49: 面影
暗闇の中で遠のいていく喧騒に、カノンはじわじわと不安を覚えた。
最後に見たのは、血相を変えて近づいてくるあの二人組のうちの一人の顔――。
シクレの話では、彼らは父の“S・E・C”を狙っているらしい。
このまま奪われるわけにはいかない。
指先に布の感触を確かめる。
爪を立てれば、破れる――!
カノンは指先に力を込め、一気に振り下ろそうとした、その瞬間――。
突然、袋の口が開き、眩い光が視界を覆った。
カノンは無意識に、“S・E・C”を握る手にぎゅっと力をこめる。
急な出来事に心臓が跳ね上がったが、目が慣れてくると、そこに立っていたのは――先ほどすれ違った、シクレの知り合いだった。
安堵と混乱がないまぜになった。
彼は視線を合わせるように、申し訳なさそうに微かに身をかがめる。
「ごめんな、ちょっと手荒だったかも。でも……狙われてるようだったからさ」
カノンは一瞬戸惑いながらも、見覚えのある顔に思わず声を上げた。
「あなたは……さっきの……!」
「俺は、ジュライド。ジュラって呼んで。シクレと一緒にいたよな? ……シクレは?」
「それが……群衆に飲まれて、逸れてしまって……」
「そっか……っ」
ジュライドの表情が曇る。だがすぐに顔を上げ、穏やかな声で続けた。
「じゃあ、一緒に探そう。……まずは、君の名前を教えてくれる?」
「あ、カノン、カノンです!」
一瞬間を置いて、カノンは問い返す。
「ジュライドさんは……シクレとはどういう関係なんですか?」
「だからジュラでいいって!」
ジュライドは苦笑し、どこか懐かしそうに目を細める。
「シクレはね……俺にとっては、弟みたいなやつさ。ま、あいつはそんなふうに思ってないと思うけど」
カノンは、その言葉に温かさを感じた。
シクレは、何を考えているのかわかりにくい。
だけど、決して無愛想ではなく、どちらかと言うと誰に対してもフレンドリーだ。
なのになぜこの人にあんなにも冷たかったのか、カノンの心に新たな疑問が芽生える。
「カノンちゃんは、シクレとはどういう関係?」
ジュライドにそう問われ、カノンは言葉に詰まった。
友達? いや、そこまで親しいわけでもない。
かといって、ただの知り合いというのも、何か違う気がした。
最初は、わかりにくくて疑ったこともあった。
でも今は……別に嫌いではない。むしろ気づけば、いつも気を張らずにいられる。
何なんだろう、私にとってシクレって……。
「正直、今はまだよくわかりません。けど、彼の事を知っていけたらいいなとは思います」
ジュライドは嬉しそうに微笑み、優しく頷いた。
「ありがとう。あいつは、ちょっとわかりにくいところあるけど……いいやつなんだ。どうか、仲良くしてやって」
そう言った後、ジュライドはふと視線を落とし、少し遠くを見るような目をした。
「……あいつと初めて会ったのは、俺がアカデミーに入った時だった」
カノンが眉をひそめる。「アカデミー?」
「ああ……帝都フォージアにあるね」
ジュライドは口元に笑みを浮かべたまま続ける。
「最初はただの優秀すぎる後継者って印象だった。誰にでも分け隔てなく話すけど、決して誰にも心を許さないって感じでさ。不思議だったよ。人懐っこいのに、どこか遠くにいるみたいで……」
「後継者って……何の?」カノンが問いかける。
ジュライドは、ふっと笑ったが、そのまま視線を落とす。
「シクレから聞いてないの……? ごめん、なら詳しいことは本人に聞いてみて」
それ以上、このことについては話してくれそうにないジュライドに、カノンは黙って頷く。
彼の顔色を窺うように一瞬迷った後、別の話題を振る。
「それで……シクレとは、どうやって仲良くなったんですか?」
「ああ……そうだな」
ジュライドの声が、ほんの少し懐かしさを滲ませた。
「何度か雑談を交わすうちに気づいたんだ。……あいつ、外の話を聞くの、すっごく楽しそうにするんだよな。自分では行かないくせに、すごくくわしく質問してくる。……気づいたら、こっちから話しかけるようになってた」
言葉を探すように、一瞬沈黙が落ちる。
「……それを見ていて、ふと過去を思い出したんだ」
カノンは僅かに身を乗り出す。
「過去?」
ジュライドは短く息を吸い、迷うように視線を揺らす。
しかし、次の言葉を発した時、その声は微かに切なげだった。
「……実は俺には、弟がいたんだ――」
ジュライドは、微かに息を詰める。
――――――――
――そう、あれは夏休みだった。
母からのグループメッセージが届く。
