第十六話「ふたつの月」
目覚ましのけたたましいベルに起き上がると、竜介は眠い目を擦りながら身支度を始めた。
顔を洗って服を着替え、母親が前日のうちに作ってくれた弁当をリュックサックにしまい、作り置きの麦茶を水筒に入れ替える。
全てを終えて時計を見ると、慌ててリュックサックを背負って玄関へ走った。
慌ただしく靴を履いて玄関を開けると、同じくリュックサックを背負ったサトミくんが立っていた。
サトミくんは竜介に気がつくと「おはよう」と言ってニコッと笑う。
「おはよう! ごめんね、のんびりしてたら気がつかなくって……」
「慣れない時間帯だもの。それに、間に合ったんだからいいじゃない」
「えへへ、じゃあ行こっか!」
暮内山は麓に神社があって、春は境内で花見、秋は周りで紅葉狩り期によく人が集まる。
けれど夏は何もないし冬は雪がすごいから、その季節はなかなか人が来ない。
いつも遊びに行く山や川へ行く道からちょっと外れて、虫やカエルの鳴く畦道をひたすらまっすぐに歩けば、すぐに登山口が見えてくる。
夏の朝は昼間のように日照って明るいけれど、木々に覆われる登山道にはまだ仄暗さがこびりついていた。
くるぶしを撫でる少しひんやりした空気が、いつもと違う神秘をあたりに漂わせて、知っている場所なのに全く知らないような、そんな不思議な感じがした、
たいして緩やかでも厳しくもない山の道を、時折岩や崩れた木なんかに腰掛けて休憩しながら進んだ。
竜介はよく山に登るからでこぼこ道でもなんてことなかったけれど、サトミくんはどうにも慣れないようで、何度か転びそうになったのを、その都度竜介が手を取ったり咄嗟に支えたりしていた。
それに、竜介から見てサトミくんは何かに怯えているように見えた。
声や表情はいつもと変わらないのに、大きな鳥、特にカラスの鳴き声に敏感で、それが聞こえるとリュックサックの肩紐をぎゅっと握りしめて、震える下唇を噛み締めていた。
だいぶ進んで少し開けた場所に来た頃、休憩をしようと、大きな岩の上に腰をかけて2人でお菓子を食べた。
太陽は天高く昇って、ひんやりしていたあたりの空気もすっかりいつもの麓のような暑さに様変わりしている。
額や背中にじっとりと汗をかいて、水筒の中身も乏しくなってきた。
「地図によると、ここはちょうど中腹のようだね」
「えー、まだそんななのぉ?」
「だいぶ休憩を挟みながら来たからね。あの看板の先に湧水があるみたいだ、食べ終わったら行ってみよう」
言われた通り、サトミくんの後について看板の先へ向かうと、大きな岩の積み重なった崖の隙間から一本のパイプが飛び出し、そこから人差し指ほどの水がチョロチョロと出ていた。
手にすくってみると川の水みたいに冷たくて、その透明さに驚いた。
「すごい! なんでこんな岩の中から出てるのに、ドロ水じゃないの?」
「この山の木や土が濾過してくれているからさ」
「ロカ?」
首を傾げる竜介に、サトミくんは湧水を掬い取って言う。
「たとえば、野菜を洗うときなんかにザルを使うと、水だけが網を通り抜けて野菜はザルの中に残るだろう? 同じ原理で、地面の砂粒や朽ちた木なんかが網目の役割を果たして、ゴミを取り除いてくれるんだ」
「へぇ。じゃあ飲めるの?」
「もちろん。少し貰っていこうか」
麦茶のなくなりかけた水筒に湧水を満杯まで注いで、2人は再び目的地を目指し歩き出した。
暮内山の裾野は長いけれど、山の斜面は山頂に近づくほどに少しずつ急になっていく。
中腹を越えるとそれが顕著になって、山道に急な坂や半分崖のような場所が多くなってきた。
度々転びそうになるサトミくんを支えながら、竜介は険しい道を登っていく。
途中、少し平坦な岩道の近くで時計が12時を回ったので、2人は近くの木の根に腰をかけてお昼をとった。
竜介の通っている小学校はよく遠足に行くので、山や野原でお弁当を食べるというのはよくあること。
けれど「サトミくんと2人きりで」というのは初めてで、竜介は少し新鮮な気がした。
木組みのお弁当箱にふりかけご飯と卵焼きとトマトと焼きウインナーが入っていて、サトミくんはそれを時折り「おいしい」と呟きながら黙々と食べる。
竜介はそんな様子が意外に思えた。
何か特別、「こんなイメージ」というものがあったわけじゃない。
けれどサトミくんの様があまりにもみんなと変わらない様子で、少しだけ驚いたのだ。
お弁当を食べ終えると、2人はすぐさま出発した。
山道に立つ看板を見れば、目的地まではあともう少し。
さらに険しくなった山道を汗びっちょりになりながら協力して登っていくと、やがて仄暗い木々の間から日差しが見えた。
そこからなだらかな山道を2人で走り、ついに山の頂上まできた。
暮内山の頂上は開けた林のようで、展望台や休憩小屋のようなものは何もない、本当に自然の山そのもののような場所だった。
けれど、図書館で見た石碑のようなものは見当たらない。
離れすぎない程度の手分けして探すと、湿った雑草の間を縫った先、高い木々に囲まれれる中で指す木漏れ日の先に、ポツンと佇んでいるのを見つけた。
