第十七話
城だ。そこは朽ちた城だった。堅牢であったはずの城壁は打ち捨てられ、壮麗であったはずのステンドグラスは埃と泥に汚れ、描かれていた聖母の顔は其処には無い。噴水の水は涸れ、蔦が這い、庭園には一切の花はなく、鬱蒼と雑草、木々が雑然と根を生やしている。外壁も内壁も、もはや囲いとしての体を為しておらず、無惨にも崩れ落ちたそのざまは、過去の栄華と現在の無常を表裏のように抱え込んでいた。
生きていたはずだ、この城も。過去、ここには生者がおり、そして栄華を極めていたはずだ。しかし最早亡者の城。ひと時の名誉も栄誉も富も財宝も、全て、その全てが朽ちてしまった。
闇だ。濃密な闇が其処にはあった。命の鼓動を打つものはその場に誰一人、何一つ存在しえなかった。中天を瞬く星々、その光さえこの空間においては輝きを失ってしまったような、全てを巻き込み喰らい尽くす暴力的なまでの黒が怨嗟の声を上げ鎌首を擡げていた。
そんな死んでしまった城に、遠い歴史の過去に置き去りにされた城に、声が響いていた。音のする場所は謁見の場……であったところだ。敷かれてあった赤の絨毯も、華美な装飾が施されてあったのであろう玉座も、最早目も当てられぬ惨状になり果てている。歳月と自然が物質に内包された命というものを、積み重ねてきた想いというものをそぎ落としていたが、しかしそのヴェールの上からじっと目を凝らせばとある残滓がかすかに見える。……略奪と暴虐が、この場所には埋没している。
天井に描かれた太陽と月の絵画。その北西辺りは既に落ち、雨曝しになっていた。声が聞こえる。
「行かれるので……?」
軽い、音だ。石灰岩同士を叩きあわせたような音を伴って言が紡がれた。
「ああ、行こう。……今日は善き日だ。予感がする。強者が生まれる、予感が」
答えたその声は、先ほどよりもずっと重い音を伴っていた。そして随分と、音が多い。軋むような、拉ぐような、鬩ぐような音のオーケストラが、壁のように聳え立って耳朶を打つ。
「素晴らしい! 素晴らしい一日になりそうだ……。惚れ惚れとする。全てが生を賛歌している! ああハレルヤ! 新たなる命に祝福を! 強かなる生命に歓喜の歌を!」
正体は分からぬそれが、暗闇に鬨の声を上げ、空を裂いた。声の主に同調するように床を打つのは蹄の音。そして、馬の嘶きが追随する。
「……それではお気をつけて、主人よ」
きっとその声の持ち主は臣下の礼を取っているのだろう、声に含まれた服従の、そして親愛の気配からそれが読み取れる。
「ああ、行こう。さあ、行こう。留守は頼んだぞ、ブラムス」
先ほどよりも一際大きな馬の嘶き、そして蹄が床を叩く音がする。尋常のものではなく、爆発音に似たものだ。
そして死者の城の城主は、夜を駆けた。
弓の雨が、降ってきた。冷徹な眼で己に向かい来るそれを睨ぐ魔獣は、毛ほどの恐れも臆もなく、ただ仁王に立ちその全てを受けとめた。鋼のように固いその体毛、その奥にある隆起し、躍動する筋繊維。ただそこにあるだけで難攻不落の砦の様相を見せている。
未だ彼は、姿を現したその場から動きを見せていない。否、何をするべきか、それすら分かっていないように思える。それもその筈、彼は生まれてから未だ間もない幼子のようなもの。そう、そして彼は『絶対的な強者』として、今そこにあるこの姿のまま、現世に生をうけたが故に分からない。何故目の前の矮小な彼らは己に歯向かうのかと。傲慢でも驕慢でもない、ただ純粋に思う、疑問。しかしそれこそが人という身からして見ればどこまでも驕り高ぶったことではあるのだが。純粋に、ただ不可思議に人を見下すその純真が透明度が高ければ高いほど、人の自尊心を傷つけ、心をささくれ立たせる。
だがそれにしても、いい加減羽虫が煩わしくなっていた。弓矢は、まだ、いい。それよりも何よりも心をささくれ立たせるものは、懐にまで潜り込まんとするこの人間。矮躯をより一層縮こませて、随分と窮屈そうに、せせこましく見える存在だが、その、一撃一撃の、斬撃が、酷く……。
通らない通らない、腿、脇腹を切り付けるもそんな鈍らでは皮を裂くことさえ叶わない。しかし、それは、余りにも。
ごう。
