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確約された不幸を手折って  作者: 山浪 遼
幼年期。始まりの終わり、終わりの始まり
16/53

第十六話

 宵闇だ。周囲はとぷりと漆黒に塗れて、眼前にある物の正体さえ定かではない。果たして其処に何かがあるのか、何もないのか。それさえも夜のはらわたに収まっていて、時折吹く風が体をなぞる度に己が只、其処にあることを現実のものとして感じさせる。

 星明りも、ない。光年の先にある遥かなる光も、幾重にも重なる草木によってその姿は隠され、さらさらと降り落ちる暖かみさえ、その全てを遮断していた。

 それが吐き出す呼気は生暖かく、同時に酷く冷たく、黒に揺蕩う白い靄はまるでこの森で死んでいった獣達の行き場ない魂のような面持ちで佇んでいた。

 音も無く、灯火もなく、まるで其処は世界の最果てのようだった。最果てにある、死者の躯なき墓場。簡素な墓碑を表すのは、屹立する一つ一つの木々。墓守は、『彼』。

 しかし、世界が彼の周囲をそう作りだしているのか、彼が狭いその世界をそう作っているのか、答えは曖昧模糊に隠されている。

 此処に生者はある、確かにある。息を潜めて、ただ嵐が過ぎ去るのを恐々と待ち続ける赤子のように、彼が過ぎ去るのをじっと待っている。

 彼にとって背中丸め怯え続ける存在は、歯牙に掛けるものではなかった。餓えていない、理由もない。なのだから息を潜め隠れ続けるものたちを一瞥するのみで、真っ直ぐに悠然と四肢で歩む。彼の左右に伏せる畏怖するものたちはまるで暴君に仕える哀れな臣下のような姿で、彼はそれを睥睨するかのように進んだ。

 此処に灯火は未だない。だけれどその在り処は、きっと近い。


 明るいはずの村の喧騒は、何時の間にやら不安と疑惑に覆われたものへと変容していた。家の前では女子供が戸惑いに濡れた視線をヴァンタナに寄せている。それを振り払うかの如く、ヴァンタナの歩みは駆けているかのような速度に至った。

 木製のドアを開き、軋む音が室内に反響した。無数の視線が、屋内に入り込もうとしたヴァンタナに向けられる。圧力を伴う、様々な感情に揺れるものだ。ヴァンタナはそれを一度入り口で受け止め、村の集会所、其処に集まった男達の前へ進み出た。

 沈黙の帳が、場に下りる。此処に集められた男達は、その全てが狩人職、あるいは村の警邏役を行っている者達だ。しかしそのほぼ全員が怪訝な表情を見せている。集められた理由を知っている者、知らぬ者。その違いこそあれど、表情は皆等しい。そんな光景を、前に立つヴァンタナはこう思う。少しばかり拙い。彼らが見せる表情は訝しげではあるものの、何処か間の抜けた色が隠れている。平和呆け、とでも言うのだろうか。どうにもその感覚がヴァンタナには分からなかった。危機感、非常時への対応を経験するいい機会なのかもしれない。ヴァンタナはそう考えた。警邏組の指導に当たっているのは自身だ。だからこそ今この過ちを是正する好機が生まれたのは是非もない。

「知っている者も多いかもしれないが」

 顎鬚を(さす)りながら、ヴァンタナは第一声となる言葉を告げた。

「フェイトとアモル、この二人が祭りの準備を勝手に抜け出し、そして……」

 視線を寄せ、耳を傾ける男達。

「化物の気配を感じたそうだ」

 この一瞬が、災厄の呼び鐘。始まりが終局へと向かう最後の一言。日向にある優しい日常は、音を立て朽ちていく。


 フェイトとアモルは、転がるようにして山から抜け出した。顔も服も土で目も当てられないほど汚れて、木の葉が少年達の頭にぶら下がっている。アモルは蜘蛛の巣を被っていて、それを取り払うのに躍起になり、フェイトはその場に蹲り幾度となくえづいた。二人が村に帰ってきたときには既に黄昏時も過ぎていて、村のあちこちでは篝と灯火が焚かれ、オレンジ色の柔らかな光が零れ出ていた。

 満身創痍の身ではあったが、二人は荒い呼吸が整うとすぐさま村の中心に向かって再び走り出した。伝えなければならない、あの足跡のことを。告げなければならない、あの獣達の行動を。駆ける少年達の視界の中にヴァンタナの姿が写った瞬間、二人は膝から崩れ落ち、ヴァンタナに取り縋った。