地面から侵食した苔に半分が覆われているけれど、頭のほうは日が当たっているからか、やたら乾いている。
灰色の盤面に刻まれた、みみずがのたくったような、漢字かもひらがなかも変わらない文字。
サトミくんは顎に手を当てて凝視する。
「これは……記念碑……?」
「キネンヒ?」
サトミくんは難しい顔のまま、石碑から少し離れる。
「うん。大昔、村を荒らした大妖怪を磐若迅が打ち倒した。どうやらこの石碑は、その記念に建てられたもののようだね」
「大妖怪? 大妖怪ってどんな?」
「それが、風化で削れちゃってて……呑……これは童子……?」
「あ、もしかして、酒呑童子?」
「ああ、なるほど! たぶんそれだ!」
酒呑童子、古くは鬼の大将とされる大妖怪で、その名前は色々なゲームやアニメなんかでもよく聞く。
「でもさでもさ、酒呑童子って京都の方の妖怪でしょ? ここからだとけっこう遠いよ?」
「うーん、昔の伝承というのは多くが口による伝達だからね。こういった齟齬は仕方がない部分も……」
その後もサトミくんは石碑を調べたけれど、それ以上のことはわからなかった。
「今までのことを整理すると、磐若迅は邪悪な妖魔を退ける正義の妖怪または神で、少なくとも平安以前から伝承が存在していた。その姿は銀色の龍とも人のようであるとも言え、大妖怪酒呑童子を打ち倒すほどの力を持っている……」
「すごいじゃんバンジャクシン! めっちゃ強いしカッコいい!」
「うん。こんな伝承があったなんて知らなかった……僕もまだまだだね、地元への造詣が浅かった」
「うーん」と唸るサトミくんの隣で、竜介は自分の手のひらを輝いた瞳で見つめていた。
(そんなにすごい妖怪が、おれの中にいる……。おれは、酒呑童子をたおした大妖怪のヨリシロ……!)
自分は極めて特別な存在。
そう思うと胸の中が急に熱くなって、溢れ出た興奮を抑えるように、竜介しゃがみ込んで密かにガッツポーズをした。
ふと腕時計を見たサトミくんが、「あ、もうこんな時間」と呟く。
「もう2時だ、下山しよう」
「えー、もう?」
「今帰れば空が赤くなる前には山を出られる。さ、行こう」
一度山頂に戻ってから、2人は元来た山道を下っていく。
下りの道は崖を除けば上りよりもずっと楽で、休憩なしに歩いていてもほとんど息切れを起こさなかった。
しばらく歩いた頃、竜介は違和感を感じた。
山頂から降り始めてまだ30分も経っていないのに、もう空が暗くなり始めたのだ。
木の葉の間からうっすら見える雲も、山の上の太陽に吸い込まれるような赤で流れている。
カアカアと鳴く鴉の声も増えた。
竜介は少し不思議に思っただけであまり気に留めていなかったけれど、サトミくんはどこか焦っているようだった。
カラスの声が増えた頃から、彼の歩みが速くなっているように感じた。
登りの道中、仄暗い森に怯えていたあの時のように、またリュックサックの肩紐をぎゅっと握って。
「ま、まってよサトミくん!」
土道の坂を早足で下っていくサトミくんに置いていかれそうになり、竜介は思わず声を出した。
サトミくんはハッと気付いて振り返ると、申し訳なさそうに「ご、ごめん……」と呟く。
「そんなに急がなくってもダイジョウブだよ、きっとくもってるだけだよ」
「でも……」
「冬じゃあるまいし、心配しなくても日なんかかんたんに……」
その時、あたりが突然真っ暗になった。
狼狽え、空を見上げる2人。
「夜なの……?」
「あ、ありえないよ! いきなりこんな……!」
そうサトミくんは言うが、竜介には夜が来た以外でこの現象に納得することはできなかった。
一面真っ黒な空は、夜の帳が降りた姿のそれそのもの。
けれどおかしい、月が2つも登っている。
『かぁ』
月が鳴いた。
確かに「かぁ」と鳴いたのに、その声は大人の男の人みたいだった。
妖怪だ、逃げなければ。
そう思った瞬間、竜介の体がこわばる。
「サトミくん……」
空を見上げたまま呼びかけたけれど、返事はない。
見ると、彼も同じく空を見上げたまま固まっていた。
「サトミくん……! サトミくん!!」
『かぁ』
再び鳴いたその瞬間、サトミくんは堰を切ったように絶叫して、月に背を向け走り出した。
慌てふためきおぼつかない足取りで下り坂を掛けるサトミくん。
竜介はその後を追うけれど、あまりにも速すぎて、追いつくどころかどんどん置いていかれてしまう。
「待ってサトミくん!! そっちは!!」
竜介が叫んだ瞬間、なりふり構わず走っていたサトミくんは道を逸れた。
そして草に隠れた木の根につまずいた拍子、山道横の崖へ勢いよく飛び出してしまった。
「サトミくん!」
手を伸ばす竜介だけれど、もちろん届くことはない。
けれど幸い、斜面に近い崖だったおかげで、サトミくんの体は腐葉土の上を転げるようにして落ちていった。
これなら、そこへ落ちても大した怪我はしない。
そう判断した竜介は2つの月を一度振り返る。
月は何も言わず、ただじっと竜介を見て離さなかった。
「……なにも、しないの」
月は黙ったまま。
竜介は崖へ向き直ると、リュックサックの肩紐を握りしめる。
深呼吸を挟んで意を決すと、そのまま崖下へ思いっきり飛び降りた。




