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第1話「死神、俺の部屋に現る」

 鍵穴に差し込んだ金属が、夜更けの廊下で乾いた音を立てた。

 日付が変わる少し前、大学のレポート課題を友人宅で片づけ、ふらふらになって帰ってきた俺は、玄関の灯りをつけずに靴を脱いだ。節電というより、単に面倒だった。


 暗闇は、見慣れれば形を持つ。ワンルームの輪郭、冷蔵庫の白、ベッドの上のくしゃくしゃの布団。

 そして——見慣れない、黒。


 ベッドの端に、誰かが座っていた。

 黒いフード。膝の上で組まれた白い指。街灯がカーテンの隙間から差し込んで、肌だけがうっすら発光しているみたいに見える。


「……通報しますよ?」


 声が思ったより落ち着いて出たのは、自分で褒めていいと思う。心臓は暴れていたのに。


「通報は不要。あなたが死ぬ予定は、本日ではない」


 童話の朗読みたいな、透明な声だった。

 女の子だ。年齢は俺よりちょっと下……に見える。フードの奥から覗く目は、夜の色を薄く溶かし込んだ灰。

 彼女は立ち上がり、俺に向かって、まっすぐ一礼した。


「初めまして。わたしは死神です」


「へえ」


 口から出たのは、感心とも呆れともつかない音だった。頭のどこかが、現実を一歩引いて見物している。

 死神? 深夜テンションにもほどがある。俺は玄関に放り出したままのリュックを持ち直して、部屋の電気をつけた。


 白色灯がはじけ、女の子の輪郭がくっきり現れる。

 黒いフード付きのローブ。袖口や裾には銀糸で細い紋が縫い取られていて、衣装として見ても凝っている。コスプレイベントで見たら、撮影列が伸びそうだ。けれど、その目の静けさと温度の薄さは、装いでは誤魔化せない何かをまとっていた。


