第十八話
「……すっげえ。なんだあれ」
村の祭りのために立てられた村の建築物の中でも一際高い鐘楼の中から、二人の少年がヴァンタナと魔獣の舞踏を眺めていた。
凄絶な戦闘を目の当たりにして、少年の片割れ――アモル――が呆気にとられたように間の抜けた声を上げる。
命を刈り取らんと唸りを上げて迫り来る豪腕を、熟練の戦士が薄皮一枚の所でかわし、そのまま身を翻して反撃の一太刀を浴びせる。
その後ろからは統率の取れた動きで弓を射掛ける見知った顔の大人たち。まるで蛇のように弧を描き標的に近づいていく矢の群れは、ある種の芸術のようにさえ受け取れる。
小さく狭いアモルの世界の中で、まるでその光景は心躍らせ夢中になった四英雄譚をこの世に具現化したかのように思えた。
そして、ヴァンタナ、フェイオンの二人が研ぎ澄まされた必殺の一撃を繰り出したその瞬間も、少年二人はしっかりと瞼に焼き付けていた。
「グォオオオオオオオオオオ!」
地の底から這うような、鼓膜を劈く悲痛な叫びが村中に響き渡った。
ヴァンタナが袈裟に斬りつけた一刀は、するりと魔獣の胸を切り裂いた。吹き出した鮮血がみるみるうちにヴァンタナを赤く染め上げていく。血風が宙に舞い、地面をしとどに濡らしていく。魔獣がゆっくりと自重を傾け、うつ伏せに倒れていく。開かれた胸から、降り注ぐ朱の雨が、村の一部を赤々い地獄の入り口がごとく変貌させた。
「やった! やったぞフェイト! 師匠がやった! ははっ、すっげえ、すげえや!」
流石師匠! とアモルが傍らのフェイトの肩を抱きながらはしゃいでいた。フェイトもまた、頬を緩め、杖を力強く握り締めていた拳から力を抜いた。
アモルは鐘楼から飛び降り、父と、尊敬する導き手であるヴァンタナの元へと駆け出した。
「親父! 師匠! 二人ともすげえよ! 俺、二人みたいになりた……い……」
勢いよく駆け出した脚は、その半ばで止められた。勝ち鬨を上げるべきの狩人連中の視線は未だ真っ直ぐに獲物を捉え、既に二の矢を用意している。渾身の一撃を見舞ったヴァンタナも、荒れた息を整え、痛む腕の腱を押しながら今一度剣を振り上げていた。
「……ガアアアアアアアア!」
アモルが死んだはずだと思っていた獣は、四肢を蠕動させ地を蹴り、跳ね上がった。跳躍、と言っていい。狂乱に塗れた眼を爛々と煌かせ、溢れんばかりの怒気と共に唸りを上げ、涎を撒き散らす。とめどなく流れ出ているはずの血は半ば止まっており、切り裂かれ開かれた腹部から覗き込めていた赤黒くグロテスクに脈打つ臓器もまた、薄い皮膜に覆われ始めている。
魔獣の跳躍と共に振り下ろした剣の切っ先は空を切り、砂埃を巻き上げる。ヴァンタナは目を細め、忌々しく敵を睨みつける。
「……手負いの獣か。虎の尾を踏んだのかもしれんな」
先の一撃で仕留め切れなかったことを悔やみながら、ヴァンタナは今一度剣を持ち上げる。
「……錆びたな。俺の腕も」
ずきりずきりと鈍痛が走る腕を睨みながらヴァンタナは自嘲めいた笑みを浮かべる。
ただの一太刀で身体に無理が生じたこと? それとも、ただの一太刀で仕留めることが出来なかったことに対して? ……多分、答えはその両方。
前もってリリアムに言った「怪我人一人出さずに終わらせる」という言葉。どうやらそれも叶えることは難しそうだ。
「死人が一人、出てしまうか」
努めて冷静に、現状から出る被害を換算する。斬り捨てたその一人が誰かなど、言葉にはしない。年老いた老兵が一人死ぬだけだ。永く連れ添った妻には悪いが、捨石になるには一番の適役ではあるだろう。
