転ノ巻 「零落した不平士族の狼藉」
時には行き交う人混みをかき分け、時には家々の屋根を次々に飛び移り。
逃亡を図る不埒な賊と追跡する私の距離は、みるみるうちに縮まっていった。
白狐に転身した私の身体は脚力も跳躍力も著しく向上しているし、嗅覚だって警察犬にも遅れを取らないからね。
「首尾は上々だな。小野寺教育出版の新妻なら、身代金も充分に引き出せる。同じ士族の生まれだというのに、金に目が眩んで船場の商人風情に嫁ぐ貴様が悪いのだ。」
人通りの途絶えた裏路地をひた走る荒んだ雰囲気の男の独白を信じるなら、彼は御維新の時に身を持ち崩した不平士族の一人らしい。
そして小脇に抱えた和装の新妻を誘拐した動機は、同じ士族でありながら裕福な船場商人と結ばれた事に対する逆恨みの感情が強いようだね。
『御維新を期に栄達した士族は大勢いるというのに、何と身勝手な物言いを!』
不平士族の腐り果てた性根には辟易するばかりだったけど、無闇に腹を立ててばかりもいられない。
ここで冷静さを失っては、あの失神した新妻さんにも危険が及んでしまうからね。
今の私に必要なのは、獣の本能ではなくて白狐の理性。
冷静沈着に状況を分析すれば、次に取るべき行動は自ずと導き出せるんだよ。
『むっ…これは?』
人間と白狐の合計二対の耳が捉えたのは、不平士族の足音と呼吸音に生じた乱れだったの。
士族としてどれだけ身体を鍛えているか知らないけど、人間一人の身体を小脇に抱えて走り続けていたら、そのうち息だって上がってくるよね。
『敵は遠からず足腰が保たなくなるはず…では、我が味方は?』
視覚と嗅覚で賊を捕捉しながら、私は御高祖頭巾の中に隠した二対の耳に神経を集中させたの。
すると私から程近い位置に、馴染み深い足音と息遣いを察知したんだ。
『その足音は、絹掛さん!ならば今こそ、仕掛ける好機!』
京洛牙城衆の同胞の気配を間近に感じ取った私は、追跡から攻撃に転じる決意を固めたんだ。
恨み節全開の不平士族に、正義の鉄槌を下してあげるよ!
『白蔵君、絹掛さんを呼んできて下さい!』
同伴させてきた管狐に念話で指示しながら、私は民家の屋根を蹴り上げたの。
蹴り上げた反動で数枚の瓦が弾け飛んだけど、これも計算のうちだよ。
「うぬっ、存外と重たい奴よ!しかし、この女を餌に金が引き出せるならば安い物だ。」
『御生憎様!貴方が手にするのは身代金じゃなくて、この屋根瓦なんだから!』
勝ち誇った賊の独白に心の中で半畳を入れながら、私は手にした屋根瓦を飛礫代わりに投げ付けてやったんだ。
「ぐあっ!?」
放り投げた時の勢いに瓦その物の重量が上手い具合に作用して、即席の飛礫は賊の手足へ強かに命中したの。
四肢の関節に瓦を直撃させられた不平士族の絶叫が裏路地に響き渡り、彼は全力疾走の勢いそのままに転倒してしまったの。
そして大事に抱えていたはずの小野寺家の新妻さえも、その時の衝撃で放り出してしまったんだ。
「ひいっ!?」
空中へ放り出された衝撃で意識を取り戻した若妻が、重力に従って自由落下を始めている。
「とうっ!」
私は電信柱を蹴り上げて方向を変え、今まさに路面に叩き付けられようとしていた若妻の嫋やかな身体を抱え上げると、音もなく地上へ降り立ったんだ。
「ああっ、貴女は?」
「御心配なく、貴女の味方で御座います。」
誰何の呼び掛けに笑顔で応じながら、私はそっと新妻を地上に下ろしてあげたの。