「ええと、誰のイタズラ?」


「いたずらではありません。手短に申すと、人間界における修行の一環で、しばらくあなたの部屋に下宿します」


「は?」


「家賃は払いません」


「はあ?」


「代わりに、わたしの職務である“寿命の管理”を、あなたに関しては優遇します」


「優遇って、まさか——」


「延長申請ではありません。そういう裁量はありません」


 きっぱり。

 俺は靴下の先で床をこすって、現実の摩擦を確かめた。つま先が冷たい。夢じゃない。


「……身分証は?」


「これです」


 女の子は、胸元から古びた手帳のようなものを取り出した。革の表紙に金の箔押し。角はすり切れ、触れれば指が冷える。

 パラパラと開いたページは、紙ではなく薄い金属板でできていた。微細な文字がびっしりと刻まれている。

 俺の名前も、そこにあった。


 真木悠斗。生年月日。

 その隣に、数字がいくつか。

 そして、末尾に太い印字——「残り三日」。


「おい!!」


 喉の奥から飛び出した声が、自分で驚くくらいの音量だった。

 女の子は、あ、と目を瞬いた。


「ち、違います。これは——」


「違わねえよ! 思いっきり書いてあるだろ! 三日って何だよ! 俺、来週プレゼンあるんだよ! 死んでる場合じゃないんだよ!」


「落ち着いてください。こちらの計算ミスです」


「もっと落ち着けないわ!」


 女の子は手帳を握り直し、袖口から細い棒のようなものを取り出す。銀のペン……ではない。墨の代わりに霧のような光を滲ませる、不思議な筆記具。

 彼女は数字の上をさっとなぞり、いくつかの符号を修正した。


「はい。これで“残り五十八年と少々”に戻りました」


「さらっと戻すな……!」


 足の力が抜けて、俺は玄関の壁に手をついた。

 怒りと安堵と脱力と、ついでに笑いが波のように来て、吐息が漏れる。

 女の子は真面目な顔のまま、ぺこりと頭を下げた。


「大変失礼しました。わたし、数字が少し苦手で。桁を間違える癖があり、研修でも指摘されています」


「致命的すぎるだろ、その死神」


「はい。だからこそ、人間界での修行が必要なのです」


 自覚はあるらしい。

 俺は深呼吸をして、ようやく靴を揃え、部屋の中央に一歩踏み込んだ。


「名前は?」


「ありますが、あなたに発音できる音ではないので、仮称を用意しました。“クレハ”でお願いします」


「クレハ……」


「文字は“久礼羽”と当てます。縁起を気にする文化だと聞きましたので」


 さらりと微笑む。その笑みは、紙に描いたように整っていて、しかし温度が薄い。

 俺はテーブルの上のコンビニの袋をどかし、クレハに座るよう促した。


「とりあえず、事情を話してくれ。なんで俺の部屋なんだ」


「あなたは、ねじれが少ない」


「ねじれ?」


「人の時間には、癖があります。恨みや悔いの帯電で、時間の表面がよれる。あなたは比較的平坦です。わたしのような“下手な管理者”でも、干渉が暴発しにくい」


「褒められてるのか、それ」


「褒めています。安定した箱です」


「箱って言うな」


 少しだけ、可笑しくなった。

 クレハは周囲を無音で見回し、ベッド、机、炊飯器、浴室の扉などを一つひとつ、観測するみたいに目でなぞった。

 観測。そう、彼女の動作には、どこか測定器めいた正確さと、そして時々混ざる致命的な抜けが同居している。


「で、修行って何をすんの」


「人間界で“影響力”を獲得せよ、と言われています。できれば数十万単位で」


「数十万、って……フォロワー?」


「語を借りれば、そうです」


「政治家でも目指すの?」


「わたしが選んだのは、VTuberです」


 空気が一拍止まり、次の瞬間、俺は笑ってしまっていた。

 クレハは首を傾げる。無邪気というより、概念としての傾げ。


「笑うところでしたか?」


「いや……ごめん。だって、死神が配信って」


「天界の広報担当からの提案です。“死の受容”のためにエンタメを用いる試みは、有効性が示されています」


「めちゃくちゃ真面目な理由だった」


「はい。わたしは笑いを取りにきたのではありません。が、笑いが取れるなら、それもまた良い」


 言い切る顔が、妙にかわいいのが悔しい。

 俺はシンクからコップを二つ出し、水を入れて、一つを差し出した。クレハはそれを両手で受け、しばらく見つめてから、一口飲むふりをした。

 喉は動かなかった。そりゃそうか。


「具体的には、どうするつもり」


「まず、チャンネルを開設します。機材は……」


 そこで彼女は、俺の部屋の一角に立てかけてある三脚を見つけ、ぱっと顔を明るくした。

 表情の変化は控えめなのに、部屋の空気が一瞬澄む。光が反射する面の角度が変わるような、理科室の午後みたいな明るさ。


「それ、使えますか?」


「古いけど、まだいけるよ。カメラはミラーレスが一台。マイクはピンマイクが一本だけ。照明はリングライトが……たしかクローゼットの……どこだ」


 ゴソゴソと探し、埃を被った箱を引っ張り出す。

 気づけば俺は、半ば自動的に“配信環境を整えるモード”に入っていた。高校のとき、文化祭で動画配信を担当してから、こういう配線や機材の配置がやたら好きになったのだ。

 スイッチャーなんて立派なものはないが、PCにキャプボをつなげば、ミラーレスのHDMI出力を取り込める。OBSの設定は前に弄ってある。回線速度は夜だとときどき心もとないが、まあ、720pなら。


「悠斗、詳しいのですね」


「呼び捨てかよ。……まあ、そういうのは好きなんだよ。で、君は——クレハは、顔出すの?」


「出します」


「出すんだ」


「死神は顔を隠す必要がありません。名を隠すだけです」


 その言葉に、微かな凛とした硬さが混じった。

 職業意識、というやつかもしれない。

 俺はリングライトを組み立て、三脚にミラーレスを固定する。カメラの前に立たせ、フードの影で顔に落ちる影を調整し、白飛びしない程度に露出を追い込む。

 モニターには、黒と白のコントラストで切り分けられたクレハの顔が映った。瞳は灰。光を吸うタイプの色。

 美人だ。人外の説得力がある。

 ただ——


「表情、固いな」


「そうでしょうか」


「普段の君は、ちょっと硬質すぎる。いや、それがキャラならいいけど……配信は“距離”がすべてだ。コメントの文字と、君の声の間の距離。最初の一秒でこじ開けられるかどうか」


