第七話
月に一度、クレア・ティスエルは寮から出て家に帰ることになっている。それは父親との間に取り決められた約束だ。
休日二日間を家で過ごし、その間に学内で起きたこと自分の身に降りかかったこと自身のことについて父親に報告するよう義務付けられていた。
毎回の行事なのだから、特別気が滅入ることなどないはずだった。しかして、今月については。
――帰りたくない。
心底そう思えた。
公爵家の手は随分と長い。学生と教職員しか立ち入ることのない学園の中にあっても、クレアの父は娘が画策している動きを全て察知しているだろう。だがクレア自身の口からその内容を事細かに語られるまでは何食わぬ顔で接してくるはずだ。向こうから触れてこないのなら知らぬ存ぜぬで押し通そうとすれば、問答無用で減点一。最後の最後に父はその重い口を開きこう始めるのだ。「そういえばこんな噂を耳にしたんだが」
噂だなんて、雑な虚飾。既に事実関係を全て把握して、クレアに同意し行動を共にしている学生全員の素性を調べ尽くした後だろう。それは最早噂だなんて不確かなものじゃなくて、事実。告げるべきことを父に隠そうとしたとして、クレアに与えられている自由な差配は薄皮一枚分削られる。
「ほんと、嫌になりますわ」
不機嫌さを隠すことなく、鞄の中に着替えを荒々しく押し込みながらクレアは呟いた。気付けばそう、既に中等学校の四年だ。残された時間は余りにも短い。
帰りたくない。帰らねばならない。時に進んで欲しくない。時は人の願いなど気にせずマイペースに歩みを進める。意思と相反して義務は付きまとい、想いと相反して時は人を突き放す。今こうして、自棄を起こしたクレアがベッドに身体を勢いよく跳ねさせているこの瞬間も、時は巻き戻ってもくれないし、無慈悲にも着々と歩みを続けている。
クレアの軽い身体を受けとめたベッドはその身を軋ませて、数度小さく彼女を弾ませた。耳元で鳴るスプリングの音がやけに耳障りだ。
それは上等なベッドだった。板張りに薄い布を被せただけの粗悪な物と違って、作りのしっかりとした、富ある者だけが享受出来るそれだった。
それが今は、富と名声を持つ実家を想起させてクレアの感情を酷くささくれ立たせる。
「かーえーりーたーくーあーりーまーせーんーわー!」
両手両足をばたつかせて、ぎしぎしとベッドに悲鳴を上げさせて、浮かぶ埃に驚いて、思わず自分自身で我に帰って。
「……はあ」
帰らなきゃいけない。幾ら嫌がったところで躊躇ったところで避けては通れない。クレアはベッドからむくりと起き上がり、乱れた髪を櫛で整えた。鞄を肩に掛け、そのずしりとした確かな重みが億劫さを具現させたかのように感じられて、思わず「うぐ」と小さく苦悶の声を上げて。それでもなお前に進まない足を叱咤して歩を進めた。
扉の前で深く息を吸い込み、吐き出して、意識して視線を強く前に向け、そっと叫んだ。
「それでは、行ってまいりますわ!」
クレア・ティスエル。出陣の時である。
王都ベラティフィラは中央に王城を置いた、ある程度の区画整理を進めている円形の都市だ。貧富の差は中央部から外周近くに向けて逓減しており、中心部には貴族や大商家の家々が建ち並び、外周部分には平民が多く暮らしている。特に際立った貧困層は王都の西側に追いやられ、一種のスラムに近しいものを形成している。国民の間では近い将来そのスラム街を取り潰す動きが活発化するのではないかとまことしやかに囁かれているが、真実は未だ藪の中。政治の内幕を覗き見ることが出来ない一国民では知る由もない。
公爵たるティスエル家もまた、王城に近しい中心部に居を構えている。貴族ならば領地を与えられているはずだが、政治力の強い家は領地経営を代官や肉親に任せており、王都に腰を据えて中央での権力闘争に耽る者が多くいる。