「せ、センセぇっ……聞い、聞いてっ、ゴホッ、くれっ。山、山に化物、がっ。」

「あの山に、化物がいるかもしれないっ!」

 暗闇の中、朧にそびえる遠き山を指差し、アモルは絶叫し、その血相と叫びはヴァンタナのみならずその周囲にいた村人にも伝わった。


「なあ、ヴァンタナ。こう言っちゃなんだが、餓鬼の戯言ってことじゃねえのかい?」

 集会所に集まった中の一人の男が言った。子供の悪戯を見咎めた時に表れる、嗜虐味が含まれた笑みを浮かべて。その言葉を受けて、幾人かが同意を示す目線をヴァンタナに向けた。

「嘘を吐く理由がない。この時期、この時分にそのような妄言を吐くような子供でもない」

「そりゃああんた、孫なんだから贔屓目ってもんが入り混じ」

「第一」

 制するように、圧するようにヴァンタナは声を紡ぐ。

「嘘だとして、何が問題か。真実を確認し、彼奴らがふざけていただけだとしたら」

 ばきん、と、音がした。音の正体、源は何処か。数人が聴こえてきた方に目をやる。それはヴァンタナの右手から聞こえていた。ヴァンタナの前にあった机には彼の右手が置かれていて、それは今、不可思議な形に一部分が削ぎ落とされている。

「灸を据えて終わりだ」

 ヴァンタナは右手を眼前に上げ、握り締められていた拳をゆっくりと開いた。掌からは、粉々に砕け散った木片が滑り落ちていった。

 誰かが唾を飲む音がした。誰一人声を上げない。騒ぎ立てればヴァンタナのその圧力が自身に向かってくるように思えて、皆が皆黙していた。ただ一人を除いて。

「俺も贔屓目ってワケじゃあねェけどよぅ」

 欠伸を噛み殺し、小指で耳を掻きながら、暢気な声が聞こえてきた。

「息子の言うこと、信じるぜ」

 フェイオンはそう言った。

「……理由はあんのかよ」

「理由? ねえけどよう。んー……しいて言うなら、勘?」

「勘ってお前……」

 男が呆れ果てたように溜息を吐いた。それをまるで心外だと言わんばかりに眉根を潜めたフェイオンは更にこう続ける。

「言われてみれば、確かに嫌ぁな予感がするんだよなぁ……。血の匂いだ。それがするぜヴァンタナさん」

 鷹のような鋭い眼光が、ヴァンタナを真っ直ぐに捉える。ヴァンタナは僅かに首肯し、話始めた。

「今回の警邏はその指導者として全員の参加を要請する。そして、フェイトとアモルの言葉は全て真実だとして動いてもらう」

 一瞬、非難の感情が場に漂ったが、村における絶対的強者二人が相手では抗う気炎も湧き上がらず、反発心が芽生える前に霧散した。

「さて、此処から先は僕が説明しますよ」

 ヴァンタナの横に立ったのは白衣姿の男。薬師のリリアムだった。

「彼ら二人が見たという足跡は蜂蜜熊(ハニーベア)のそれよりおよそ倍以上。此処から推測するに高さもその倍。重さは二倍から二.五倍程度、と見ていいだろうね」

 その言葉を受けて集会所がにわかにざわめいた。予想以上の巨体だ。もしもそれが実際に存在すれば、の話だが。

「足跡自体は熊とあまり変わりなかったそうだ。つまり今回現れたと思われる化物の可能性は三つ」

「一つは蜂蜜熊の一際でかい固体。……これはあまり信憑性にあるものではないね。固体の平均と比べてもあまりにでかすぎる」

「一つは全く別種の熊が山を越えやってきたか。可能性としてはこれが一番高いと僕は考えています。時期的にも越冬の為餌を活発に集める行動と一致している。……その分最初に挙げたのと比べて危険性が高い。蜂蜜熊は臆病で草食だが、別種の熊もまたそうであると言い切ることが出来ない。一山、二山越えた向こうに餌がなくて此処まで来たということなら、十二分に餓えて凶暴性が増している可能性がある」

 何時の間にやら、子供の悪戯だと言っていた者さえ、真剣な眼差しをリリアムに向けていた。リリアム自身、徒に恐怖心を煽るつもりはないが、もしも化物が実在しているのであれば、それが少年達の見間違いでなければ、事前知識を叩き込んでおくことこそ重要なのだから。