手負いの獣を生み出してしまうという愚行は、己が手で払拭しなければならなかった。
フェイトが浮かべていた笑みが、再び凍りついた。縋るようにして杖をかき抱き、困惑に揺れる眼で憤怒に燃える獣を見た。
「あの一撃で、死なない……んですか」
魔力感知に人一倍長けるフェイトからしても、フェイオンとヴァンタナから感じ取れた体内魔力は破格のものだった……はずだ。
フェイトの物差しからすれば。
そう、彼の物差しからすれば、だ。フェイトがこの世界で培った測りは、余りに頼りなく、そして小さい。世界の広さを未だ知らず、世界最高峰の戦士がこのような片田舎に隠遁しているはずもなく。フェイトが感じた「破格」のオドは、一流ではあるが老いた戦士のそれと、一流ではあるが未だ若い弓士のそれであるということを理解していなかった。
しかして、受けた衝撃も一瞬。フェイトは激しく頭を振り、平静を取り戻す努力をする。眼下では血腥い闘争の幕が再び開けようとしていた。元から自分は力になろうと思っていたはずじゃないか。その意識を今一度確認し、一人頷く。
「躾けてやろうと、決めたじゃないか、フェイト・カーミラ……!」
抱きしめた杖をより一層力強く新たにし、意志が挫けぬように戦意鋭く眼光を強め獲物を睨む。
「人の怖さを覚えていきなさい……!」
フェイトの体内魔力が鳴動する。じくりじくりと世界に働きかけるよう、身体中が熱を持ったようにふつふつと何かが揺れ動いている。
少年を中心に、大気から世界魔力が引きずり込まれていく。螺旋のような軌道を描いて、無色透明であり、大気よりも感知が難しいそれが、しかし確かに自身にこぞって集まっていくのをフェイトは優れた魔力感知でもって察知した。
主人に尾を振り愛嬌を振りまく犬のようにそれが愛おしい。必要な時に、想像以上の結果を導き出せたとフェイトは満ち満ちた世界魔力に酔いしれる。毛並みを整えるように、優しく、柔らかく、魔力を導き、形を整え、そこに指針を与える。かくあれかし、そうありなさい、そうなって。
懇願し、命令し、服従させる。フェイトが求める姿になるように、世界魔力を時に理を捻じ曲げ時に万物の流れに任せる。
フェイトが両の腕を天高く捧げると、その空中にぼう、と音立てて暖かい熱が生じた。フェイトの頬を舐める熱と光は、緊張に昂ぶった心を宥めすかせるかのようだった。そして、それに近づき過ぎれば一転、苛烈なしっぺ返しでもって答えてくれることを悠然と語っている。
「さあ、焼き焦がせ」
小さく呟いた言葉と共に、狂気を纏い走る魔獣へ向けて、フェイトは自身の半身ほどある大きさの火球をぶつけた。
怒りだ、恐怖だ、殺気だ。今目の前にいる獣が纏っているのは、それら全てをないまぜにしたものだ。
血走った眼で、唸りと唾液を撒き散らしながら爪牙を振るう魔獣と相対しながらもヴァンタナはそれを冷静に退けていた。
丸太のような両腕で老体を捕らえ、頭蓋からまるまる噛み砕こうと大口を開け、それが叶わぬと知れば大きく逞しい巨体をそのままぶつけてこようとする。獣に理知があるかどうかは知らぬが、少なくともこの手負いの魔獣は先刻よりも随分と荒々しくヴァンタナを殺すことに躍起になっている。
「ぬぅッ……オオッ!?」
魔獣の突進がヴァンタナを捕らえた。咄嗟に剣と左腕を間に挟み、後方に飛び込むことで衝撃を軽減させたが、それでもなお大柄なヴァンタナを吹き飛ばすほどの威力がある。弾き飛ばされたヴァンタナは血に塗れた地面を二転三転し、痺れる腕を奮い立たせながら隙を与えぬよう素早く起き上がった。……が。