風を切る、いや、風を割る轟音がヴァンタナの身をかすめた。頬を叩く風が熱い。頂から突如として振り落とされた雷鳴のような一撃、右手の爪撃。魔獣とヴァンタナの視線が絡む。
そうだ、それでいい。貴様ら獣はそれでこそ獣足りうる。
明確な敵意をその眼差しに宿していることがはっきりと伺えたその瞬間、闘争が始まった。
熊の魔獣に最も隣接した場所にいるのはヴァンタナただ一人だ。ヴァンタナの切っ先が届くその至近。つまりそれは獣の懐。それから少し離れた場所に半円を描き囲む数人の剣持ち。更にその後方から狩人たちが弓を射掛けていた。ヴァンタナの背後に誤って射掛けられるものはなく、それは狩人たちの技量とヴァンタナの信用、そして何よりも標的の大きさを表していた。
ヴァンタナは滑るように目まぐるしく魔獣の周囲を動き回り、その身体を捉えさせない。そしてそちらばかりに気をやれば囲んだ者が切りかかる。生まれて初めての『狩り』に、『人の賢しさ』に、苛立ち戸惑う獣は今一度激情をぶつけるかのようにして咆哮を挙げる。
「……いや、凄いなあれは。流石ヴァンタナさん、としか言えないな」
随分と離れた家屋の中から、薬師リリアムが呟いた。
怪我人一人出さない。ヴァンタナは確かにそう言っていた。そしてこの方法ならば、このまま事態が推移すれば確かにそれは可能だろう。……しかしそれにしても、幾重にも弓が射掛けられ、何合もの剣閃をその身に受けてなお、未だ一切の衰えを見せぬあの魔獣は、果たして膝をつくことがあるのだろうか。リリアムは内心で不安を覚えた。一向に傷ついた、疲弊した様子が見えない。確かにヴァンタナが魔獣の注意を一身に受けているこの間、彼がかわし続ければ無傷で戦闘を終えることが出来るかもしれない。だがあの距離あの場所あの野生。もしも一瞬の判断の遅れ、あるいは体力の低下でほんの少し動作が遅れてしまえば。
――傷どころの話じゃない。
待つのは死。あまりにも明確で、簡単な答えだった。そしてもしもヴァンタナが力付いたそのとき、その圧倒的な支配力で場を掌握する彼が地に伏したとき、こちらの士気は激減し、魔獣を抑えつける箍がない。その先に待つのは……一方的な鏖殺。想像したリリアムの背中を冷たい汗が伝った。
「気をつけてくださいよ……ヴァンタナさん……」
祈るような、縋るような口ぶりでリリアムは独白した。
豪腕が唸る。怖気が走り、神経を断ち切っていくような爪の軌跡が虚空を掻く。一撃一撃に必殺の意思と力が籠められており、そしてそれがこの魔獣にとって何一つ変哲のない『ただの一撃』なのだ。溜めも何もない、息継ぐ間もなく交互に両腕を振るう。大気を刈る大鉈のようなその獲物は、まるで黒い竜巻のような破壊力でもってヴァンタナに迫り続けた。常人ならば一撃で首が跳ね飛ぶ猛威の只中にあって、しかし未だかすり傷一つ負っていないヴァンタナには感嘆の声を告げるほかない。だがその切っ先がヴァンタナの髪を掠るたび、どう、と滝のような汗が額から滴り、飛沫を上げていた。地面には血の痕はなくとも、豪雨に打たれたかのような水滴の痕がまざまざと残されていた。
息は荒ぎ、太腿は不規則に脈打ち痙攣する。微かな隙を見計らって剣を振るう。分厚い毛皮や脂肪に弾き返され、一見して何の影響もないようにさえ思える。しかし、確実に効いてはいる筈だ。ヴァンタナは自身を信じ、剣を振るい続ける。だがこのままでは剣が肉を切り裂くよりも早く、己の剣が朽ち果ててしまうのではないだろうか。抱く恐怖が、確かにあった。それさえも噛み殺し、また一歩、力強く踏み込んだ。裂帛の気合を、声も上げずただ一振りに注いで、振り下ろされた左腕を裂く。
――剣先が、赤く閃いた――
僅か数滴の血が、空中に跳ねる。その飛沫の一滴が、ヴァンタナの頬につく。伸ばした舌で其処を拭えば、酷く生臭い、獣臭と鉄錆びた匂いが口腔に広がった。
――通じる、確かに通じる。
一筋の光明は、見えた。だがまだ遠い。一撃にて腕を弾き飛ばすような衝撃が、必要だ。狙うべくは体内魔力を用いた必殺の一撃。ほんの少しでいい、一瞬でも体勢が崩れるようなことさえあればそれを叩き込める。
だが、一人では無理だ。個人の技量でそれを成し遂げるのは不可能。故に、いつだってそうだった。ヴァンタナはいつだってそうして戦ってきた。一人ではない、個ではない。彼の背中には、今までも、これからも、仲間がいた。