「そして最後の一つ。最も可能性が低く、そして最悪のパターン」

 ざわめきが止み、無音が場を形成する。リリアムがゆっくりと口を開き、その場にいる全員が集中し耳を傾けている。

「『魔獣』の、誕生」

 室内が、通夜を向かえたかのように静まった。

「今現在、魔獣が生まれる理由は明らかになっていません。種族として魔獣に分類されるもの。歳月を重ね獣から魔獣へと至るケースもあり、そしてまさに自然発生、偶発的にその場に突然生ずることもあると言われています」

「……今回、我々は魔獣を相手にすると考えて頂きたい」

リリアムの言葉を繋ぐように、ヴァンタナは言った。

「最悪を想定する。そして今回が警邏隊として初めての仕事になる。悠久の安穏などはあり得ない。それは俺の経験から来る持論だ」

「今回の事態、皆が高い意識で当たってくれることを切に願う」

「……さて、問題点はそれだけでもありません。どうやらアモル君たちが言うにはその何かしかの脅威に晒され、他の獣も山を降りてきているという話。合わせて対策を考えましょう」


 獣を、どうする。ヴァンタナたちは、どうする。

 決まっている。真偽を確かめ、もしもあの足跡の持ち主が存在するのなら、何としてでも狩るはずだ。豊穣祭は近く、数多くの行商人などが訪れる掻き入れ時。もしもその時にその化物の存在が(つまび)らかにされればどうなる? それは村の信頼に関わる由々しき事態へと発展する。「あの村には化物が潜む」。そんな風評が立った村に誰が好き好んで訪れようとするものか、商いに向かおうとするものか。山間の寒村にとって流通がなくなるということは、人体において血液が絶えることと等しい。

 無用の不安は、沸き立った瞬間根本から叩き潰す必要がある。その為には必ず大人たちは動くのだろう。そう、大人・・たちは。

 だからこそ、フェイトは疑問に思う。

『自分自身は一体何者なのか』

 入れ物は子供で、注がれた中身は大人。外観にはオレンジジュースとラベルが貼り付けられ、しかし蓋を開けてみれば中身は芳醇なワインのようなちぐはぐな存在。今まではそうして擬態してきた。そうせねばならなかった。他者が見るのは表層的なものだ。それが歪であれば、人は群れから排斥される。故に人を欺き、己を抑制せねばならなかった。

 その理由は、誰も彼もフェイトの内質というものを窺い知ろうとしなかったから。いや、その行為は酷く不躾なもので、踏み込んでいいものなのか、甚く敏感で曖昧な境界線を跨ぐ必要性がある。それを(おの)ずから望む存在が果たしてあるだろうか。第三者が人の内面を知ろうなどと、そんな不可能なものはない。だから人は容易に欺ける。では、自分自身は? 己は自身が立つべき正位置を知っている。それを無理矢理捻じ曲げて、見るも無惨な姿でスクリーンに映っている。浮かぶ虚像は確かに子供だ。だが、その姿に負荷がないと言えば嘘になる。雨垂れが永年の時を掛け石を穿つように、じわりじわりとフェイトを変容させていく。

 精神(こころ)肉体(からだ)を引きずり、肉体が精神をかき乱す。立場が人を作り出す、そんな言葉がある。少なからずフェイトという存在は中身が容れ物に近づいていた。しかし、庇護され続ける己を見て、恐怖に震える矮小な己を見て、激しい反発心が生まれつつあった。