王家と縁戚関係にあるティスエルの邸宅は高級住宅街にあってなおその大きさに目を見張るものがあり、その権勢と栄華を知るに十二分なものである。しかしながら門の前に佇むクレアにとっては単に見慣れたものであり、名匠を呼びよせ丹念に掘り込まれた彫刻も、稼業一筋五十年、今年で齢六十二になるティスエル家専属庭師が整えた庭園も心打つわけではなく、むしろ心象風景を正しく反映させるのなら、もっと禍々しく、おどろおどろしいものであって。
――魔王城、は流石に言いすぎよね。
たん、たん、たんとクレアの右足、その爪先が地面を叩く。腕を組みながら二の足が踏めないままかれこれ十分。門の左右に立つ衛兵は、その存在に気付いていながらも見るからに不機嫌な、明白な会話に対する拒絶の意志を燻らせているお嬢様を相手に語りかけるほど愚かではないし、勇敢、無謀でもなかった。
「あら、お嬢様、お帰りになられたのですねー?」
そんなクレアに臆することなく話掛けたのは同年代の少女。ティスエル家にて下働きをするメイドの一人だった。
「……ええ、帰ってきましたわ」
「ささ、それではそんな所に突っ立ってないで、中にお入り下さいー」
むんずと少女はクレアの腕を掴み、「どうぞどうぞ」と門の中に引きずり込む。いきなりの行動に思わずつんのめりそうになったクレアをひらりとスカートを翻しながら支え、クレアを中心に置いたターンをくるりと決めて、今度はクレアの背中を両手で押しながら「さあさあ」と庭園の中を連行する。
「いや、ちょっと、貴方、無理矢理すぎやしませんこと!?」
「旦那様や奥様は当然、我々下仕えの者たちも首を長ーくしてお嬢様が帰る日をお待ちしていたんですよ」
月に一度のお帰りなのですから、皆様にお顔をお見せしてくださいなーと能天気な台詞を言うメイドにクレアは頬を引き攣らせる。
「私のタイミングというものがあるのですから、押さないでくださいまし!?」
「ではわたしの両手が無くともお嬢様は自ら歩んでいただけますかー?」
「……歩きますわよ」
「……答えがちょっと詰まりましたよー?」
「いいから!」
メイドは少しばかり不満そうな顔を浮かべて、「分かりましたー……」とクレアの背中から手を離した。んもう! と頬を膨らませたクレアに改めてメイド少女は深々と頭を下げて。
「おかえりなさいませクレアお嬢様」
と一礼した。そのマイペースさに溜め息を吐きながら、この子は何時もこの調子なのだから、とクレアは諦観の想いを新たにして、返事をする。
「ただいま、ルシル」
自室のベッドに深く沈みこんだクレアは横目に柱時計を見る。時刻は午後四時を丁度回った頃だった。帰路の途中、現実からの逃避紛いの行動としてあっちにふらふらこっちにふらふら、露天商を眺めたり服飾店を冷やかすだけ冷やかして自分の服や装飾品は一着も買わずに離脱したりと思うがままに道草を食いながら帰ってきたのだが、予想よりも随分早く帰ってきてしまった気がする。あと一時間くらい時間を潰してから帰ってくれば良かったのではないだろうかと自省。それでも都合四時間程度は時間を潰していたのだが。
一月ぶりの自室は常と変わらず埃一つなく、勢いよく飛び込んだ今は既に跡形もなくなっているが、部屋に入る直後までは皺一つない完璧なベッドメイキングが為されていた。この仕事を為しているのは全て、先ほど自身を迎えてくれたルシルという少女だ。
少女が屋敷にやってきたのはクレアが五歳、ルシルが七歳の時だった。貧乏貴族の娘として産まれたルシルは、両親が持ちうるだけのコネというコネ、繋がりという繋がり、ありとあらゆる金策の工面――これに関しては年若いルシルの兄が苦心したという話を聞いた――をしてようやく公爵家に滑りこませた一筋の希望であった。