「くおっ!」
歯の隙間から零れてきた悲鳴に近しい声を上げながら、目の前に大きく開けられた顎を寸前で避ける。生暖かい呼気がヴァンタナの顔を舐めるように纏わりついた。身体中から冷や汗が滝のように流れ出す。
無理に跳ね起き、更に回避行動を取った弊害か、ヴァンタナの体勢が思わぬ方向に歪んでいる。その上、突進から身を守るために差し出した左腕から力が抜けている。脳内麻薬が盛んに分泌しているため痛みは感じていないが、骨か腱か、そのどちらかがやられているのはヴァンタナは経験で理解した。
「やらせるなお前らァ!」
ヴァンタナの大分後方にいたはずのフェイオンの声が、やけに近くから聞こえてくる。なるほど、先の一撃で随分と後ろまで吹き飛ばされたのか。ヴァンタナは極めて冷静に現在の位置関係を理解した。それと言うのも、感じる時流がやけに間延びしたものへ変わっているからだ。先ほどから自身の体勢は不自然な捻りを加えたまま変化はなく、以前、眼と鼻の先にはがちんと鉄の刃をぶつけ合ったような音を残して魔獣の上顎と下顎が鋏のように交差したまま動かない。
何度か体験したことのあるこの状態。これを現す言葉は二つ、無我の境地か、それとも走馬灯を見ているのか。
血の赤に塗れた黒橡色の巨躯を持った熊が、ゆっくりと右腕を振り上げる。前方に突き出した顔、その後ろから背負うように円を描いて、ヴァンタナを千々に引き裂かんと、豪腕が、その先端についた兇刃が、刻一刻と近づいてくる。
ヴァンタナの視界に映るその光景はやけに鮮烈で、ひどく明確だった。風に揺れる獣の毛先一つ一つが見てとれる。宙に舞い散る血の飛沫一滴一滴を数えることが出来る。
――相打つつもりだったがそうか。俺はお前に殺されるのか。
フェイオンたちの援護は? 無理だ、最早それを煩わしく思うよりもヴァンタナへの敵意が先立つ。剣を持った他の狩人は? 間に合わないだろう。そして、今魔獣に近づけば一方的に鏖殺されるだけ。技量が足りていない。
ケダモノの腕に纏わりつき滴り落ちる血が、やけに赤く、紅く、朱い。
いや、それは余りに朱すぎる。
まるで何者かに煌々と照らされているかのように。
振り下ろされる怪腕に、人の想いを凝縮したかのような熱量がぶつけられた。
ヴァンタナを両断するはずだった爪刃は空気を割る音を立てて、風に撒かれた枯れ葉を一枚断ち切るだけだった。
ヴァンタナがその熱源が向かってきた方向を睨む。フェイオンたちが仰ぎ見る。アモルがまさかと振り返る。
「何をしている」
ヴァンタナが小さく呟いた。
「何をしているフェイトォ!!」
次いで、ヴァンタナ自身の危機を救った張本人に届くよう声を張り上げて。怒声を上げた。
フェイトは眼を閉じたまま身動ぎもしない。まるで午睡に囚われているかのように、ふわふわと、地に足着かぬ様子で陶然と鐘楼の上に立っている。そして、そんな彼を守るようにして、先ほど魔物を襲撃したのと同じ大きさの火球が丁度三つ、空中に現れる。
フェイトの口元を、鷹の目のように万物を捉えるフェイオンの眼が射抜いた。彼の口角は確かに釣りあがり、笑っていた。それも、甚く獰猛に。
まるで獲物を一方的に狩る狩人のように、だ。
フェイトは知覚する。眼を閉じながらも、淀みなく巡る世界魔力の動きを感じ取り、再び己の手で愛しい三つ子を生み出したことを。
狙うべき獲物の場所もまた、見ずとも分かる、理解出来る。彼の体内魔力は人間と比べて余りに大きく、そして同時に獣臭すぎる。鼻につく。
「獣は森に、あるべき場所へ帰るべきだ」