 自分自身がどうあるべきか。迷いながらも答えを見出そうとして「……ィト!」

「…………はい?」

「なんだよいきなり押し黙って。話聞いてたのかよ」

 すぐそこに、アモルの顔。

「……はい」

「嘘だろ」

 アモルがフェイトの鼻先を抓む。

「いひゃい。……すいません聞いていませんでした」

 赤くなった鼻先を擦りながら、フェイトは正直に答えた。呆れた、そう言わんばかりにアモルはフェイトに冷ややかな目線とため息をよせた。

「俺たちで、何か、出来ないかってことだよ」

「何に対して、何をですか」

「あの足跡に対して、何かを」

「……足跡埋めにでも行きますか、今度」

「分かってて言ってるだろお前!」

「あの足跡の正体に対してだよ! 親父たちが動くにしても動かないにしても! いや、動かないのなら俺らで探しだして狩ってやるんだ」

 首を掻き切る仕草をして、アモルは奮い立った。フェイトはそれを冷ややかな眼差しで見つめるのみ。

「動きますよ、確実に。……私たちが狼少年のような振る舞いをした訳でもなしに、信用が地に落ち這い(つくば)っているだなんてあり得ません。私一人なら兎も角、アモル、君は既に(とお)を過ぎた年齢だ。妄言を吐く頃だと思われるには、些か年を取り過ぎている。村の状況祖父の思考その他諸々加味すれば、動かない訳がないと馬鹿でも分かります」

「それは俺が馬鹿ってことを言いたいのか?」

「違いますよ。『子供は黙って大人に任せていろ』ってことです。大人に、ね……」

 話は終わりだ。そう言わんばかりにフェイトは立ち上がりアモルに背を向けた。

「……臆病者の考えだ」

 その背中に、誹る声がぶつけられる。掛けられた言葉に少しばかりの逞しさを感じ取り、微笑を浮かべ、しかし決してアモルにはそれを見せずに、フェイトは答えた。

「臆病と豪胆、勇猛と蛮勇は違いますよ」

「違わない。その一線を踏み越えられるかどうかでそれは分かつんだ」

「それも私の考えとは違います。勇猛と蛮勇の違いは結果論でしか語れない。無謀を行いそれが成功すれば勇壮であって、失敗し死んでしまえば無策の愚者です。……これでは君を止める理由にはなりませんか? ならば平たく言いましょう」

「蛮勇が許されるほどの実力さえ身につけていないんですよ、アモル君」

 辛辣な言葉だった。熟練者から見れば遊びにさえ見れない、それでも共に短いながらも確かな冒険をし、お互いの実力をはっきりと理解しているからこそ、背中を任せるに足る人間だとアモルが思っていたからこそ、己を誹るその言葉が痛切だった。

「……そうかよ。……何処に行くんだ?」

「家に帰ります。服にしたって身体にしたって汗と泥でぐちゃぐちゃだ。着替えたいし、一休みしたい」

 項垂(うなだ)れるアモルを尻目に帰路への道を歩むフェイトの表情は、嫌に明るく、満足気なものだった。

 逞しい、麦のように彼は不屈だ。フェイトは知っている。あの化物の残滓を目の当たりにした時の驚愕の表情を。フェイトよりも獣に近くあるアモルは、フェイトが思いかべた怪物の想像よりも生々しく、そして重量を持って彼の脳裏に姿を現したはずだ。思考に焼き付く影を纏った化物の不安に抱かれていて尚、手ずからそれを狩ると言える精神の頑丈さ、切り替えの早さは賞賛に値する。成程確かに先ほどのアモルの主張は己の実力を棚に上げた短慮な意見だ。しかしそれを抑える役が居るのなら、何ら問題はないだろう。未だ、アモルは子供だ。先を焦る必要はない。その精神が成熟を迎えれば、素晴らしいものへと至るだろう。

 だからそうだ。今回は大人に任せておけばいい。そう、大人に……。


 まず、獣たちと足跡の正体を知るために幾つかの先遣隊が組まれた。村に残った者たちは柵を立て、篝火を焚き、山を下りている獣が村にまで侵入してきた際の迎撃の役割が与えられ、前者にはフェイオン、後者にはヴァンタナが中心として選ばれた。

「じゃァ、まァ、行ってきますわ」

「ああ」

「くれぐれも、無理はしませんように。いいですか? もしも……『魔獣』、そう言っておきましょう。それを見つけたとしても先遣隊のみで当たらないでください」

「了ォ解……。分ァってるって。全ては手筈通りに、村近くまで引きずり出して、ヴァンタナの旦那らの残留組と同時に当たればイイんだろ?」

「……言い換えれば囮役でもあります。危険性に変わりはありません。どうかご無事で」

「あいよ。そんじゃあ、皆々様、行きますかァっと」

 あくまで平常通りの、肩の力が抜けたフェイオンの言葉に、応、という狩人連中の野太い声が唱和する。

「何時も通り、ですね。図太いというか何と言うか」

「だが頼もしい。そうだろう?」

「……ええ、全くその通りです」

 山に入る男たちを見送ったヴァンタナとリリアムも、己が役割へと移っていく。

「さて、今日は赤字覚悟の薬品大放出ですね。擦り傷切り傷何でもござれ。……豊穣祭のための作り置きなんだけどなあ……。ま、ケチケチ言ってられませんで。ヴァンタナさんも何かあればすぐさま僕の所へ駆け込んで下さいよ。……死人を見るのは御免ですから」