家格が底辺に近い貴族の家からやってきた少女だ。当初は一、二年もすれば数段落ちる家に払い下げられるものだと考えられていたが、公爵の娘であるクレアと年が近しいということもあり、二人の仲が急速に深まり、そして当人が随分と物覚えよく、器量よく育ち始めたため首を飛ばされることもなくティスエル家のメイドとして未だこうして働き続けている。
ルシルの年齢は今年で十六。そろそろ嫁ぎ先が見つかっていてもおかしくない時期だが、浮いた話はなく、ルシルの親としてもいわゆる「お手つき」がなかろうかと期待している状況が続いている。クレアもルシルとよく話すため、本人の口からそういったことを催促している手紙が届いて困る、と苦笑する彼女の姿を知っている。そういった下世話な話題は耳に入っているが、クレアとしては出来ることならそういうことは起きてほしくない、そう思っている。
ルシルの両親としては公爵家に滑り込ませることが出来たのは大成功なのだろうが、肝心な部分での当てが外れているのが現実だ。クレアにとっては複雑な話だが――好ましく思える分、余りに真っ当過ぎて肉親に対する正統な反発が出来ないといった点において――父にしても兄にしても、ルシルに対して手を出すということについてメリットが存在しないことを十二分に理解し、そして承知していた。
貴族にとって婚姻、出産というのは「政治」の一環である。ティスエル家の男連中、いや、一部を除いた女性さえも、その無味乾燥な現実を受け止めている。故に、ルシルに対して食指が伸びることは、ない。確かに見目は麗しい。器量も良い。良い母になるであろう。
……では、家柄は? 資産は? 名声は? 全て、持ち合わせていない。ティスエルという家とルシルの実家が結びつくことによって利益を享受するのは一方的なもので、そのベクトルの一切合切がティスエル家に向いていない。余りに人間味のない、「貴族」という生物の繁殖と言い換えてもいいその思考。
背筋に氷柱を突き立てたような寒々しさを覚えるが、「人間」としての理性をかなぐり捨てた節操なしが与える、体中を蛞蝓が這い回るような生理的嫌悪感を催すものではない。しかしやはり、あり余って苛烈にすぎる突き放された刃であった。
ルシルの両親は、それを理解出来なかったのだろう。いや、貴族の中でもそれを理解出来てかつ実行に移せる者は数少ない。「貴族」という生き方に特化してしまった生物。ベラティフィラの頂点一握りの栄華と繁栄を誇るには、そこまで「真っ直ぐに捻じ曲がって」いなければならないのかもしれない。
しかし、ルシルの両親は今更引くに引けない。無い金を積んだ。ちっぽけなプライドをかなぐり捨てた。頭を下げて済むことなら何回だって頭を下げた。この機会を逃せば逆転の目はない。ルシルを引き上げさせて身の丈に合った、家格と釣り合う家に嫁がせれば、今まで費やした苦労は水泡と帰す。貧乏貴族が貧乏貴族と繋がりあって傷を舐めあって、それで一体何になるのだろう。
クレアとしては、今のままでいいと思う。ルシルは親友だ。彼女に想い人がいることだって知っている。そしてそれが世間一般で言うところの禁じられた恋であるということも。
禁じられた恋。障害多き恋。許されざる恋。悲恋。だが、最後には試練を乗り越え結ばれる二人。……いいじゃないか。素敵じゃないか。親友のそんな恋を応援したって構わないじゃないか。私だって恋に恋する年頃の乙女なのだから、そんなロマンティックな物語に憧れだって、する。うふふふふふふ。
「そういえば」