射る、射る、射る。弓を射る。番え、引き絞り、照準を巡らせ、放つ。一つ放ったと思えば、ついで数本の矢が追随し、魔獣の身に迫る。……しかし。
「……チッ」
舌打ちが零れ出る。もう幾つ放っただろうか。獣とヴァンタナの周囲には剣山のように射られた弓が大地に突き刺さっていた。だがその尽くが獣が持つ鉄壁に阻まれ一向に手応えがない。このままであれば千日手もいいところだ。
「嫌んなるくらい固ってえぜあのバケモノ。こっちぁヴァンタナさんの邪魔しねえように射らなきゃならねえってのに」
狩人の一団を背負いながら、フェイオンという一つの才能が舌打ちをした。
魔獣と至近距離で斬り結ぶヴァンタナの動きを眺めながら、フェイオンは援護射撃をし続けていた。まかり間違ってもヴァンタナに矢が降りかかることのないように、阿吽の呼吸でお互いの意思を読み合い獲物の行動だけを阻害するように矢を放つ。その一矢が鏑矢のようにして、フェイオンの背後の一団が追随して矢の雨を放つ。先ほどから延々とその繰り返しだ。
結局のところ、乾坤一擲の一撃が必要になる。ヴァンタナにしてもフェイオンにしても、決定的な一撃を打ち込めない限りジリ貧なのは確実。そしてこの場にいる人間の中でそれが出来るのは、練達の「業」を持つ二人だけ。つまるところそれはやはり、ヴァンタナとフェイオンだ。
「ヴァンタナさんよう! 俺が右腕弾くから! 一発そいつに見舞ってやんな! 後ろのおめえらは左腕をどうにかしやがれ!」
フェイオンが声を張り上げヴァンタナに告げる。後方からは『応!』と勇ましい合唱が聞こえてきたが、ヴァンタナには当然応えを返す余裕もなく、しかし端からフェイオン自身それを期待しているわけもない。返事を待たずに矢をつがえ、引き絞る。
――どうせタイミングは言わずとも分かってンだろヴァンタナさんよう!
精神を落ち着かせ、体内に巡る魔力を感知する。血液と同じように身体を巡回し続けるイメージのそれを、背筋、胸筋、両腕、そして大地を踏みしめる土台である両足に留めていく。魔力の変調により僅かに乱れた魔力の流れは、微細ながらも世界魔力にまで影響を与え、フェイオンの足元で風が逆巻き落ち葉がかさかさと巻き上がった。
脱力しながらも筋肉を強張らせるという矛盾した行為を両立させ、限界まで弓の弦を張り、割れんばかりに歯を食いしばる。
刹那、周囲の風が凪ぐ。
獣達の潜めた息も、血気に逸る男衆の荒々しい呼気も、眼前の羽虫を叩き潰そうと躍起になっている獣の咆哮も、必死に食い下がるヴァンタナの乱雑な土を踏みしめる音も、全てが静寂に沈み、まるで空間が凍りついたかのような錯覚にフェイオンが囚われたその一瞬、弓矢が、鷹のような鋭い鳴き声を上げた。
「狩られろや熊肉ぅ!!」
フェイオンの叫びと共に飛燕と化した矢が魔獣の腕を射抜いた。
「ぬぅん!」
それと同時にヴァンタナの足元が爆ぜた。裂帛の叫びと共に、強く大地を踏み染める。
比喩ではなく、土が炸裂し、罅割れた音を立て、ヴァンタナの双脚が地面を抉り、踏みつけ、めり込んでいる。
連動してヴァンタナの上半身が肥大する。音を立て、筋繊維と血管が浮かび上がり、常よりも一回り、いや、二回りは大きく隆起している。
「はああああああああああああ!!」
両手に構えた剣を背負うようにして、身体ごと体重を乗せぶつかるようにして袈裟に切りかかる、それに合わせて飛来する、煩わしくもこれ以上ないほど的確に動きを阻害する矢の嵐。
魔獣の双眸が、ゆっくりとそれら全ての事象を捉えている。
頭の中ががんがんとやかましい。身体中の全ての細胞が熱を帯びて震えている。
――なんだこれは。なんなんだこれは。
理解しがたい感覚が己の身体を支配していく。避けようとしても避けられない。動こうとしても動けない。張り付けられた蝶の標本のように、身動ぎの一つも出来ない。
ゆっくりと迫るヴァンタナの凶刃を前にして、生まれて間もないケダモノが、今体感している感情が「死への恐怖」だと理解するのは、今しばらく後のことになる。
リハビリだから、という訳でもありませんが短めです。
余り長さには拘らないようにします。