人類の進化の象徴である、灯火。フェイトはそれを掲げながら獣を押し潰す。火球の一つが風を切り裂き、村の中を一直線に割るような軌道を描く。魔獣の腹部を抉るようにぶち当てる。もう一つの火球は上空から。半月を描くように、感覚はそう、ボールを軽く放るが如く、だ。
その二つ共が、フェイトの意志通りに飛ぶ。対象を追い払う。いや、正しくは、磨り潰す、だ。そんな意志が込められた火球が二つ、獣に襲いかかっている。
腹部への一撃で魔獣はたたらを踏み、塞がったはずの傷口を今一度抉った。ぶすぶすと血と肉が焦げる匂いが場に立ち込める。
頭蓋を割るように上空から飛来したもう一つは顔を焼いた。ヴァンタナとの剣戟を演じていた頃よりも凄絶な叫びを上げて、魔獣は顔面を襲う火を振り払おうと地面を転がり、腕で払い、唾液を撒き散らした。
そのさまを第六感とも言える鋭い魔力感知で視ながらも、フェイトは最後の一つ、残された火球とじゃれつくように戯れる。
一人の子供が、魔獣を手玉にしている光景は、途方もなく現実離れしていて、村の男たちは、ヴァンタナとフェイオンは悪夢に襲われているかのように錯覚していた。
「……フェイト! 何をやっている!」
我を取り戻したヴァンタナが、再び怒声をフェイトに向けた。
その理由も分かっている。やはり祖父だ、肉親だ。幼いフェイトが杖を持ちあんな化物と相対するのは耐え難く、恐ろしいものがあるのだろう。だけれど、止める気は一切ない。魔術師の強みはこれだ。遠距離からの大火力で敵を討つ。ヴァンタナたちが防塞として機能しているからこそ、その能力を十全に発揮しているだけだ。それだけ、ヴァンタナ、フェイオンを筆頭に男衆を信頼しているし、信用もしている。
分かる、分かるよ。そんな怪物からの敵意を孫に向けさせたくないのだろう。だけれど、ここにいるのはフェイト・カーミラであってフェイト・カーミラではない。ここにあるのはフェイト・カーミラではなくて、フェイト・カーミラである存在だ。己が為せることがあるはずなのに、それを偽って他者に任せることを好しとするほど、落ちぶれるつもりもない。
多分、この感情はアモルは分かっているんだろうな。彼だって、今の私の行動を眺めて、こう叫ぶことだろう。
――やっちまえ、見習い魔術師。
と。生憎今回は声を上げる余裕はないみたいだけれど。……さあ。
「随分と木々が近いですよ、羆さん。先ほどまでは随分と村に近づいていたと思うんですけれど」
閉じていた眼を見開き、山を背負いながらも未だ折れぬ視線をこちらへ寄越す獣を視認する。ほんの数十秒前まで、祖父と友人の父に見せていた、敵意をむき出しにした苛烈な視線が、フェイトに向けられている。
「そう、三人います。この場には貴方が敵視しなければならない存在が三人いる。そして私たちは貴方のその眼を」
へし折る。呟く言葉の代わりに、フェイトの周囲を漂っていた最後の火球が、ごうと盛りを上げ、返事をした。
この時、村にいた存在は誰一人気付いていなかった。フェイトとアモル以外の女子供、戦えぬ老人は全て屋内に避難して、ヴァンタナやフェイオンら男衆の視線もフェイトと魔獣、その双方のみに注がれていた。そして魔獣は憎しみに満ち、半ば狂気に染まった視線をフェイトへ向けており、そしてフェイト自身もまた、その視線を真っ向から受け止めている。
ここに一つの、空白が生まれていたことを、誰一人気付くことなく、村を襲う魔獣という災害との最終局面を向かえようとしていた。
