第5話「死神、九時の輪を追う」
朝の空気は冷えていた。
九時の赤い点が示された地図を見ながら、俺とクレハは駅前に立っていた。
通勤ラッシュがひと段落した後の、しかしまだ人通りの多い時間帯。
信号待ちの群れ、自転車のベル、横断歩道に集まる足音。
「——ここです」
クレハが灰色の瞳を細め、指を差した。
広い交差点の中央。
歩行者信号が青に変わる瞬間に、人の流れが集中する場所。
「順番が歪んでいます。転ぶ人、ぶつかる人、急ブレーキの車……ひとつひとつは小さい。でも、それが重なると——」
「事故になる」
彼女は小さく頷いた。
ただの推測じゃない。彼女の目には“未来の順番”が見えているのだ。
俺はポケットからスマホを取り出し、カメラを起動した。
映像を切り替えれば、そのまま配信に入れる。
こんな現場でやるつもりじゃなかったが、今は数が必要だ。
観客の「目」が、順番を直す。クレハはそう信じている。
「クレハ、始めよう。ここで配信するんだ」
「了解。では、タイトルは……“死神、街の順番を直す”」
ボタンを押すと、スマホの隅に赤い点が灯った。
映し出される交差点に、最初の視聴者が入ってくる。
コメントが流れ始めた。
《外配信!?》
《死神さん街に出てる!》
《リアル死神目撃配信》
《怖いけどワクワクする》
数字はあっという間に千を超えた。
信号が青に変わる。
人の波が流れ出す。
クレハの視線が一点を射抜いた。
「あそこ。赤いバッグの女性。転びます」
俺は慌てて駆け出した。
女性の腕を掴み、足元を見ると、段差にヒールが引っかかる直前だった。
彼女は驚きながらも「ありがとうございます」と頭を下げ、そのまま歩き去っていった。
コメント欄が騒然とする。
《今の見えた!?》
《マジで転びそうだった》
《予知成功じゃん》
《死神チートすぎ》
俺の息が上がる。
だが、クレハはまだ先を見ていた。
「次は——自転車」
右側から猛スピードの男が飛び出す。
前方のベビーカーに突っ込む軌道。
俺は咄嗟に腕を広げ、自転車のハンドルを押し返した。
男は舌打ちして去っていったが、ベビーカーの母親は深々と礼を言った。
《やばい》《二連続》《偶然じゃねえ》《死神補正》
視聴者数は二千を超え、コメントの勢いが止まらない。
だが、その瞬間。
耳の奥が痛んだ。
信号機の赤が、ほんの一瞬、黒に沈んだように見えた。
画面にも、奇妙な文字列が走る。
《順番は、俺が数える》
「……来ました」
クレハの声が震える。
「“煤”です。彼女が順番を歪めています」
確かに、空気が急にざらついた。
周囲の人々の動きが、わずかにぎこちなくなる。
足をもつらせる者、信号を無視して飛び出す子ども、運転手の手が滑る。
連鎖が、事故を呼ぶ寸前だった。
「悠斗。わたし一人では直せません」
「じゃあ、どうすれば」
「観客に頼むのです。——“止まる”“見る”“気をつける”。その声が順番を整えます」
俺はカメラを握り直し、叫ぶ。
「見てる人、頼む! 今すぐコメントで“止まれ”って打ってくれ!」
数秒の沈黙。
そして、画面に文字が溢れた。
《止まれ》《止まれ》《止まれ》《見る!》《気をつけろ!》《止まって!》
千、二千の声が、一斉に重なる。
奇妙なことに、交差点の空気が少し和らいだ。
自転車はブレーキをかけ、子どもは母親に呼び止められ、車のタイヤは寸前で止まった。
——事故は起きなかった。
配信終了後、俺とクレハはベンチに座り込んだ。
心臓が痛いほど打っている。
クレハは静かに寿命帳を開いた。
「……数字が戻りました。悠斗の寿命、五十七年。変動はありません」
「よかった」
そう言った俺の頬に、風が吹き抜ける。
街のざわめきの奥で、見えない誰かの声が聞こえた気がした。
《まだ終わらない。落第生》
次は、もっと大きな“順番”が来る。
そう確信できた。