ベッドに顔を埋め、不気味、もとい夢見がちな微笑を浮かべていたクレアはむくりと起き上がり、傍らに放り投げていた鞄を引き寄せ、中を開いた。一番上に入っていた紙袋を取り出し、それを眺めてにんまりと笑った。
立ち上がり、机に置かれていた呼び鈴を鳴らすと、隣の部屋で控えているメイドが即座にクレアの部屋の扉を叩く。
「お呼びでしょうか」
「ルシルを呼んで頂戴」
「かしこまりました」
扉の前から足音なく気配だけが消える。数分も待たない内に再び扉がノックされた。
「お嬢様? ルシルです」
「入って」
失礼いたします。扉の外から声を掛けてから一拍起き、音を立てずにルシルは扉を開いた。
「遅くなりました。お申し付けを」
部屋にしゃなりと入り込んで、瀟洒な佇まいのままルシルは腰を曲げ礼をした。
「そういうのじゃありませんわ。ちょっと、これを見て」
「これ、とはー?」
言外に業務用の装いを止めろ、と含みながらクレアはがさがさと紙袋を上下に振り、「こ、れ」と悪戯な笑みを浮かべる。疑問符を浮かべたルシルがクレアに近づいて「一体なんなんですー?」と尋ねると、クレアは喜色を滲ませたまま紙袋の中身を取り出した。
「これですわ」
「ふわー」
紙袋の中に入っていたのは小さな翠玉が嵌め込まれたペアのネックレスだった。「どう?」とクレアが問えば「素敵ですー」とルシルが浮ついた声で返した。
「どうしたんですかー? これはー」
「帰る途中に入った服飾店で見つけて一目惚れですわ」
「そうなんですかー。早速お付けしましょうかー?」
「違いますわ。これは貴方へのプレゼント。二つともですわよ? 貴方の良い人に片方お渡しなさい。うふふふふふふふふ……」
「えぇー。こんな高価そうなもの、頂けませんよー」
「大して値は張りませんわよ。貴方のお給金でも無理なく買えますわ。それに、ほら」
クレアはネックレスをルシルの顔の横に並べて、やっぱり、と得心のいった表情で満足そうに頷いた。
「この翠玉、貴方の瞳の色とそっくりなのだもの。目にした瞬間から貴方に贈る以外何も浮かびませんでしたわ。いいから、受け取りなさい。さあ! ほら! そして貴方の想い人に片割れを渡して、その反応を、私に! 仔細に! 教えるのですわー!」
「うぅ、それが目的ですかー? ……分かりました。頂いておきますー」
クレアからネックレスを受け取りながら、ルシルは釈然としないながらも、それでもきちんと感謝の念を込めてクレアに「ありがとうございます」と礼を言う。
「それとお話をしましょう。仕事はよくて? いえもういいですわ私から言っておきます。貴方は今からフリーです、というか私と語らうのが仕事です。その後の進展は何かありまして? ああ牛歩の如く遅々とした歩みなのは知っています。むしろ関係が進んでいるのかいないのかさえはっきりしていないのも分かっています。容易ならざる禁断の愛だということも! ただそれでも、いやむしろそれが良いのです。さあ語りましょう恋の話を!」
「わたしはそれでもいいんですけれどー、お嬢様」
「何かしら?」
「そろそろお嬢様のお仕事の時間が近づいていますー」
「仕事?」
「はいー。旦那様と奥様がお待ちですー。夕食のお時間ですよー」
「……」
クレアは幽鬼がごとくゆらりと歩き出し、再びベッドに身を弾ませた。すぅーと大きく息を吸って。
「いーきーたーくーあーりーまーせーんーわー!」
手足をばたばたと振り乱して都合二十秒。すっくと立ち上がりルシルが髪を梳かすのを身動ぎせずじっと待つ。それが終われば今度はルシルの手によって新たな服の着せ替え人形にされる。淡いブルーのドレスに着替えさせられ、うなだれたまま部屋のドアに近づいて。
「行ってきますわ……」
「ご武運をー」