「難しいことを言います」


「難しい。けど、やってみよう」


 自分で言いながら、妙な熱が胸のあたりに灯るのを感じていた。

 たぶん、これは……楽しい予感だ。

 未知の機材、新しい配線、新しい企画。

 死神がVTuber? 最高にバカげてる。だから面白い。


 俺はPCを立ち上げ、チャンネルの仮名を打ち込む。


「配信名は?」


「“KUREHA/Reaper”」


「説明文は?」


「“死の国の研修生。配信中は落命しません”(※一部例外あり)」


「例外つけんな」


 テキストを整え、テスト配信の準備に入る。OBSのシーンを二つ作り、カメラとウィンドウキャプチャを切り替えられるようホットキーを割り当てる。マイクチェック。ノイズゲートを少し強めにして、エアコンの音を切る。

 クレハに椅子に座ってもらい、ヘッドホンを渡す。彼女は耳に当てる所作だけで音を聞き取ったふりをする。実際の聴覚の仕組みは知らないが、返事のタイミングは正確だ。


「コンテンツは何を?」


「まずは“自己紹介”。死神とは何か、仕事のこと、嫌いな食べ物、好きなこと。嘘を混ぜず、真実を全部言わず、でも心は見せる」


「あなた、配信コンサルですか」


「文化祭でちょっとやっただけ」


 配信開始ボタンの手前で、俺はふと気づく。


「クレハ」


「はい」


「もしかして、怖くない?」


 彼女は一秒だけ考え、そして小さく頷いた。


「怖い、の定義によります。わたしは“失敗して誰かを傷つける”ことが怖い。寿命を間違えること。言葉を間違えること。あなたの部屋を壊すこと。あなたの時間を浪費すること」