フェイトが最後に残した火球は、それまでの二つよりも随分と色合いが違うものだった。比喩としてのそれではなく、文字通り、「色」が違う。赤というよりは、オレンジ。熱というよりは、光を纏っている。そんな色のものだった。大きさは、二つよりも少しばかり小さい。ただ中心部の更に奥、最奥に眠る熱量は三つの中で最大。「とっておき」と言っても過言ではない焦熱だった。身体中から熱を奪い、底冷えさせる魔獣の視線を頂いてもなおフェイトが平静でいられたのは、あるいはその火球が持つ太陽のような暖かさがあったからかもしれない。
そして今、その火球がフェイトの元から離れていく。ゆっくりと、しかし素早く、矛盾する二つの言葉を両立する速度で魔獣へ向かい一直線に飛んでいく。奇をてらうつもりのない、ただ真っ直ぐ、愚直に突き進んでいく。軌道は単純、しかし、魔獣もまた、それを仁王立ちして受け止めねばならないと本能で察知している。フェイトがそれに込めた呪いは「必中」。如何にして避けようとも、絶対に外すつもりのない一撃だ。ならば、それに最も適した対処は、万全の状態でもって迎え撃つこと。自己を鼓舞するかのように魔獣は雄叫びを上げ、迫る火球をじっと睨んでいた。
ヴァンタナに二の太刀は最早ない。衰えた自身の腕前に慙愧しながらも、縋るようにフェイオンを見た。フェイオンもまた、それを受け取り頷く。彼には二撃目の用意がある。獲物がフェイトの焔に撒かれたその瞬間、ヴァンタナが斬り裂いた傷痕の更に奥、心の臓を一矢で貫く。そのつもりだ。
コンセントレーションを高めながら、矢筒から矢を一本引き抜く。熟練の狩人だけが持つ鋭い眼差しで、狙うべき場所を射抜いている。
そして、膨大な熱を持つ火球と、莫大な破壊力を持つ魔獣の右腕がぶつかり合った。
瞬間、炎が爆ぜる。意志持つ蛇のように、魔獣の腕を、四肢を、身体を、焔が音を立てて奔った。咎人を縛る鎖のように、獣を拘束し、針金のような獣毛を溶かしていく。ごおおん、ごおおんと、鐘を突いたような世を祟る呪いの声が魔獣の口元から顕現した。
「凄まじいな、あのガキゃあ」
フェイオンは賞賛の声を漏らしながら、この一夜のフィナーレを飾るはずの一矢を投じた。
「さよならだァ、化物。お前の肉は何一つ無駄にゃしねえからよ、安心して……」
炎に抱かれ苦悶と不恰好に踊る魔獣を見ながら、フェイオンはその言葉を半ばまで口にした。これで終わるはず。蓋を開けてみれば、誰一人として死ぬことなく万々歳で終わる物語。主役は尊敬すべき老戦士と、分野は違えどその才能を十二分に受け継いだ子供が当てはめられるはずだ。
十数年もすれば、アモルが子供を作り、フェイオンはその孫に向かって夢物語のようなこの一夜を語っているはずだ。そしてその孫をフェイトのような出来た孫に育てあげるのだ。
――番えた弓から、手を離した。
魔獣をこの小さな村が追い払ったなんて聴いたら、その孫はなんと言うだろうか。到底信じられるはずではない。だが、この村には三人の勇敢な男たちと、それを支えた仲間がいたのだと教えてやろう。その内一人がこのフェイオン自身だと教えたら、その子はなんて顔をするだろうか。
――音を置き去りに、風を突き抜け抉る一矢。苦痛に喘ぐ魔獣はそれに何一つの抵抗も出来ず。
ぼけた爺さんの戯言だと笑うだろうか、それともきちんと尊敬してくれるだろうか。いや、証人はこの村の住人全てだ。きっと信じてくれるだろう。誇りに思える祖父になれるだろう。
――目が、合った。魔獣とフェイオン、二人の視線が絡みあった。その眼差しに諦念の文字はなく、溶鉱炉のように熱く滾る生への執着が、まざまざと、溢れ出ていた。
――仕留めそこなった、畜生!