背後からルシルにぱたぱたとハンカチを振られながら見送られ、クレアは幽鬼のような表情のままダイニングへと向かう。道中、廊下ですれ違う使用人は往々にしてクレアを目にするなりその場に直立、深々と頭を下げる。それは無条件での肯定だ。貴方が正しい、貴方は優れている。「クレア・ティスエル」という人間であるというだけで向けられる正の行動。
――さあ、否定されにいきましょうか。
ダイニングへ続く扉の前で、クレアは自身の頬を二度、軽く叩く。自分自身の手で敗北させる、既に敗北している理論を扉の先に待つ両親へぶつけに行こうとしていた。
学業成績、問題なし。
生活態度、問題なし。
交友関係、多少の問題点あり。しかし本題に掠ってはいるが本心を突いているのではなく。
緊張に味が分からないということもなく、作法に戸惑うなどということもありえない。しかして時折挟まれる瞬間の無言がクレアの胃に負担を強いる。とりあえずは、日常生活においての報告において問題はなく、順風満帆なものだ。だが問題はこれから訪れるのだと分かりきっているクレアは鬱々しい気分を抱いた。
「さて……」
フォークを起き、ナプキンで口元を拭ってからクレアの父ディモル・ティスエルは口を開いた。
「報告は、以上かな? クレア」
父の傍らに座る母アッツェラは日頃と変わらぬたおやかな笑みを浮かべたまま、愛娘との食事を心底楽しんでいる様子。対して父ディモルのそれもまた常と変わらぬ穏やかなもの。父性を隠すことなく娘に見せる、寛大な微笑。
――ただまあ、そんな笑みを浮かべながらナイフを隠し持つのが政治家というものなんでしょうけれど。
初めからクレア自身隠すつもりなどなかったし、元より隠し切れるとも思っていなかった。口にするにはすこしばかり引け目があったのは確かだから、口火を切るまでにある程度の助走が必要であったのは間違いないのだけれど。
グラスに入った水で軽く口を湿らせて、クレアは殊更明るさを強調して言葉を告げた。
「そうそう、学内の友人を集めて巷で話題の殺人鬼を捕らえようと思っていますの。お父様も本腰を入れて犯人を捕らえるつもりなのでしょう? 私も微力ながらお力添えしようと思って」
「うん、そうか。全くもって孝行な娘を持ったものだよ。……ただ」
「……ただ? なんでしょうか」
「……そうだな、クレア、率直に言われるか婉曲に言われるか、どちらがいい?」
右手と左手、率直と婉曲をテーブルの上に差し出して、ディモルは問う。
「……率直に、の方が気楽かもしれません」
「では婉曲に言おう……いや、やはり止めようか。今回は求めるまま素直に意見をぶつけ合った方がいい」
「……私は率直に、とお願いしたのに、何故婉曲におっしゃろうとしたの?」
「ディベートにおいて相手が自分の嫌がることをしてきた時への対応力を見てみようかと思ったんだが、止めにしよう。それは別に今じゃなくていいし、クレアは女性だ。必要ではない、とまで言わないが、政治の表舞台に出る機会は数少ないだろうからね、優先順位はそれよりも会話の内容だ」
「……お父様は相変わらず意地が悪い。そうは思いませんかお母様」
アッツェラは笑みを崩すことなく、左手を頬に当てて。
「男性はそういった面ではしたたかな人の方がいいのよ」
と自然に惚気を入れていた。
「……はいはいご馳走様」
半ば呆れ半分の娘の視線を振り払うかのように咳払いをして、ディモルは再び娘の視線を自身に集めた。
「いいかな? クレア」
「……どうぞ」
「君は賢い子だから既に全て承知しているのかもしれないが、改めて僕の口から言うことにしよう。クレア、『建前』はどうでもいいんだ。君の本音を知りたい。……いや、言い当てて見せようか」