「先生、その不安は無用だ」

 どういうことか。リリアムがそれを尋ねるより早く、ヴァンタナは紡いだ。

「死人も怪我人も、誰一人出すつもりはない」

 日常ならば圧迫感さえ与える巌のような強面が、この時ばかりは頼もしい。


 フェイオンが山に足を踏み入れ数十分。村を振り返れば常よりも明るい焔の明かりが照らしている。やはり、違和感だ。異常な行動一つ一つが今が非常事態であることをしっかりとした重力を伴いフェイオンへ降りてくる。同時に極めて落ち着かない。感じる、確かに感じる。幾つもの視線。木々のまにまに、闇の狭間から忍ぶように、潜むように、脅えた獣たちの重なり連なる視線だ。

 じっと見ている、こちらを見ている。自らの領域を侵している人間をただじっと見ている。

「いるな、こりゃア」

 すぐ側を歩いているのに、唸りも上げず、姿も見せない。ヒトなぞよりも恐ろしい何かから、その幻影から首を無理矢理押さえつけられている。

 フェイオンの肌が粟立つ。この山にいる獣その全てを支配する未知。果たしてその姿は如何様なものか。出来うることならば、己の想像の範疇に収まっていることを祈って。

 その瞬間、雲雀の鳴き声に似た甲高い音が闇夜を(つんざ)いた。各組毎に渡されていた鏑矢が宙を切り裂く音だ。

「方向はっ!」

 男が叫ぶ。

「北北西! 急げ! 近いぞ!」

 狩人たちは平時の隠形(おんぎょう)さえかなぐり捨て、音が残響する方向へ駆け出した。


 鏑矢を射ったのは、齢四十過ぎのクライフという狩人だ。フェイオンのように隔絶した技量を持っている訳ではないが、フェイオンと同じように生まれて間もない頃から弓を握り、まるで狩人であることが自然の成り立ちであるかのように、在るべき姿として収まった男、変哲のない男だった。何の飾りもなく、贔屓目もなくただ率直に彼を評するのならば、凡人。その一言に尽きる。しかし同時に自身の力量を驕りもなく、謙遜もなく、誰よりも正しく把握していたからこそ、しっかりとヴァンタナの言を信じ、フェイオンの勘を評価していた。故に眼前のその存在に一分の疑問も持たず、己が今この瞬間に為すべきことを逡巡なく行った。

 天高く翔ける鏑矢が、眼前の怪物が発する威圧から生じた戒めを解いた。遭遇した組が出会ったそれは何物よりも厚く、大きく、重く、そして強大だった。

 二足で立てば、高さは二階建ての家屋に近しく、その巨体はただあるだけで場の地形を沈下させているようにさえ感じられた。

 その巨躯の持ち主は、じっと人々を見つめている。硝子玉のような空虚な瞳は、一切の感情の起伏を読み取れず、ただ、そこにある存在を眼に写しているだけ。果たして彼らを一個の存在として看做しているのか。それすらも定かではなかった。

 全身はやや青味がかった黒橡(くろつるばみ)色の体毛に覆われていて、一本一本が針金のように硬く、まるで重装鎧のような堅牢さを誇るのが容易に伺えた。四肢は太く、硬く、逞しい。爪は鋭く、一薙ぎで人間など襤褸のように裂き、齢百年の樹木でさえその例に漏れないだろう。

 如何様な愚か者でも理解しうる、種族を超えた圧倒的な武力が滲んでいた。

 ある。そこにある。ただそれだけで他者を圧倒する威。じわりと、狩人たちが後ずさった。いや、もはや此処に来て彼らを『狩人』と言うことも出来ない。この人数、この戦力差では、彼らこそが狩られる側だった。

「……魔獣」

 誰かの口から化物の答えが零れでた。最も可能性の低い、そして最悪のケース。それが此処に具象した。也は熊。想像するにはひぐまが近しい。ただそれを少々異常で捻じ曲げてやれば、出来上がる。