「仕事終わったら買い物して帰るけど、何か食べたいものある?」
俺と弟はしばらく考え、「ハンバーグ!」と返信した。
すぐに母からOKのスタンプが送られてくる。
一足遅れて、父からのメッセージも返ってくる。
「ハンバーグか……急いで帰らないとな。母さんの作るハンバーグは絶品だからな」
父の言葉に、俺たちは顔を見合わせて笑う。
俺たちは並んでゲームをしながら、夕飯を楽しみに待つ。 弟の膝の上では、飼い猫のレオンが丸くなって眠っていた。時折、弟の指がコントローラーから離れて、レオンの耳をくすぐる。レオンは気持ちよさそうに目を細めるだけで、動こうとしない。
それが――地震が来る直前までの、最後の穏やかな時間だった。
突然、地鳴りのような轟音が響き、部屋が激しく揺れる。レオンが驚いて飛び起き、部屋の隅へ走っていく。俺たちは反射的に机の下へ潜り込んだ。
「何だこれ……!?」
弟が息を呑んだのが聞こえた。
本棚が倒れ、部屋の電気が一瞬消え、またつく。
カーテンレールが壁から外れて落ち、ガラスの置物が床に散らばる。
俺はポケットに入れていた携帯を掴んだが、画面は真っ黒のまま。何度押しても電源が入らない。
「兄貴!」
弟の声に顔を上げると、すでに立ち上がっていた。
弟は、迷いなくテキパキと行動しながら、俺にも指示を飛ばす。なんでこいつはこんな時まで冷静なんだ? 一体どこでそんな知識を……と混乱する俺に、弟は当然のように言う。
「こういう時は……揺れが収まってから、安全確認。そのあと、安全な場所に向かうんだよ。学校で習ったでしょ?」
俺は混乱した頭のまま、弟の言葉を聞く。
弟は窓の方を見て、少し考えるように息を吐く。
「まずは、避難経路の確保! でも、窓の周りにはガラス片が散らばってるかもしれないから、先に靴履いたほうがいいよ」
俺は玄関へ向かい、弟と並んで靴を履く。
玄関のドアを開ける。
床に散らばるガラス片を踏まないように慎重に歩く。
弟はソファの下に隠れていたレオンを見つけると、そっと抱き上げて俺に渡す。
「兄貴、レオンお願い。俺、非常品取ってくる。母さんがリビングのクローゼットに入れてあったはずだから」
レオンは俺の腕の中で小さく震えていた。
弟はすぐに、リビングから非常品の入ったリュックを持って戻ってくる。
「避難所、俺たちの小学校って先生が言ってた! そこ目指そう!」
俺はようやく動き出し、弟の後を追う。
「こっちだよ、急ごう!」
弟は扉を開けると、躊躇なく外へ踏み出す。
俺は言われるがまま、弟の背中を追いかけて走り出していた――。
小学校に向かう途中、地面が揺れた瞬間、異様な感触が足元を襲う。
ぬかるんだ地面が波打つように動いて――弟の足元が突然沈む。
「凛生!!」
レオンを抱えたまま、俺は弟に手を伸ばすが、足場を奪われた弟は膝まで地面に飲まれている。
理解しきれない驚きと恐怖の色が、その顔に滲んでいた。
「動くな、今引っ張る――」
動揺する俺を見て、弟はわずかに目を見開き――すぐに、ふっと笑った。
それは、まるで俺を安心させようとするかのようで、胸が締め付けられる。
「兄貴のその顔見てたら、逆に落ち着いてきたよ。……この状況じゃ、どうにもならないしさ。兄貴だけでも、生きてよ」
そう言って俺に微笑みかける。
なぜそんな顔をするんだよ? この状況で、そんなふうに笑うなよ……。言いようのない恐怖が襲う。
次の瞬間、沈んでいく地盤とともに、周囲の瓦礫が崩れる。
鉄柱が倒れ、コンクリートの壁が滑り落ち――
「あ゙あ゙あ゙――――」声にならない声で俺は叫ぶ。
弟の姿が、瓦礫とぬかるみに埋もれていくのが見えた。
伸ばした手は、何も掴めなかった。
あの震災は、首都直下型地震と呼ばれ、多くの命を奪った。凛生も、その犠牲者の一人だった。
――――――――
「弟は、凛生は、震災で……液状化した地面に、飲み込まれて死んだんだ」
ジュライドの視線が僅かに揺れる。
「シクレと話してるうちに……気づけば、あいつと凛生が重なって見えたんだ。幼いのに、どこか達観してるだろ? 物事を冷静に見極めるところとか、自分の想いを押し込めて、知らないうちに――背負いきれないほどのものを抱え込んでいる感じがさ。他人とは思えなくて……放っておけなかったんだ」
「だから、何度も言ったよ。『旅に出ろ』って。けど、あいつ、笑ってはぐらかすんだ。『俺はここで、旅人たちの話を聞ければ充分』ってさ」
ジュライドはそこで、少し言葉を切る。
「……でも、ルオフさんが……。あの時のあいつの顔。今でも、忘れられない」




