22・すれ違い
ルミが本格的に俳優としての道を歩み始めた最初の映画「暖簾」が公開された翌年の一九七四年、映画「つれづれ兄妹」に明の妹役で出演した。
緊張感が漂う中で撮影をこなしていたが、明がいつもすぐそばに居るせいか、どんなにハードな日程も、そして前作から格段に増えたセリフも、全然苦しいとは思わなかった。
撮影の合間を縫って、二人はロケ地近くの海岸に出かけたり、一緒に盛り場で飲み歩いたりした。二人の関係は、撮影が進むにつれて徐々に深まっていった。
「つれづれ兄妹」の撮影が全て終わると、ルミは明のマンションに一緒に住むようになった。
籍を入れることも考えたが、結婚という社会的に様々な義務を負わされる形式に懐疑的だったルミは、同棲という形で明と共同生活を続けていた。お互いに休みを合わせて旅行し、高級料理店に美味しいものを食べに行き、時には身体を交えて激しく愛しあうこともあった。誰にも邪魔されず一緒に過ごす時間こそが、忙しい日々の中で何よりも心が安らげる瞬間だった。
一方で、明と共演した映画「つれづれ兄妹」は想定外の大ヒットを記録した。不良っぽい役も可愛らしい役もこなせるオールマイティな俳優として認知度の上がったルミには、ジャンルを問わず次々と映画への出演依頼が寄せられていた。ルミは出来る限り明と一緒に過ごす時間を確保したい一心で、引き受ける仕事を選別していたが、出演を受諾した作品もいざ撮影が始まると自宅に帰る時間が遅くなり、時にはスタジオに泊まり込みで撮影することもあった。
ようやく仕事が落ち着いたと思いきや、今度は明が自分の出演作の撮影で留守にしており、せっかく家にいても一人ぼっちで過ごすことが多かった。
ルミと明が自宅で顔を合わせる時間は、年月が経つにつれ徐々に減り続けていった。
一九七八年 六月――
雨あがりの蒸し暑い夜、ルミは次の映画の打ち合わせを終えて、麻布十番にある明のマンションに帰ろうとしていた。ルミは、玄関をくぐり、エレベーターが来るのをひたすら待っていた。
その時、廊下の暗がりの向こうからコツコツと靴の音が徐々にルミの方向へ近づいているのが聞こえた。ルミが振り向くと、そこには恰幅の良い髭面の中年男が大きなカメラを手に立っていた。
いつも居合わせる住民とは違う怪しい風貌に警戒したルミは、エレベーターの乗降口に向かって一目散に走り出した。しかし、エレベーターはなかなか上階から降りて来ず、行く手を遮られたルミは乗り口の前で息を切らしながら壁を殴りつけた。
中年男は、白い歯を見せながらニヤニヤと笑い、ポケットから名刺を取り出した。
「怖がらないでくださいよぉ。私は週刊純金の者です。ちょっとだけお話を聞かせてもらえればと思いましてねぇ」
「週刊誌が、一体何の用ですか?」
「一度ちゃんとお話したいと思いましてねぇ。赤城明さんとの同棲生活について」
「私たちは一緒に仲良く暮らしています。それ以上のものは何もありませんから」
「いや、それで終わりはないでしょ?」
「どういうことですか?」
「赤城明さんと小野田ルミさん、今を時めく俳優同士のビッグカップルじゃないですか? 読者はみんな興味津々でね、色々と知りたがってるんですよぉ?」
「帰ってください。失礼します」
「待ってくださいよぉ。まだ途中じゃないですかぁ。私からもあなたにお話したいこともあるんですけどねぇ」
「な、何ですか……?」
「赤城さん、赤坂であなた以外の女性と会っていたのを別な記者が目撃したみたいですよぉ? 二人して高級なバーに入って行ったんです。手を繋いでね」
中年男は手帳から一枚の写真を取り出した。そこには、ストレートの黒髪をなびかせながら歩く長身の女性と明が手を繋いで街を歩く様子が写し出されていた。
「この女の人、ちらりと見せた横顔を見た限りでは、昔、赤城さんが付き合ってた子なんじゃないかと思うんですよねぇ。御存じですか? 原田真由美っていう女優さんで、今は舞台中心に活躍してるんですけどね」
「……!」
その時、ルミの目の前にエレベーターが到着した。ルミは慌てて飛び乗り、「閉」のボタンを必死に押しまくった。
「話はまだあるんですよぉ。赤城さん、こないだ、銀座の寿司屋さんでねぇ‥…?」
男はドアの間に手を入れて必死に阻止しようとしたが、辛うじてドアは閉まり、エレベーターは上階へと上がっていった。