すぅっと、クレアの視線が鋭さを帯びる。彼女が牛肉に刺し込んでいたナイフの力がほんの僅か、一瞬だけ強まった。
「余り聞きたくない内容かもしれませんけど、いいですわ。聞きます」
「よかった。それじゃあ、少しばかり話をさせてもらおう。……いいかいクレア。君は『クレア・ティスエル』から逃れることは出来ない。……いや、逃れる気はないだろう?」
ディモルが語るそれは尽くがクレアの本心を正しく射抜いており。
「今回動いたのは僕とクレアで競争をするためかな? どちらがいち早く魔術師殺しの犯人を捕らえられるかの競争。僕に勝てば、君はひょっとしたら『クレア・ティスエル』という存在ではなく、『クレア』という一個人の力を示すことが出来ると考えている……違うかな?」
これから語られるディモルの言葉は、それ故にクレアの柔いところ全てを曝け出し、そして。
「だけど同時に僕のことも、『ティスエル』のことも重々承知しており、競争に勝てたとしても、『クレア』という一個人の人格を認められることは有り得ないということも分かっている」
その遍く全てを蹂躙する。
「だろう? クレア・ティスエル」
結局の所、自分自身は逃げたいと思っていても逃げられるものではないと理解しているのだ。例え逃げた先に自由が待ち構えていたとしても、それを大きく凌ぐ不自由が未来に立ちふさがっていることもまた、理解している。
クレアという人間は賢い人間だった。「ティスエル」という家は正しく貴族だった。故に、クレアはどう足掻いても同じ解答に辿り着いてしまうし、ティスエルはどう掛け合わせても同じ解答へ導いてしまう。
「来年、中等学校をクレアが卒業すれば、『ティスエル』は、詰まる所僕は君に見合った夫を割り当てる。それは覆しようのない事実だ」
「当然、其処にクレアの意志が介在する余地はない。純粋に、クレアの能力……美貌、頭脳、魔力などと、ティスエルの家格に見合った家の男子を連れてくる。それは自由恋愛などでは決してないし、当然、不満もあるだろう」
「そう、不満がある。分かるよ、当たり前だ。アッツェラだって僕と出会って数週間は余所余所しかったし、きっと断りたい気持ちだってあっただろう」
「あら、私はそんなことありませんでしたよ? 貴方に会えてよかったと思ってる」
「ありがとう。……まあ、クレアもまだ年頃の女の子だ。好いた人がいたって変じゃない。思春期というものはそういうものだ」
「だから、そう。有り得ないと分かっていても一縷の期待を捨て切れずに動いている。卒業が目の前に差し迫りつつあるこの時期に、ティスエル家に自身の力を見せ付ける絶好の機会。もし此処で自身の力を示すことが出来れば。女性ではあるけれど、魔術師としての確たるビジョンを見せ付けることが出来れば、兄と同じように、男性と同じように魔術師として独り立ちを選べるかもしれない。そこまでは無理でも、モラトリアムの延長は望めるかもしれない。高等学校へ進むことを許されるかもしれない」
「……」
「断言しておこう。クレア。残念だけど、それはない。ないんだよ、クレア」
……知っている。知っていた。それでも今この瞬間まで父の口から直接告げられたことはないのだから、そこにほんの一筋の希望の光を見出すことが出来ていた。そう、今この瞬間までは。
「君が僕よりも早く殺人鬼を捕まえて、ベラティフィラ魔術中等学校を首席で卒業して、同じく高等学校への推薦を頂いたとしても」
「君がそちらへ進むことはないんだ。クレア」
クレアには、悲嘆も、衝撃も、絶望も、何一つなかった。ただ想定していた未来の中で、一番確率が高いであろうものが「正解だ」と示されただけだ。だから、クレアに、後悔は、ない。
――じゃあ何故私は強く唇を噛んでいるの?