 律儀な恐怖だ。

 俺は笑って、指でOKマークを作った。


「じゃあ、俺が横で見てる。困ったら、俺の顔を見ろ。俺が笑ってたら、大丈夫って意味にする。な?」


「了解。プロトコルとして有効です」


「よし。——いくよ」


 クリック。

 配信開始の赤い点が、画面の片隅で点灯する。

 視聴者はゼロ。ゼロから始めるのは、むしろ気が楽だ。


「こんばんは。——あ」


 クレハの声が、マイクを通して柔らかく響いた。

 普段の透明さは残しているが、どこか色温度が上がっている。言葉が少しだけ丸い。


「初めまして。“KUREHA/Reaper”です。死の国の研修生。今日は、人間界の修行の一環として、配信を始めます」


 視聴者数が一に変わる。

 誰だ、こんな時間に。俺の顔が映ってないことを願う。


「自己紹介、します。

 好きなものは——正確な記録。苦手なものは——正確な計算。

 得意なことは、人の時間を数えること。不得意なことも、人の時間を数えること」


 コメント欄に、最初の文字が流れた。

 《草》《矛盾してて草》《声きれい》《設定おもろ》《死神?》《釣り?》《ASMRお願いします》


 クレハは目線を少し下げ、コメントを読む。読めるのか、読めるふりが上手いのか、どちらでもよかった。

 彼女はふっと笑みを作る。今度の笑みは、紙ではなく呼吸でできていた。


「釣りではありません。死神です。ASMRは、勉強してから」


 視聴者が三に増える。

 コメントの速度が、ゆっくり加速し始める。

 俺はモニターの脇で、音量メーターを見張りながら、クレハの横顔を見た。


 さっきまでの硬質さが、画面の“向こう側”に向けて、意図的に柔らかく変形している。

 声の終わりに小さく息を残す。語尾を上げすぎない。相手に“想像の余地”を渡す。

 教えたわけじゃない。彼女は、見て、測って、真似て、整えている。

 才能、という語は好きじゃないが、これはそう呼ぶしかない。


「質問を受け付けます。“死神って、仕事サボれますか?”——サボれません。サボると、上司が怖い。怖い上司は、人間界にもいるのですか?」


 《いる》《いるに決まってる》《泣》《上司に見せたい配信》《上司が死神説》


「“死神って恋しますか?”——」


 クレハは、俺を一瞬だけ見た。

 灰の瞳が、ほんのわずかに揺れる。

 俺は笑って、小さく頷く。大丈夫、というプロトコル。


「——します。けれど、仕事と恋は別です。混ぜると、間違えます。わたしは、間違えるのが怖い」


 コメントが一斉に流れ、視聴者が十を越えた。

 この時間帯に、ゼロから十。悪くない。

 配信は二十分ほど続き、クレハは時おり俺に視線をくれた。俺は親指を立てたり、手で“もう少しゆっくり”のジェスチャーをしたりする。

 彼女はそれに合わせて、呼吸の速度を調整する。心拍のない身体が、心拍を真似る。

 終わり際、クレハは深く一礼した。


「来てくれて、ありがとう。寿命は、画面の向こう側にも等しく流れています。あなたの今を、少しだけ、やさしくできますように。——おやすみなさい」


 配信終了。

 数字は、小さな熱を残して消える。

 クレハはゆっくりとヘッドホンを外し、俺の顔を見た。


「どうでした?」


「……誰だよ、お前」


 思わず、本音のままに言った。

 クレハが目を瞬く。困っているのではない。意味を測っている。


「褒め言葉として受領しても?」


「もちろん」


 笑った。今度は、ちゃんと、体温を伴って。

 俺は椅子の背にもたれ、画面に残る最後のコメントを眺める。《ガチ恋した》。

 たぶん、これから、もっと大変になる。炎上もあるだろう。アンチも湧くだろう。

 でも——


「クレハ」


「はい」


「君は、配信者としては、トップ級だ」


「死神としては?」


「落第生」


「努力します」


 即答。迷いゼロ。

 俺はテーブルの上のコンビニおにぎりを二つ取り出し、一つをクレハの前に置く。彼女はそれを見つめ、両手で包む。


「温度、感じます」


「食べられないのに?」


「はい。あなたが、温度を伝えてくれるので」


 俺は笑って、海苔を噛んだ。塩気がやけにうまい。

 窓の外で、どこかの部屋のテレビが小さな音を漏らしている。世界は相変わらずだ。

 ただ、俺の部屋だけが、少し違う世界になり始めている。


 配線は、まだ仮留めだ。明日、ちゃんとケーブルを束ねよう。

 背景も、布を買ってこよう。照明の色温度も、確認し直す。

 チェックリストは、いくらでも増やせる。やることが増えるのは、悪くない。

 やりたいことが増えるのは、もっといい。


「次回の配信、テーマは?」


「“死神、洗濯機に勝てるか”」


「最高。バズる」


「洗濯機は、強敵です」


「知ってる。俺もよく負ける」


 夜は深い。けれど、不思議と眠気は来ない。

 俺の部屋に、死神がいる。

 俺の部屋に、配信者がいる。

 俺の部屋に、初めての“推し”がいる。


 それは少し、死から遠のく方法みたいに思えた。

 画面の向こうの誰かの時間と、ここにある俺たちの時間が、細い光の線でつながる。

 それを“影響力”と呼ぶなら、悪くない言葉だ。


「おやすみ、クレハ」


「おやすみなさい、悠斗。——明日、あなたの寿命のページ、もう一度見直しておきます」


「二度と間違えるなよ」


「努力します」


 彼女はフードを外し、枕に頭を置いた。髪が白いシーツにこぼれる。

 俺はそっと、ミラーレスの電源を落とし、リングライトのプラグを抜く。

 暗闇は、見慣れれば形を持つ。

 そして今夜の暗闇には、新しく覚えるべき形がひとつ、増えたのだった。

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