ルミはエレベーターの中で胸に手をあて、大きなため息をついた。
明の部屋がある階に到着し、部屋に入る時も、誰かいないか何度も周囲を確認し、ドアを閉めた。
「おかえり」
明は先に帰り、食事を作って待っていてくれた。
「入り口に雑誌記者らしき人がいたわよ。しつこくて嫌になってくるわよ、ホント」
「しょうがないよ。僕たちは二人ともそれなりに顔が売れているんだ。奴らにとって格好の取材対象だよ」
明は出来立てのスープを皿に盛ると、テーブルに置いた。
「私、耐えられない……根掘り葉掘り聞いてきて、はぐらかしても引き下がろうとしないんだもん」
「僕はもうそんなの慣れっこだよ。『有名税』だと思って耐えるしかないと思ってね。奴らもこれが仕事だからある程度は仕方がないと思ってるよ」
「……変に物分かりが良いのね」
二人はその後、言葉を交わすことなくスープをすすり続けた。
「私たち、最近ほとんど顔を合わすことがないよね」
「しょうがないだろ。君は映画出演をこなすたびに人気が出て仕事が増えたからね。それは君にとって何も悪いことじゃないだろ? それに、僕だって自分が出演するドラマの撮影がたてこんでいるんだ。これはお互い俳優の仕事をしている以上、避けて通れないことだよ」
「少しは仕事を断ってくれてもいいじゃない? 私だって、出演依頼が来ても断れるものは出来るだけ断っているのよ。明さんと一緒に居る時間が欲しくて」
「断る? そんなわけにはいかないだろ。仮に断ったとして、それがきっかけになって仕事が来なくなったらどうするつもりなんだよ?」
「知らない。私はあなたと二人きりで平穏な生活を送れたら、それで十分だから」
「ルミ……いい加減、現実を見ろよ。僕たちは一般人じゃなく、俳優なんだ。自分達のことだけを考えて行動するわけにはいかないんだぞ?」
明が唸るような声でルミを諭すうちに、ルミのスプーンを持つ手は震えだした。スープを全て飲み干し、空になった皿をテーブルに叩きつけると、明を真っ向から睨んだ。
「明さん、あなた……私に隠れてどこの誰と会っていたの?」
「はあ? 突然何を言い出すんだよ」
「さっき、記者の人が私に写真を見せてくれたのよ。赤坂で髪の長い女の人と歩いていた写真をね」
その瞬間、明の目は大きく見開き、口元は小刻みに震えているのが見て取れた。表面上はいつものクールな明を演じようとしていたが、動揺を隠せない様子がルミにもあからさまに伝わっていた。
「君が留守の日に、仲間に呼ばれて赤坂に酒を飲みに行ったんだ。そこで偶然昔の知り合いに出会った。それだけだよ」
「知り合い? ホントに? 知り合いなのに手を繋ぐの?」
明はそれ以上反論せず、言葉を詰まらせていた。
「本当なのね……私、もうこれ以上耐えられない!」
ルミは寝室に向かうと、自分の荷物をキャリーケースに次々と詰め込んだ。
「おいルミ、目を覚ませ! 僕の話も聞いてくれよ!」
明はルミの後を追って寝室に入り、頬を平手で強く打ち付けた。
ルミは打たれた頬を片手で抑えながら、鋭い目つきで明を睨みつけた。
「もう私もあなたも、あの時と同じ気持ちじゃないわよね」
「何を言ってるんだ。今も僕は……」
「これ、あなたに返すわ。私との思い出の品だから、大事にとっておいてちょうだい」
ルミは、六年前に京都で明から買ってもらった緑色のワンピースをケースから取り出すと、明の手の上に置いた。
「もし私の事なんかどうでもいいと思うなら、捨てるなり他人に上げるなりして別に構わないからね」
「ルミ……待てよ! 冷静に話をしよう! おい! 聞いているのか!」
ルミは明の側を通り過ぎ、そのまま部屋のドアを閉めた。
マンションの廊下に出ると、海から吹く南風に煽られ、ルミの髪は上下に煽られた。
眼下には、眩くネオンが輝く麻布から六本木の街並みが広がっていた。
いつも明と二人で窓から眺めていたきらびやかな都会の風景は、涙でにじんだルミの目には色褪せてぼんやりと浮かんでいるように映っていた。
エレベーターに乗って地上に降りると、記者の姿は既にどこにもなかった。
明もここまでルミを追いかけてくる気配がなかった。
ルミは顔を上げ、明と共に暮らしたマンションの階を見遣ると、再び涙が溢れ出てきた。
「バイバイ……」
ルミはマンションに背を向けると、スーツケースを手にしながら、ネオンが輝く街の中へと姿を消していった。