 吼えもせず、身動ぎもせず、魔獣はただじっと人を見据えている。

 その場にいる誰もが抗うことを選択せずに、ゆっくりと化物を視界に収めたまま、逃走を開始した。


「……いるか?」

「いや、いない……待て、足跡がある。あれは……」

 羽虫が羽ばたくような小さくか細い声だ。

 クライフらが逃走を始めてからおよそ十分後。フェイオンらがその場に到着した。木々の陰から息を潜め、周囲を窺い見る。目を細め注視すれば、暗闇の中であってもその細部を見通すことが出来る。一人の男がフェイトとアモルが見つけたと話す足跡と寸分違わぬ大きさの物を見つけた。それと複数人が入り乱れた足跡も。それは山から下っており、村の方へ続いていた。

 血の痕はない。争いの跡も、弓矢が射掛けられた痕跡もない。

「上手く引き連れてくれたのか」

「俺たちも急ぐぞ。……子供の戯言だと思っていた俺が浅はかだった。あの跡は……」

 生唾を飲み込み、強く奥歯をかみ締める男。フェイオンはその男の肩を抱いた。

「なァに、信じられなかったのもしょうがねェさァ。それよりも今は悔いるよりも追おうぜ?」

 後悔なんて後で腐るほど出来る。そう言って一つ、頭を小突く。

「さァて、と。これからは速さが勝ォ負、になるんかねェ」

「狩りじゃないな。これから先は」

「ああ、追走だ」

 

「組む柵は狭くていい。フェイトたちが見たという方向を中心にだ」

「防ぐ、ではなく阻害するものだと考えろ。短時間で確実なものが組めるはずもない」

 村と山林の狭間。その場に陣取りヴァンタナは指示を飛ばし続けていた。頬は返り血で汚れ、今指示した際も、村に下りてきた犬狼を斬り捨てながら、だ。

 ヴァンタナが剣の練達者であり、同時に山から下りてきた獣が既に心折れているからこそこのようなことが実現している。脅威に晒され遁走してきた筈なのに、行き着いた先には剣鬼がいる。元から闘争の意志はなく、もはや反抗に至る精力も湧かない。今この場は山の弱者にとっての殺し間となっている。

 十数匹の獣がそのように無抵抗に切り殺され、また弓で射殺され、そしてようやく獣たちが理解したのか、村の境界へ足を踏み入れることはなくなった。皆が皆、木々に身体を寄せ、闇に身を紛らわさせ、災厄が通り過ぎるのを待ち続けている。

 それから数十分後。木々の茂みが騒がしく音を立て、再びヴァンタナが剣を抜いた。それに合わせ男たちは弓を引き、照準を其処に合わせる。木の葉を撒き散らしながらその場に勢い飛び出した影。一瞬の躊躇なく剣を打ち放ったヴァンタナの切っ先は、標的を切り裂く寸前でびたりと止まった。

「……クライフ」

 息を荒げ、必死の形相で駆け出してきたのはクライフたちだ。息も絶え絶えながらも、何とか言葉をひり出そうとするその有様を見て、半信半疑のまま作業に従事していた大人たちも理解した。

「はぁっ、ハァッ。……来る、来るぞヴァンタナ。化物だ。来るぞヴァンタナ!」

「熊の魔獣がっ!!」

 ああ、少年たちが見たというそれは正しかったのだと。


 草木を踏みしめ、木々をすり抜け、それが姿を現した。獣の血臭に当てられたのか、闘争の気配を感じ取ったのか。今まで歯牙にも掛けていなかった『ヒト』というその存在に対して。


「オオオオオオオオオオオオン……」


 形を為さないはずの音の塊が破裂し、人々の顔を強かに打ちつけた。物質として理解出来るほどの衝撃が彼らを襲う。

 泰山を鳴動させる咆哮を一つ吐き出し、魔獣はゆっくりとその両の足で立ち上がった。天を突く威風を纏い、その場の空気を支配する。その場にいた常人全てが滾る生命力に、圧倒的な存在感に射竦められた。一個の生命として、もはや同列の地平に立っていない。そう思わせる姿があった。

 しかし、それを目の当たりにしてもなお、動じぬ存在が幾人か。

「殺せぬ相手ではないな」

 剣を抜いたヴァンタナが言う。

「おお、おお、とんでもなくうるせェと思ったらまァ」

 追いついたフェイオンが言う。

「全く喧しい獣。躾てあげますよ、化物」

 その場ではない何処かで、誰かが一人呟いた。

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