ファベルから金を積まれることもなく、他の貴族からの肝いりということでもなく、魔術師としての力量のみ純粋に判断して雇い入れたのだから。公爵家が使役するに相応しい技の持ち主。それは在野に存在する魔術師としてトップクラスであるということの何よりの証明。

 そんな彼が新たな魔術師を所望する。それはディモルにとってあまりに意外な出来事だった。

「確かに私は魔術に対して自信を持っていますが、『鼻』に関しては人並み程度。これに関しては私よりも上の人間がいると理解しています。それと、誠に勝手ながら既に独断で接触しています」

 ファベルが言うところの「人並み」という言葉の意味するところは、「一流の魔術師の中であって人並み程度」ということであって、その中身を知れば余りに尊大で傲岸だと取られてもおかしくはない。しかし、彼にはそれを言うだけの確固たる自信と能力によって裏打ちされている。ファベルの実力を知るものがその言葉を聞いても、「成程、それはそうなのだろう」と納得させられるだけの力が、彼には備わっていた。

 同時に、分野ごとによっては己を上回る力の持ち主も存在していることをファベルは認めている。自身はゼネラリストであるが故に、一点特化のスペシャリスト、あるいは歪なあり方をする奇才には及ばない面があるというこを素直に飲み込み消化している。

「雇い入れられるかい?」

「……提示してきた要求があまりにも」

「なんだい?」

「『地図』を、寄越せと。国の」

 ディモルは眼を見開いて、そして深く、これ以上ないくらい愉快そうに深く笑った。

「それはまた、随分と足元を見てきた。たかが殺人犯一人『ごとき』捜すのに、国の地図を寄越せとは」

 国土省が管理、作成しているベラティフィラの地図。それはこの時代において金銀よりも高く値がつくものだった。正確な地理地形が万一他国、あるいは諸侯に漏れてしまえば、兵站、軍略において守勢の立場に立ったとして、持ちえるアドバンテージが容易く逆転されても疑問はない。無論効果はそれ以外にも多岐に渡るが。

「……気になるな、その人物。金は積んだのかい? 積んだその上で跳ね除けて求めてきたのかい?」

「財は既に蓄えているのでしょう。それくらいの実績の持ち主です。それに、あの人は最早俗物的な物質に囚われる次元にはないでしょう。齢は確か、今年で九十。何時死んでも不思議ではありません。今更金を積んだところで、残りの人生で使い切れるとはとても」

「在野で九十。君が素直に力量を認める人物。ああなるほど、合点がいった。化生の類と呼ばれるあの人か」

「冒険者キストゥス・アルビドゥス。ハーフエルフたるリジエラもその図抜けた能力で『化物』と称されますが、かの御仁もまた、底知れない。老いてなお盛ん。老いることを知らず。弛まぬ研鑽を積み続けたその魔道は、おっしゃったとおり『化生の類』、そう呼ばれても、いや、そう呼ばれることこそが納得いくというもの」

「かの人ならば確かに金はあるだろう。しかし、その代案として地図を求めるとはどのような考えを持っているのだろう……ファベル」

「はっ」

「譲歩させてみせなさい。真意を知りたい。内容次第によっては、ある程度提示された条件を呑んでもいい」

「かしこまりました」

 

 


 リジエラは燭台の灯火に紙切れを突き入れ、それがゆっくりと炎に舐められ黒炭に変わっていく様を眺めていた。

 部下からの、文であった。……いや、正しくは「元」部下か。手紙の内容は自身の行動について許諾を求めるもの。そんなもの、今更リジエラに問うてどうしようというのか。

 リジエラは既に下知を出した。その命令さえ守っていれば、他一切は彼の自由だ。一応の形として、彼に対する命令権は今のリジエラの手元にない。

「一々伺いを立てなくていいのだけれど」

 だが、一々伺いを立てる、それをする。そういう人間であるからこそリジエラが彼に役目を与えたわけでもあるため、一重に悪しかろうと言えなかったが。

 リジエラは窓を開けた。冬の空っ風が消し炭になった文を巻き上げ、攫っていった。

「リジエラ様、よろしいでしょうか」

 執務室の扉がノックされる。掛けられた言葉に「どうぞ」と応え、訪問者を招き入れる。部屋に入ってきたのは、眼鏡を掛けた痩身の男だった。彼はリジエラに就いている補佐官のうちの一人。書類を一切れ右手に乗せながらかくしゃくとした一礼を取った。

「失礼いたします。貴族院から裁可を求める書類が一枚来ております」

 こちらです、と差し出された書類をリジエラは受け取り、その中身を一瞥する。

「何をするのか知らないけれど、まあ、問題はありません」

 机の抽斗(ひきだし)から印を取り出し、リジエラは書類に朱を押した。

「……この程度、私の所まで持ってこなくてもいい案件だと思うのだけれど」

 色のない表情のまま、補佐官の男を見据える。

「貴族院の方が宰相閣下に気を回してくださったのでは?」

「……かもしれないわね」

 前述したようにリジエラの陣営に組する人間は子飼いの魔術省だけではない。各省庁に少なくない人数のリジエラ閥の人間がいるし、それは貴族院の中にも存在する。偶々今回の書類がリジエラ派の人間の目に留まり、気を利かせてリジエラの元まで回ってくるように細工をしたのかもしれなかった。