魔獣の身体が、凍りついた。びしびしと空気を破裂させる音を伴って、毛皮が氷に覆われていく。氷は炎を鎮め、弓矢に穿たれた左腕と胸に走る大きな傷痕を多い尽くした。
フェイオンがすでに破壊したはずの左腕、体内魔力を十二分に利用した一撃を受けて既に機能を停止したはずのそれを、魔獣は氷を纏わせ無理矢理心臓の前に翳し決着の一撃を受け止めた。左腕に与えられた衝撃は全身に襲い掛かり、その両足がざりざりと地面を削りながら後方へ押しやった。一際太い大木にその巨躯を強かに打ちつけて、ようやくその勢いが減衰する。
「……化物かよ」
それは誰が漏らした言葉だろうか。ヴァンタナの一撃を受け、フェイオンの弓を二つ止め、フェイトの炎にその身を焦がされてなお、その魔獣は、生きている……。改めて実感する。「魔獣」という存在は規格外の化物なのだと。
流れ落ちている血が魔獣からもたらされる冷気により凝固していく。まるで赤い刃のような血塗れの氷柱が魔獣の毛先から幾つも生み出される。吐き出す呼気は白く染まり、地面は冷気に当てられひび割れていく。背後に背負った木々の皮は音を立て炸裂していく。急激な温度低下により、木の皮が爆ぜているのだ。
絶対的な死の瀬戸際に追い込まれて、魔獣は魔術行使に目覚めた。傷口は氷により塞がれ、身体はハリネズミのように固く鋭い氷柱に覆われた。大気の熱を奪い、人々の心胆を寒からせる。硝子のように空気を張り詰めさせ、村人の精神状態を一息に絶望の淵まで追いやった。
場を支配するかのように魔獣は周囲を睥睨する。その絶対零度の眼差しに、一人の狩人が、じわりと後ずさった。
「……ひっ」
「退くなっ!!」
ヴァンタナが、檄した。
恐慌の悲鳴を塗りつぶさんと、声を張り上げ押し留めた。
ここで一人が臆せば、それは群れの瓦解へ繋がると理解した上での叫びだった。
「逃げる場所など何処にもない。よしんば己だけが逃げおおせたとしても、友が、子供が、妻が、両親が、村が!」
「奴に蹂躙されるということを忘れるな」
切っ先を魔獣へ向けながら、ヴァンタナは言う。その言葉で、狩人たちは今自分たちが置かれている立場を再び自覚し、己を奮い立たせ、強い眼差しで獣と向き合う。
魔獣の視線は、三者を順に眺めていく。ヴァンタナ、フェイオン、そしてフェイト。最後の一人、フェイトへ視線を向けた後、そのままじっと動かない。それは理解しているからだ、今目覚めた自身の新たな氷、これに最も相性の悪いものはあの小さな生き物がもたらす技だと。
この力で、力で、力で! 眼前の矮小なる者どもを捻り潰すのだ! 砕き、断ち、貪るのだ! 獣は暗闇に閉ざされた天を仰ぎ、その決意を誓約と変えて空へ刻んだ。……その視界の端で、一つの小さな影が踊りでた。
誰も彼もがその存在を忘却の彼方へと追いやっていた。フェイトと同じく、守られる側の人間であり、大人しくこの闘争を眺めているものだとばかり考えていた。
だが、そんな独りよがりな考えを彼が唯々諾々と従うわけもない。いや、守られる側だと考えていたフェイトさえ隠し持っていたその牙をむき出しに、脅威へと立ち向かっているのだ。その姿を見た彼がならば自分も、と、そう思い立ち行動に移すことは何一つおかしいことはない。
魔獣を囲う人々から外れ、村の外れから山に入り、暗闇と草を掻き分け、木々を登り、息を殺し魔獣の背後までゆっくりと歩を進め、千載一遇の好機をじっと待ち続ける。
弓を受け、山の端にまで追い込まれた魔獣の頭を陣取り、そして今、狙うべき急所を堂々と晒している。
からからに渇いた喉で、搾り出すようにして唾液を嚥下した。緊張のためぐっしょりと塗れた手を何度もズボンで拭っては、持ち出した剣を握りなおす。
――声を上げるな。
どくんどくんと激しく暴れ回る心臓を左手で強く押さえ込む。皮膚に爪が食い込み、じわりと血が滲んでいることさえ当人は気付いていなかった。
深呼吸を一度吐く。深く深く、肺の中の酸素を全て吐き出すかのように。
鉛のように重い脚を、気力を振り絞り立ち上がらせた。がくがくと膝が笑っているのが分かる。
血の気は引いていて、重力に従って木の上から落っこちてしまいそうだ。
――ああ、それでいいや。飛び降りなきゃいけないんだし、いっそそれに身を任せてしまえばいいんだ。
両手をだらんとぶら下げて、握った剣は滑り落ちてしまいそうなほど力を緩めて、アモルは、魔獣へ向かい、墜落する。
するりと空を滑るようにして、自然体のままアモルは落ちる。自重に任せて、剣の切っ先を相手へ向ける。それだけでいい。あとは物理法則が全てやってくれる。自分は何一つ力まずともよい。
そして、天を仰いだけだものへ向かい、ひとりの少年は、その眼へ刃を突き立てた。