先程に演じたばかりの救出劇で、茶色の髪にも仕立ての良い和装にも埃が付いてしまっているけど、小野寺家の新妻は実に可憐で美しかったんだ。
スッキリとした鼻筋には気品があるし、つぶらで大きな瞳は吸い込まれそうな深みと輝きを兼ね備えていたの。
こんなに美しくて気品に満ちた女性と夫婦になれたとは、小野寺家の御曹司は果報者だよ。
「深草の姐様!」
ふと脳裏に過ぎった雑念を振り払ってくれたのは、駆け付けてくれた京洛牙城衆の戦友だったの。
絹掛雅さんも私と同様、袴に革靴を合わせた女学生の装いだね。
赤い和服に紫色の女袴だなんて、まるで華族女学校の御嬢様じゃないの。
とはいえ我が京洛牙城衆を率いる生駒様の御本家様は、堺県にお住まいの華族様であらせる訳だし、そこまで恐れ多い真似でもないのかもね。
「この御婦人を頼みます、絹掛さん!この場は私が引き受けますので、安全な所まで誘導を願います!」
「分かりました、深草の姐様!この絹掛雅、若輩者ながら責任を持って御護り致します!さあ、こっちです!」
力強く頷いた絹掛さんは、「何が何だか分からない」とでも言いたげな新妻の手を引いて一目散に駆け出していったんだ。
今年の二月に初陣を迎えたばかりの新米だけれども、絹掛さんが心身共に鍛えられた戦士である事は私がよく分かっている。
小野寺家の新妻と自分の身を守りながら戦線を離脱する位、絹掛さんには訳もないだろうね。
二対の耳で二人の足音が遠ざかるのを確認した私は、目下の敵に意識を集中させたんだ。
足手まといになりそうな新妻も絹掛さんに預けた訳だし、これで心置き無く暴れられるよ。
「貴様か、小娘…よくも邪魔を…」
拵えの汚れた日本刀を杖代わりにしながら、ヨロヨロと起き上がる不平士族。
その声色にも表情にも、激しい憤怒と憎悪がハッキリと現れていた。
屋根瓦を直撃された手足の痛みを、湧き上がる負の感情で紛らわそうとしているのだろうね。
「軍や警察に志願するなり、北方の開拓に携わるなり、生計の道は相応にあるはずです。そうした努力もせずに不平ばかりを募らせ、あまつさえ同じ士族の成功者に牙を剥くとは言語道断!武士道の誇りさえ忘れましたか!?」
「おのれ、武士に向かって意見しおって!無礼討ちにしてくれる!」
どうやら私の発言は、不平士族の逆鱗に触れたらしい。
鞘を捨てて振り被った業物で問答無用に斬り掛かって来たんだから、その怒りの激しさが伝わってくるよ。
「二度と同じような真似が出来ないように、お灸を据える必要があるようですね!」
逆上して冷静さを失ったなら、幾らでも付け込む隙がある。
私は小脇差を懐から取り出して、襲い掛かる不平士族を迎え撃ったんだ。
「貰ったぞ、小娘!」
「むっ!」
唐竹割りを狙った刀風をサッと躱した私は、直ちに反撃に転じた。
納刀したままの小脇差で小手を打ち据え、がら空きの胴体に鞘の小尻で一撃を御見舞いする。
突き刺すように、抉り込むように。
「ぐおおっ!?」
それだけで、不平士族は腹を押さえて倒れ伏してしまった。
青黒く腫れ上がった小手の負傷を見るに、もはや刀を握るのも覚束ないだろう。
「遠からず、警察も到着します。武士なら武士らしく、潔く観念なさい!」
「おのれ…こんな所で捕まってなるものか…」
それでも不自由な身体を引き摺って逃れようとするとは、往生際の悪さも此処に極まれりだ。
士族の名を笠に着ていた割には、武士の誇りなんて最初から持ち合わせてなかったらしい。