 ――それにしたって、名誉貴族の扱い云々についてまで上げてこなくてもいいのじゃないかしら。

 リジエラに送られた書類の内容は、土地も資産も何も持っていない、ただ爵位と貴族になれるという名誉だけがある空き貴族の家名を一つ利用したいという旨のものだった。これは戦時に功を立てた平民に、報酬とは別に勲章を贈る際に利用されたり、長く大貴族の家によく勤めた家令や家付に贈るなど、祝儀的な扱いをするものだ。宰相であるリジエラに判断を任せるほど重要なものではない。

 ――まあ、分からなくはないけれど。

 ただし、今回の件については別だ。リジエラのところまで回ってくる理由も分かる。リジエラ閥に属し、しかし派閥の下層にいる人間ならば、何か自分の窺い知れぬ上層の部分で鞘当てが起こり、提出されたこの書類は、リジエラと相対する敵が打った駒の一つなのかもしれないと勘ぐり、不安を感じ何とかして判断を仰ごうとするのも無理は無い。

 名誉貴族の利用を提出してきたのは、ティスエル家。リジエラと敵対する貴族において最大規模、最高家格の家である。

 大山が鳴動し、鼠が一匹騒ぎ出した。

 ――そういうことかしら。

 別に、リジエラとしてはティスエル家とは政治的にぶつかり合うことがあっても特に敵意を持っているというわけではなかった。ティスエル家は権力闘争に眼が曇り国政を切り売りするといった愚者ではなく、折れる必要がある場所があればきちんと折れる。そしてその時もティスエルという家の格に傷がつかないように細心の注意を払い、付いてくる下々の人間に二心を抱かせぬよう、敗走を敗走と見せずに退くことが出来る強者だ。

 ――結局のところ、どうでもいいわ。

 この名誉貴族をティスエルが何に使うのかも、果たしてこれはリジエラとの政争についての一手なのかどうかも、リジエラ自身にとっては取るに足らないこと、預かり知らぬところ。リジエラが今まで為してきた問題への対処法は極めて単純なものだ。「起きた後に、潰す」ただそれだけ。これでティスエルが動きだし、それがリジエラに対して火の粉が降りかかるものだとして、それに気付いたところでようやくリジエラは動く。点かない火種は、放っておいても害はない。……いや、ないわけではないのだが、一々生真面目に不発弾を処理すること自体面倒だ。

「何に使うのか。それは少しだけ、楽しみね」

 相変わらず無表情のままそう言うリジエラに、補佐官は生唾を飲みこみ、震える手で書類を恭しく受け取り、声を裏返らせながら退出の挨拶を告げた。

 ドアを閉め、リジエラの視線から外れると同時に、男の身体中からどうと滝のような汗が噴き出した。たった一枚壁を隔てただけだというのに、その脆くも儚い一枚がこの上なく頼もしい。

 ――何度何回見ていても、リジエラ様の視線には慣れることはないな。

 彼の同僚の中にはリジエラの、あの氷を嵌め込んだような冷厳な視線に絶大な信頼を置くものもいるが、この男に関してはリジエラのその眼に畏怖を覚える性質だった。事実リジエラという存在を近くで目の当たりにすれば、及ぶことの無い、そして同時に果ての無い憧憬と尊崇の念を抱くか、蛇に睨まれた蛙のような、獅子にじっと自身の眼を覗き込まれているかのような、金縛りに近い畏れや慄きを露にするかの二択、そのどちらかを選ぶのが大半であった。稀に心の奥底まで冷静に射抜くその視線を堂々と見つめ返す存在もいるが、それは希代の傑物か度し難いほどの馬鹿かのどちらかだ。ある意味では両者とも大事を為すに相応しい人物であるのかもしれなかった、良しにしろ悪しきにしろ。

 ともかく、三人いるリジエラの補佐官のうち一人は、彼女に対して負の感情、とまではいかないがその生物的な、絶対的な隔たりとして存在する力の差を本能で感じ取っているのか、恐怖に近いものを抱いている。

 なにも与えられた仕事に文句があるわけではなかった。能力を買われて今の地位にいるのだし、リジエラが、抱く恐怖に相応しい暴虐の王だということもない。中身はむしろ対極で。至極理知的で、冷静沈着で、万物に通じているかの如く知識は奥深い。

 ……だからこそ、何処を、何を見ているのか分からない。まるで誰も見ていないのかとも思えるし、一個人をじっと見据えているかのようにも感じられる。「まさしく国宝である」と冗談交じりで嘯かれるその碧眼の中には、庇護すべき国民も、ひょっとしたら慕うべきであるはずの国王でさえ、存在することを許されていないのではないだろうか。

 ――不敬である。不遜である。妄言である。

 補佐官は内心に浮かんだ穏当でない考えを振り払った。大体、非才の身……ではないと自尊こそするが、人の身というものから外れているでもない自身がハーフエルフたるリジエラの脳裏を読もうとすることこそ間違いなのだ。一補佐官に過ぎない男が、魔術省の長にして宰相という二束の草鞋を苦も無く履きこなす彼女の内心を夢想すること自体誤まりなのだ。

 上に立つべき存在は、下々の民が持つ理解の埒外にいるべきなのだ。(ことわり)から外れたことを容易く行えなければいけないのだ。

 そんな者の思慮の内を、読み解くことこそ無為であり、徒労に終わってしかるべき。

 男の手に浮かぶ汗を書類が吸い、少しばかり紙に皺が寄っていた。

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