「ならばどうしよう? 家を捨てようか? 『貴族の家に、自由はない』そう言って出奔した貴族の子弟は数多くいるね」
「だが、それは甘えた発言だと、知っているね。なるほど確かに貴族に自由はない。認めよう。では、『自由がある』というのは一体どんなことだろう」
「平民に自由はある? あるだろうね、一定の自由は。だが金はあるかい? ほぼ全ての人に対して平身低頭させられるだけの権威は? 棄民に自由はある? あるだろうね、少々の自由は。冒険者に自由はあるかい? あるだろうね、不安定ながらの自由が。ではもう一度言おうか。貴族に自由は?」
物事の全てには長短が生じる。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たない。貴族にしても、平民にしても、棄民にしても、自由と不自由に塗れた人生を歩むのは人間である限り変わらない。法の下で生き続ける限り、その牢獄から逃げ出せない。
「やはり、貴族には、少なくともティスエルという家には、他と比べれば多大な自由があるのだろう。百の自由を一の自由の為に投げ捨てること。それをクレア、君は出来るのかい?」
いっそのこと、クレア・ティスエルという人間が、年相応の、色恋に魔法を掛けられてしまった女の子として惚けきってしまっていれば、何のことは無く家を捨てることが出来たのかもしれない。しかして、クレア・ティスエルというその人間は、父が言うように、また、フェイトが知るように賢い人間だった。つまり、知っている。百と一が等号で結ばれることは有り得ないということを。
貴族の義務。ノブレス・オブリージュ。それに足が生えたかのような生物、家族、群体。ティスエルという家名は、まさにそれだった。貴族として悪徳の類ではなく、平民から見れば権力者が為すべきことをよく知り、分をわきまえ、そして正しく力を使う。民衆の上に立つに余りに正しいその姿。非難することなど、見当たりはしない。傷一つない珠のようなもの。それは誰からも一目見て欠けることがないと理解させるからこそ、反抗する余地さえ与えない無慈悲さを内包している。
正しい、正しい、正しい! 湧き上がる正当性は暴力に近しく、それに歯向かう意志さえ根こそぎ奪っていく。
クレアもまた、「ティスエル」の人間であるが故にそれを理解し、輝かしいものだと、誇るべきものだと自負している。そして、理解しているが故に、自傷をし続けている。
「……ありがとう、ございます」
身体中のありとあらゆる場所から力を吸い上げて、ようやく動いたクレアの口元はその一言だけを辛うじて紡いでいた。その感謝は率直に教えてくれたことに対して? それとも、諦めのつかない甘い想いにとどめを刺してくれたことに対して? それは、口にした本人にさえ分からなかった。
好きな人がいる。憧れる人がいる。焦がれる人がいる。
でもそれは、叶わぬ恋。
「いるのだろうね。好いた人が」
クレアの父は、労わるように、小さく言う。
「……万が一、可能性があるとすれば、クレア、君の想い人が『ティスエル』にとって益がある存在であることだ。例えば、ティスエルと遜色ない家格の持ち主。例えば、宰相閣下の首元に突き立てることが出来る懐刀と成りうる存在」
「……そうですわね、それはきっと……」
告げる言葉に、逡巡は無い。……しかし、紡ぐ想いに、躊躇いはあった。
「無理、なのだと思いますわ」
きっと、声は震えなかった。多分、見据える瞳に涙は無かった。
「そうか。それは、残念だったね」
あるのは僅かな脱力だけ。クレアはそう、信じたかった。
それから、親子の間で語るべきことはあまりなかった。テーブルに並べられていく食事を漫然と摂取し、頃合を見計らってこの場から逃げるように去る。扉を開き、両親の視線から身を隠すように廊下へ飛び出して、クレアは一目散に自室へ向かい走っていった。
「少しの間、外してもらえるかしら。そうそう、ルシルを……そうね、三十分後に来るように言っておいて」
隣室に詰めていたメイドにそう話しかけ、クレアは自室の扉を開き、ゆっくりと中に入る。
音も無く扉を閉め、呆けたようにその場に立ち尽くした。
数秒の間隙を置いて、迸り渦巻く激情は、この場にいる誰でもなく、同じ空の下、今もまたクレア自身を見つめることなく、何処か不可解な、誰もいない地平を見据えたまま歩み続ける少年へと向けられていた。
――何故、何故、何故! 貴方はそんな不可解な! 私は何度も何度も何度も! 真っ当な魔術師へ向き直れと言い続けて! 私の言葉なんて一つも聞き入れたことなんてなくて! 私を見ないで遠い何処かを見て! せめて貴方が高等学校へ進むのだとはっきりした確信さえ下されば!
――夢さえ見れなくて! 共に歩むことさえ許されなくて! そのくせ私を否定して!
好きな人がいた。憧れる人がいた。焦がれた人がいた。
――私を見なさい! 前を見なさい! 私が分からない場所を見ないで! 私に貴方を教えて!
恋の話をしよう。クレアはルシルに言った。恋の話を、しようと。
禁じられた恋。障害多き恋。許されざる恋。悲恋。だが、最後には試練を乗り越え結ばれる二人。そんな、恋の話を。